「私の手を取っていただけますか」
十年ぶりに連れ出された外の世界でラヴを待っていたのは、まぶしい陽光と、湯気を立てる温かい食事。そして、血の繋がらない子どもたちと暮らす、つつましくも賑やかな日常だった。
※ 残念ですが(?)、ラヴとナナヤの間に恋愛要素はありません。相棒や家族のような関係性として描いていく予定です。
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目次
【鬼人の隠れ家】PROLOGUE
雪が降っている。
私は冷たい鉄格子の隙間から、力なくそれを眺めている。
格子の向こう、天井のない高い壁に切り取られた小さな空から、白い粒が舞い落ちてくる。
捕えられてから、もう何度目の冬だろう。
辛いとか、苦しいとか、それよりもまあ、退屈だ。
いつからか、見回りの兵すら来なくなった。食事すら届かない牢獄の端で、私は常に一人だ。怪物の殺し方が分からないからと言って、酷いことだ。
おそらく彼らは、弱った私を見て、ついに試行錯誤を止めた。逃げる気力もなく、後はただ飢えるだけだから、放っておけば良いと判断された。
親族を殺された故の復讐だとか、罪なき自分をこうして何年も閉じ込めた恨みだとか、そういうのはこの際、なんというか、どうだっていい。
どうせ放置するなら、せめて刃の一振りでも置いて行くぐらいの情けはないのか。
私自身、このまま釈放を祈るべきか、潔く死ぬべきか、飽きるまで考えているというのに。
Ⅰ「牢獄」Ⅰ
静寂をひび割るような、硬い足音が聞こえた。遥か遠く、暗い通路で。
私は牢の奥へと這い戻る。
地面にへたりと座り込んで俯いていると、
「ラヴ殿」
鉄格子の外側から、名前を呼ばれる幻聴。知らない声。男にしては高く、女にしては低い。殿付けされたのは初めてだ。
「…………」
幻聴に返事をしても仕方がない。私は座ったまま、痩せた指で地面をなぞった。雪が僅かに降り込んで、湿っている。
「私はナナヤと申します。貴女にお願いがあり、ここへ参りました」
幻聴が止まらない。
「……失礼、貴女は、ラヴ殿ではございませんか?」
そこで私は、自分の勘違いに気がつく。
相手の放った言葉。まず名前を呼び、名乗り、返事がないことに戸惑って尋ねる。妄想にしては理性的で、幾分か出来すぎていることに。
「…………」
声が出ない。否、そんなことより、まず顔を上げなければ。こんな私でも、かつて、鬼人の女王という位を託された身なのだから。
「…………わ、たしは」
絞り出した声は、情けないほど掠れていた。すると、相手は私と目線を合わせるように地面に座り、鉄格子の内側へと手を伸ばす。
「どうかこちらへ」
私はどうにか重い体を起こし、声のする方へ擦り寄った。牢の天井が低いので、膝立ちで進むしかない。
再び鉄格子の前に着くと、全身が柔らかい感触に覆われた。信じられないほど温かい。相手が羽織っていた外套を格子の隙間に滑り入れ、私に着せたのだ。
目にじわりと熱いものが込み上げてくる。それでも、涙が流れることはなかった。
それから相手は、懐から黒い筒を取り出す。
筒の中で、透明の液体が揺れている。
「水です」
そう言って、乾いた唇に近づけてくる。
突然のことで狼狽し、私は口を閉ざしたままでいた。まともに水を飲むのは久々で、上手く嚥下できるかも怪しい。
相手は私の態度を、別の意味に察したように、自分でその水を一口飲んでみせた。
そしてまた格子の隙間から、私へ筒を差し入れてくる。相手の指先が鉄の棒に擦れる音がした。
別に、私は毒だと疑って躊躇した訳ではないのに。
私はその筒にそっと手を添えて、水を口に含み、ゆっくりと飲んだ。
冬に凍えた液体が喉に染みて、そこから徐々に、その冷たさを体内に巡らせる。
だが、牢獄の静けさより、ずっとぬるい。
「……ありがとう。あなたの、仰る通り、わたしが、ラヴです」
一言ずつ、はっきりと発音する。
Ⅱ「病」Ⅱ
相手はほっと顔を綻ばせたのも束の間、すぐに真剣な表情へと戻った。
「まずは一刻も早く、ここから出ましょう。私の手を取っていただけますか」
その言葉に促されるようにして、私の霞んだ目は、ようやく男の姿をはっきりと捉えた。
