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目次
INIでいたいよ…
「……一日だけでいいんです。みんなと、旅行に行かせてください」
診断が下りたあの日、俺は事務所の社長に泣きついた。
突然告げられた『急性リンパ性白血病』という病名。頭が追いつかない中で、俺が最初に考えたのはINIのことだった。今が大事な時期なのに、俺の病気でグループの勢いを止めたくない。同情の目で見られたくない。
「『ダンスを極めるために、しばらく海外へ留学する』って、メンバーにはそう伝えてください。あいつらなら、俺がストイックに上を目指してるって言えば、納得してくれるから」
社長は苦しそうな顔で俺を見て、静かに頷いてくれた。明日からは、あの白い病室での隔離生活が始まる。だから、これが人生最後の景色になるかもしれないから。どうしても11人の思い出が欲しかった。
「留学前の思い出作り」という名目で、急遽決まった11人の弾丸旅行。メンバーは「急だな!」と笑いながらも、大はしゃぎで車に乗り込んだ。
隣でハンドルを握る柾哉が、バックミラー越しに俺を見る。
「洸人、なんか今日元気なくない? 緊張してんの?」
「バカ言え、楽しみすぎて寝不足なだけ。ほら、フェンファン、次の曲かけて」
窓の外の景色を見つめながら、必死でいつものトーンを保つ。だけど、車内の冷房がやけに体に染みて、肺の奥がジクジクと熱を持っていた。
夜になり、宿のテラスでバーベキューをした。
肉を焼き、ふざけ合い、笑い声をあげる10人の姿。愛おしくて、眩しくて、涙が出そうになる。この輪の中に、俺はずっといたい。
「あ、俺、ちょっと飲み物取ってくるわ」
胸の奥からせり上がってくる強烈な不快感に耐えかねて、俺は席を立った。
誰もいないキッチンの勝手口から外へ出て、暗闇に紛れる。その瞬間、堪えていたものが一気に決壊した。
「っ、げほっ……ごほ、ごほっ……!」
激しい咳が止まらない。肺を引きちぎられるような痛みに、膝から崩れ落ちて地面に手をついた。呼吸がうまくできず、ヒューヒューと喉が鳴る。口の中に広がる、鉄の味。
「はぁ、っ、ごほっ、げほっ……!」
「……洸人?」
突然、暗闇に声が落ちてきて、心臓が跳ね上がった。
振り返ると、そこには心配そうに眉をひそめた柾哉が立っていた。手には、俺が忘れていった上着を持っている。
「お前、その咳……大丈夫? 風邪とかのレベルじゃないだろ」
柾哉の目が、暗がりの中でも鋭く俺を値踏みするように動く。
「あ、いや……肉の煙、吸い込んじゃってさ」
立ち上がろうとするが、足に力が入らない。すかさず柾哉が俺の腕を掴んで支えた。その手が、俺の腕の異様な細さや、異常な熱さに気づいたように一巡りして、ピクリと強張る。
「留学って、本当に対策のためだけ?」
柾哉の声は静かだったが、リーダーとしての、そして戦友としての鋭い疑惑が籠もっていた。
「お前、俺たちに何か隠してない?」
「隠してねぇよ、大袈裟だな」
掴まれた腕を振り払う。笑ってみせようとしたけれど、引き攣った笑みしか浮かばなかった。
目の前にいるのに、もう届かない。このぬくもりから、俺は明日、強制的に引き離されるんだ。柾哉のまっすぐな視線が痛くて、俺はそれ以上、何も言えずに目を逸らすしかなかった。
翌日、旅行が終わると同時に、俺の本当の孤独な戦いが始まった。
予定通り「ダンス留学」として発表され、俺は病院のベッドの上にいた。
容赦なく進行する病状。抗がん剤の副作用で、髪は抜け落ち、まともに立つことすらできなくなった。前を向こう、もう一度ステージに立つんだと、必死に自分を奮い立たせるけれど、現実は驚くほど簡単に俺の覚悟をへし折っていく。
スマホを開けば、メンバーから毎日のようにメッセージが届く。
『洸人くん、どこのスタジオにいるの?』
『置いていかれないように、俺たちもダンスめっちゃ頑張ってるわ』
画面が涙で滲む。
ダンスを極めるため、なんて大嘘だ。今の俺は、ステップを踏むどころか、自分の足でトイレに立つことすら必死なのに。
画面の向こうでは、10人が俺の居場所を守るように、必死で汗を流して踊っている。フォーメーションの、ぽっかりと空いた俺のポジションを見るたび、胸が引き裂かれそうだった。
嘘をついたのは自分なのに、本当にみんなから置いていかれるような、世界に一人きりになったような恐怖が押し寄せる。病気は待ってくれない。進行していく身体は、もう言うことを聞いてくれない。
「はは、何がダンスだよ……」
お見舞いに、と社長がこっそり届けてくれた、みんなが書いた寄せ書きのアルバムを開く。そこには、あの旅行の日に11人で撮った、眩しい笑顔の写真が貼られていた。
あの夜、柾哉は何かを察していたのかもしれない。それでも、俺が「隠してない」と言い張ったから、信じて待とうとしてくれている。みんな、俺がもっと強くなって帰ってくるのを信じてる。
だけど、もう限界だった。綺麗事なんてどうでもいい。格好悪くてもいい。
「嘘だよ……行きたくて行ったんじゃない……」
誰もいない静まり返った病室で、俺はスマホの写真に映る10人の笑顔に向かって、ぽろぽろと涙をこぼした。
神様がいるなら、ダンスの才能も、これまでの人生も全部差し出すから。
お願いだから、あの場所に帰らせてほしい。
「戻りたい……みんなのところに」
掠れた声が、点滴の機械の電子音に混ざって、暗闇に消えていく。
「INIでいたいよ……。俺、まだ、INIの西洸人でいたいよ……」
叶うはずのない本音が、静かな病室に冷たく響き渡っていた。
おめでとうの裏側
放課後のファミレス。ドリンクバーのメロンソーダの氷が、カランと音を立てて溶けていく。 目の前で、親友のゆいなが、顔を真っ赤にしながらスマホの画面を私に見せてきた。 「……っていうわけでね。昨日、ひろとから告白されたの」
画面には、ひろとのアカウントからの『俺と付き合ってください』という文字。 ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。喉の奥がカッと熱くなる。 ひろと。私の、ずっと好きだった人。
「りんかが背中押してくれたおかげだよ。本当にありがとう!」 ゆいなは満面の笑みで私の手を握る。 「ううん、よかったね。おめでとう」 引きつりそうになる頬を必死に持ち上げて、私は笑ってみせた。嘘じゃない。ゆいなの幸せは嬉しい。だけど、嘘だ。胸が引き裂かれそうに痛い。
先月、ひろとに「ゆいなの誕生日、何あげたら喜ぶかな」と相談されたのは私だった。 『ゆいななら、シンプルなネックレスとか喜ぶと思うよ』 あのとき、どんな気持ちでアドバイスしたっけ。2人の距離が縮まっていくのを、一番近くでアシストしていたのは、他でもない私だ。
「じゃあ、塾あるから先行くね!」 幸せオーラを纏って去っていくゆいなを見送ったあと、私は1人、夕暮れの帰り道を歩く。
ポケットの中でスマホが震えた。 画面を見ると、2人からの通知。
『りんか、本当にありがとう!今度お礼させて(ゆいな)』 『相談乗ってくれてありがとな。ゆいなを大事にする(ひろと)』
「……ばか」 ぽつりと呟いた声が震える。 視界が急に歪んで、スマホの画面にポツリと丸い染みができた。 おめでとう、と。今度こそ2人に届かない声で、私はもう一度呟いた。
夏のプラザと、とびきり甘い奇跡
セミの声がジリジリと響く、夏休みの小学校。
静まり返った校舎の一角、開放的なプラザのベンチに、小学六年生のわかなとりんかが腰掛けていた。
「ねえ、ちょっと聞いてよ、わかな!」
りんかが突然、リュックのポケットからゴソゴソと何かを取り出した。得意げな顔をしてわかなの目の前に差し出されたのは、光沢のある硬いカード――人気アイドルグループ『INI』の木村柾哉のブロマイドだった。
「……なにこれ?」
「昨日買ったやつ! 柾哉くん、今回のビジュアル神がかってない?」
ブロマイドに写る木村柾哉は、ふんわりとした髪型に、優しく包み込むような甘い笑顔を浮かべていた。
わかなは最初、「またりんかの推し活が始まったな」と冷ややかに見つめていた。しかし、じっと見ているうちに、その整った顔立ちや、カメラ越しに見つめられているような吸い込まれそうな瞳に、ふと心臓が跳ねた。
(あれ……? この人、なんか……めちゃくちゃカッコよくない……?)
