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彼へのきもち
リメイクした 過去作品を
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彼が昏睡状態に陥って、今日で1ヶ月が経つことを指折りで数えて知った。ため息をひとつ落とした後、手を膝の上に置いて彼に顔を向ける。たくさんの管が布団の下に、彼の体に、吸い込まれるようにつなげられている。午後の怖いくらい静かな病室に時計の音が妙に大きく響いていて、あるいはそれに耐えられなかったのかも知れない、私は少し腰を浮かせ、その布団をめくろうとした。けれど布団の柔らかさを感じた途端に怖くなり、やめた。椅子に再び深く座って、私は自分のくちびるを動かす。彼の名前を口にする。優希、というつぶやきは病室の真っ白な壁にぶつかる前に落ちて消えていった。返事など当然ない中で私はそれ以上何も言わずに、うなだれるように、彼の横たわるベッドに触れていた。
どれほどの間こうしていただろうか。ふと顔を上げると窓から差し込む光が赤に近い朱色に染まっていることに気がついて、慌てて時計に視線をやると、帰らなければいけない時間はとっくに過ぎていた。ほとんど物の入っていないカバンを手に取って立ち上がる。いつもは無言で退室するのだけれど、今日の彼はただ眠っているだけのように見えて、だから、言った。「私、もう帰るね。またね。」数秒、じっと何かを待つが彼は当然動かない。私は行き場を失ったもろい期待を肺に押し込んでから彼に背を向けた。ドアのほうに歩く。冷たい金属に触れ横にスライドさせかけたとき、
「みお。」
後ろで名前を呼ばれた。それは少しでも他の音がある場所だったら聞こえないようなほど小さな声だった。もうしばらく聞いていなかったそれに、心臓が1回どっと波打ち、私はかたまる。まさか、ねえ。嘘でしょ。幻聴なのかもしれない。それでも、もしかしたら、そんな気持ちでゆっくりと振り返る。
彼はベッドにいる。彼の顔は天井を向いていてまぶたは下ろされている。そのはずだった。彼はベッドにいる。だけど彼の顔はわずかに私のほうを向いていてまぶたは薄く開かれている。息を呑んだ。どっどっどっと耳の奥で心臓が鳴っている。
奇跡だと思った。どうして、とも思った。
「…起きたの? 意識…、」
おそるおそる、ベッドに歩み寄る。暑くもないのにひたいに汗が流れた。彼は数秒、思案するように目を細めてから、私と視線を合わせた。
「ああ。全部思い出したよ。」
私の記憶と全く同じように口角を上げていた。全く同じ息の吸い方をしていた。全く同じ、瞳の濁り方だった。彼の瞳に私がいる、うつっている。それは私以外の何者でもないはずなのに、本当に私なのかわからなくなった。
鼻の奥がつんとして、目から涙があふれてきた。ああ、おしまいにできると思ったのに。胃からなにかが這い上がってきて吐き気を催した。でも、それ以上の安心感が心に広がった。彼が死ななくてよかった。心の底からの安堵のため息をこぼそうとしたが、出てきたのは嗚咽だった。
「よかった。」と、ぐちゃぐちゃの声で言った。
私が、殺人犯にならなくてよかった。
彼は私のぼやける視界のなかで、今までで1番美しい笑みを浮かべた。だから私は告白した。
「あなたを階段から突き落としたのは。」
私だった。