公開中
14話「確率の支配者」
倉庫の鉄扉が黄金の隔壁によって物理的にロックされ、室内の空気の温度が目に見えて上昇し始めていた。
じっとりと首筋にへばりつく汗が、酷く生温かい。だが、この熱気は物理的なものだけではなかった。俺たちのスマホの画面で、文字通り秒単位で減少していくポイントの数値が、俺たちの精神をダイレクトに削り取っているのだ。
【神代玲奈:スコア 3200→2880→2592……】
「ハァ、ハァ……っ! 削られていく……私の、私たちが命がけで取り戻したスコアが、あの男の指先一つで、無に帰していく……っ!」
玲奈が、綺麗な顔をクシャクシャに歪めてコンクリートの床に膝をついた。彼女の赤い瞳はネオンブルーに激しく明滅し、酸欠と絶望で胸を大きく上下させている。
「神代さん、パニックになるな。呼吸が早まれば、それだけ酸素の消費効率が落ちる」
俺——御堂綾(みどう りょう)は、第一ボタンまでキッチリと閉めた制服の襟元を正し、ガラスのようなライトブルーの瞳を、倉庫の壁に浮かび上がった巨大な黄金のモニターへと向けた。
画面の向こう側。金の眼鏡を指先で押し上げながら、生徒会会計・御園生 財務(みそのう ざいむ)は、冷徹な三日月形の笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。
彼の胸元に光る【7800】の数字は、この学園の流通そのものを支配する絶対強者の証だ。
「無駄な抵抗はやめなさい、御堂くん。我々会計の任務は、学園という経済圏の「リスク排除」だ。システムをバグらせる君たちの存在は、100%の確率で我が校に不利益をもたらす。だから、ここで完全に破産してもらう。ロジックの前に、感情など無価値だ」
呼吸、1分間に12回。脈拍、60。完璧に計算された「静止」。
御園生のバイタルには、一切の揺らぎがない。彼は自分の勝利を、数式レベルで確信している。
「……数式、ですか。お堅いねぇ、会計さんよぉ!」
暗闇の中、金成こいんの黄色の瞳が、まるで飢えた肉食獣のようにギラリとネオン色に発光した。
彼は鮮やかな黄色のプルオーバーパーカーのポケットから、ゆっくりと右手を引き抜く。その指先には、見たこともない奇妙な鈍い光沢を放つ、1枚の古いコインが挟まれていた。
「俺はさ、計画を立てるのも、数字を捏造するのも死ぬほど苦手でさ。だから、あんたのその小難しい『絶対防壁』のロジックなんて、これっぽっちも理解できねえんだよ」
こいんはツンツンと跳ねた茶髪をガシガシとかきむしり、片方の前髪をキュッと結んだオレンジ色のゴムを指先で弾いた。その顔には、先ほどまでの陽気なバカの面影はどこにもない。
ただ、ギリギリの崖っぷちを心から楽しんでいる、本物のギャンブラーの狂気だけが宿っていた。
「だけどよぉ、俺の『勘』が今、脳ミソの裏側で狂ったように叫んでんだよな。——『この金の眼鏡を今すぐ引きずり下ろして、すっからかんにしてやれ』ってさ!!」
「……ハッ、不愉快な妄想ですね」
モニターの向こうで、御園生財務が不快そうに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「君の胸元のスコアはわずか【412】。資産価値としても、排除対象としても、取るに足らないゴミだ。そんな端金で、我々の構築した完璧な市場(システム)に挑めるとでも?」
「あぁ、チップが足りねえなら、今ここで『等価』にしてやるよ」
こいんがスマホの画面を乱暴にタップした。その瞬間、倉庫内のスピーカーから、システムが激しくアラートを上げる無機質な電子音が鳴り響いた。
ピピッ、ピピピピピピピ!!!