ジワジワと、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。わかなの目が真剣な色に変わったのを見逃さず、りんかは素早くブロマイドを引っ込めた。
「ちょっと! なんだその目は! 取られるのは困るからね!」
「待って待って、もう一回見せて! 今、私の中で何かが目覚めかけたから!」
「やだ! わかな、最近すぐ私の推しに浮気するんだからダメ!」
「ケチ! 少しぐらい見せてよ!」
あつい夏の空気が漂うプラザの真ん中で、二人はブロマイドを片手に「ちょうだい!」「やだ!」とキャッキャッと引っ張り合いを始めた。どちらも一歩も引かない、小六女子の本気の攻防戦だ。
その時、背後から足音が近づいてきた。
「こら、そこ。プラザで走り回ったり、大きな声を出したりしない!」
ピシッとした声に、二人はビクッと肩を揺らして動きを止めた。振り返ると、そこには先生が立っていた。
そして、その先生の隣には、もう一人――見慣れない、あまりにもスタイルの良すぎる大人の男性が立っていた。
「二人とも、ちょうどいい。今日からこのプラザに、新しい補助員の先生が来てくれることになった。紹介するから」
担任の先生がそう言って横を譲ると、見慣れないその男性がフッと優しく微笑み、二人に軽く手を挙げた。
「はじめまして、木村柾哉です。今日から数日間、ここで一緒にお手伝いすることになったから、よろしくね」
……ん?
きむら、まさや?
わかなとりんかは、目の前にいる人物の顔と、さっきまで手の中で争奪戦を繰り広げていたブロマイドの顔を、交互にものすごいスピードで見比べた。
目の前にいるのは、今まさに自分たちが名前を呼んでいた、本物の木村柾哉その人だった。
「「…………えっ!?」」
プラザの天井に、二人の絶叫が重なって響き渡る。
「「ウソ……だよね……?」」
魂が抜けたようにその場で固まる二人を見て、木村柾哉はくすっと笑った。
「うわ、それ俺のブロマイドじゃん。持っててくれてありがとう」
ひょいと差し出された手元を見ると、さっきまでりんかが持っていたカードそのものだ。至近距離で見ると、スマホの画面で見る何倍も顔が小さくて、圧倒的なオーラが漂っている。でも、笑い方は動画で見た通りの、あの優しい太陽のような笑顔だった。
「あ、あの……! 私、りんかです! 本物……本物ですよね!?」
「うん、本物だよ。りんかちゃんだね。よろしく!」
「わ、私はわかなです……! あの、ほんとに、どうしてここに……?」
震える声で尋ねるわかなに、柾哉は少ししゃがんで目線を合わせてくれた。
「だからさ、先生になってみたかったんだよね。INIの企画で『それぞれやってみたいことをやる』ってなって、俺、『学校の先生になって子どもたちと過ごしてみたいな』って話したんだ。……で、さっき二人、何をあんなに盛り上がって争奪戦してたの?」
柾哉がイタズラっぽく首をかしげると、りんかとわかなの顔が一気に真っ赤に染まった。
よりによって、本人たちの前で「このブロマイドかっこいい!」「渡さない!」と揉めていたところを見られていたなんて、恥ずすぎて穴があったら入りたい。
「い、いや、これはその……!」
「あはは、そんなに照れなくてもいいよ。嬉しかったから、もっと大事にしてね」
そう言って柾哉がりんかの頭をポンと軽く撫でたものだから、りんかはその場で気絶しそうなほどの衝撃を受け、わかなは(いいな……!)と猛烈にうらやましい気持ちでいっぱいになった。
そこからの夏休みは、これまでの退屈な学校生活とは180度違う、魔法のような時間に変わった。
プラザに響くのは、二人の黄色い歓声と、子どもたちに囲まれて笑顔でジャンケンをする木村柾哉の声。
「先生、ドッジボールしよう!」
「いいね、本気で投げるから覚悟してよ?」
汗を拭いながら爽やかに笑う柾哉の姿に、わかなとりんかはすっかりメロメロだ。
さっきまでブロマイドを奪い合っていたライバル同士だったはずが、今では「今のかっこよかったよね!」「うん、やばい、推し変しそう……いや、元から推しだった!」と、すっかりガッチリと手を取り合う最高の仲間になっていた。
夕暮れ時、校門の前で「また明日ね!」と手を振って去っていく背中を見送りながら、二人は心に誓った。
「「この夏休みのことは、一生の宝物にしようね!」」
西日に照らされたプラザには、いつまでも二人のはしゃぐ声と、甘い余韻が温かく残っていたのだった。
お前が笑う、それだけで
薄暗いスタジオの鏡に、洸人の背中が映る。
「はい、そこワンカウントズレてる。結愛、もう一回」
音楽が止まり、低く通る声がスタジオに落ちる。私はバツが悪そうに舌を出しながら「ごめん!」と両手を合わせた。
ストリートダンスチームのなかで、洸人は圧倒的なエースだった。音の取り方も、指先の角度も、すべてが別格。私はといえば、その背中を必死に追いかけているだけのドジな初心者だ。いつも振りについていけず、こうしてメンバーの前で洸人に注意されてばかりいる。
「ほんと結愛ってドジだよな。笑」
呆れたように笑う洸人に、私は頬を膨らませた。
「もぉ、そんなこと言わないでよ! 私だって本気でやってるし!」
「はいはい、もっと練習しろよ」
そんな風に、いつまでも続くと思っていた。
あの日の帰り道、原宿の路地裏で有名な海外の振付師を見かけるまでは。興奮した私が大声で騒いだせいで、その人に鋭く睨まれ、私たちは慌てて逃げ出した。あの時、笑い合いながら走り抜けた夜風の冷たさを、私はまだ覚えている。
数日後。スタジオの隅でペットボトルの水を飲んでいた私に、洸人はスマホの画面を突きつけた。
「これ、お前受けてみなよ」
「え……? オーディション?」
「ああ。有名なアーティストのバックダンサー兼、オープニングアクトの選考会。お前がセンターで踊る姿、俺が一番見てぇし」
からかわれているのかと思って顔を上げると、洸人は真剣な目をしていた。その言葉が嬉しくて、照れくさくて、私は勢いのままに応募した。
だけど、その話をしていた時、洸人はふと言葉を詰まらせ、小さく咳き込んだ。
「……どうかした?」
