「この手を取っていただけますか」
十年ぶりに連れ出された外の世界でラヴを待っていたのは、まぶしい陽光と、湯気を立てる温かい食事。そして、血の繋がらない子どもたちと暮らす、つつましくも賑やかな日常だった。
※ 残念ですが(?)、ラヴとナナヤの間に恋愛要素はありません。相棒や家族のような関係性として描いていく予定です。
続きを読む
読み方
1話ずつ表示します。
閲覧設定
名前変換設定
この小説には名前変換が設定されています。以下の単語を変換することができます。空白の場合は変換されません。入力した単語はブラウザに保存され次回から選択できるようになります
1 /
目次
第1話「女王の脱獄」
雪が降っていた。
冷たい鉄格子の隙間から、力なくそれを眺める。格子の向こう側、天井のない高い壁に切り取られた小さな空から、白い粒が舞い落ちてくる。捕えられてから、もう何度目の冬だろう。見回りの兵すら来なくなって久しい。怪物の殺し方が分からないからと放置された私は、死ぬこともできず、ただ退屈を持て余していた。
「ラヴ殿」
静寂を割る硬い足音に続き、聞いたことのない声が響く。男とも女ともつかない、絶妙なトーンだった。幻聴を疑ったが、私は重い体を起こして格子の前へ這い寄る。牢の天井が低いので、膝立ちで進むしかない。すると、相手は私と目線を合わせるように地面に座り、鉄格子の内側へと手を伸ばす。
「私はナナヤと申します。失礼、貴女は、ラヴ殿ではありませんか?」
相手がそう言った途端、全身が信じられないほどの温もりに包まれた。ナナヤが自身の外套を格子の隙間から差し入れ、私に着せたのだ。
「…………わ、たしは」
絞り出した声は、情けないほど掠れていた。すると、相手は懐から水筒を取り出し、まずは毒味するように一口飲んでから差し出してくれる。私はその筒にそっと手を添えて、液体を口に含み、ゆっくりと飲んだ。冬に凍えた水が喉を潤す。だが、牢獄の静けさより、ずっとぬるい。
「……そうです。わたしが、ラヴです」
私の霞んだ目は、ようやくナナヤの姿をはっきりと捉えた。
素朴で実直そうな青年。私に外套を貸したその姿は、下に着込んだ衣も上着と同様に地味な暗色で統一されていた。威圧感のある体躯ではないが、元軍人だろうか。よく見ると、背筋の伸び方や、武具を握ってきたであろう硬い節々の手が、ただの平民ではないことを物語っている。
「ナナヤさんは、どうしてここへ?」
私の問いに、ナナヤは真剣な眼差しを返した。ばつの悪そうに、拳を固く握りしめている。私は少しぎょっとした。彼が、自分自身を責めているように見えたからだ。
「……ラヴ殿、五年前に『鬼狩り令』は廃棄されました。貴女は本来、十年もここに囚われるべきではなかったのです。この牢獄の管理は随分と杜撰な様ですね。……こんなことなら、もっと早くお助けすべきだった。貴女がまだここに囚われていると、知っていれば……」
彼の口から語られたのは、十年の間に起こった外界の変化。トゥグル王の急逝と、新しい王による平和な治世の訪れだった。あれほど憎み、恐れ、私のすべてを奪った独裁者の終わりが、これほど呆気なく、冷え切った石畳の上で告げられるとは。
「……では、わたしをここから出す気ですか」
「ええ。……私は病の家族を救うため、鬼人の知恵を借りに参りました。この手を取っていただけますか」
ナナヤは迷わず、暗がりへと手を差し伸べる。
「病? わたしは、人間の病など分かりませんよ」
「承知の上です。ただ、詳しいことは、無事に我が家へ辿り着くまで、お伝えできません。申し訳ございません」
どうも判然としない。これは何かの罠か、もしくは彼の勘違いによるものだと推測せざるを得なかった。
「『鬼狩り令』が廃棄されたということは、わたしは今、堂々と正門から出たとしても……」
「運悪く正門の警備と揉めない限りは、助かるでしょう。咎められるのはラヴ殿ではなく、貴女をこの忘却の穴に放置した者たちですから」
