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11話「トッド・ファング」
大通りを駆ける二つの影。セシルスの神速の抜刀は、トッドの仕掛けた「大通りの狙撃(閃光)」と「背後からの奇襲」という、初見殺しの二段構えを完璧に叩き斬っていた。勝った。スバルは心の中でそう確信し、歪な笑みを浮かべる。気味が悪いほどに全部知っている
__そのアドバンテージを活かし、トッドの浅知恵のさらに先を行ってやった。このままこの大通りを突き抜ければ、トッドの魔の手から完全に逃れられるはずだった。
「__お前さん、本当に底が浅いな」
背後から、大通りに響き渡るはずのない、低く、冷徹な声が鼓膜を震わせた。驚愕にスバルの目が見開かれる。声の主を探して視線を巡らせるよりも早く、周囲の空気が一変した。
「ボ、ボス! 上です!」
セシルスの鋭い警告。見上げた視線の先、大通りを挟む建物の屋上、窓、あらゆる死角から、無数の人影が姿を現していた。その手に握られているのは、殺意を燻らせる弩弓と、赤々と燃え盛る火矢。
「しまっ__」
スバルが声を上げる間もなく、合図の指笛が鳴り響く。一斉に放たれた火矢の雨が、大通りを真っ赤に染め上げた。それは単なる奇襲ではなかった。放たれた火矢はスバルたちを直接狙うだけでなく、あらかじめ大通りの各所に配置されていたであろう「可燃物の樽」へと正確に吸い込まれていく。爆発的な轟音と共に、猛烈な爆炎が大通りを包み込んだ。
「う、わあああああッ!?」
「おっとっと! これはまた、派手な舞台を用意してくれたものですねえ!」
セシルスが凄まじい速度で迫り来る矢を叩き斬り、爆風を剣圧で吹き飛ばす。しかし、炎の勢いは止まらない。それどころか、炎は瞬く間に周囲の建物を舐め尽くし、スバルたちの背後の退路を完全に塞いでいく。トッドが仕掛けたのは、点での奇襲ではない。この街の構造、風向き、配置できる兵の数――そのすべてを計算し尽くし、スバルという「異端」を確実に焼き殺すために設計された、街全体を巨大な檻とする面での虐殺だった。
「逃げ道を……っ、最初から、大通りに誘い込まれてたのか……!」
煙が肺を焼き、スバルは激しく咳き込む。トッドはスバルが「大通りの奇襲を察知して裏をかく」ことすら、あるいは「路地裏ではなく大通りを選ぶ」という心理誘導すら、すべて手のひらの上で転がしていたのだ。「走れ、セッシー! 立ち止まったら焼き殺される!」
「御意! ですがボス、前方も中々、賑やかなことになっていますよ!」
炎の壁を突き抜けようとした先、スバルたちの前に立ち塞がったのは、盾を隙間なく並べた帝国兵の分厚い包囲網だった。完全な軍隊の陣形。一個人を殺すための規模を遥かに超えている。
「構え!」
隊長の冷酷な号令と共に、再び弩弓の群れがスバルたちに照準を合わせる。逃げ場はない。左右は燃え盛る炎の壁、背後は決壊した大通りの火の海、前方には鉄壁の包囲網。トッド・ファングという男の、狂気的なまでの「念には念を入れる」執念が、スバルの五感を絶望で満たしていく。
「チッ……! セッシー、正面の盾をぶち破れるか!?」
「言われずとも!」
青き電光が火花を散らし、セシルスが前方へと跳ぶ。だが、その瞬間を、影に潜んでいた天敵が見逃すはずがなかった。
「__セシルス・セグムントを引き離せば、お前はただの羽虫だ、ナツキ・スバル」
ゾッとするような殺気が、スバルのすぐ真横、燃え盛る建物の崩落した瓦礫の影から膨れ上がる。セシルスが正面の軍勢に意識を向けた、文字通り「一瞬の空白」。炎の爆音に掻き消され、完全に無音で放たれた一条の鉄閃。
__ザク、と。
鈍い音がして、スバルの視界が大きく傾いた。遅れてやってくる、胸を鋭く貫かれた感覚。見下ろせば、自分の胸から、見覚えのある、無骨な手斧の刃が突き出ていた。
「が、はっ……、あ……」