「いや、ちょっと最近、息苦しい時があってさ」
笑ってごまかすその横顔に、かすかな違和感を覚えたけれど、まさかそれが命のタイムリミットだなんて思わなかった。その時にはもう、洸人は自分の余命半年という宣告を受けていたのに。
それから数日。いつも通り一緒に学校へ行こうと、私は洸人の家のインターホンを押した。けれど出てきたのは、どこか影のある表情をした彼の母親だった。
「洸人、熱出して休むの。今日は行ってあげて」
それから、彼はパタリと学校に来なくなった。連絡もつかないまま、時間だけが過ぎていった。
不安が胸を埋め尽くす中、奇跡的にオーディションの一次審査を通過した。この喜びを一番に伝えたくて、私は震える手でスマホの発信ボタンを押した。
コール音が鳴り響き、やがて電話に出たのはまたしてもお母さんだった。
「……結愛ちゃん、ごめんね。洸人、今、病院にいるの」
指定された病室の扉を開けた瞬間、私の足が止まった。
ベッドに腰掛けていた洸人は、抗がん剤治療のせいで髪が抜け落ちていて、頭には白いニット帽をかぶっていた。痩せこけたその姿に、言葉が喉まで出かかったまま引っかかった。
「……なんで、言ってくれなかったの?」
震える声で絞り出した私に、洸人は目を伏せ、冷たく言い放った。
「……お前が子どもだからだろ」
頭を殴られたような衝撃だった。あんなに欲しかった未来を私に託してくれたくせに。私がどれだけ彼の背中を見ていたかも知らないくせに。
「私が子どもだから何も言えなかったってこと……? 私が子どもだから、何も助けられないって言いたいの!? もう知らない、大嫌いだよ!」
感情のままに叫んで、私は病室を飛び出した。それから、二度と彼の元へ戻らなかった。戻れなかった。あんな最悪な別れ方をしたせいで、素直になれなかった自分のことが許せなかった。
それからしばらくして、彼の母親から「体調が少し良くなったから、また顔を出してやって」と連絡が入った。
急いで病院へ向かった。けれど、病室のベッドは綺麗に整えられていて、洸人の姿はどこにもなかった。退院できたんだ、そう思い込んで私は彼の家へと急いだ。
玄関のドアを開けた彼の母親の、赤い目をすえた顔を見た瞬間、心臓が凍りついた。
「結愛ちゃん……洸人、今朝、息を引き取ったの」
リビングの窓から差し込む夕日が、やけに眩しかった。
「お前がセンターで踊るの、一番見てぇし」
あの日の洸人の声が、頭の中で何度も、何度も響いていた。
最期まで、ただの幼馴染のままで
空気の冷たいダンススタジオ。鏡に映る柾哉の柔らかい笑顔が、いつもより少しだけ小さく見えた。
「はい、そこワンカウントずれてるよ。結愛、もう一回だけ合わせてみよっか」
音楽が止まり、優しく声をかけながら近づいてくる。ストリートダンスチームのエースなのに、柾哉はいつだって私みたいなドジな初心者の目線に合わせてくれる。ステップを踏み外してメンバーに怒られたときも、いつも影で「どんまい、次いこ!」って笑い飛ばしてくれた。
「ほんと結愛ってドジなんだから。笑」
呆れながらも愛おしそうに笑う柾哉に、私は頬を膨らませた。
「もぉ、そんなこと言わないでよ! 私だって必死についていってるもん!」
「はいはい、知ってるって。でも、そういう一生懸命なところ、嫌いじゃないよ」
そんな風に、頭をポンポンと撫でられる日常が、ずっと続くと思っていた。
あの日の帰り道、原宿の路地裏で有名な海外の振付師を見つけて大騒ぎし、睨まれて二人で笑いながら逃げ出したあの夜までは。
数日後。スタジオの隅でペットボトルを開けていた私に、柾哉はスマホの画面をひょいと突き出した。
「これ、受けてみなよ」
「え……? オーディション?」
「うん。有名なアーティストのバックダンサー兼オープニングアクト。結愛がセンターでキラキラ踊る姿、俺が一番見たいし、絶対似合うよ」
からかわれているのかと思って顔を上げると、柾哉はとびきり甘い、でもどこか真剣な目をしていた。そのまっすぐな言葉が嬉しくて、私は勢いのままに応募を決めた。
だけど、その話をしていた時、柾哉はふと視線を泳がせ、苦しそうに喉を押さえた。
「……柾哉? どうかした?」
「ううん、なんでもないよ。ちょっと最近、息がしづらいときがあるだけ」
心配させまいと、いつものふんわりした笑顔でごまかす横顔に、かすかな違和感を覚えた。まさかそのとき、もう余命半年の宣告を受けていたなんて知る由もなかった。
それから数日。いつも通り一緒に学校へ行こうとインターホンを押すと、出てきたのはどこか目を赤く腫らしたお母さんだった。
「ごめんね結愛ちゃん、柾哉、ちょっと体調崩して今日はお休みするの」
それから、彼はパタリと学校に来なくなった。連絡もつかないまま数週間が過ぎ、不安で押しつぶされそうになりながらも、奇跡的にオーディションの一次審査を通過した。この喜びを誰よりも一番に伝えたいと、私は震える手でスマホを発信ボタンにかけた。
コール音のあと、電話に出たのはまたお母さんだった。
「……結愛ちゃん、今、病院にいるの」
慌てて駆けつけた病室のドアを開けて、私は息を呑んだ。
ベッドに腰掛けていた柾哉は、抗がん剤治療のせいで髪が抜け落ちていて、白いニット帽をかぶっていた。痩せ細ったその姿に、涙が一気にあふれ出した。
「……なんで、言ってくれなかったの……?」
震える声で問う私に、柾哉は困ったように、でもいつものように優しく微笑んだ。
「……だって、結愛にはまだ早いよ。俺のせいで、お前の大切な時間を奪いたくなかったからさ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。私に未来を託してくれたくせに、一人で勝手にいなくなろうとしていたこと。私を子ども扱いして、何も頼ってくれなかったこと。
「私を子ども扱いしないでよ……! 私が子どもだから、何も助けられないって言いたいの!? もう知らない、大嫌いだよ……!」
涙をこらえきれず、私は病室を飛び出した。それから、素直になれないまま二度と彼の元へ行けなかった。