「ナナヤさん。あなたは、どうやってここまで?」
「正規の手続きを踏むと面倒がかかりますので、独自の手段によって、無断で侵入いたしました」
ナナヤはまるで自分の違反切符でも切り出すかのように、どこか申し訳なさそうに、しかし微塵も嘘をつく様子なく答えた。私はひとまず、彼を信じることにした。
「では、その独自の手段というもので、ここを出ます。鬼人の女王は、ここで人知れず餓え死んだことにしてしまった方が、おそらく、わたしにとっても好都合です」
私は痩せ細った腕で、彼の手を握った。十年ぶりの人肌は、父でも母でも、兄妹でも、友人でもなく……鬼人ですらなく、訳ありらしい人間の手だった。彼は、覚悟を決めたように強く握り返した。
「ありがとうございます。そのまま、私の手を離さないでください」
彼はそう言うと、なんと、幽霊のように鉄格子をすり抜けて、牢の内側に入ってきた。驚きに息を呑む私を、彼は軽々と抱き抱える。冗談ではない、ここは石と鉄でできた堅牢な監獄だ。分厚い壁にぶつかる、そう思った瞬間、何の抵抗もなく冷たい感覚が体内を通り抜けていく。
まるで水中をくぐるように、脱獄に成功してしまった。
第2話「雪原を歩む」
私は思わず目を細める。目前に広がる雪景色は、涙が出るほど美しい。
外の光は、ひどく白くて、網膜を焼くように眩しかった。葉の落ちた木々が点々と広がっていて、雲の切れ間から冬の陽光が惜しみなく降り注いでいる。足元には真新しい雪原が広がり、太陽の光を反射してきらきらと輝いていた。自分が本当にあの狭い箱から出たのだと、ひりつくような実感とともに理解した。
「ナ、ナナヤさん、あなた、何者ですか……⁉︎」
私が泣きながら口をぱくぱくさせると、彼は優しく微笑んだ。
「私は鬼人ではありません。しかし、人間にも稀に、怪物が潜んでいるのです」
「怪物?」
「他の人間からすれば、私も彼らの言う『怪物』と大差ないということです。……こんな力を持って隠れ住んでいる身ですから、貴女が私と行くと仰らない限り、手の内を明かさないつもりでした」
ナナヤは私を抱き上げたまま、どこまでも広がる雪原を歩いた。裸足の私は、おろしてください、と言うわけにもいかなかった。外套の中に小さく包まるようにして、時が過ぎるのを大人しく待つことにする。彼が一歩踏み出す度に、こつ、こつ、と硬い足音が鳴った。それを聞きながら、私は遠ざかる日々を想う。
何か変だ。そう思って、私は通ってきた道を見た。足跡がない。
「雪を透過させてます?」
雪ではなく、硬い地面を踏んでいる音。
ナナヤは前を見据えたまま、静かに答える。
「その通りです」
私は感心した。これなら、脱獄がばれて探されたとしても、追跡が困難になる。
「いいですね、その異能」
ふと、十年前の私にもその力があれば、などという愚かな空想が胸をよぎった。もしあの夜、鬼狩りの包囲をすり抜けることができていれば、救えた同胞がいたかもしれない。理不尽な処刑を免れ、奪われずに済んだ命があったかもしれない。
けれど時間は川ではなく傷跡だ。一度刻まれたものは、たとえ魔法でも消せはしないだろう。今ここにあるもの。それは、鬼人の女王とは名ばかりで、多くの同胞を死なせてしまったという事実。どうしようもない後悔だけだ。
雪原の終わりで、ナナヤは不意に足を止めた。
「ここからは人が多くなります。ラヴ殿、少しだけ耳や頭を隠していただいても?」
彼の視線の先を見やり、私は息を呑んだ。
遠くに見える街の広場。そこには、溢れんばかりの色彩と、地響きのような賑わいがあった。鼻を突くのは、香ばしく焼かれた肉の匂い、甘い果実、煮込まれたスープの湯気。かつて私が知っていた人間界の市場は、兵が目を光らせ、民は怯え、配給を奪い合うような泥に塗れた場所だった。しかし、目の前の広場を行き交う人々は、仕立ての良い冬着をまとい、大声で笑いながら買い物を楽しんでいる。
第3話「賑やかな市場」
「これが……平和になった、人間の国……」