口から大量の鉄の味が溢れ出す。視界が急速に赤く、そして黒く染まっていく。崩れ落ちるスバルの視線の先に、瓦礫の煙を割って、ゆっくりと歩み寄ってくる一人の男の姿があった。トッド・ファング。その顔には、勝利の歓喜も、敵を討ち取った高揚感もない。ただ、害虫を確実に駆除したあとのような、酷く冷淡で、乾いた平穏だけが宿っていた。
「お前みたいな気味の悪いやつは、ここで確実に処理しておく。……それが、俺の『平穏』のためだ」
トッドの声が、遠のいていく意識の中で、ひどく冷たく響く。背後でセシルスが「ボス!?」と叫ぶ声が聞こえた気がしたが、もうそれを受け止める鼓膜も、思考を繋ぐ脳も、機能の停止を始めていた。理不尽。絶望。圧倒的な敗北。
トッドという凡人の皮を被った怪物の前に、スバルの命はまたしても、あまりにも容易く、無惨に刈り取られた。胸を焼くような熱さと、世界のすべてが崩壊していく感覚の中で
__ナツキ・スバルの意識は、暗黒の底へと叩き落とされた。
「__ッ、がはぁっ!!」
激しい過呼吸と共に、スバルは自分の胸を強く、狂ったように退き毟った。服の上から触れる心臓は、規則正しく、しかし恐怖で早鐘のように脈打っている。血は流れていない。肌は裂けていない。手斧の感触も、肺を焼いた煙の熱さも、嘘のように消え失せている。
また……死に戻った……!
脳裏に生々しくこびりつく、トッドのあの冷徹な濁った瞳。街全体を巨大な檻に変え、セシルスを引き離して自分を確実に仕留めるという、徹底され尽くした殺意のドミノ。
「ボス? どうかしましたか? まるで幽霊でも見たような顔をしてますよ?」
覗き込んできたのは、つい数秒前、自分の目の前で炎の中に消えていったはずの、五体満足なセシルスだった。その頭には、先ほどの凄惨な最悪の結末など、微塵も残っていない。
「いや……なんでもない。ちょっと立ちくらみがしただけだ」
強引に笑みを作って誤魔化しながら、スバルの背中にはどっと冷たい汗が伝わっていた。時間が戻ったということは、このまま普通に歩いていけば、またあの場所でトッドの「第三の罠」、街を檻にする火攻めと包囲網が発動する。だが、今度のスバルは、ただ怯えるだけの獲物ではない。トッドがどこに人員を配置し、どのタイミングで火を放ち、どの瓦礫の影に自身が潜んでいるのか__
その「すべて」を、死の痛みを代償に手に入れている。
「なぁ、セッシー。お前、世界最強なんだろ?」
「おやおや、急に藪から棒にどうしたんですか、ボス。そんなの、天に群れる雲を掴むより明らかな事実ですよ」
不敵に、しかし絶対の自信を込めて笑うセシルス。スバルはセシルスの肩を強く掴み、その燃えるような両目を見据えた。
「トッドは、まともにやり合ったらお前には勝てないって分かってる。だから、お前の『すきだらけ』な部分を利用して、完璧な初見殺しの不意打ちを仕掛けてくる。街全体を罠にして、お前と俺を引き離して、俺を殺しに来る」
「ほほう?」
セシルスの目が、一瞬だけ鋭く細められた。ボスの様子が、明らかにただ事ではないことを、その天才的な戦闘直感で察したのだろう。
「次の大通り、トッドは俺たちの動きを先読みして、兵を配置して火矢を構えさせてる。……だが、俺はその配置を『全部』知ってる。セッシー、今から俺の言う通りに動け。トッドの野郎が仕掛けた『檻』を、発動する前に、内側から完膚なきまでにぶち壊してやる」
スバルの瞳に、猛烈な、気迫の炎が宿る。それを見たセシルスは、一切の疑問を差し挟むことなく、ただ深く、残酷にニヤリと笑った。
「御意、ボス。あなたのその、最高にゾクゾクする『メッセージ』__確かに受け取りましたよ」
「よし……! 大通りへ進むぞ。トッド、お前の言う通り、俺は気味が悪いほどに全部知っている。次でお前の『平穏』を、俺とこの怪物の手で、完膚なきまでにぶち壊してやる……!」
「__あり得ない」
大通りの中心、巻き上がる煙と硝煙の向こう側で、トッド・ファングは生まれて初めて、自身の五感がもたらす現実を拒絶した。彼が全兵力を配置し、街の構造と風向きまでを計算し尽くして作り上げたはずの『檻』。それはナツキ・スバルを確実に焼き殺し、セシルス・セグムントを孤立させて圧殺するための、絶対に破られるはずのない完璧な方程式だった。それが、今、目の前でゴミのように噛み砕かれている。