しばらくして、「体調が少し落ち着いたから、顔を出してやって」とお母さんから連絡が入った。
急いで病院へ向かったけれど、病室のベッドは綺麗に片付けられていて、彼の姿はどこにもなかった。退院できたんだと思い込み、私はホッとした足取りで彼の家へと向かった。
玄関のドアを開けたお母さんの、泣き腫らした顔を見た瞬間、世界の音がすべて消えた。
「結愛ちゃん……柾哉、今朝ね、眠るように逝ったの」
リビングの窓から差し込む夕日が、やけに眩しかった。
「結愛がセンターで踊る姿、一番見たいし」
あの日の柾哉の甘い声と優しかった手の温もりが、もう二度と戻らない現実を突きつけるように、頭の中でいつまでも響いていた。
最後のステージと、約束の空
事務所の薄暗い練習室で、木村の足音がコツコツと響く。鏡に映る自分の姿は、デビュー当時よりも少しだけ大人びて見えたが、心の奥底にある焦燥感はあの頃のままだった。
「なあ、これ本当に俺たちで描き切れるか?」
西が床に投げ出したスケッチブックを覗き込む。そこには、11人の未来がクレヨンで無造作に描かれていた。池﨑がふっと笑い、「描くしかないだろ、俺たちの物語なんだから」と肩を叩く。許は無言でうなずき、そっとピアノの鍵盤に指を落とした。音符が静寂を切り裂き、スタジオ全体に透明な旋律が広がる。
田島がふと窓の外を見た。東京の空はどんよりとした曇り空だったが、その雲の切れ間から、ほんのわずかに夕陽の光が差し込んでいる。「……MINIの顔が浮かぶな」と、ポツリと呟いた。その一言で、佐野、高塚、後藤、尾崎、松田、藤牧の表情が引き締まる。誰もが同じ景色を見ていた。歓声、ペンライトの海、そして、いつか必ず訪れる「別れ」の予感を。
時は流れ、迎えたファイナルライブの夜。ドームを埋め尽くす11色の光が、まるで夜空の星のように揺れていた。ステージの中央に立つ藤牧の歌声が、どこまでも伸びていく。その声に乗せて、11人は全身全霊でパフォーマンスを繰り広げた。汗が飛び散り、息が切れ、それでも笑顔を絶やさない。
「みんな、本当にありがとう」
最後のMCで、尾崎が涙をこらえながらマイクを握りしめた。「俺たちは永遠じゃないかもしれない。いつかそれぞれの道を歩む日が来るかもしれない。でも、このステージで共に見上げた景色は、絶対に消えない」
その瞬間、客席から一斉に掲げられたのは、メンバーカラーではなく、11人が初めて一緒に作り上げた楽曲の歌詞が書かれたカードだった。『僕たちは、ずっとひとつ。』
ステージの端で、松田と高塚が肩を組んで泣き笑いしている。佐野はしゃがみ込み、溢れる涙を隠そうともしなかった。後藤が優しくその背中に手を添える。木村が深く、深く頭を下げた。
暗転したステージ。耳に残るのは、ファンの鳴りやまない拍手と、11人の重なり合う足音だけだった。振り返れば、壁にぶつかり、涙を流し、互いの手を引きながら走り抜けた日々があった。決して色褪せることのない、青春という名の軌跡がそこにあった。
「また、空の向こうで会おう」
11人はそれぞれの未来へ向けて、静かに一歩を踏み出した。
星降る夜の、特等席
第一章「寂しがりの彼女」
星降る夜、ベランダの小さなテーブルに並べられたのは、コンビニで買った温かいお茶と、差し入れのチョコレート。
「愛華、お待たせ。遅くなってごめんね」
リビングの窓を静かに開けて、少し冷たい夜風と一緒に現れたのは、黒のパーカー姿の木村柾哉。多忙なスケジュールを縫って、疲れを見せない優しい笑顔で「ただいま」と頭をなでてくれる。
第二章「幼馴染という安心感」
物心ついた頃からずっと隣にいた柾哉。INIとしてステージに立つ眩しい姿はいつだって誇らしいけれど、この部屋の彼は、昔と変わらない「柾哉」のままだ。数日ぶりの再会に、積もる寂しさを埋めるように、愛華は思わず彼の背中にぎゅっとしがみつく。
「もう、遅いよ……寂しかったんだからね」
「ごめんごめん、ずっと会いたかったよ。ほら、こっち来て」
第三章「特等席のぬくもり」
ソファに並んで腰掛け、すっぽりと彼の腕の中に包み込まれる。柾哉の大きな手のひらが、冷えた愛華の手を包み込んで優しく指を絡めた。ふわりと香る愛用の柔軟剤の匂いに、張り詰めていた寂しさがゆっくりと溶けていく。
見上げる夜空には、都会のビル群の隙間から、満天の星が瞬いている。
「ねえ、星きれいだよ」
「本当だね。でも……」
柾哉は空から視線を外し、愛された愛おしいものを見るような瞳で、まっすぐに愛華を見つめた。
「俺にとっては、愛華の隣が一番の特等席だし、一番きれいな星だよ」
照れくさそうに笑いながら、愛おしそうに頬をなでて、ゆっくりと唇が重なる。冷えた空気が嘘のように心地よくて、彼の腕の中だけで世界が温かく満たされていく。
「これからもずっと、俺の隣にいてね」
愛華の耳元で囁かれたその甘い声は、夜空にきらめくどの星よりも、ずっと優しく胸に残った。
深夜2時のナースコール
その病院の小児病棟には、古い噂があった。
『夜中の2時になると、誰もいないはずの412号室からナースコールが鳴る』
医療現場において、原因の分からない怪奇現象ほどタチの悪いものはない。最初は機材の誤作動だと言い訳が立ったが、何度点検しても配線に異常はなかった。コールが鳴るたびに当直の看護師が青い顔をして部屋へ駆けつけるが、そこにあるのは綺麗にベッドメイクされた無人の空間だけだった。
やがてスタッフの間で、こんな仮説が囁かれるようになった。
「……あそこ、一週間前に亡くなった美緒ちゃんの部屋だよね」
背筋が凍るようなその一言に、誰も反論できなかった。
中学生の姫宮美緒(ひめみやみお)、13歳。
難病を患い、長い闘病の末にその病室で息を引き取った少女だった。生前の彼女は、抗がん剤の副作用や終わりの見えない痛みに耐え続け、心を閉ざしかけていた。
だが、その硬く閉ざされた扉をこじ開けた男がいた。この病院に赴任して間もない、新人看護師の木村柾哉(きむらまさや)だった。
「ねえ、柾哉くん。私、死んだらどうなるの」
ある夜、鎮痛剤が切れて冷や汗を流しながら、美緒は震える声でそう尋ねたことがある。