短く整えられた黒髪に、すっと通った鼻筋。その素朴な顔立ちには、育ちの良さと実直さがそのまま表れているようだった。
外套を私に貸したせいで、動きやすそうな暗色の衣服一枚になっている。軍人のような恐ろしさや、威圧感のある体躯ではない。けれど、格子を掴む彼の手をよく見れば、その掌や指の節々には、武具を握り込んできたであろう硬い跡が刻まれていた。
私は、落ち着いた声で返した。
「ここへは、誰も来ません。もう少し、お話をしてから決めてもよろしいですか」
男は怪訝そうに眉をひそめた。
「誰も来ない、とは?」
「ええ。おそらく……三年、あるいはもっと前から。鬼人の女王たる私の身体は特殊ですから、普通の武器では傷つけられませんし、飲まず食わずでも数十年は生き長らえます。大半の同胞は処刑されましたが、私に関しては、とりあえず放置することにしたのでしょう」
気にしていない風を装い、平然と言ってのけた私に対し、男は重苦しい沈黙に陥った。
その静寂の間で、私はまだ聞くべきことを聞いていないと気づく。
「申し訳ありません。あなたのお名前を、もう一度お尋ねしても?」
男はすぐに、居住まいを正して応えた。
「ナナヤと申します」
「そう、ナナヤさん……私が捕まってから、もう何年になりますか」
「……十年になります」
やはりそうか、と思った。十年という歳月を耳にしても、予想通りというべきか、特に何の感慨もない。
「こんなことなら、もっと早くお助けすべきだった。貴女がまだここに囚われていると、知っていれば……」
ナナヤは悔しそうに拳を握りしめる。
そこにある嘘偽りのない痛ましさを前にして、私は思わず苦笑した。悪い気はしなかった。
「ここの警備員も、まさか私がまだ平気で生きているとは、夢にも思っていないでしょうね」
あれほど激しく降りしきっていた雪は、いつの間にか止んでいた。見上げた高い壁の向こうから、外の陽光が、暗い牢の内側にまで光の筋を伸ばそうとしている。
「あなたはどうして、私の元へ?」
それは、心の底からの問いだった。私は幾分か穏やかな心持ちで、彼を見つめる。
「病にかかっている、私の家族を診ていただきたいのです。ただの風邪のようですが、一向に治る気配がなく……」
意外な返答だった。
病人を救うために、私のような医療の知識もない鬼人を頼る。そのためだけに、わざわざこの牢獄まで忍び込んできたというのか。
Ⅲ「政変」Ⅲ
「人間の病など分かりませんよ」
「承知の上です。ただ、鬼人の貴女が来てくだされば、治る手がかりを掴めるかも知れない。そういう病なのです。詳しいことは、無事に我が家へ辿り着くまで、お伝えできませんが」
どうも判然としない。
これは何かの罠か、もしくは彼の勘違いによるものだと推測せざるを得なかった。
「なぜ? 昔、人間の間で『鬼人の血を飲むと、不死の身体が手に入る』などという噂が流れたようですが、あれは迷信ですよ」
そう告げると、ナナヤは私の懐疑心を受け取って眉を寄せ、思案顔になった。優しい人が本気で困っている様子に見えなくもない。
「申し訳ございません、ラヴ殿。決して、そのような理由ではないのです。……そうですね、貴女がここに閉じ込められている間に起きた、五年前の出来事からお話しすべきでしょう。トゥグル王が崩御された年のことです」
ナナヤの声が、耳鳴りのように私の頭の中で鳴り響く。
「……崩御?」
呟いた私の声は、狭い牢獄の壁に反響し、暗い通路の奥へと吸い込まれて消えた。
トゥグル王。『鬼狩り令』で鬼人を地獄に追いやった男。
だが、あの男が踏みにじったのは、我ら鬼人だけではない。かつて目にした人間界の光景が、不意に脳裏をよぎる。重税と飢えに喘ぎ、生気を失った平民たち。王の不興を買うことを恐れ、怯えきっていた哀れな家臣たち。
同族の命すら、ただの使い捨ての道具としか思っていなかった、あの暴虐王。
復讐などどうでもいい、と自分に言い聞かせていたはずだった。だが、あれほど憎み、恐れ、私のすべてを奪った男の終わりが、これほど呆気なく、冷え切った石畳の上で告げられるとは。
「……急逝、でした」
私の動揺を察してか、ナナヤは静かに言葉を継いだ。約五年前にそのトゥグルが世を去った際、国は大混乱に陥ったという。