「セッシー、そのまま直進! 右の崩落した外壁の裏に三人、弩弓を構えてる! 姿を見せる前に、壁ごと叩き斬れ!」
「御意のままに!」
大通りに響き渡る、ナツキ・スバルの狂気じみた叫び。その指示が下るのと、影に潜んでいたトッドの部下たちが行動を起こすのは、完全に「同時」だった。いや、わずかにスバルの声の方が早い。青き電光が爆音と共に走り、セシルスの魔剣が建物の外壁を、そこに隠れていた兵士たちもろとも一閃で両断する。罠が発動するその瞬間に、あらかじめそこへ刃が置かれているような――それはもはや戦闘ではなく、ただの『答え合わせ』だった。
「な……ぜだ……!」
トッドの喉から、乾いた掠れ声が漏れる。火矢の部隊は配置につく前に背後から叩き斬られ、退路を断つはずだった火攻めの樽は、セシルスの剣圧によって逆に帝国兵の陣形へと吹き飛ばされた。トッドが張り巡らせたはずの殺意のドミノは、スバルという異端の手によって、最初からすべての牌を逆に倒されるようにして、内側からボロボロに瓦解していく。まるで、これから起こるすべての未来を、あらかじめ見てきたかのように。
「見つけたぞ、トッド……!」
煙の向こうから、ボロボロの衣服を翻し、執念の瞳を爛々と輝かせたナツキ・スバルが姿を現す。その隣には、血に濡れた刀を肩に担ぎ、退屈すら感じさせる不敵な笑みを浮かべた世界最強の怪物。トッドの背中に、じっとりと嫌な汗が伝わる。目の前にいる少年は、ただの無力な羽虫のはずだった。武力もなく、知略が優れている風でもない。だが、その瞳に宿る狂気的なまでの『確信』が、トッドの心臓を冷たく掴む。
「お前さん……一体、何をした?」
「何もしちゃいねえよ! ただ、お前の浅知恵に、俺の命をちょっとばかり余分にベットしてやっただけだ!」
スバルの叫びと共に、セシルスの身体が静かに沈み込む。
「あっ__」
トッドは本能的な恐怖に従い、即座に近くにいた部下の身体を掴んで自分の盾へと引き寄せた。直後、大通りを真白な閃光が駆け抜ける。セシルスの『魔剣・八つ裂き』。不可視の斬撃の嵐が、トッドの盾にした兵士を、そして周囲の地面を、文字通り爆発を伴って切り刻んだ。
「が、はっ……!」
部下の肉体を突き抜けた衝撃波がトッドの胸を叩き、彼は無様に地面を転がった。手放しかけた愛用の手斧を泥塗れの手で掴み直し、必死に立ち上がろうとする。だが、肉体が言うことを聞かない。見下ろせば、自身の右足の腱が、そして脇腹が、肉を削ぎ落とされるように深く裂かれ、大量の鮮血が溢れ出していた。完璧な敗北。トッドが最も嫌い、最も遠ざけようとしていた『予測不能な理不尽』が、今、自分の身の上に完全に降りかかっていた。大通りを囲んでいた帝国兵たちの怒号が、遠くのノイズのように遠ざかっていく。視界が急速に色を失い、世界の音が消えていく感覚。血の海に膝を突き、荒い呼吸を繰り返すトッドの前に、スバルの足音がゆっくりと近づいてきた。
「終わりだ、トッド。お前の負けだ。インヴィジブル・プロヴィデンス」
見上げた先、スバルの顔には、トッドを追い詰めたことへの歓喜はなかった。あるのは、ただ一つの歪みを正したという、酷く冷めた、そしてどこか哀れむような眼差しだけだった。それは…かつての皇帝閣下のアベルクスに似ていた眼差しだった。その眼差しが、トッドの脳裏の奥底にある、最も触れられたくない記憶の檻をこじ開ける__。
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視界から極彩色が失われていく。大通りの喧騒も、部下たちの血を吐くような怒号も、肉を引き裂くような爆炎の熱量すらも、すべてがすりガラスの向こう側の出来事のように遠ざかっていく。泥塗れの地面に膝を突き、口内から大量の鮮血を吐き出しながら、トッド・ファングの意識は、底の抜けた暗黒の深淵へと静かに沈み込んでいった。