まだ二十五歳の柾哉には、その問いに上手く答えることができなかった。綺麗事の励ましなど無意味だと分かっていたからだ。だから彼は、ただ黙って美緒の細い手を握りしめ、自分が夜勤のときはいつでもカーテンの隙間から顔を出して、馬鹿げた冗談を言ったり、美緒の好きな小説の話をしたりした。
美緒が心を開いていたのは、病院中を見渡しても柾哉だけだった。
「私ね、柾哉くんと話してるときだけ、病気じゃない普通の女の子になれる気がする」
そう言って照れくさそうに笑った彼女の笑顔を、柾哉は今でも鮮明に覚えている。だからこそ、美緒の死を受け入れることができず、彼女の担当だったというだけで、胸が締め付けられるような罪悪感に苛まれていた。
その夜も、当直の柾哉をあの音が襲った。
「ピン、ポーーーン……」
深夜2時。静まり返ったナースステーションに、電子音が冷たく響き渡る。
「……またかよ」
同期の看護師が顔を引きつらせて呟く。誰も行きたがらないその部屋へ、柾哉は重い足取りで向かった。逃げ出したい恐怖と、美緒への申し訳なさがないまぜになり、心臓がうるさく脈打つ。
412号室の前に立つ。ドアの小窓からは、暗がりしか見えない。
柾哉は震える手でドアノブを回し、踏み込んだ。
部屋に入った瞬間、肌を刺すような異常な冷気が柾哉を包み込んだ。
暖房が効いているはずの室内は、真冬の屋外のように凍てついている。心電図モニターの電源は当然落ちており、部屋の隅にあるベッドのシーツは、ピシッとシワひとつなく整えられていた。
誰もいない。やはり、ただの怪談だ。そう自分に言い聞かせようとした時だった。
カチッ。
ベッドの枕元に備え付けられたナースコールのボタンが、自重で押し戻されるような音がした。
そして、誰もいないはずの空間で、ベッドのきしむ音がしたのだ。
「っ……!」
柾哉の足がすくむ。しかし、恐怖の奥から、懐かしい記憶がフツフツと湧き上がってきた。この部屋の匂い、この暗がり、そしてこの重苦しい空気。
柾哉は恐怖を振り払うように、震える声を絞り出した。
「……美緒、なのか?」
その瞬間、誰もいないベッドの脇の机に置かれていた、美緒が生前使っていたスケッチブックのページが、誰も触れていないのに「バサッ」と激しくめくれた。
柾哉は息を呑み、一歩ずつベッドへ近づいた。そして、開かれたページに目を凝らす。
そこには、鉛筆の先が折れそうになるほど強い筆圧で、乱暴に、しかし必死に書き殴られた文字があった。
『柾哉くん、痛くて眠れない』
『怖いよ』
『1人にしないで』
ページをめくる。次のページにも、同じように震えた文字が並んでいた。
『でも、隣がうるさい』
『女の子が、ずっと泣いてる』
『寝かせてあげて』
柾哉の体が、激しく震えた。
隣の部屋。そこには、数日前に新しく入院してきた、まだ五歳ほどの幼い女の子がいた。その子は夜になるたび発作の苦しみと恐怖で、一人で声を殺して泣いていたのだ。
すべてを悟った瞬間、柾哉の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
美緒が鳴らしていたナースコールは、自分が死んで寂しいからでも、誰かを怖がらせるためのものでもなかった。
自分がもう動かない体になり、声を出すこともできず、冷たい闇の中でどれほど恐怖に震えていたとしても――それでも美緒は、自分のことよりも、隣の部屋で泣いている小さな命の苦しみに気づいていたのだ。
「助けてあげて」「誰か、あの小児病棟の小さな子を抱きしめてあげて」
生前、柾哉と交わした「困ってる子がいたら、教えてね」という約束を、美緒は死後もずっと、たった一人で守り続けていたのだ。自分の痛みを堪え、わずかに残る執念だけで、毎夜、ナースコールを押し続けていた。
「みお……ごめん、ごめんよ……!」
柾哉は誰もいないベッドの端に崩れ落ち、子供のように声を上げて泣いた。
もう冷たくなったはずのシーツを両手で優しく包み込み、自分の頬を押し当てる。
「ひとりにしてごめん。気づけなくてごめん。よく頑張ったな、もう怖くないから、もう泣かなくていいから……!」
柾哉がそう叫んだ瞬間、部屋を支配していた凍てつくような冷気が、嘘のようにスッと消え去った。
代わりに、窓の隙間から、夜明け前の冷たくも柔らかな朝の光が差し込んでくる。
パチン、と乾いた音がして、ベッドの上のナースコールのランプが静かに消灯した。
それ以来、412号室から夜中にナースコールが鳴ることは二度となかった。
ただ、その日の夜から、隣の部屋で怯えていた少女は、なぜか穏やかな顔でぐっすりと眠れるようになったという。柾哉は今でも夜勤のたびにその病室の前を通り過ぎる時、心の中でそっと呟く。
――お疲れ様、美緒。今日もみんな、守られているよ。
Brighter -理科室の足音−
六年の理科室には、夕方五時を過ぎると必ず聞こえてくる足音があった。
『コツ、コツ、コツ……』
それは決まって、誰もいないはずの準備室から聞こえてくる。スリッパを引きずるような、不規則で重たい足音だ。理科の先生は「古い木造校舎だから、気温の変化で床板が鳴っているだけだ」と笑ったが、生徒たちは誰も信じなかった。
「あそこ、去年の秋に事故で亡くなった柾哉先輩の足音だよ」
そんな噂が、あっという間にクラス中に広まった。
足音が聞こえるたびに、理科室の空気は氷のように冷たくなり、アルコールランプの青い炎が一瞬揺らめく。理科係だった私――美穂(みほ)は、その不気味な噂に怯えながらも、なぜか妙に気になって仕方がなかった。
なぜなら、その柾哉先輩は生前、クラスで孤立していた私に、唯一実験の楽しさを優しく教えてくれた男の子だったからだ。
「美穂、理科室の片付け、手伝ってくれないか」
その日、放課後に先生に頼まれ、私は一人で夕暮れの理科室へ向かった。
窓の外はすでに群青色の闇に包まれ、校庭の街灯がぽつんと灯っている。心臓がうるさく脈を打ち、喉の奥がキュッと締め付けられた。
カチャリ、とドアを開けた瞬間、背筋が凍りついた。
――コツ、コツ、コツ。
静まり返った準備室の中から、はっきりとその足音が聞こえたのだ。
(来る……っ!)