「長男のヒューガ王子が、これを機に次の独裁者として君臨せんと兵を動かしたそうです。それを第二王子であるリューキ様が、命がけで止められた。実の兄を国家反逆罪として処刑せねばならぬほど、壮絶なものだったと聞いています」
ナナヤは、当時の街の動揺を思い出すように言った。どこか気まずそうな表情だ。
病の話をしていたはずなのに、なぜ急に政変の話などし始めたのだろう。
「……現在の王国は、リューキ国王の采配によって、かつてない平和を享受しています。我々平民にとっても、それは同じです。偏見や暴力が完全に無くなったとは言いきれませんが、『鬼狩り令』が廃棄された今、率先して鬼人を痛めつけるような輩は、むしろ白い目で見られるでしょう」
Ⅳ「脱獄」Ⅳ
私は情報の数々に呆気に取られ、上手く言葉を発することができない。
しかし、私よりもナナヤの方が、激情に震えているようだった。
「ラヴ殿は本来なら、『鬼狩り令』が廃棄された日に、釈放されるべきだったのです。だが先ほどのお話によると、この牢獄の管理は随分と杜撰なようですね。……どうりで、おかしいと思いました」
私は少しぎょっとした。彼が、自分自身を責めているように見えたからだ。
「普通の方法では殺すことができず、まだ生きているはずの女王の噂を、十年前から一つも耳にしていない。私はどうしても鬼人の力をお借りしたくて、一縷の望みにかけて、ここへ来たのですが、なんともまあ、人間は時折、愚かなことをする生き物だ」
ナナヤは終始複雑な様子で、その瞳にはばつの悪そうな色が浮かんでいる。
……つまり、五年前の話をしたのは、長い間閉じ込められていて無知な私を安心させるためか。彼は私を騙すつもりはなく、私を縛る権力者や法令も無いのだと、身の潔白を証明したかったのだろうか。
「『鬼狩り令』が廃棄されたということは、わたしは今、堂々と正門から出たとしても……」
「運悪く正門の警備と揉めない限りは、助かるでしょう。咎められるのはラヴ殿ではなく、端の牢に貴女を放置していた人物ですから」
「ナナヤさん、あなたは、どうやってここへ?」
「独自の手段によって、無断で侵入しました」
ナナヤは静かに言った。私は、彼を信じることにした。
「では、その独自の手段というもので、ここを出ます。鬼人の女王は、ここで人知れず餓え死んだことにしてしまった方が、おそらく私にとっても好都合です」
私は痩せ細った腕で、彼の手を握った。十年ぶりの他人の肌は、父でも母でも、兄妹でも、友人でもなく……鬼人ですらなく、どうやら訳ありらしい人間の手だった。
ナナヤは、覚悟を決めたように強く握り返した。
「ありがとうございます。…………そのまま、私の手を離さないでください」
彼はそう言うと、なんと、まるで幽霊のように鉄格子をすり抜けて、牢の内側に入ってきた。
驚きに息を呑む私を、彼は迷わず抱き抱える。
冗談ではない、ここは石と鉄でできた堅牢な監獄だ。
分厚い壁にぶつかる、そう思った瞬間、何の抵抗もなく冷たい感覚が体内を通り抜けていく。
まるで水中をくぐるように、脱獄に成功してしまった。
Ⅴ「外」Ⅴ
私は思わず目を細める。目前に広がる雪景色は、涙が出るほど美しい。
外の光は、ひどく白くて、網膜を焼くように眩しかった。
葉の落ちた木々が点々と広がっていて、雲の切れ間から冬の陽光が惜しみなく降り注いでいる。足元には真新しい雪原が広がり、太陽の光を反射してきらきらと輝いていた。
自分が本当にあの狭い箱から出たのだと、ひりつくような実感とともに理解した。
「ナ、ナナヤさん、あなた、何者ですか……⁉︎」
私が泣きながら口をぱくぱくさせると、彼は優しく微笑んだ。
「私は鬼人ではありません。しかし、人間にも稀に、怪物が潜んでいるのです」
「怪物?」
「他の人間からすれば、私も彼らの言う『怪物』と大差ないということです。……こんな力を持って隠れ住んでいる身ですから、貴女が私と行くと仰らない限り、手の内を明かさないつもりでした」
ナナヤは私を抱き上げたまま、どこまでも広がる雪原を歩いた。
裸足の私は、おろしてください、と言うわけにもいかなかった。
