公開中
花とお母さん
2026/05/18 花とお母さん
家に帰ったら知らない女の人がいた。私は一瞬、間違えて別の家に入ってしまったのだと錯覚したが、私の持っている鍵が通用したのだからそんなわけもない。じゃあこの優しそうな女の人は泥棒か。でも泥棒って、もっとマスクとかするんじゃないの?凶器持ってるんじゃないの?コソコソしてるんじゃないの?彼女は素顔を思い切り晒しているし何かを盗もうとしているようにも見えない。ソファに座り洗濯物を畳んでいる。泥棒が洗濯物を畳むとか、ありえない、するわけないじゃない。
そんな思考を巡らせつつ固まっている私に、彼女はやわらかい笑みを浮かべて会釈した。
「あ、おかえり…始めましてだよね。桜江眞子ちゃん。」
「うえ、う、えっと…はあ、」
なんで名前知ってるの?
一方的に知られていることにぞわぞわと何かを感じる。あるいは彼女はストーカーなんだろうか。え、じゃあ私、殺される?そこまで行かなくてももう外に出られなくなったり、する?どっどっどっと心臓が鳴っている。
「私、眞子ちゃんのお父さんと一緒に働いている人です。花岡と言います。よろしくね。」
なんで会社の人が家にいるんだよ、と叫びたくなる。どう考えてもただの仕事仲間ではない。そこを曖昧にされると、彼女が嘘をついているようにしか思えなくなる。いいや、曖昧にされなくても彼女が嘘をついている可能性は高いと判断してしまうけれど。私はまさか家にお父さんがいるのだろうかと廊下からリビングまで見回したが、気配もなにもないのでどうやらいないらしい。
彼女は自身のポケットを探り中から鍵を取り出した。
「合鍵をね、渡されて。自由に来ていいって言われたから、今日、さっそく来ちゃった。」「やめてください。」ほとんど反射でそう言っていた。彼女は想定内とでも言いたげに鍵をしまいながら頷いた。「うん、眞子ちゃんからすればそうだろうね。だから私もそんなに頻繁に来るつもりではないよ。」いや、頻繁に来ないならいっか、じゃなくて…二度と来ないで欲しくて。などと脳内で返答した。当然口に出せるわけもなく、私は彼女を睨むように見つめる。
「お父さんから、なにも、言われてないんですけど。」
「ええ、ほんとう?ちょっとも?」
「たぶん。」
私はお父さんを思い浮かべる。無口で不器用で、冷たくて、ご飯はけっこう美味しいのを作ってくれるけど、私のことをどう思っているのか全然想像できないお父さん。私はお父さんが昔から少し苦手だった。5年前にお母さんが亡くなってから余計に。
彼女は畳終わった洗濯物を抱えて立ち上がりながら、そっかあーと困ったように眉を下げた。「それは、ひどいね。」本当である。だけどそれより私は、彼女は洗濯物をしまう場所をどうやら知っているらしい、と言うことに恐怖に近いものを覚えた。彼女は迷いなくリビングから私のいる廊下に出てきて、私は警戒して一歩下がる。まだこの人のことを信じているわけではない。だってお父さんはなにも言っていなかった。合鍵も、よくわかんないけど本当はお父さんから渡されたんじゃなくて、どこかから盗んだんじゃないだろうか。私の名前だって知ろうとすれば知れるんだろう、きっと。そうだ、お父さんと同じ会社というところだけ事実で、お父さんに恋したから情報を手に入れて鍵を盗んで……そんな仮説が立ち上がってきて、私はひどく戦慄した。それから、今すぐ家を出て逃げるべきか、自分の部屋に篭るべきか迷った。逃げたところで行く場所などない。強いていうのなら公園だろうが、彼女が追いかけてくればすぐに見つかるだろう。自分の部屋に篭るのも、部屋に鍵がついていれば良かっただろうが、あいにくない。突っ張り棒か何かでドアを開かないようにすれば…ああ、突っ張り棒がないからできない。
「眞子ちゃん?ランドセル重いでしょう。」
洗濯物をしまったらしい彼女が戻ってきて私に手を伸ばす。また後ずさる。彼女の手はそれ以上伸びてこない。だから多分、目的は私や私のランドセルに直接触れることではなくて、ただランドセルを渡せというだけなんだろう。
「いや、いいです。自分で部屋持って行きます。」
私は踵を返して階段を上がった。不自然にうつらないよう、とん、とん、と普通の速さで上るつもりだったが、だんだん急足になった。
17時を少し過ぎた頃、1階から声が聞こえた。
「眞子ちゃん、私、帰るねーっ。またねー。」
ベッドの上で布団にくるまるように寝転んでいた私は思わず飛び上がった。ずっと緊張していた心臓が急に緩和した気がした。良かった、たぶん私、死なないで済む、とため息を落とす。
そしてすぐ、ドアが開く音と閉じる音が聞こえて、私はとうとう完全に解放された気分で部屋を出た。リビングは彼女が掃除したのかずいぶん綺麗になっていて、家中を回るとわかったが、綺麗になったのはリビングだけではなかった。甘い香水の匂いが充満していて鼻をつまんだが、口呼吸だと喉に張りつきそうだと感じて、鼻呼吸で耐えることにした。それにしても家事をして帰るってまるで家政婦さんだな…などと思いながら私は何かに急かされるように部屋に戻った。
19時にお父さんが帰ってきた。おそるおそる「今日、花岡さんって人が、いたんだけど。」と訊ねるとお父さんは特に表情を変えずにあぁ、と言った。仕事仲間だ、という言葉が続いて私は彼女の言っていたことが本当だったのかと口元になんとなく力を入れる。
「なんで何も言わなかったの。驚いたよ。泥棒かって。」あからさまに眉をしかめるとお父さんはその時ようやくバツが悪そうな顔をした。
初めて見た。無口で無表情なお父さんだったのに。思考が飛ぶ。彼女が変えたのか、と。また思考が飛ぶ。いや、そんなわけない。これだけで繋げるのは流石に短絡的すぎる。私は自分で突っ込みながら、でも面白くない気持ちで、あの人は愛人?と訊ねようとした。いじわるだった。結局、そんな言葉、口にはしなかった。ただ、何か反撃しようとは決めた。
反撃というのは、私が彼女を悪く言うことなのかもしれないし、お父さんを嫌うことなのかもしれないし、私が塞ぎ込むことかもしれないし、本当のお母さんをちらつかせることなのかもしれないけど、正直に言えばそんなことはどうでも良かった。ただ彼女が、私のお母さんになるのだけは嫌だと、口にするタイミングを伺っていた。