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1話「査定開始」
じっとりと首筋にへばりつく汗が、酷く生温かかった。
西日の差し込む放課後の教室。充満するのは、埃と、使い古された畳のような安っぽいワックスの匂い。
そして、人間の剥き出しの悪意だ。
「おい、|家畜《ゼロ》。耳が聴こえねえのか?」
品性のない声が、鼓膜を不快に揺らす。
声の主は、クラスのカースト最上位に君臨する男——
新道 拓海。
その胸元にあるデジタルバッジには、眩い緑色で【学園スコア:742】の数字が明滅している。
対して、俺——
御堂綾(みどう りょう)のバッジが示すのは、完全な無光。
**【0】**
この学園において、スコアを持たない者は人間ではない。
ただの奴隷。システムが家畜と認めた、ただの排泄物だ。
「おい、早くしろよ。次の授業までに購買の限定パン買ってこいって言ってんだよ。……それとも、また『公式決闘』でその汚い顔、床に擦り付けられたいか?」
新道がニヤニヤと笑いながら、ポケットから1枚のコインを取り出す。学園公認の、決闘用コイン。
周囲の生徒たちは、巻き添えを喰らうのを恐れて一斉に目を逸らした。教室全体が、冷酷な沈黙の繭に包まれる。
誰も助けない。それがこの学校の正しい「査定」だからだ。
「……わかりました。行ってきます、新道さん」
俺は消え入りそうな声で言い、ペコペコと頭を下げた。視線は床に落としたまま。だが、俺の意識は新道の「全て」を限界までスキャンしていた。
呼吸、1分間に24回。浅い。机を叩く指のフェザータッチは3ミリ。焦っている。声のトーンは普段より2オクターブ高い。——なるほど
新道は笑っている。威張り散らしている。
だが、彼の皮膚の微細な痙攣、瞳孔のわずかな収縮が、俺の脳内に鮮明な『真実』を弾き出していた。
新道拓海。お前、今日のスマホゲームの賭け戦で、上位ランカーにスコアを300近く毟り取られたな?だから格下の俺をイジめて、減ったプライドを必死に補填しようとしている。
お前の嘘も、虚栄も、その薄汚い内面の全てが、俺には透けて見えている。
俺のスコアは『0』だ。
だが、それは能力がないからじゃない。この学園の、AIの、全てのルールをハックして、根底から叩き潰すために、あえて『無』の怪物として潜伏しているだけだ。
「おい、何ボサッとしてんだ!」
「すみません。……ただ、新道さん」
俺はゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、俺の顔から「怯え」の仮面が完全に剥がれ落ちる。
「購買に行く前に、少しゲームをしませんか?あなたのその、減りすぎたスコアを賭けて」
新道の顔から、一瞬で余裕の笑みが消えた。
「……あぁ?ゲームだぁ?」
新道の声が、驚きから侮蔑へと変わる。教室の空気が目に見えて凍りついた。
「スコア0のゴミが、俺にゲームを挑む? |公式決闘の最低賭け金《ミニマム・ベット》はスコア10だ。お前には賭けるチップすらねえだろ」
「ありますよ」
俺は制服のポケットから、1枚の古びた、黒く変色したコインを取り出した。学園が発行したものではない。
「僕の『|人生の保有権《アカウント》』です。もし僕が負けたら、学園を自主退学し、あなたの完全な『奴隷』として一生無償で働きます。AIのシステムに『誓約書』は先ほど送信しました」
教室中が息を呑んだ。新道の胸のバッジが青く点滅する。
学園AIが、俺の提示した超高リスクな賭け金を「等価」と査定し、決闘を承認した合図だ。
「面白いじゃねえか……! 身の程を教えてやるよ。ゲームは何にする?」
「簡単です。新道さん、あなたが今ポケットに入れた『そのコインの裏表』を、僕が当てます」
一発勝負のコイントス。確率二分の一。知略の介入する余地のない、ただの運否天賦——。
周囲の生徒が冷ややかな視線を送る。新道もまた、勝ちを確信して下卑た笑みを浮かべた。
「いいぜ。じゃあ、今から俺が手の中でコインを弾く。お前が当てろ」
カラン、と新道の親指がコインを弾いた。 放物線を描き、新道の左手の甲に落ちたコインを、右手の手のひらが遮る。
「さあ、どっちだ、綾?」
新道は勝ち誇っている。
---
——白い、あまりにも白くて清潔な部屋。
——冷徹な機械音と、あの時、俺の全てを奪って嘲笑った『神』の顔。
『君の価値は、今日から0だ。……悲しいね、綾くん』
……あの日から、俺の心は死んだ。だが、引き換えに手に入れたんだ。人間の形をした醜い生き物たちの、呼吸、脈拍、筋肉の弛緩から、すべての『数値』を割り出すこの冷徹な眼を。
---
「……『表』です」
俺は静かに告げた。新道が口角を釣り上げる。
「ブブー、ハズレだ!裏だよ。さあ、お前の人生は——」
「新道さん。あなたの右手の親指、第一関節が0.5ミリ浮いています」
「……は?」
「コインを確認する前、あなたの視線は右斜め下——つまり『自分の想定と違ったとき』の拒絶反応を示していた。弾いた瞬間は確かに『裏』だった。でも、あなたは今、僕を確実にハメるために、右手の手のひらの中でコインを滑らせて『表』にひっくり返した」
新道の顔から、血の気が一瞬で引いていく。 呼吸が止まり、額からドロリとした大粒の汗が流れた。
「い、イカサマだって言うのかよ! 証拠が——」
「公式決闘のルール第14条。ゲーム中のイカサマは、対戦相手がその『手法』を正確に指摘した時点で失格となり、全賭け金は相手に移動する」
俺は一歩、新道に近づき、耳元で囁いた。
「この教室の監視カメラの映像を、僕のスマホでスロー再生しましょうか? あなたがコインを弄った瞬間、バッチリ映ってますよ」
「あ、あ……」
新道の足がガタガタと震え出す。
彼は知らなかったのだ。この教室のカメラの死角も、AIの判定アルゴリズムも、俺がすべて事前に『ハック』していたことを。
**ピピッ——**
無機質な電子音が教室に響く。新道のバッジの数字が高速で減少し、俺の胸元のバッジに吸い込まれていく。
**【新道拓海:スコア 742→0】【御堂綾:スコア0→742】**
光を失い、灰色に染まった新道のバッジ。昨日まで家畜だった俺が、一瞬でこの教室の「貴族」に成り代わった。
「ヒッ……、う、嘘だろ……」
崩れ落ちる新道を、俺はもう見向きもしない。
周囲の生徒たちの、怯え、羨望、嫉妬が混ざり合った視線が突き刺さる。そのすべてが、最高に心地よく、そして最高にくだらない。
査定完了。被検体:新道拓海。価値、ゼロ
脳内のAIが、冷酷に事実を告げる。
これはほんの序章だ。俺の人生を壊した、あの頂点にいる『偽神』を引きずり下ろすまで、この格付けの破壊は終わらない。
—— 本日の観測終了。被検体:御堂綾のスコアを更新します
次回、2話「共犯の境界線」