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アルビレオの片方
夜の小児病棟は、昼間のざわめきが嘘のように静まり返っていた。
|白亜《はくあ》の廊下に響くのは、夜勤のナースシューズが床を叩く乾いた足音と、遠くで規則正しく鳴る心電図の電子音だけだ。
「……眠れない?」
静かに開いた病室のドアから、ふわりと温かい気配が差し込んだ。
白衣ではなく、淡いブルーのカーディガンを羽織った木村柾哉が、そっと顔を覗かせる。その優しい|声音《こえおと》に、窓際のベッドで膝を抱えていた小学6年生の女の子――凛花は、びくりと肩を震わせてから、小さな頭を横に振った。
「柾哉くん…」
「どうした? 明日の手術のこと、考えてる?」
柾哉は慣れた手つきでベッドの脇にパイプ椅子を引き寄せ、音を立てないように腰を下ろした。凛花の小さな手が、シーツをぎゅっと握りしめている。水頭症の治療のための手術を翌日に控えていた。目に見えない不安や、繰り返す頭の重さ、これからどうなるんだろうという恐怖で、胸が押しつぶされそうだった。
「怖い…。また頭が痛くなったり、部屋の天井が真っ暗になる夢を見るの」
震える声を聞き、柾哉は困ったように、けれどどこまでも優しい笑みを浮かべた。そして、懐から小さな、古い|星図《せいず》の描かれた手帳を取り出す。
「じゃあさ、少しだけ窓の外を見てごらん」
|促《うなが》されるまま、凛花はおそるおそる病室の窓ガラスに顔を近づけた。夜の闇が広がる空の、ほんの一角に、小さな光が|瞬《またた》いている。
「ねえ、あの星知ってる?」
「…ん、きらきらしてる」
柾哉は凛花の隣に並び、夜空を指さした。
「あれはね、『アルビレオ』っていう名前の星なんだよ。名前、かっこいいだろ?」
「アルビレオ…?」
「そう。一見すると一つの星に見えるんだけどね、実はちがうんだ。望遠鏡でよーく覗いてみると、オレンジ色の星と、青い色の星が、ぴったり寄り添うように二つ並んで光っているの」
「二つの、星…」
「うん。オレンジの星はね、温かくて、いつも周りをぽかぽか照らしてくれるんだ。そして青い星は、ちょっと冷たくて静かだけど、オレンジの星のそばにいることで、すごく綺麗な輝きになる。――離れているように見えても、あの二つはいつも一緒で、お互いの光を映し合ってるんだよ」
凛花は、夜空の小さな一点を見つめた。オレンジと青。なんだか、温かいものと、少し切ないものが混ざり合っているような気がした。
「じゃあさ…」凛花は心細そうに柾哉を見上げた。「私がもし、怖くて眠れなくなったら、あの星は私を見てくれる?」
柾哉は優しく微笑むと、凛花の頭をふんわりと撫でた。その手のひらは、驚くほど温かかった。
「もちろん。それにね、覚えておいて。人間も同じなんだよ。どんなに離れていても、目に見えないところで誰かと光を分け合っている。だから、凛花ちゃんが明日、どんなに不安な場所にいたって、絶対にひとりになんてしない。僕の光は、ずっと凛花ちゃんのそばにあるから」
「…本当?」
「うん、約束する」
柾哉が差し出した小指に、凛花の小さな小指がゆっくりと絡まった。
その夜、凛花は柾哉の温もりとアルビレオの星の光を胸に抱きながら、いつの間にか穏やかな眠りについたのだった。
――明日、待っている奇跡と、残酷なほどの運命を知ることもせずに。
翌日の朝。手術室の扉が閉まるまで、柾哉は満面の笑みで凛花の手を握っていた。
「いってらっしゃい。終わったら、またアルビレオの話の続き、しような」
その言葉に、凛花はこくりと頷いて、小さな勇気を胸に手術室へと入っていった。
手術室のライトが『手術中』の赤色に変わる。
廊下のパイプ椅子に一人残された柾哉の表情から、さっきまでの太陽のような笑顔がスッと消え失せた。
彼はカーディガンのポケットから、くしゃりとなった紙を取り出した。
それは、昨日主治医から手渡された、彼自身の検査結果だった。
そこには、自分に残された時間がもう長くないことが、冷たい文字で記されている。
「……僕の光は、ずっとそばにあるから」
自分で凛花に言ったはずの言葉が、ブーメランのように自分の胸を|抉《えぐ》る。
柾哉もまた、この病院の患者だった。正確には、もうすぐこの世界からいなくなる、不治の病を抱えた患者。
だけど、残されたわずかな時間をベッドの上で泣いて過ごすのではなく、彼は小児病棟の子どもたちの「お兄ちゃん」として生きることを選んだのだ。
明日が見えない子どもたちに光を分けてやるために。自分が消えた後も、彼らの心の中で星のように輝き続けるために。
――数時間後。
「手術は、無事に成功しましたよ」
医師から告げられたその言葉に、柾哉は崩れそうになる足を必死で踏みしめ、深く、深く頭を下げた。よかった。凛花ちゃんは、未来へと繋がった。あのオレンジと青の星のように、これからもたくさんの光を受け取って生きていける。
病室のベッドで目を覚ました凛花は、窓の外の青空を見上げながら、そっと呟いた。
「お空のアルビレオはね、いつもふたつでひとつなんだよ。ねえ、柾哉くん…」
けれど、その日を境に、柾哉の姿を小児病棟で見かけることは二度となかった。
看護師から渡されたのは、凛花へ|宛《あ》てた一通の手紙と、小さな青いガラス玉。
手紙には、こう|綴《つづ》られていた。
『凛花ちゃんへ。手術、よくがんばったね。すごいぞ。
僕はね、ちょっと遠くへ星の旅に出ることになりました。
でも、泣かないで。アルビレオの星を思い出してほしい。
オレンジの温かい光と、青い静かな光。
僕たちは離れていても、同じ空の下で、お互いの光を映し合っているんだから。
君の心の中に、僕の光はずっとあるよ。
だから、これからは凛花ちゃんが、誰かを温める「もう一つの星」になってあげてください。
――木村柾哉より』
病室の窓辺に差し込む太陽の光が、ガラス玉を通り抜けて、壁にオレンジと青の美しい光の粒を映し出す。
凛花はそれをそっと両手で包み込んだ。
あの夜、自分を照らしてくれたオレンジの温かい光は、もうここにはいない。
彼は自分の中で燃え尽きて、消えてしまったのかもしれない。
だけど、自分がこうして生きている限り、あの星は――彼というもう片方の星は、ずっと自分の胸の奥で、一緒に光り続けているのだと知ったから。
凛花の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
それは悲しみの涙ではなく、彼にもらった温もりを初めて一人で抱きしめた、あまりにも優しすぎる涙だった。
病院の窓の外、どこまでも広がる青空の向こうで、今日も|二重星《にじゅうせい》は、静かに寄り添いながら輝いている。