**『特級申請:アカウント保有権の完全賭与を検知。学園AIはこれを承認し、公式決闘のルールを上書きします』**
「な、何をしたの……こいんくん!?」
玲奈が悲鳴を上げる。
「アカウントの完全賭与って……負けたらあなた、退学どころか、この学園のシステムの一部になって、一生奴隷として脳を使い潰されるのよ!?」
「ははっ! 知ってるよ玲奈!勝てば天国、負ければ奴隷。これ以上のスリル、他にあるかよ!?」
こいんは狂ったように笑いながら、手元のアカウント権限を全て御園生の【7800】のスコアへと直結させた。システムが等価と認めたことで、倉庫全体の酸素没収のカウントダウンがピタリと停止する。強制的なマネー・ゲームの成立だ。
「……正気の沙汰ではないな。いいでしょう、その無価値な人生、我が会計の資産として没収してあげます。ゲームは何にするね?」
「簡単だよ、会計さん。一発勝負のコイントスだ。今から俺がこのコインを高く弾く。あんたが『表』か『裏』かを当てろ。あんたが当てたら俺の負け。外したら、その【7800】のスコア、全額俺たちが毟り取る」
御園生の眼鏡の奥の目が、冷酷な計算のために高速で細くなった。
一発勝負のコイントス。確率二分の一。知略の介入する余地のない、ただの運否天賦——だが、御園生の脳内AIはすでに、こいんの親指の角度、筋肉の弛緩、室内の風速から、コインが描く放物線の軌道を100%の精度で算出し終えていた。
「私の予測は【裏】だ。計算上、君の親指の跳ね上げトルクでは、その硬貨は18回転半して、必ず裏を向いて手の甲に落ちる」
「へえ、さすがAIの申し子だ。じゃあ、行くぜぇ!!」
カランッ!!!
こいんの親指が、激しい金属音を立ててコインを弾き上げた。
倉庫の天井に向けて、鈍い銀色の光を放ちながら回転するコイン。御園生は勝ちを確信し、冷徹に口角を吊り上げる。
だが、そのコインの軌道を見つめる俺——御堂綾の左目が、幾何学的な紋様を走らせて青く輝いた。俺の『眼』が、御園生のバイタルの微細な変調を完全にキャプチャする。
呼吸、1分間に4回。浅い。
右手の指先が、デスクの下で電磁コントロールのスイッチに触れている。
「……金成くん、床だ」
俺は影の中から、冷徹に囁いた。
「御園生は最初から確率なんて信じていない。あの倉庫の床には、会計がスコアの流通を操作するための電磁ピストンが埋め込まれている。コインが落ちる瞬間、床の磁界を強制操作して、確実に【裏】へひっくり返す気だ」
「知ってるよ、綾!!」
こいんが、最高にドロリとした歓喜の笑みを浮かべた。
「だから言っただろ? これは俺が色んなギャンブルで勝ち取った、特注の『防電磁波チタン・カーボンコイン』だってなぁ!!」
「なっ……!?」
モニターの向こうで、初めて御園生の顔から余裕の笑みが消え失せた。
パシッ。
落ちてきたコインが、こいんの手の甲に吸い込まれるように収まり、その上に左手が重ねられた。
完璧な沈黙が、黄金に染まる倉庫を支配する。
「さあ、開けるぜ? 会計さん」
こいんがゆっくりと左手をどけた。
月明かりと、黄金のモニターの光に照らされた手の甲の上で、静かに鎮座していたのは——。
完全なる、【表】だった。
「バ、バカな……! 磁界コントロールが効かなかった……!? 計算が、我が会計の絶対的な確率が、こんなおバカな一年生のゴミチップに……っ!」
「ざまぁみろ。筋肉も電子の壁も、そしてあんたの確率とやらも、全部俺の『勘』の引き立て役なんだよ!!」
こいんが勝ち誇るように左手を天高く突き上げた。
