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Ⅵ「市場」Ⅵ
雪原の終わりで、ナナヤは不意に足を止めた。
「ここからは人が多くなります。ラヴ殿、少しだけ耳や頭を隠していただいても?」
彼の視線の先を見やり、私は息を呑んだ。
遠くに見える街の広場。そこには、溢れんばかりの色彩と、地響きのような賑わいがあった。
鼻を突くのは、香ばしく焼かれた肉の匂い、甘い果実、煮込まれたスープの湯気。かつて私が知っていた人間界の市場は、兵が目を光らせ、民は怯え、配給を奪い合うような泥に塗れた場所だった。しかし、目の前の広場を行き交う人々は、仕立ての良い冬着をまとい、大声で笑いながら買い物を楽しんでいる。
「これが……平和になった、人間の国……」
呆然とする私の頭に、ナナヤがどこからか取り出した大きな毛織物のフードを被せる。
「今の王国では、鬼人へのあからさまな迫害は禁止されています。ですが、やはり元女王ともなれば、余計な騒ぎになりかねませんから。……ひとまずは、あれを」
ナナヤが視線で示したのは、市場の入り口近くにある、古びた露店の靴屋だった。
彼がわざわざリスクを冒してこの賑やかな場所に近づいた理由を、私は理解した。
ナナヤは周囲の視線を遮るように私を庇いながら、店先に並ぶ靴を素早く見繕う。
「店主、これを。……それと、この場で履いても構わないか」
銅貨を支払い、ナナヤは露店の脇の小さな木椅子に私をそっと座らせた。
差し出されたのは、小ぶりだが頑丈そうな革の短靴だった。
長らく冷たい石畳に晒されていた足に、その靴は温かく馴染んだ。
ナナヤが私の前に膝をつき、冗談半分に言う。
「いつでも逃げられますよ」
私は笑って返事をする。
「逃げませんよ」
立ち上がると、地面の硬さが靴底越しに伝わってきた。自分の足で歩けるという実感が、じわりと胸に広がる。
彼に手を引かれ、私たちは本格的に市場の喧騒へと足を踏み入れる。
一歩進むごとに、五感が激しく揺さぶられた。
「いらっしゃい! 焼きたてだよ!」
「そこのお姉さん、甘いリンゴはどうだい!」
商人たちの野太い声、荷車の車輪が石畳を鳴らす音、子供たちの駆ける足音。今はただ、他愛のない生活の音で満たされていく。
人混みを歩く間、すれ違う人々が時折、私へと視線を向けた。かつてなら、罵声や石が飛んできたはずのシチュエーションだ。私は思わず身を固くしたが、彼らの目は拒絶や憎悪ではなく、「おや、見慣れない旅人かな」という程度の、ただの好奇心に過ぎなかった。
本当に、時代が変わったのだ。
ぐう、と情けない音が、私の腹の底から鳴り響いた。
飲まず食わずでも数十年間生き長らえる身体とはいえ、この数分間で急激に五感が覚醒したせいだろうか。私は恥ずかしさに俯いたが、ナナヤは近くの屋台へと迷わず歩いていった。
「すみません、それを二つ」
ナナヤが銅貨を支払い、受け取ったのは、湯気を立てる白いパンに香ばしい焼き肉を挟んだものだった。
「どうぞ。まずは何かお腹に入れた方がいい」
「……ありがとう、ございます」
フードの隙間から、そっとそれを口に運ぶ。
噛み締めた瞬間、じゅわりと溢れる肉汁の旨味と、小麦の素朴な甘みが口いっぱいに広がった。