呆然とする私の頭に、ナナヤがどこからか取り出した大きな毛織物のフードを被せる。
「今の王国では、鬼人へのあからさまな迫害は禁止されています。ですが、やはり元女王ともなれば、余計な騒ぎになりかねませんから。……ひとまずは、あれを」
ナナヤが視線で示したのは、市場の入り口近くにある、古びた露店の靴屋だった。彼がわざわざリスクを冒してこの賑やかな場所に近づいた理由を、私は理解した。ナナヤは周囲の視線を遮るように私を庇いながら、店先に並ぶ靴を素早く見繕う。
「店主、これを。……それと、この場で履いても構わないか」
銅貨を支払い、ナナヤは露店の脇の小さな木椅子に私をそっと座らせた。差し出されたのは、小ぶりだが頑丈そうな革の短靴だった。長らく冷たい石畳に晒されていた足に、その靴は温かく馴染んだ。ナナヤが私の前に膝をつき、冗談半分に言う。
「いつでも逃げられますよ」
私は笑って返事をする。
「逃げませんよ」
立ち上がると、地面の硬さが靴底越しに伝わってきた。自分の足で歩けるという実感が、じわりと胸に広がる。彼に手を引かれ、私たちは本格的に市場の喧騒へと足を踏み入れる。一歩進むごとに、五感が激しく揺さぶられた。
「いらっしゃい! 焼きたてだよ!」
「そこのお姉さん、甘いリンゴはどうだい!」
商人たちの野太い声、荷車の車輪が石畳を鳴らす音、子供たちの駆ける足音。今はただ、他愛のない生活の音で満たされていく。人混みを歩く間、すれ違う人々が時折、私へと視線を向けた。かつてなら、罵声や石が飛んできたはずのシチュエーションだ。私は思わず身を固くしたが、彼らの目は拒絶や憎悪ではなく、「おや、見慣れない旅人かな」という程度の、ただの好奇心に過ぎなかった。本当に、時代が変わったのだ。
ぐう、と情けない音が、私の腹の底から鳴り響いた。飲まず食わずでも数十年間生き長らえる身体とはいえ、この数分間で急激に五感が覚醒したせいだろうか。私は恥ずかしさに俯いたが、ナナヤは近くの屋台へと迷わず歩いていった。
「すみません、それを二つ」
ナナヤが銅貨を支払い、受け取ったのは、湯気を立てる白いパンに香ばしい焼き肉を挟んだものだった。
「どうぞ。まずは何かお腹に入れた方がいい」
「……ありがとう、ございます」
フードの隙間から、そっとそれを口に運ぶ。噛み締めた瞬間、じゅわりと溢れる肉汁の旨味と、小麦の素朴な甘みが口いっぱいに広がった。
「……おいしい」
呟いた私の視界が、また、じわりと涙で滲んだ。牢獄の冷たい鉄格子の中で、私は確かに心を殺していたはずだった。それなのに、人間が作った一切れの食べ物が、私の凍りついた身体の芯を、容赦なく融かしていくようだった。
「お口に合って良かったです」
ナナヤは自分の分のパンをあっという間に平らげると、満足そうに口元を拭った。そして、値踏みするような鋭い視線で周囲の屋台を見回し始める。
「さて、妹と弟にお土産を買っていかねば」
「おみやげ、ですか?」
脱獄の直後だというのに、随分と余裕のあることを言う。
「すみません、そのハチミツ漬けの木の実を。あと、あちらの干し肉も、そこにある分をすべて包んでいただけますか」
ナナヤは淀みのない手つきで、銀貨をきっちり丁度の枚数で支払っていく。お釣りの計算も、市場の相場も完璧に把握している。だが、買い物の規模が微妙におかしい。
「平民の買い物には見えません」
私が率直に告げると、ナナヤは一瞬だけ目を丸くする。彼は買い込んだ荷物を抱え直しながら、苦笑を浮かべた。
「……正直なところ、私は五年前まで、平民の暮らしというものを全く知りませんでした」
語りながら、自嘲気味に息を吐く。
「私は、前国王の時代、王宮に仕えるそれなりの身分でした。五年前の政変で職を追われ、家財も没落し……今は年の離れた妹弟を養うために、知人の手伝いをして食いつないでいる身です。お恥ずかしい話ですが、私自身、未だに一般の家庭がどれくらいの量を買い、どれくらい節約して生きているのか、肌感覚で分かっていないところがあります」