__なぜ、自分はここまで『平穏』を求めたのか。
__なぜ、これほどまでに、狂気的なまでに、ナツキ・スバルという羽虫を恐れ、排除しようとしたのか。
その自問に対する答えは、彼の歪んだ魂の奥底、決して消えることのない血の記憶の中にあった。
トッド・ファングは、最初から冷酷な猟犬だったわけではない。彼はヴォラキア帝国の辺境、名もなき貧民街で生まれた、どこにでもいるただの「凡人」だった。力もなく、特別な加護もなく、魔法の素養も皆無。ただ、明日の食事にありつけるかどうかを気に病み、飢えに震えるだけの、路傍の石切れのような存在。それが少年時代のトッドだった。ヴォラキア帝国という国は、強者であることがすべてだ。
「強くあれ。強くなければ生きる価値なし」
という過酷な国是のもと、人々は競い合い、奪い合い、弱者を踏みつぶして階段を上っていく。それが当たり前の日常であり、誰も疑わない世界のルールだった。だが、トッドは幼いながらに自らの器を理解していた。自分には、その血塗られた階段を上るための強靭な足も、他者を圧倒する腕もない。どれだけ努力しようが、凡人は凡人でしかなく、生まれ持った器の大きさは変わらないのだと、冷徹に己を俯瞰していた。弱者が強者の真似事をして、戦場で華々しく散るなど、愚者の極みでしかない。ならば、弱者がこの地獄で確実に生き残るにはどうするか。目立たず、群れに紛れ、強者の視界に入らないように徹底的に息を潜める。強い風が吹けば頭を低くし、嵐が過ぎ去るのをただじっと待つ。それが、彼が最初に身につけた、凡人としての生存戦略であり、彼にとっての『平穏』の原型だった。しかし、この狂った帝国において、ただ「息を潜める」ことすら、凡人にとっては至難の業だったのだ。その残酷な現実を、トッドは十四歳の冬、網膜に焼き付けられることになる。当時、トッドが所属していた辺境守備隊の小さな駐屯地に、一人の「英雄」がやってきた。それは後に九神将の地位に就くことになる、ある圧倒的な強者だった。その男は、ただそこに立っているだけで周囲の空気を歪ませ、空間そのものを支配するほどの、人外の暴威を纏っていた。凡人の兵士たちがどれだけ集まろうとも、その男の前では羽虫も同然。絶対的な力の差が、そこには厳然として存在していた。
「おい、凡愚ども。俺の退屈を紛らわせろ」
英雄が笑った。それは、一切の邪気のない、しかしそれ故に救いようのない残虐さに満ちた笑顔だった。その男にとって、周囲の凡人たちの命など、道端の草木と何も変わらなかった。自分の退屈を凌ぐためであれば、それをどれだけ踏み荒らそうが、どれだけ引き千切ろうが、痛痒すら感じない。その気まぐれな一言から、トッドにとっての本当の地獄が始まった。守備隊の仲間たちが、次々とその「英雄」の暇つぶしの道具として、練兵場へと駆り出されていった。戦闘訓練という名の、一方的な虐殺。昨日まで一緒に薄いスープを分け合い、
「早く兵期を終えて、故郷に帰って平穏に暮らしたい」
「可愛い嫁さんを貰いたい」
と他愛のない夢を語り合っていた、気心の知れた戦友たちが、英雄のただの一振りで、文字通り「肉片」へと変えられていく。防具など何の役にも立たず、鉄の盾は紙のように裂け、内臓と骨が混ざり合った赤い泥が、練兵場の地面をじわじわと汚していった。トッドのすぐ隣にいた、まだ十五歳になったばかりの少年兵が、恐怖のあまり失禁し、その場にへたり込んだ。英雄はその姿を見て、ただ退屈そうに、まるで邪魔な小石を蹴飛ばすかのように脚を振るった。それだけで、少年兵の身体は上半身と下半身に泣き別れ、練兵場の壁へと叩きつけられて消えた。
「あはは! 脆いな! ヴォラキアの兵なら、もう少し楽しませてみせろ!」
英雄の乾いた、楽しげな笑い声が、血生臭い悲鳴と混ざり合って響き渡る。トッドは、その光景を列の最前列で、微動だにせず見つめていた。恐怖で歯がガタガタと鳴り、内臓が裏返るような吐き気に襲われ、膝が崩れ落ちそうになるのを、超人的な精神のコントロールだけで抑え込んでいた。ここで少しでも怯えを見せれば、あるいは不快感を示せば、次の「暇つぶしの道具」にされるのは自分だと、全身の細胞が本能的に叫んでいたからだ。だから彼は、呼吸すら一定に保ち、ただの置物であるかのように気配を消し続けた。目の前で、親しかった先輩兵士の首が虚空を舞った。驚愕に目を見開いたままの生首が、トッドの足元へと転がり、ゴロリと止まる。飛び散った生温かい返り血が、トッドの頬を濡らし、容赦なく目の中へと滑り込んでいく。その血の、狂おしいほどの熱さと鉄の臭いが、彼の脳髄に、生涯消えることのない焼き印を押した。――英雄とは、理不尽の体現だ。