私は恐怖で足がすくみ、その場から一歩も動けなくなった。足音はゆっくりと、しかし確実に、準備室のドアへと近づいてくる。
ガタッ、と音がして、閉ざされた扉がほんの少しだけ開いた。
隙間から覗く暗闇の中に、うっすらと人影のようなものが揺れている。息ができない。冷たい汗が背中を伝った。
それでも、私は恐怖を押し殺すように、震える声で叫んだ。
「……柾哉先輩、なんですか……?」
その瞬間、準備室の机の上に置かれていた埃まみれの黒板消しが、誰も触れていないのに「バサッ」と床に落ちた。
はっと息を呑み、私はおそるおそる準備室の扉を押し開けた。
部屋の中には誰もいない。ただ、月明かりにてらされた実験机の上に、誰かが指で走り書きしたような跡があった。
近づいて、その文字に目を凝らす。
『理科室の床、きしんでごめん』
『驚かせた?』
『でも、君が落としたコンパス、ずっと探してあげたくて』
『危ないから、もう夜に残らないで』
私の胸が、激しく締め付けられた。
あの足音は、私を怖がらせるためのものなんかじゃなかった。
生前、私が理科室で失くして泣いていたお気に入りのコンパスを、柾哉先輩は死んでからもずっと、冷たく暗い床の上で探し続けてくれていたのだ。
「柾哉先輩……!」
私の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
怖がってごめん。化け物だなんて思ってごめん。先輩はずっと、不器用な優しさで私を守ってくれていただけなんだ。
「見つけたよ、コンパス、ちゃんと持ってるよ。だから、もう探さなくていいんだよ……!」
私がそう叫んだ瞬間、理科室を包んでいた凍てつくような冷気が、嘘のようにスッと消え去った。
代わりに、窓の隙間から、温かくて優しい夜風がふわりと吹き抜ける。
パチン、とどこかで音がして、準備室の古い窓がカチリと静かに閉まった。
それ以来、夕方の理科室で足音が聞こえることは二度となかった。
ただ、その日の夜から、理科室の机の上には、いつも綺麗に磨かれた実験器具が並ぶようになったという。私は今日も、その机の前を通るたびに、心の中でそっと手を合わせる。
――柾哉先輩、今日も実験、上手にできたよ。
未既読のララバイ
リビングの空気は、いつもどこか冷たかった。
いや、部屋そのものは暖房が効いているし、インテリアだって彼女のセンスで温かみのある空間に整えられている。なのに、ここ最近の俺たちの間には、どうしても埋まらない澱(おり)のような静けさが漂っていた。
「……また、遅いんだろな」
深夜、スケジュールがびっしりと詰まったスマホをソファに放り出し、俺は一人、冷めきったコーヒーを口に含んだ。
アイドルとして、INIのリーダーとして、ありがたいことに毎日が目まぐるしく過ぎていく。求められることに全力で応えたい。夢だったステージに立ち続けたい。その一心で突っ走ってきた。
なのに。
同じ屋根の下に暮らしているはずなのに、彼女とまともに顔を合わせたのはいつが最後だったか。
朝、俺が家を出る時にはまだ寝息を立てている彼女を起こさないようにそっと家を出て、夜中に帰宅する頃には、リビングの小さな間接照明だけがぽつんと俺の帰りを待っている。会話といえば、冷蔵庫のホワイトボードに残された「ご飯温めて食べてね」「お疲れ様、無理しないで」という走り書きのメモだけ。
分かっていたはずだった。彼女がどれだけ寂しい思いをしているか、本当は気付いていたはずだった。
だけど、目の前の仕事に追われ、「また今度ゆっくり休みを取るから」と、どこかでその寂しさを後回しにしていた。甘えていたのは、俺の方だったんだ。
――その日、俺たちは地方での泊まり込みの全体合宿に入っていた。
山奥のスタジオ。電波の入りが悪く、ダンスのレッスンとミーティングが朝から深夜まで缶詰めで続く過酷なスケジュールだった。スマホは宿舎のロッカーの中に鍵をかけてしまっていて、休憩時間もメンバーとフォーマットの確認や自主練に追われ、画面を開く暇すらなかった。
「柾哉、次の曲いくぞ!」
「あ、はい! 今行く!」
洸人からの声に慌てて返事をし、俺は汗を拭いながら再び鏡の前に立った。
胸の奥で、なぜかずっと、嫌な予感のような、鉛を飲み込んだような重たさが消えなかったけれど、気のせいだと無理やり振り払った。
すべてのプログラムが終わったのは、翌日の夕方だった。
「お疲れっしたー!」
やっと解放された解放感と疲労感の中で、俺はロッカーから震える手でスマホを取り出した。電源を入れた瞬間、画面が激しく明滅し、通知のアイコンが滝のように流れ込んできた。
仕事関係の連絡、スタッフからのメッセージ、メンバーのグループチャット。
そして――その一番上に、彼女の名前があった。
『……ねえ、柾哉。今、どこにいるの?』
『少しでいいから、声が聞きたいよ。私、もう限界かもしれない……』
『ごめんね、こんな重いこと言って。でも、ずっと一人で待つのは、寂しいよ』
画面に並んだ文字を見た瞬間、心臓が凍りついたように止まった。
最後に表示されていた送信時間は、昨日の夜。俺がちょうど、鏡の前で必死に汗を流していた時間だった。
「……嘘だろ」
声に出そうとして、声にならない。
既読のつかないメッセージ。俺が見ていなかった、彼女からの最後のSOS。
冷たくなったスマホを握りしめ、俺は急いで彼女に電話をかけようとした。何度も、何度も、手が震えて発信ボタンを押し間違えながら。
だけど、コール音が響くことはなかった。
代わりに鳴り響いたのは、マネージャーからの着信音だった。
「――もしもし、柾哉か?……落ち着いて聞いてくれ」
電話口のマネージャーの声は、信じられないほど掠れていて、現実感がなかった。
「お前の彼女さんが……昨日の夜、スタジオの帰りに、事故に……」
その後の記憶は、酷く曖昧だった。
気がついた時には冷たい雨が降る中、黒い喪服に身を包み、彼女の眠る棺の前に立っていた。
嘘だと言ってほしかった。これは悪夢で、この後「お疲れ様」って、いつもの笑顔で彼女がリビングから現れるんじゃないか。そんなバカげた期待を何度も頭の中で繰り返しながら、ただただ現実を受け入れるしかなかった。
すべての儀式が終わり、静まり返った彼女の部屋。
遺品となった彼女のスマホが、机の上にぽつんと置かれていた。
足元から崩れ落ちるように、俺はその場に膝をついた。
涙なんてとっくに出尽くしたと思っていたのに、喉の奥から絞り出されるのは、どうしようもない絶望と、取り返しのつかない後悔ばかりだった。
震える手で、彼女のスマホに触れる。パスワードは、出会った記念日の数字だった。
画面を開くと、そこには昨日、俺が読めなかったメッセージの続きがあった。
俺が返信できなかった、その後の言葉が、画面の光の中に静かに浮かび上がっていた。
『……でも、もういいんだ。
明日も早いんでしょ? 無理しないでね。
ずっと大好きだよ、柾哉。
私の分まで、夢を叶えてね。