その素朴な顔立ちの奥にある育ちの良さの正体が、私の中でようやく結びつく。綺麗に整えられた髪や、武器を握っていた手の硬さは、この五年間、必死に泥をすすって家族を守ってきた証拠なのだろう。
「それに、病にかかっている弟に、少しでも美味いものを食べさせたくて」
ナナヤは愛おしそうに、包んでもらった袋を抱えた。
第4話「ナナヤの妹」
まどろみの底から私を引き上げたのは、パチパチと爆ぜる、薪の小さな音だった。視界に飛び込んできたのは、ひび割れた灰色の石天井ではない。煤で黒ずんだ木の梁と、お日様の匂いがする柔らかな毛布だった。
「あ、起きた!」
すぐ近くで少女の声がした。首を巡らせると、ベッドの脇に十二歳前後とおぼしき少女が佇んでいる。その小さな手には、ずっしりとした鉄製の火かき棒が握りしめられていた。警戒するように一歩引く彼女の瞳は薄紅で、瞳孔は猫のように細い…………まさか。
「丸二日も眠りっぱなしだったから心配しました。市場の帰り道で急に倒れちゃって、姉さんがずっとおんぶして帰ってきたんですよ」
誰もいない入り口へと視線を向け、少女は小さく息をつく。
「姉さんは知人の手伝いで出かけちゃいました。……これ、温かい麦粥です。食べられますか?」
火かき棒を脇に立てかけ、机から湯気の立つ器を差し出す。中に浮かぶのは刻んだ干し肉とハチミツだ。跳ね起きようとしたが、身体が鉛のように重い。
「あたしの名前、ココっていいます。……あの、あたしたちのこと、ほとんど知らないですよね。ごめんなさい。『鬼狩り令』が廃止されたとはいえ、まだ人間の街で堂々と暮らすのは難しいので……こういうの慎重になるんです」
硬い声で言ったココは、額にかかる綺麗な黒髪をごそりと持ち上げた。
「……あ」
喉の奥から乾いた悲鳴が漏れそうになる。スプーンを取り落としそうになり、慌てて器をベッドに置いた。
見間違いのはずがない。黒髪の隙間、額のあたりに小さく突き出た皮膚の硬化……それは成長しきっていない「鬼人の角」だった。
「あなた、は……ナナヤさんの家族……? 鬼人の、生き残り、なの……?」
せき止めていた感情が逆流する。ココは髪を下ろして角を隠し、切なげに目を伏せた。
「あたしと、奥の部屋で寝込んでる弟のトワは鬼人の生き残りです。五年前に鬼狩りに追われていたところを、姉さんが助けてくれました」
淡々とした告白が脳内で激しく明滅する。
「だから、ナナヤ姉さんとの血の繋がりはありません。姉さんは元鬼狩りなんですけど、子鬼まで殺す仕事に嫌気がさしたらしくて、一緒にこっそり暮らすことにしたんです」
怒涛のような事実の濁流に、思考が完全に足をとられた。
鬼狩り。私の家族を、同胞たちを容赦なく惨殺していった悪夢のような存在。その先頭に立っていたかもしれない者が、私に水を飲ませ、冷えた足を包む靴を買い、ここまで背負ってきたというのか。あんなに優しい手で、武器を握り潰してきたようなあの掌で……鬼人を殺していたというのか。
「……っ」
無意識に布団を引き寄せ、身を引く。恐怖で全身の毛穴が開くのが分かった。目の前の少女が握る鉄の火かき棒が、一瞬、自分に向けられた刃のように見えて背筋が凍る。
「驚くのも無理はないです。あたしも最初は殺されると思ってましたから」
ココは微笑んで私を見つめ、麦粥の器を持ち直す。
「でも、姉さんは私たちを逃がすために、自分の仲間だった鬼狩りを何人も切り捨てたんです。そのせいで貴族の身分も追われて……」
「……どうして」
掠れた声で、それだけを問うた。なぜ鬼狩りが鬼人の子を救うのか。なぜ敵であったはずの私を牢獄から連れ出したのか。
「……あたしにも分かりません。ただ、姉さんはずっと悔やんでいるんです。あのトゥグル王に従って、言われるがままに鬼を狩っていた過去を」
ココは奥の小部屋へと続く薄暗い扉を見やった。
「トワの病気には人間の薬が効かない。だから姉さんはあなたを探しに行ったんです。『鬼人の女王なら、治す方法を知っているかもしれない』って」