__強者とは、凡人の平穏を一瞬でゴミのように踏みつぶす、歩く災害だ。
その時、トッドの心の中で、何かが決定的に壊れ、そして冷徹に再構築された。彼は確信した。この世界で生き残るために、英雄を目指してはならない。強者になろうなどと、身の程知らずな夢を見てはならない。なぜなら、どれだけ血を吐くような努力をして強くなろうとも、その上にはさらに理不尽な「本物の怪物」が必ずいて、自分が積み上げてきたすべての日常を、気まぐれに、一瞬で奪い去っていくからだ。強くなればなるほど、怪物の目に留まりやすくなる。それは死への近道でしかなかった。
ならば、凡人がこの地獄で生き残るための、唯一の正解は何か。徹底的に冷徹な、牙を持った凡人であり続けることだ。自分の周囲の『平穏』
__自分が明日も変わらず息をして、薄い飯を食って、泥のように眠ることができる、その極小の空間。それを脅かす可能性のある存在、あるいは自分の予測の範疇を超えた「異端」を見つけたら、それがどれだけ小さな芽であろうとも、牙を剥く前に、根こそぎ、異常なまでの早期に摘み取らなければならない。そのためなら、どれだけ卑劣と言われようが、どれだけ手を血で染めようが、倫理をドブに捨てようが構わない。騙し討ち、毒殺、背後からの奇襲、人質、放火
__使えるものはすべて使う。強者がその圧倒的な「武」で世界を支配し、理不尽を撒き散らすなら、自分は凡人の「執念」と「予測」で、自分の世界を徹底的に防衛する。それが、トッド・ファングという猟犬の、歪みきった生存戦略であり、彼の『正義』の誕生だった。それからのトッドの行動は、病的なまでに徹底していた。彼は決して目立つ手柄を立てなかった。勲章など、強者たちの標的になるための目印に過ぎない。上官に目をつけられない程度に優秀で、部下に慕われすぎない程度に冷淡な、一兵卒としての地位を頑なに維持し続けた。そして、自分の「平穏」の領域を脅かす、あるいはその予測の網を乱す不確定要素には、容赦なく、冷酷に先手を打った。ある時は、将来的に上層部に反乱を起こし、自分の所属する部隊を巻き添えにする兆候のあった熱血漢の同僚がいた。トッドはその男の食事に、数ヶ月にわたって致死量に達しない毒を混ぜ続け、身体を確実に蝕み、任務中のちょっとした「不審死」に見せかけて処理した。男が死んだとき、トッドはただ、
「これでこの駐屯地の平穏は保たれた」
と静かに息を吐いただけだった。またある時は、自分の駐屯地に近づく、妙に手慣れた動きをする不審な旅人の集団がいた。彼らがスパイなのか、ただの旅人なのかは分からなかった。だが、「分からない」ということ自体が、トッドの平穏を脅かすノイズだった。だからトッドは、彼らが何も行動を起こす前、まだ宿営地で眠っている夜闇に乗じて、一人ずつ静かに首を刎ねた。死体は重石をつけて近くの井戸の底へと投げ捨て、荷物はすべて焼き払った。さらに、自分が所属する小隊の隊長が、功名心に駆られて無謀な強行軍を計画した時もあった。このまま進めば、強力な亜人の集落と衝突し、部隊は全滅する。トッドはその夜、隊長の天幕にしめやかに忍び込み、眠っている彼の喉笛をナイフで深く切り裂いた。そして、それを敵の夜襲に見せかけるための偽装工作を完璧に行い、部隊の進軍を阻止した。新しい隊長はトッドの目論見通り、慎重で無能な男が選ばれ、部隊の「平穏」は守られたのだ。
「気味が悪い」
「やりすぎだ」
「ひどいなぁ」
「人の心とかないんか?」
