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未既読のララバイ
リビングの空気は、いつもどこか冷たかった。
いや、部屋そのものは暖房が効いているし、インテリアだって彼女のセンスで温かみのある空間に整えられている。なのに、ここ最近の俺たちの間には、どうしても埋まらない澱(おり)のような静けさが漂っていた。
「……また、遅いんだろな」
深夜、スケジュールがびっしりと詰まったスマホをソファに放り出し、俺は一人、冷めきったコーヒーを口に含んだ。
アイドルとして、INIのリーダーとして、ありがたいことに毎日が目まぐるしく過ぎていく。求められることに全力で応えたい。夢だったステージに立ち続けたい。その一心で突っ走ってきた。
なのに。
同じ屋根の下に暮らしているはずなのに、彼女とまともに顔を合わせたのはいつが最後だったか。
朝、俺が家を出る時にはまだ寝息を立てている彼女を起こさないようにそっと家を出て、夜中に帰宅する頃には、リビングの小さな間接照明だけがぽつんと俺の帰りを待っている。会話といえば、冷蔵庫のホワイトボードに残された「ご飯温めて食べてね」「お疲れ様、無理しないで」という走り書きのメモだけ。
分かっていたはずだった。彼女がどれだけ寂しい思いをしているか、本当は気付いていたはずだった。
だけど、目の前の仕事に追われ、「また今度ゆっくり休みを取るから」と、どこかでその寂しさを後回しにしていた。甘えていたのは、俺の方だったんだ。
――その日、俺たちは地方での泊まり込みの全体合宿に入っていた。
山奥のスタジオ。電波の入りが悪く、ダンスのレッスンとミーティングが朝から深夜まで缶詰めで続く過酷なスケジュールだった。スマホは宿舎のロッカーの中に鍵をかけてしまっていて、休憩時間もメンバーとフォーマットの確認や自主練に追われ、画面を開く暇すらなかった。
「柾哉、次の曲いくぞ!」
「あ、はい! 今行く!」
洸人からの声に慌てて返事をし、俺は汗を拭いながら再び鏡の前に立った。
胸の奥で、なぜかずっと、嫌な予感のような、鉛を飲み込んだような重たさが消えなかったけれど、気のせいだと無理やり振り払った。
すべてのプログラムが終わったのは、翌日の夕方だった。
「お疲れっしたー!」
やっと解放された解放感と疲労感の中で、俺はロッカーから震える手でスマホを取り出した。電源を入れた瞬間、画面が激しく明滅し、通知のアイコンが滝のように流れ込んできた。
仕事関係の連絡、スタッフからのメッセージ、メンバーのグループチャット。
そして――その一番上に、彼女の名前があった。
『……ねえ、柾哉。今、どこにいるの?』
『少しでいいから、声が聞きたいよ。私、もう限界かもしれない……』
『ごめんね、こんな重いこと言って。でも、ずっと一人で待つのは、寂しいよ』
画面に並んだ文字を見た瞬間、心臓が凍りついたように止まった。
最後に表示されていた送信時間は、昨日の夜。俺がちょうど、鏡の前で必死に汗を流していた時間だった。
「……嘘だろ」
声に出そうとして、声にならない。
既読のつかないメッセージ。俺が見ていなかった、彼女からの最後のSOS。
冷たくなったスマホを握りしめ、俺は急いで彼女に電話をかけようとした。何度も、何度も、手が震えて発信ボタンを押し間違えながら。
だけど、コール音が響くことはなかった。
代わりに鳴り響いたのは、マネージャーからの着信音だった。
「――もしもし、柾哉か?……落ち着いて聞いてくれ」
電話口のマネージャーの声は、信じられないほど掠れていて、現実感がなかった。
「お前の彼女さんが……昨日の夜、スタジオの帰りに、事故に……」
その後の記憶は、酷く曖昧だった。
気がついた時には冷たい雨が降る中、黒い喪服に身を包み、彼女の眠る棺の前に立っていた。
嘘だと言ってほしかった。これは悪夢で、この後「お疲れ様」って、いつもの笑顔で彼女がリビングから現れるんじゃないか。そんなバカげた期待を何度も頭の中で繰り返しながら、ただただ現実を受け入れるしかなかった。
すべての儀式が終わり、静まり返った彼女の部屋。
遺品となった彼女のスマホが、机の上にぽつんと置かれていた。
足元から崩れ落ちるように、俺はその場に膝をついた。
涙なんてとっくに出尽くしたと思っていたのに、喉の奥から絞り出されるのは、どうしようもない絶望と、取り返しのつかない後悔ばかりだった。
震える手で、彼女のスマホに触れる。パスワードは、出会った記念日の数字だった。
画面を開くと、そこには昨日、俺が読めなかったメッセージの続きがあった。
俺が返信できなかった、その後の言葉が、画面の光の中に静かに浮かび上がっていた。
『……でも、もういいんだ。
明日も早いんでしょ? 無理しないでね。
ずっと大好きだよ、柾哉。
私の分まで、夢を叶えてね。
――おやすみ、柾哉。愛してるよ』
「……っ、待って、待ってよ……!」
声にならない叫びが、誰もいないリビングにむなしく響いた。
返信しようとしても、もうその画面が青く光ることはない。彼女の既読がつくことも、二度とない。
俺が欲しかったのは、夢のステージなんかじゃない。
あの時、スマホの画面の向こうで震えていた彼女の手を、今すぐ強く握りしめて、「ごめん、一人にしてごめん愛してる」って、何度でも伝えることだった。
音のない世界で、俺はたった一人、彼女の残した未既読の文字を抱きしめたまま、泣きじゃくることしかできなかった。