**ピピッ——ピピピピピピピピ!!!!**
倉庫中に、脳髄を直接揺さぶるような爆音の電子音が鳴り響いた。巨大な黄金のモニターに表示された御園生のバッジの数字が、信じられない速度でカウントダウンを始める。
【御園生財務:スコア 7800→0】
【金成こいん:スコア 412→8212】
光を毟り取られ、ただの灰色のプラスチックの塊へと成り果てたバッジを掴み、御園生はモニターの向こう側で、血を吐くような悲鳴を上げて白目を剥いた。
「嘘だ……! 我が会計の、完璧な、絶対的な確率の防壁が……! こんな、論理の欠片もないバカの、ただの強運などに……ッ!! 破産だ……私は、神代景(会長)に、何と……あ、あ、あああ……っ!!!」
ガシャァン!! と、モニターの向こうで高級なソロバンや書類がひっくり返る絶望の音が響く。
次の瞬間、倉庫を完全に密閉していた黄金の遮光シャッターが、市場の崩壊に連動するようにガタガタと音を立てて跳ね上がった。
ヒュォォォッ——
流れ込んできたのは、冷たく、どこまでも澄んだ本物の夜風だ。
強制没収されかけていた俺たちの口座資産の減衰もピタリと止まり、倉庫内の酸素濃度が急速に回復していく。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ、た、助かったの……? 私たち、あの絶対防壁を、本当に内側からハックして……」
神代玲奈が、涙と汗でクシャクシャに歪んだ綺麗な顔を床から上げ、信じられないものを見る目でこいんを見つめていた。その赤い瞳は、勝利の余韻にネオンブルーに激しく明滅している。
「嘘じゃないよ、玲奈!ほら、大・当・た・り!」
こいんはツンツン跳ねた茶髪を指でピンと弾き、オレンジ色のゴムで結んだ前髪を揺らしながら、白い歯を見せて最高に陽気に笑ってみせた。胸元のバッジには、今や学園トップクラスの【8212】という凶悪な貴族スコアが眩いばかりに明滅している。
「……査定終了。被検体:御園生財務。価値、ゼロ」
俺——御堂綾は、第一ボタンまでキッチリと閉めた制服の襟元を正し、ガラスのようなライトブルーの瞳を静かに細めた。網膜の裏側で、激しい熱量を放っていた視覚演算システムが、勝利の確定ログを弾き出して冷徹な青い光へと落ち着いていく。
完璧なロジックを組む守銭奴の敗因は、目の前の少年が「イカサマをしてくる確率」すらも計算に組み込んでいたことだ。だからこそ、イカサマの枠にすら収まらない、物理的な非磁性体コインという『ただの事実』にハメられて自滅した。
「ははっ、やっぱり俺の勘は最高だな! さあ、約束通り俺の『ゲーム部』の部室へ案内するよ。あそこならAIの電波も景の目の届かない、俺たちの完全なドメインだからさ!」
こいんはジャラジャラとポケットの特製コインを鳴らしながら、倉庫の出口へと歩き出す。
その背中を見つめながら、俺のガラスの瞳は、これまでにないほどドロドロとした歓喜のバイオレットにギラリと変色した。
生徒会会計の『絶対防壁』は崩壊した。
手に入れたのは、8000を超えるスコアを持った、確率の支配者すらも嘲笑う「最強のギャンブラー」。
元・女王、規格外の先輩、バグの少女、そして幸運の怪物。
神代景。お前が作り上げたその歪んだ箱庭のパーツは、今、完全に俺の手元へと逆流している。
「行きましょう、僕たちの新しい戦場へ」
俺が冷酷に告げると同時に、夜の学園を統べる『偽神』への反逆のチェス盤が、さらに深く、血と嘘で塗り潰されながら回転を始めた。
——本日の観測を終了。生徒会会計の破産を確認。共犯者チーム、ゲーム部部室へ移行します。
次回、15話「ゲーム部の不可侵ドメイン」