もし誰かがトッドの本性に気づけば、そう言って彼を蔑んだだろう。だが、トッドにとってそれは、庭に生えた雑草を抜くのと同じ、至極当然の「掃除」に過ぎなかった。雑草を放置すれば、いずれ根を張り、庭を荒らし、自分の平穏な家を浸食する。だから、芽のうちに摘む。そこには憎しみも、快楽もない。ただの合理性だけがあった。その徹底され尽くした防衛機能が、これまでの人生で一度として失敗したことはなかった。トッド・ファングの予測の網、冷徹な先読みから逃れられる生命など、このヴォラキア帝国には存在しないはずだった。自分の敷いたレールの通りに、世界の脅威はあらかじめ排除され、彼の平穏は守られ続けるはずだった。
__あの、ナツキ・スバルという理解不能な『怪物』に出会うまでは。
ただの羽虫。武力もなく、知略だけがちょっとあるだけでイキリ散らかして、ただ見苦しく喚き散らすだけの、どこにでもいる無力な少年。最初に見たときは、そう切り捨てたはずだった。だが、その評価は即座に裏切られた。あの少年は、トッドがどれだけ完璧な罠を張り、どれだけ確実に息の根を止め、どれだけ念には念を入れて、一個人を殺すには過剰すぎるほどの包囲網を敷こうとも、次の瞬間には、まるで「最初からすべてを知っていた」かのような顔をして、トッドの喉元に牙を突き立ててくる。一度や二度ではない。トッドの動物的な直感が告げていた。自分が仕掛けた完璧な奇襲を、少年はまるで『知っていた』かのように回避した。自分が張り巡らせた大通りの罠を、少年はまるで『体験した』かのように先回りして潰した。その都合の良さは、もはや確率の歪みなどという生易しいものではない。世界の理そのものが、あの少年に味方し、トッドの予測を嘲笑うようにして書き換えられている。トッドの脳裏に、かつて自分たちの平穏を一瞬で蹂虲した、あの練兵場の「英雄」の姿が再び重なる。いや、違う。
目の前にいるナツキ・スバルという存在は、あの時の英雄よりも、遥かに、何百倍も性質が悪く、恐ろしい。英雄の暴力には、まだ「圧倒的な武力」という、目に見える物理的な因果関係があった。だからこそ、避けることも、気配を消してやり過ごすこともできた。だが、スバルのもたらす理不尽には、それがない。無力なはずの羽虫が、因果そのものを捻じ曲げるようにして、トッドが築き上げた完璧な防衛の城を、内側から、その予測の根底から、じわじわと食い破ってくるのだ。どれほど精密な罠を用意しようとも、どれほど冷酷に引き金を引こうとも、あの少年は死を無効化するかのように立ち上がってくる。それはトッドの理解の範疇、生存戦略の限界を超えた恐怖そのものだった。何度殺しても、何度完璧に仕留めても、気づけばすべてが台無しにされている。これこそが、トッドが人生において最も恐れ、最も忌むべき『究極の不確定要素』。凡人の平穏を永遠に脅かし続ける、本当の怪物だった。
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見えない手がトッドを殴って。さすがの彼でも、理解できずに、意識を失うのだ。
意識が、ゆっくりと現実の光を取り戻していく。耳の奥に、再び大通りの激しい炎の爆音と、崩壊していく街の崩落音が戻ってくる。トッドは、自分の血で赤く染まった泥の地面を見つめながら、重い頭をゆっくりと上へと動かした。そこには、煤と血に汚れながらも、真っ直ぐに自分を見下ろすナツキ・スバルの姿があった。その瞳。かつてトッドが目撃してきた、傲慢な強者たちのような、他者を見下す輝きはない。あるのは、ただ泥泥の、数え切れないほどの絶望と死の痛みを潜り抜けてきた者だけが持つ、酷く冷め、そしてどこか哀れむような、暗い深淵の輝きだった。その瞳を見た瞬間、トッドはすべてを理解した。やはり、この少年は、自分の想像を遥かに超える回数、自分の罠にかかり、そしてそれを『超えて』ここに立っているのだと。トッドは、自らの内に残された最後の力を振り絞り、口の端を歪な形に釣り上げた。敗北の悔しさでも、死への恐怖でもない。ただ、自分の人生のすべて、魂を削ってまで守ろうとした『一兵卒の平穏』が、この理解不能な怪物によって、完膚なきまでにぶち壊されたことへの、乾いた諦傷の笑みだった。
