・BL/ブロマンス要素あり。恋愛未満のクソデカ感情が好きな人向けです。
・作中に軽度の暴力描写(突き飛ばす、物を投げつける等)が含まれます。
・特定の好悪が分かれやすい特殊な執着・感情描写が含まれます。
・安心安全ハッピーエンド。
なんでも許せる方、狂気的な感情のぶつかり合いがお好きな方はどうぞ。
続きを読む
読み方
1話ずつ表示します。
閲覧設定
名前変換設定
この小説には名前変換が設定されています。以下の単語を変換することができます。空白の場合は変換されません。入力した単語はブラウザに保存され次回から選択できるようになります
1 /
目次
一
夕日が大きな窓から差し込み、美術室全体をオレンジ色と長い影で満たしていた。
突き飛ばされた身体が、あっけなくバランスを崩す。|筆川雄二《ふでかわゆうじ》の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
無意識に伸ばした手が木製イーゼルをなぎ倒し、雄二の身体も床へ叩きつけられる。その拍子に、倒れたイーゼルの薄い木枠が、右耳の上あたりを固く打った。
「痛ってぇ……!」
思わず顔をしかめ、うめき声を上げる。打った場所がジンジンと熱を持っていく。床に並んだ石膏像たちの白い顔が、どこか冷ややかな目で見下ろしてくる。
痛む箇所を押さえながら、雄二は恐る恐る相手を見た。逆光のオレンジ色の中に、|舞田住雪《まいたすみゆき》の細いシルエットが立っている。
その長い影が、床に倒れた雄二を完全に飲み込んでいた。住雪の手には、一冊のスケッチブックが握られている。
「勝手に触んな!」
血走った目でこちらを睨みつける形相は、もはや飢えた猛獣そのものだ。彼に関わる人間なら、一度は味わう恐怖の光景だった。
『恐ろしく沸点が低い』
『そしてその基準は誰にも分からない』
『いや、違う。怒ってるのではなくて、ただ、圧倒的に狂ってる』
美術室を去っていった元部員たちの声が、脳裏で反響した。
住雪は近くの丸椅子を、落ちたゴミでも片付けるような動作で掴み上げ、そのまま床の雄二へと振り下ろす。
「ごめんって!」
雄二はなりふり構わず床を転がってそれを避けた。直後、耳元で凄まじい衝撃音が響き、木製の床に深い傷が刻まれる。
(本気だ。こいつ、本当に俺を半殺しにする気だ)
痛みなど脳内から消し飛び、這いつくばった体勢のまま、全力で美術室のドアへと逃げ出した。引きちぎるようにドアを開け、廊下へ飛び出す。
こめかみを擦りむいたらしく、押さえた右手の指先に、じわりと血が滲んでいる。雄二は振り返る余裕もなく、薄暗い階段を駆け下りた。
──住雪がそれ以上、追ってくることはなかった。
---
肩で息をしながら、雄二は保健室の引き戸を開けた。
「すんません、消毒、か、包帯 ──」
縋りつくように飛び込んだ視界の先、白いカーテンの傍らに、その影はいた。
夕日の美術室で、自分を冷酷に見下ろしていたあの輪郭。あの細いシルエット。雄二の心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がった。
だが、そのシルエットがこちらを振り返り、心配そうに眉をひそめた。それを見て、雄二はほっと胸を撫でおろした。
「なんだ、妹のほうかぁ」
住雪の双子の妹、|舞田苺枝《まいたいちえ》。彼女は冷静で、どこか憂いを帯びた、静かな目をしている。
「ゆ、雄二。どうしたの、その怪我?」
高くも低くもない、住雪とまったく同じ声質。けれど、イントネーションの端々に、至極まっとうな人間としての響きがあった。
「あ、いや……これは、その」
