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囚われたお前
2026/05/07 囚われたお前
昼休みの図書室は人がいない。いつもそうだ。本を借りるのも返すのも、たいていの生徒は朝か放課後にやるので、昼休みはいっそ当番なんて必要ないんじゃないかと思う。それでも私と安藤美姫は一応図書委員だから、狭いカウンターで担当している15分を過ごす。
私はさして興味もないライトノベルの102ページ目をぼんやりと眺める。時々めくる。104ページ。また眺める。めくる。106ページ。それを繰り返しながら、真横に座る安藤美姫をちらちらと見やっていた。決して親しいわけではない、たまたま同じ委員になってしまっただけのクラスメイトと、パーソナルスペースもクソもないようなカウンターの席に座るのは、少し嫌だった。会話もない沈黙で、この気持ちはより一層深まっていた。安藤美姫からはいつもうっすらと甘い匂いが漂っていることに、4月の下旬に気づいた。5月の中旬にはその匂いがなんなのかも特定できた。おそらくリップクリームだ。そんなことを知ったところで、クラスメイトが意外と色気付いているという事実しか手にはいらなかったけれど。
私はこの安っぽいリップクリームの匂いが好きじゃない。安藤美姫が動くたびに私の肩に一瞬彼女の肩が触れるのも好きじゃない。彼女の、首が隠れるくらいの長さの黒髪も好きじゃない。なんとなく、気に食わない。だから私は図書当番のときはなるべく彼女と距離ができるよう、壁に張り付くようにして座る。
私がライトノベルを112ページまで読んだところで、図書室のドアが開いた。本を胸に抱えた女子生徒がこちらに歩いてくる。ああ返却かと私がライトノベルを閉じたときには、安藤美姫はすでにパソコンを操作する体制に入っていた。椅子とパソコンの位置関係からすれば私が操作するべきなのに、彼女はわざわざ自分の座っている椅子を少し動かしてまで図書委員の仕事を遂行したいらしい。女子生徒から渡された本のバーコードをぴっとしている安藤美姫となるべく壁に張り付いている私の距離は、それでもいつもよりずっと近くて、私の鼻腔には彼女の匂いが充満した。
時間としては、1分にも満たなかったはずだ。女子生徒が図書室を出て行ってすぐ、安藤美姫は席を立ち上がった。「あたし本戻してくるね。」
私は浅く何度か頷き、彼女のいなくなったカウンターでぜえぜえ取り戻すように息をした。
至近距離で見た彼女の顔は、私のいままでの認識より可愛くなかった。おでこにはニキビがあったし鼻先は丸かった。おまけにくちびるはちょっと腫れぼったかった。匂いはリップクリーム以外の何かも混ざっていた。シャンプーか体臭か汗かなんて興味もないけど、私は頭がくらくらするような感覚に陥った。
本の整理を終えた安藤美姫がこちらに戻ってくる。歩くたびそのスカートが揺れて彼女のひざがわずかに覗いていた。私は見てはいけないものを見てしまったような気持ちになって、慌てて視線を目の前のパソコンに向けた。私の隣に座り彼女は本を読み始める。私はもう当番の時間は終わっていることを知っていたけれど、言わなかった。なんでもないふりをしてライトノベルを開いた。安藤美姫の安っぽいリップクリームはどこに売っているんだろう。ぼんやりと考えた。
「あっもうこんな時間だったんだ。教室戻ろう。」
数分して予鈴が鳴った。彼女はパッと本から顔をあげ私にそう言う。「あ…本当だ気づかなかった。」私は早口でそう答えて席を立ち上がった。彼女にならって図書室を出て、廊下を歩く。
彼女の華奢な背中は、しかしよく伸びている。弾むような軽やかな足取りは一般に愛らしいとされるのだろう。彼女のスカートの揺れが私には危うく映る。歩いているときは手でゆるく拳を作るタイプらしい彼女に幼さを覚える。角を曲がるときに一瞬見える彼女の横顔には眉のりりしさと口元の柔らかさが同居していて、リップクリームの塗りたくられたくちびるが輝いたように見えた気がした。どこまでも前を向いている瞳を、私は脳みそに焼きつかせようとしている。
最悪だ。
私はわざと歩くスピードを落として、視線を下げて彼女と距離を開けようとした。けれどそうすれば、今度は彼女の夏用と思われる薄めの靴下と、上靴の汚れ具合と、きゅっきゅっという廊下と上靴がこすれる音が頭に流れ込んできて、泥になって溜まって行くだけだった。
もう絶望したくない私は、だから、安藤美姫をないがしろにしたい。
安藤美姫って名前かわいすぎて多用しちゃう