――おやすみ、柾哉。愛してるよ』
「……っ、待って、待ってよ……!」
声にならない叫びが、誰もいないリビングにむなしく響いた。
返信しようとしても、もうその画面が青く光ることはない。彼女の既読がつくことも、二度とない。
俺が欲しかったのは、夢のステージなんかじゃない。
あの時、スマホの画面の向こうで震えていた彼女の手を、今すぐ強く握りしめて、「ごめん、一人にしてごめん愛してる」って、何度でも伝えることだった。
音のない世界で、俺はたった一人、彼女の残した未既読の文字を抱きしめたまま、泣きじゃくることしかできなかった。
最期に贈る鼓動
病院の白い天井を見上げるたび、いつ止まるか分からない自分の心臓の音がうるさかった。
「いつか、健康になったら一緒に海を見に行こうね」
そう言っていつも隣で笑ってくれたのは、彼氏のINI・木村柾哉だった。医師という忙しい立場でありながら、柾哉は私の体を一番に考え、どんなに疲れていても病院に通ってくれた。私にとって彼は、生きるための唯一の光だった。
ある日の夜遅く、病院の電話が鳴った。
「……ドナーが見つかりました」
医師のその言葉に、胸が跳ねた。これでやっと、苦しみから解放される。柾哉と、本当の意味で未来を歩ける。すぐに柾哉に連絡を入れたけれど、なぜかその日に限って既読がつかなかった。「きっと仕事が忙しいんだな」と思いながら、私は手術室へと運ばれていった。
麻酔の意識が薄れ、長い闇から引き戻されるように目を覚ましたのは、それから何時間後だったか。
喉の渇きと、胸のあたりに鈍い痛みを感じながら目を開けると、病室の窓際に西洸人が立っていた。
「……洸人くん?」
かすれた声で呼ぶと、洸人はハッとした顔をして近づいてきた。
「もか、目が覚めたか。……よかった」
その顔は、手術が無事に終わったという安堵の表情というよりも、何か重いものを飲み込んでいるような、ひどく切なげな顔だった。
「ねえ、柾哉は? 今日、手術だって知ってるはずなのに……来てないの?」
あたりを見回しても、柾哉の姿はどこにもない。忙しい人だから、仕事で遅れているんだろう。そう思って尋ねた私に、洸人は言いにくそうに小さく息を吐いた。そして、バッグから一通の封筒と、一台のビデオカメラを取り出した。
「これ……柾哉から預かってる」
「……え?」
手渡されたビデオカメラの重みが、やけにずっしりと手に響いた。胸のざわめきを抑えられないまま、私は震える指で再生ボタンを押した。
画面に映し出されたのは、いつもの見慣れた、少し照れくさそうに笑う柾哉の顔だった。
『もか、この動画を見てるってことは、手術も終わってるし、この世に俺はいないってことだよね、笑。』
最初から何を言っているのか分からなかった。鼓動が急に早くなる。
『本当にごめん。実は、心臓移植のドナーは俺でした。隠しててごめん。今日で付き合って3年だったね。こんな大切な日にごめんね。』
「……嘘……」
『俺はもかに長生きして欲しくて、俺の心臓を移植しました。俺がどうなっても、もかが守れればよかったからさ。これが俺の出した答えです。もう俺はもかと楽しいことできないけど、洸人が幸せにしてくれるよ。俺はもかの体の中にいるから、ずっと一緒だよ。愛してる。』
動画の柾哉は、最後まで泣き叫ぶことなく、いつも通りの優しい笑顔でカメラを見つめていた。
画面がプツリと暗転する。
「やだ……嘘だ……嘘だよ、柾哉……っ!」
私の胸のなかで、ドクン、ドクンと、力強い音が響いていた。それが、彼が命を削って私に託してくれた心臓の音なのだと気づいた瞬間、涙がとめどなく溢れ出た。私は新しい胸を抱きしめるようにして、ベッドの上で崩れ落ちた。大声で泣き叫ぶ私を、洸人はただ黙って、優しく背中をさすり続けることしかできなかった。
涙が枯れ果てたころ、洸人が静かに言った。
「……これも、一緒に預かったんだ」
そう言って、先ほどの封筒をそっと私の膝の上に置いた。
震える手で封筒を開けると、中から出てきたのは、ピカピカに輝く二つの結婚指輪と、すでに名前などが丁寧に書かれた「婚姻届」だった。
そして、その上に添えられた小さなメモ帳。
そこには、柾哉のきれいな字で、たった一言こう書かれていた。
「結婚しよう」
その文字を見た瞬間、涙の堰が再び切れた。
私の新しい胸の中で、柾哉の心臓が熱く、温かく脈打っている。彼が私にくれた未来を、彼の温もりを感じながら生きていく。
「……する、だよ……馬鹿だなぁ、柾哉……っ」
誰もいない病室で、私はそのメモ帳を胸に強く押し当て、彼の名前を何度も泣きながら呼び続けた。
アルビレオの片方
夜の小児病棟は、昼間のざわめきが嘘のように静まり返っていた。
白亜の廊下に響くのは、夜勤のナースシューズが床を叩く乾いた足音と、遠くで規則正しく鳴る心電図の電子音だけだ。
「……眠れない?」
静かに開いた病室のドアから、ふわりと温かい気配が差し込んだ。
白衣ではなく、淡いブルーのカーディガンを羽織った木村柾哉が、そっと顔を覗かせる。その優しい声音に、窓際のベッドで膝を抱えていた小学6年生の女の子――もかは、びくりと肩を震わせてから、小さな頭を横に振った。
「柾哉くん…」
「どうした? 明日の手術のこと、考えてる?」
柾哉は慣れた手つきでベッドの脇にパイプ椅子を引き寄せ、音を立てないように腰を下ろした。もかの小さな手が、シーツをぎゅっと握りしめている。水頭症の治療のための手術を翌日に控えていた。目に見えない不安や、繰り返す頭の重さ、これからどうなるんだろうという恐怖で、胸が押しつぶされそうだった。
「怖い…。また頭が痛くなったり、部屋の天井が真っ暗になる夢を見るの」
震える声を聞き、柾哉は困ったように、けれどどこまでも優しい笑みを浮かべた。そして、懐から小さな、古い星図の描かれた手帳を取り出す。
「じゃあさ、少しだけ窓の外を見てごらん」
促されるまま、もかはおそるおそる病室の窓ガラスに顔を近づけた。夜の闇が広がる空の、ほんの一角に、小さな光が瞬いている。
「ねえ、あの星知ってる?」
「…ん、きらきらしてる」
柾哉はもかの隣に並び、夜空を指さした。
「あれはね、『アルビレオ』っていう名前の星なんだよ。名前、かっこいいだろ?」
「アルビレオ…?」
「そう。一見すると一つの星に見えるんだけどね、実はちがうんだ。望遠鏡でよーく覗いてみると、オレンジ色の星と、青い色の星が、ぴったり寄り添うように二つ並んで光っているの」
「二つの、星…」
「うん。オレンジの星はね、温かくて、いつも周りをぽかぽか照らしてくれるんだ。そして青い星は、ちょっと冷たくて静かだけど、オレンジの星のそばにいることで、すごく綺麗な輝きになる。――離れているように見えても、あの二つはいつも一緒で、お互いの光を映し合ってるんだよ」
もかは、夜空の小さな一点を見つめた。オレンジと青。なんだか、温かいものと、少し切ないものが混ざり合っているような気がした。