「……やっぱり、お前さんは……気味が悪い……」
トッドの声は、もう掠れた風の音のようだった。吐き出される息のすべてが血の泡となり、視界はほとんど黒に染まっている。だが、その瞳に宿る、スバルに対する絶対的な殺意と戦慄だけは、最後まで1ミリも衰えてはいなかった。
「何度、殺しても……お前さんは、すべてを台無しにする……。お前さんのような、理屈の通じない化け物がいる限り……この世界に、俺の求めた平穏なんて……どこにも、ありはしないんだ……」
それが、トッド・ファングという男が、その生涯の最期に遺した、呪いのような核心だった。彼は最後まで自分の生存戦略を疑わず、最後まで自分の価値観を1ミリも曲げず、目の前の少年を「世界を脅かす怪物」と定義したまま
__その濁った瞳から、静かに光を失わせていった。ガクリ、と。支えを失ったトッドの身体が、大通りの赤い泥の中に倒れ伏す。ただ生きるために冷酷であり続けた、一兵卒の骸。トッドが命を懸けて防衛しようとした平穏は、彼が最も恐れた理不尽の手によって、永久に、完全に失われたのだった。
「……終わった、のか」
カチリ、と世界の歯車が止まったかのような静寂が、大通りを支配した。トッドの死体を見つめたまま、スバルはその場に力なくへたり込んだ。見えざる手を使った代償は大きい。激しい頭痛。腹痛。嘔吐感。これらにスバルは今、耐えている。さらに張り詰めていた緊張の糸が一度に切れ、全身の筋肉が鉛のように重くなる。胸を斧で貫かれたあの凄惨な「死の記憶」と、それを完璧に覆したという現実の間で、脳の処理が追いつかず、激しい眩暈と吐き気がスバルを襲う。心臓の鼓動が、うるさいほどに耳の奥で鳴り響いていた。本当に、生きている。血は流れていない。トッドの斧は、自分の胸を貫いてはいない。だが、あの冷酷な刃が肉を裂き、骨を砕いた感触だけは、今も脳裏に生々しくこびりついて離れなかった。死の恐怖は、ループを超えてもなお、魂を蝕み続ける。
「いやぁ、実に見事な指揮でしたよ、ボス! 私の剣をこれほど完璧に誘導するとは、やはりあなたという人は退屈させない!」
パチパチと場違いな拍手を送りながら、セシルスが何事もなかったかのように刀を滑らかに鞘に収める。その動作には一瞬の淀みもなく、彼にとっては、トッドが仕掛けた「街全体の檻」すらも、極上の舞台の仕掛けの一つに過ぎなかったのだろう。周囲を見渡せば、絶対の精神的支柱であったトッドを失い、完全に戦意を喪失して蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う帝国兵たちの姿があった。あれほど強固だった包囲網は、今や見る影もなく瓦解している。トッド・ファング。些細な違和感からスバルの異変を察知し、これまで5回も自分を殺し、今回も完璧なまでの第三の罠で追い詰めてきた最悪の天敵。その男を、スバルは自身の凄惨な「死の記憶」と、セシルスという規格外の怪物の武力、そして執念の先読みをもって、ついに完膚なきまでに打ち破ったのだ。トッドが死の間際に遺した、「化け物」という言葉が、スバルの胸の奥に冷たい棘のように深く突き刺さっていた。凡人の平穏を守るために、冷酷に徹した男。その男の視点から見れば、死を超越して先回りしてくる自分は、確かに理不尽極まりない、気味の悪い「化け物」そのものだったのだろう。
__俺から見れば、化け物はお前だ。なんでも用意して、対策して…それを一回で済まして…俺なんかが勝てたのは…一種の奇跡だ。
でも、トッドのその指摘は、あまりにも正確で、それ故にスバルの心を重く沈ませる。だが、とスバルは泥に塗れた拳を強く握りしめた。どれだけ気味が悪いと言われようが、どれだけ怪物と蔑まれようが、ここで止まるわけにはいかない。この理不尽な世界で、大切なものを取り戻し、仲間たちと共に生き残るためには、世界の因果を捻じ曲げてでも、泥水を啜ってでも、進み続けるしかないのだ。トッドの呪いを受け止め、その骸を越えていくことこそが、死に戻りという業を背負った自分の戦いなのだと、スバルは深く、強く、自らの心に刻みつける。