罪悪感と贖罪。私を暗い牢獄から引き揚げたぬくもりの正体は、彼女が背負う罪の重さそのものだったのか。
私は深く息を吐き出し、天井を仰ぐ。何に怒ればいいのか。暴虐な王は死に、同胞の生き残りは元鬼狩りの手で生き永らえている。胸の奥で、ドロドロとした憎悪と救われた事実への困惑が混ざり合っていく。
……と、そこまで思考が巡ったところで、ふと違和感に気づいた。
重すぎる事実の陰に隠れていたが、冷静になってみればおかしな響きだ。
「……ねえ、ココ」
「なんですか」
「あなた、さっきから何度も『姉さん』って呼んでいるけれど……あのナナヤという人は、女性なのですか?」
思わず確かめると、ココは拍子抜けしたような顔で、
「……あ、言ってませんでしたか? 姉さんは女ですよ。ずっと男のフリをして鬼狩りをやってたみたいですけど」
第5話「鬼人のみ知る病」
元鬼狩りという衝撃に隠れていたが、遅れてやってきた事実に私は目を見開いた。
思い返すのは、暗い通路で私を抱き上げた力強い腕。雪原を迷いなく踏みしめる足取り。そして、固く鍛え上げられた掌。どこをどう見ても武芸に秀でた青年だと信じて疑っていなかった。男社会だと思い込んでいた鬼狩りの精鋭の中に、まさか女性が混ざっていたとは。
混乱で頭がどうにかなりそうになっていると、土間から静かな足音が近づいてきた。カチャリ、と控えめな音を立てて戸が開く。
「ただいま。……ココ、ラヴ殿は目を覚まされたか?」
入り口に姿を現した主を見て、私はさらに息を呑んだ。
そこにいたのは、明らかに女物の普段着に身を包んだ女性だった。牢獄では暗色無地の衣を重ねて着ていたが、今はゆったりとした薄着になっている。すっと伸びた背筋と佇まいはあくまで凛としていながらも、家に溶け込むような穏やかな空気を纏っていた。
彼女は私とココの間に漂う緊張感を一目で察し、申し訳なさそうに眉を下げて足を止めた。
「……ココから、私の過去を聞かれましたか」
ナナヤは逃げることも、弁明する素振りも見せず、私と正対した。静かに膝をつき、牢獄の時と同じように、私の目線まで高さを合わせる。女物の裾が、静かに床へと広がった。
「騙すような形になり、申し訳ありません。元鬼狩りである私が貴女に触れることすら、おぞましいと感じられるでしょう。私をどう咎めていただいても構いません。ですが、どうか先に、トワを診てはいただけないでしょうか」
その瞳には、私をあの泥底から引き上げた時と同じ、真っ直ぐで嘘のない光があった。元鬼狩りへの確執、目の前の真摯な態度。ぐちゃぐちゃに混ざり合った感情をどうにか押し殺し、私は深く息を吐き出した。
「……案内してください。その、トワという子のところへ」
ナナヤに導かれ、奥の狭い部屋へと足を踏み入れる。
小さなベッドの上で、まだ幼い少年が浅い息を繰り返し、真っ赤な顔でうなされていた。額に触れると、熱が手に伝わってくる。だが、彼の喉元から漏れ出る特有のヒューヒューという呼吸音、そして角の根元が僅かに変色している様子を見た瞬間、私は肩の力が抜けるのを感じた。
「……ナナヤさん。これは『|角熱《つのねつ》』です。鬼人の子供が成長期に一度はかかる、ごくありふれた風邪ですよ。人間の体に合わせた薬など効くはずがありません」
不安そうに眉を寄せるナナヤに向き直り、私は呆れと苦笑が混ざった息を漏らした。
「角熱、ですか……? 命に別条は……」
縋るような目で見つめてくる。かつて鬼人を狩っていたはずの冷徹な剣士が、ただの知識不足な保護者の顔をして、子どもの熱に本気で狼狽えている。その滑稽で、あまりにも拍子抜けな構図に、胸の奥の重荷が少しだけ軽くなるのを感じた。
「冷やした薬草を角の根元に当てて安静にさせれば、数日で下がります。……元鬼狩りともあろう方が、そんなことも知らずに、私を脱獄させたのですか」
私の言葉に、ナナヤは心底ほっとした様子で胸をなでおろした。