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さらとあやか
2026/05/20 さらとあやか
あいかわさら、と言う名前を脳内で反芻してみる。4時間目の数学A、先生がルートがどうとか説明しているのは聞き流し、私は斜め前に座るクラスメイトの後ろ姿をぼんやりと眺めていた。相川さん、下の名前は確か、さら。漢字はどんな形だったっけ、とふと思って数学Aのノートの隅っこにペンを走らせた。相川紗良。適当に書いて、違うなと思う。「ら」の漢字が思い出せない。さら…。さら。ら。顔を上げて黒板を睨むようにしながら、ぐるぐると漢字を思い浮かべようとする。10秒ほどそうしたが何も浮かばず、私は答えを求めるように斜め前の席に視線を投げた。彼女の教科書が閉じられた状態で置かれていて、名前欄に目を凝らすと、そこに書かれていたのは「3年C組1番 相川紗羅」。ああ、羅生門の「ら」か。沙羅双樹の「ら」。「さ」はあっていたけど。相川紗羅。自分のノートの相川紗良を打ち消し、相川紗羅、と正しい方を書いた。それから、クラスメイトの名前なんて書いてもどうにもならないなとハッとして、誰かに見られても嫌だったので消しゴムを手に取り擦る。相川紗良、も相川紗羅、も消えていく。
相川紗羅、と言う名前を脳内で反芻してみる。漢字はもう覚えている。6時間目の英語Bで先生に指名され教科書の英語を読み上げる彼女の背中を見つめる。時々発音を間違えて、先生に修正され、読み上げ直す相川紗羅は、まさに普通の女子中学生だ。そういえばこの間の家庭科の授業で教科書を音読するときも、「自立」の直後に同音異義語の「自律」という言葉が来て、一瞬詰まっていたな。なんてことを思い出す。読み終わり、椅子に腰を下ろす相川紗羅。彼女の名前を繰り返すと、生々しい、と思う。生きている、と思う。
「さよなら、桜木さん。」
終礼が終わり、掃除当番にあたっていない私が早々に通学カバンを肩にかけ教室を出たとき、相川紗羅にそう挨拶された。ホウキの柄をにぎり廊下を掃いているらしい彼女に、私は反射的に会釈を返す。1秒遅れて、「バイバイ。」と答える。それからなぜか早足で廊下を歩き、階段を降りた。心臓の脈打ちがちょっとだけ目立った。
桜木彩華。私の名前。さくらぎあやか。苗字は平凡で、なのに名前の漢字は豪華でまるで本名じゃないみたいだと、どこか持て余していた私の名前。だけど、相川紗羅が言ったら、どこかの豪邸のカーペットくらい落ち着いていて美しいものに変わってしまった気がした。それは嬉しいことなのか怒るようなことなのか、はたまたひたすらに困惑することなのか、私には見当がつかない。
相川紗羅。桜木彩華。近しいものなんて何もないふたつの名前が頭を散らかしている。
バスの車内で私は英単語帳を取り出した。私の汚い字で「3年C組9番 桜木彩華」と書かれているのが視界に飛び込み、一瞬目を細めた。それからなんでもないように、実際なんでもないから、単語帳の101ページを開いた。
相川紗羅。
しつこいくらいに私の中に居座っているそれが、今はいっそ忌々しい。
桜木彩華。
今は、どうでもいいじゃない。