外套の中に小さく包まるようにして、時が過ぎるのを大人しく待つことにする。
彼が一歩踏み出す度に、こつ、こつ、と硬い足音が鳴った。
それを聞きながら、私は遠ざかる日々を想う。
何か変だ。
そう思って、私は通ってきた道を見た。
足跡がない。
「雪を透過させてます?」
雪ではなく、硬い地面を踏んでいる音。
ナナヤは前を見据えたまま、静かに答える。
「その通りです」
私は感心した。これなら、脱獄がばれて探されたとしても、追跡が困難になる。
「いいですね、その異能」
ふと、十年前の私にもその力があれば、などという愚かな空想が胸をよぎった。
もしあの夜、鬼狩りの包囲をすり抜けることができていれば、救えた同胞がいたかもしれない。奪われずに済んだ命があったかもしれない。
けれど時間は川ではなく傷跡だ。一度刻まれたものは、たとえ魔法でも消せはしないだろう。
今ここにあるもの。それは、鬼人の女王とは名ばかりで、多くの同胞を死なせてしまったという事実。どうしようもない後悔だけだった。
Ⅵ「市場」Ⅵ
雪原の終わりで、ナナヤは不意に足を止めた。
「ここからは人が多くなります。ラヴ殿、少しだけ耳や頭を隠していただいても?」
彼の視線の先を見やり、私は息を呑んだ。
遠くに見える街の広場。そこには、溢れんばかりの色彩と、地響きのような賑わいがあった。
鼻を突くのは、香ばしく焼かれた肉の匂い、甘い果実、煮込まれたスープの湯気。かつて私が知っていた人間界の市場は、兵が目を光らせ、民は怯え、配給を奪い合うような泥に塗れた場所だった。しかし、目の前の広場を行き交う人々は、仕立ての良い冬着をまとい、大声で笑いながら買い物を楽しんでいる。
「これが……平和になった、人間の国……」
呆然とする私の頭に、ナナヤがどこからか取り出した大きな毛織物のフードを被せる。
「今の王国では、鬼人へのあからさまな迫害は禁止されています。ですが、やはり元女王ともなれば、余計な騒ぎになりかねませんから。……ひとまずは、あれを」
ナナヤが視線で示したのは、市場の入り口近くにある、古びた露店の靴屋だった。
彼がわざわざリスクを冒してこの賑やかな場所に近づいた理由を、私は理解した。
ナナヤは周囲の視線を遮るように私を庇いながら、店先に並ぶ靴を素早く見繕う。
「店主、これを。……それと、この場で履いても構わないか」
銅貨を支払い、ナナヤは露店の脇の小さな木椅子に私をそっと座らせた。
差し出されたのは、小ぶりだが頑丈そうな革の短靴だった。
長らく冷たい石畳に晒されていた足に、その靴は温かく馴染んだ。
ナナヤが私の前に膝をつき、冗談半分に言う。
「いつでも逃げられますよ」
私は笑って返事をする。
「逃げませんよ」
立ち上がると、地面の硬さが靴底越しに伝わってきた。自分の足で歩けるという実感が、じわりと胸に広がる。
彼に手を引かれ、私たちは本格的に市場の喧騒へと足を踏み入れる。
一歩進むごとに、五感が激しく揺さぶられた。
「いらっしゃい! 焼きたてだよ!」
「そこのお姉さん、甘いリンゴはどうだい!」
商人たちの野太い声、荷車の車輪が石畳を鳴らす音、子供たちの駆ける足音。今はただ、他愛のない生活の音で満たされていく。
人混みを歩く間、すれ違う人々が時折、私へと視線を向けた。かつてなら、罵声や石が飛んできたはずのシチュエーションだ。私は思わず身を固くしたが、彼らの目は拒絶や憎悪ではなく、「おや、見慣れない旅人かな」という程度の、ただの好奇心に過ぎなかった。
本当に、時代が変わったのだ。
ぐう、と情けない音が、私の腹の底から鳴り響いた。
飲まず食わずでも数十年間生き長らえる身体とはいえ、この数分間で急激に五感が覚醒したせいだろうか。私は恥ずかしさに俯いたが、ナナヤは近くの屋台へと迷わず歩いていった。
「すみません、それを二つ」
ナナヤが銅貨を支払い、受け取ったのは、湯気を立てる白いパンに香ばしい焼き肉を挟んだものだった。
「どうぞ。まずは何かお腹に入れた方がいい」
「……ありがとう、ございます」
フードの隙間から、そっとそれを口に運ぶ。
噛み締めた瞬間、じゅわりと溢れる肉汁の旨味と、小麦の素朴な甘みが口いっぱいに広がった。