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第1話「女王の脱獄」
雪が降っていた。
冷たい鉄格子の隙間から、力なくそれを眺める。格子の向こう側、天井のない高い壁に切り取られた小さな空から、白い粒が舞い落ちてくる。捕えられてから、もう何度目の冬だろう。見回りの兵すら来なくなって久しい。怪物の殺し方が分からないからと放置された私は、死ぬこともできず、ただ退屈を持て余していた。
「ラヴ殿」
静寂を割る硬い足音に続き、聞いたことのない声が響く。男とも女ともつかない、絶妙なトーンだった。幻聴を疑ったが、私は重い体を起こして格子の前へ這い寄る。牢の天井が低いので、膝立ちで進むしかない。すると、相手は私と目線を合わせるように地面に座り、鉄格子の内側へと手を伸ばす。
「私はナナヤと申します。失礼、貴女は、ラヴ殿ではありませんか?」
相手がそう言った途端、全身が信じられないほどの温もりに包まれた。ナナヤが自身の外套を格子の隙間から差し入れ、私に着せたのだ。
「…………わ、たしは」
絞り出した声は、情けないほど掠れていた。すると、相手は懐から水筒を取り出し、まずは毒味するように一口飲んでから差し出してくれる。私はその筒にそっと手を添えて、液体を口に含み、ゆっくりと飲んだ。冬に凍えた水が喉を潤す。だが、牢獄の静けさより、ずっとぬるい。
「……そうです。わたしが、ラヴです」
私の霞んだ目は、ようやくナナヤの姿をはっきりと捉えた。
素朴で実直そうな青年。私に外套を貸したその姿は、下に着込んだ衣も上着と同様に地味な暗色で統一されていた。威圧感のある体躯ではないが、元軍人だろうか。よく見ると、背筋の伸び方や、武具を握ってきたであろう硬い節々の手が、ただの平民ではないことを物語っている。
「ナナヤさんは、どうしてここへ?」
私の問いに、ナナヤは真剣な眼差しを返した。ばつの悪そうに、拳を固く握りしめている。私は少しぎょっとした。彼が、自分自身を責めているように見えたからだ。
「……ラヴ殿、五年前に『鬼狩り令』は廃棄されました。貴女は本来、十年もここに囚われるべきではなかったのです。この牢獄の管理は随分と杜撰な様ですね。……こんなことなら、もっと早くお助けすべきだった。貴女がまだここに囚われていると、知っていれば……」
彼の口から語られたのは、十年の間に起こった外界の変化。トゥグル王の急逝と、新しい王による平和な治世の訪れだった。あれほど憎み、恐れ、私のすべてを奪った独裁者の終わりが、これほど呆気なく、冷え切った石畳の上で告げられるとは。
「……では、わたしをここから出す気ですか」
「ええ。……私は病の家族を救うため、鬼人の知恵を借りに参りました。この手を取っていただけますか」
ナナヤは迷わず、暗がりへと手を差し伸べる。
「病? わたしは、人間の病など分かりませんよ」
「承知の上です。ただ、詳しいことは、無事に我が家へ辿り着くまで、お伝えできません。申し訳ございません」
どうも判然としない。これは何かの罠か、もしくは彼の勘違いによるものだと推測せざるを得なかった。
「『鬼狩り令』が廃棄されたということは、わたしは今、堂々と正門から出たとしても……」
「運悪く正門の警備と揉めない限りは、助かるでしょう。咎められるのはラヴ殿ではなく、貴女をこの忘却の穴に放置した者たちですから」
「ナナヤさん。あなたは、どうやってここまで?」
「正規の手続きを踏むと面倒がかかりますので、独自の手段によって、無断で侵入いたしました」
ナナヤはまるで自分の違反切符でも切り出すかのように、どこか申し訳なさそうに、しかし微塵も嘘をつく様子なく答えた。私はひとまず、彼を信じることにした。
「では、その独自の手段というもので、ここを出ます。鬼人の女王は、ここで人知れず餓え死んだことにしてしまった方が、おそらく、わたしにとっても好都合です」
私は痩せ細った腕で、彼の手を握った。十年ぶりの人肌は、父でも母でも、兄妹でも、友人でもなく……鬼人ですらなく、訳ありらしい人間の手だった。彼は、覚悟を決めたように強く握り返した。
「ありがとうございます。そのまま、私の手を離さないでください」
彼はそう言うと、なんと、幽霊のように鉄格子をすり抜けて、牢の内側に入ってきた。驚きに息を呑む私を、彼は軽々と抱き抱える。冗談ではない、ここは石と鉄でできた堅牢な監獄だ。分厚い壁にぶつかる、そう思った瞬間、何の抵抗もなく冷たい感覚が体内を通り抜けていく。
まるで水中をくぐるように、脱獄に成功してしまった。