「じゃあさ…」もかは心細そうに柾哉を見上げた。「私がもし、怖くて眠れなくなったら、あの星は私を見てくれる?」
柾哉は優しく微笑むと、もかの頭をふんわりと撫でた。その手のひらは、驚くほど温かかった。
「もちろん。それにね、覚えておいて。人間も同じなんだよ。どんなに離れていても、目に見えないところで誰かと光を分け合っている。だから、もかちゃんが明日、どんなに不安な場所にいたって、絶対にひとりになんてしない。僕の光は、ずっともかちゃんのそばにあるから」
「…本当?」
「うん、約束する」
柾哉が差し出した小指に、もかの小さな小指がゆっくりと絡まった。
その夜、もかは柾哉の温もりとアルビレオの星の光を胸に抱きながら、いつの間にか穏やかな眠りについたのだった。
――明日、待っている奇跡と、残酷なほどの運命を知ることもせずに。
翌日の朝。手術室の扉が閉まるまで、柾哉は満面の笑みでもかの手を握っていた。
「いってらっしゃい。終わったら、またアルビレオの話の続き、しような」
その言葉に、もかはこくりと頷いて、小さな勇気を胸に手術室へと入っていった。
手術室のライトが『手術中』の赤色に変わる。
廊下のパイプ椅子に一人残された柾哉の表情から、さっきまでの太陽のような笑顔がスッと消え失せた。
彼はカーディガンのポケットから、くしゃりとなった紙を取り出した。
それは、昨日主治医から手渡された、彼自身の検査結果だった。
そこには、自分に残された時間がもう長くないことが、冷たい文字で記されている。
「……僕の光は、ずっとそばにあるから」
自分でもかに言ったはずの言葉が、ブーメランのように自分の胸を抉る。
柾哉もまた、この病院の患者だった。正確には、もうすぐこの世界からいなくなる、不治の病を抱えた患者。
だけど、残されたわずかな時間をベッドの上で泣いて過ごすのではなく、彼は小児病棟の子どもたちの「お兄ちゃん」として生きることを選んだのだ。
明日が見えない子どもたちに光を分けてやるために。自分が消えた後も、彼らの心の中で星のように輝き続けるために。
――数時間後。
「手術は、無事に成功しましたよ」
医師から告げられたその言葉に、柾哉は崩れそうになる足を必死で踏みしめ、深く、深く頭を下げた。よかった。もかちゃんは、未来へと繋がった。あのオレンジと青の星のように、これからもたくさんの光を受け取って生きていける。
病室のベッドで目を覚ましたもかは、窓の外の青空を見上げながら、そっと呟いた。
「お空のアルビレオはね、いつもふたつでひとつなんだよ。ねえ、柾哉くん…」
けれど、その日を境に、柾哉の姿を小児病棟で見かけることは二度となかった。
看護師から渡されたのは、もかへ宛てた一通の手紙と、小さな青いガラス玉。
手紙には、こう綴られていた。
『もかちゃんへ。手術、よくがんばったね。すごいぞ。
僕はね、ちょっと遠くへ星の旅に出ることになりました。
でも、泣かないで。アルビレオの星を思い出してほしい。
オレンジの温かい光と、青い静かな光。
僕たちは離れていても、同じ空の下で、お互いの光を映し合っているんだから。
君の心の中に、僕の光はずっとあるよ。
だから、これからはもかちゃんが、誰かを温める「もう一つの星」になってあげてください。
――木村柾哉より』
病室の窓辺に差し込む太陽の光が、ガラス玉を通り抜けて、壁にオレンジと青の美しい光の粒を映し出す。
もかはそれをそっと両手で包み込んだ。
あの夜、自分を照らしてくれたオレンジの温かい光は、もうここにはいない。
彼は自分の中で燃え尽きて、消えてしまったのかもしれない。
だけど、自分がこうして生きている限り、あの星は――彼というもう片方の星は、ずっと自分の胸の奥で、一緒に光り続けているのだと知ったから。
もかの目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
それは悲しみの涙ではなく、彼にもらった温もりを初めて一人で抱きしめた、あまりにも優しすぎる涙だった。
病院の窓の外、どこまでも広がる青空の向こうで、今日も二重星は、静かに寄り添いながら輝いている。
優しい嘘と、ふたりのパパ —君に繋がる青空の記憶—
リビングの隅にある古い木製のチェスト。その一番下の引き出しの奥から、つむぎは一枚の古びた写真を見つけ出した。
大切そうに両手でそれを持ち上げ、ソファに座る母親のもとへと駆け寄る。
「ねえ、ママ」
幼い声に促されて顔を上げた母親は、つむぎの手の中にある写真を見て、わずかに息を呑んだ。
「……どうしたの、つむぎ?」
「この人、誰?」
つむぎが首をかしげながら指差した写真に写っていたのは、柔らかく微笑む、若かりし日の木村柾哉だった。太陽の光を浴びたその横顔はどこか儚く、そして眩しかった。
母親は、ゆっくりとその写真を受け取り、懐かしむように優しく指先でなぞった。
「……彼はね、あなたのパパだよ」
「えっ」
つむぎは目を丸くし、自分の胸に手を当てた。
「この人がパパなの?」
「そうだよ。彼が若い頃。とてもかっこよかったんだよ。……そうでしょ?」
母親の瞳には、愛おしさと、ほんの少しだけ切ない光が揺れていた。
けれど、つむぎは納得がいかない様子で首を横に振り、リビングのキッチンの方へ視線をやった。そこでは、今日の夕飯の支度をしている西洸人の背中が見えている。
「でも……ママ。パパはこの人でしょ?」
つむぎがバッグから引っ張り出してきたのは、今朝一緒に撮ったばかりの、穏やかに笑う現在の父親・洸人の写真だった。
母親は優しく微笑み、二枚の写真を並べるようにして言った。
「ううん、違うの。それは今のお父さん。あなたのお父さんはね……」
言いかけた言葉を、つむぎのまっすぐな瞳が遮った。
「じゃあ、パパはどこに行ったの?」
幼い問いかけに、部屋の空気が少しだけ静まり返る。
母親は小さな我が子の頭をそっと撫でると、窓の外、茜色に染まり始めた夕空を見上げた。
「……お空で、私たちを見守ってくれてるの。すごく素敵な場所だよ」
「お空……」
つむぎは母親の視線を追いかけて窓の外を見つめ、小さなあごに手を当てて、何かを一生懸命考えるように少し黙った。
やがて、ぽつりと言った。
「パパは、今幸せかな?」
その純粋すぎる問いかけに、母親の胸がキュッと締め付けられる。けれど、彼女はすぐに穏やかな笑顔を作り、つむぎの小さな手を両手で包み込んだ。
「うん。……ママは想ってるよ。パパは、きっと幸せだって」
リビングの向こうから、「そろそろご飯できるよー」と、洸人の明るく気さくな声が聞こえてきた。その声に合わせるように、つむぎはパッと顔を輝かせる。
「お腹すいた! お父さんのお手伝いしよっと!」
つむぎが元気よくキッチンへと駆けていく後ろ姿を見送りながら、母親はもう一度、手の中の柾哉の写真にそっと目を落とした。
――ねえ、見守っていてね。私たちは今、こんなにも温かい場所にいるよ。
心の中でそう呟きながら、彼女は写真をそっと胸に引き寄せた。