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第3話「賑やかな市場」
「これが……平和になった、人間の国……」
呆然とする私の頭に、ナナヤがどこからか取り出した大きな毛織物のフードを被せる。
「今の王国では、鬼人へのあからさまな迫害は禁止されています。ですが、やはり元女王ともなれば、余計な騒ぎになりかねませんから。……ひとまずは、あれを」
ナナヤが視線で示したのは、市場の入り口近くにある、古びた露店の靴屋だった。彼がわざわざリスクを冒してこの賑やかな場所に近づいた理由を、私は理解した。ナナヤは周囲の視線を遮るように私を庇いながら、店先に並ぶ靴を素早く見繕う。
「店主、これを。……それと、この場で履いても構わないか」
銅貨を支払い、ナナヤは露店の脇の小さな木椅子に私をそっと座らせた。差し出されたのは、小ぶりだが頑丈そうな革の短靴だった。長らく冷たい石畳に晒されていた足に、その靴は温かく馴染んだ。ナナヤが私の前に膝をつき、冗談半分に言う。
「いつでも逃げられますよ」
私は笑って返事をする。
「逃げませんよ」
立ち上がると、地面の硬さが靴底越しに伝わってきた。自分の足で歩けるという実感が、じわりと胸に広がる。彼に手を引かれ、私たちは本格的に市場の喧騒へと足を踏み入れる。一歩進むごとに、五感が激しく揺さぶられた。
「いらっしゃい! 焼きたてだよ!」
「そこのお姉さん、甘いリンゴはどうだい!」
商人たちの野太い声、荷車の車輪が石畳を鳴らす音、子供たちの駆ける足音。今はただ、他愛のない生活の音で満たされていく。人混みを歩く間、すれ違う人々が時折、私へと視線を向けた。かつてなら、罵声や石が飛んできたはずのシチュエーションだ。私は思わず身を固くしたが、彼らの目は拒絶や憎悪ではなく、「おや、見慣れない旅人かな」という程度の、ただの好奇心に過ぎなかった。本当に、時代が変わったのだ。
ぐう、と情けない音が、私の腹の底から鳴り響いた。飲まず食わずでも数十年間生き長らえる身体とはいえ、この数分間で急激に五感が覚醒したせいだろうか。私は恥ずかしさに俯いたが、ナナヤは近くの屋台へと迷わず歩いていった。
「すみません、それを二つ」
ナナヤが銅貨を支払い、受け取ったのは、湯気を立てる白いパンに香ばしい焼き肉を挟んだものだった。
「どうぞ。まずは何かお腹に入れた方がいい」
「……ありがとう、ございます」
フードの隙間から、そっとそれを口に運ぶ。噛み締めた瞬間、じゅわりと溢れる肉汁の旨味と、小麦の素朴な甘みが口いっぱいに広がった。
「……おいしい」
呟いた私の視界が、また、じわりと涙で滲んだ。牢獄の冷たい鉄格子の中で、私は確かに心を殺していたはずだった。それなのに、人間が作った一切れの食べ物が、私の凍りついた身体の芯を、容赦なく融かしていくようだった。
「お口に合って良かったです」
ナナヤは自分の分のパンをあっという間に平らげると、満足そうに口元を拭った。そして、値踏みするような鋭い視線で周囲の屋台を見回し始める。
「さて、妹と弟にお土産を買っていかねば」
「おみやげ、ですか?」
脱獄の直後だというのに、随分と余裕のあることを言う。
「すみません、そのハチミツ漬けの木の実を。あと、あちらの干し肉も、そこにある分をすべて包んでいただけますか」
ナナヤは淀みのない手つきで、銀貨をきっちり丁度の枚数で支払っていく。お釣りの計算も、市場の相場も完璧に把握している。だが、買い物の規模が微妙におかしい。
「平民の買い物には見えません」
私が率直に告げると、ナナヤは一瞬だけ目を丸くする。彼は買い込んだ荷物を抱え直しながら、苦笑を浮かべた。
「……正直なところ、私は五年前まで、平民の暮らしというものを全く知りませんでした」
語りながら、自嘲気味に息を吐く。
「私は、前国王の時代、王宮に仕えるそれなりの身分でした。五年前の政変で職を追われ、家財も没落し……今は年の離れた妹弟を養うために、知人の手伝いをして食いつないでいる身です。お恥ずかしい話ですが、私自身、未だに一般の家庭がどれくらいの量を買い、どれくらい節約して生きているのか、肌感覚で分かっていないところがあります」
その素朴な顔立ちの奥にある育ちの良さの正体が、私の中でようやく結びつく。綺麗に整えられた髪や、武器を握っていた手の硬さは、この五年間、必死に泥をすすって家族を守ってきた証拠なのだろう。
「それに、病にかかっている弟に、少しでも美味いものを食べさせたくて」
ナナヤは愛おしそうに、包んでもらった袋を抱えた。