「……あぁ。俺たちの勝ちだ、セッシー。……行こう」
ボロボロになりながらも、スバルは顔の泥を袖で乱暴に拭い、再び前を向いて力強く立ち上がる。隣で
「次はどんな面白い舞台が待っているんでしょうねえ!」
と目を輝かせるセシルスを伴い、炎上する街の硝煙を背に、ナツキ・スバルは次なる目的地、まだ見ぬ新たな戦場へと向かって、一歩一歩、歩みを進め始めた。その足取りは、ボロボロになりながらも、決して揺らぐことのない確固たる決意に満ちていた。
12話次回予告
「最終的に12077文字という長さになったけど、そこんとこエミリアたんはどう思う?」
「えみりあ…ですか?」
「あーー!!クソォ!こっちがエミリアに振ってみたら、作者が都合を読んで出してくれるかなって思ったら…出してくれねぇじゃねえかクソ作者ぁぁぁ!!」
「おっと、ボス!この次回予告は小さい子供も見てるんですよ!」
「次回予告は本編についてるので、本編を読んできたってことになるよ!?」
「いえ、多分その子供はあとがきから読む派なんでしょう」
「どうでもいいっ!」
「さて、次回の話ですが…特にしゃべることもありません。」
「…………あれ、タイトルコール俺がする感じ?」
「はい!」
「…次回!12話『一時の平穏』!それでは次回もサービスサービスゥ!」
「ボスは著作権的な問題で次回予告の席を外されました。これは15話まで有効です。ちなみにあの次回予告は嘘で本当のタイトルは『トッド死す』!(もう死んでる)デュエルスタンバ………」
スバル セシルスは著作権的な問題で15話まで次回予告の席を外されました。
【作者あとがき】
ここまでお読みいただきありがとうございました!前回の次回予告での予告通り、こだわりとスバ虐を限界まで詰め込んだ結果、なんと最終的に「12,077文字」という、作者の命を削りまくった超大長編になってしまいました……! 書き終えた瞬間………もうね…すごかったです(小学生位の作文)。ですが、トッドという最強の天敵の執念、そしてそれを上回るスバルの指揮とセシルスの無双を描き切れて、作者としては大満足の回になりました。トッドの名前回としての過去編、皆さんの心に少しでも刺さっていたら嬉しいです。
もし「1万文字超えお疲れ様!」「トッドとの決着、最高にゾクゾクした!」と思ってくださったら、画面下の【応援】や【ファンレター(感想)】をいただけると、灰になった作者のライフが一瞬で全回復して「執筆の加護」が宿ります! ぜひ応援よろしくお願いします!
著作権の闇に消えたあの2人… 15話から復活するんですが…ちょっと次回予告ふざけすぎたので…ちゃんとやります。あの2人は出禁のままでね!
「……あら? ここはどこかしら。スバルがいつも言っている『じかいよこく』の舞台?」
「……エミリア様、そのようです。どうやらあのお節介な作者が、本編に出番がない私たちを不憫に思って、無理やりこの場所に引っ張り出したみたいですね」
「ええっ!? そうなの? でも、肝心のスバルとセシルスがどこにもいないんだけど……」
「フン、あの二人は著作権とかいう謎の概念に触れて、15話まで強制退場させられたそうです。……あの英雄気取りの男の浅はかさには、本当に呆れ果てます」
「そ、そうなんだ……。でもレム、スバルがいない間に私たちがこの次回予告を乗っ取っちゃえば、次の12話は私たちが主役になれるんじゃないかしら!?」
「エミリア様がそう仰るなら、お供いたします。あいつがいない方が、この場所もずっと健全で『平穏』ですから。あんな嘘つき、戻ってこなくて結構です」
「あはは、レムは相変わらずスバルに厳しいね。……それじゃあ、タイトルコールを」
「はい。……次回、第12話『一時の平穏』。ちなみにセシルスという男が言っていた『トッド死す』は真っ赤な嘘です。あの男の言葉を信じるなど、愚者の極みですので、皆様は決して騙されませんように」「え、そうなの!?てっきり2つサブタイトルがあるのかと思っちゃった…」
「騙されませんように気をつけてください。エミリア様。」