言い淀む雄二を、苺枝はそれ以上追及しなかった。その左腕には、緑色の『保健委員』の腕章が巻かれている。
慣れた手つきで丸椅子を引き、雄二を座らせると、薬品棚から消毒液とガーゼを取り出してくる。
ピンセットを持つ彼女の手先は、驚くほど器用で、そして優しかった。冷たい消毒綿がこめかみに触れ、じわりと熱い痛みが走る。雄二が思わず身をすくめると、苺枝は「ごめん」と小さく呟き、ふっと息を吹きかけながら手際よく血を拭い去っていく。
顔の距離が近づくたび、雄二の胸に奇妙な錯覚が去来した。目の前にいるのは、間違いなく自分を救ってくれている「まともな」少女だ。なのに、その目鼻立ちの完璧な一致が、すぐに住雪を連想させる。
苺枝は、雄二の視線に気づいているのかいないのか、淡々と新しい絆創膏の台紙を剥がした。
「その怪我、兄貴のせいなんでしょ」
ぽつり、と。静まり返った保健室に、彼女の声が落ちる。手当てを終えた手が、そっと離れた。
「雄二、今のうちに退部した方がいいよ。あいつの周り、みんな居なくなるの。引き摺り込まれて、ボロボロにされる前に」
苺枝は、兄と全く同じ顔に、諦念に満ちた影を落として雄二を見つめた。
それは警告だった。苺枝の言葉は、冷たい現実となって保健室の空気を支配した。
引き摺り込まれて、ボロボロにされる。先ほどの丸椅子の衝撃音を思い出せば、それが決して誇張ではないことなど嫌というほど分かる。
けれど、雄二はこめかみの絆創膏をそっと指先で押さえ、小さく息を吐き出した。
「……いや。まだ辞めない」
苺枝の瞳が、わずかに見開かれる。
「俺、将来は絵で食っていきたいんだ」
芯のある声で言った。
脳裏に浮かぶのは、自分を殺しかけたあの怪物の姿──ではない。狂気の濁流の中で、ひたすらに絵を描き続ける、あの圧倒的な熱量。
「あいつが描いてるの見てると勉強になる」
語るうちに、雄二の言葉に熱が籠もっていく。恐怖以上の憧憬が、雄二をあの美術室に繋ぎ止めていた。
「線一本、色の置き方一つ……あれに敵う奴は誰もいない」
それは、住雪の「絵」に対する、本気のリスペクトだった。
たとえその先が破滅へと続く泥沼だとしても、その底にある美しい色彩を見てみたい。そんな表現者としての歪んだ純粋さが、雄二の瞳に宿っていた。
正面からその強い視線を受け止めた苺枝は、しばらくの間、何も言わずに雄二を見つめていた。
やがて、諦めたように、あるいはその無謀さを憐れむように、小さく息を漏らす。
「……そっくり」
「え?」
「ううん、なんでもない」
苺枝はそう言って、わずかに視線を伏せた。
二
翌日、雄二が美術室のドアを開けて中に入ると、住雪はすでにキャンバスに向かっていた。
ドアの音に、彼の視線が向けられる。一瞬、空気が凍りついた。雄二は無意識に、こめかみの大きな絆創膏を指で押さえていた。
住雪は、雄二の顔と絆創膏を交互に見た。謝罪の言葉はなく、雄二が今日も部活に現れたことに対して、少しだけ意外そうに眉を動かしただけだった。
平然とキャンバスに向き直る彼へ、雄二は一歩、足を進めた。
「……住雪」
声をかけると、筆がピタリと止まった。暗い瞳がじっと雄二を捉える。
また彼が暴走するかもしれないという緊張で、喉がカラカラに乾く。
「お前が絵を描いてるところ……その、斜め後ろの場所から、見ててもいいか。邪魔は絶対にしないから」
一世一代の賭けだった。
住雪は、言葉を理解するのに少し時間がかかったようだった。ピクリとも動かない表情のまま、観察するように見つめてくる。
美術室の時計の秒針の音が、やけに大きく響いた。
「勝手にしろ」
彼はふいっと興味を失ったようにキャンバスへ視線を戻した。
---
美術室の空気は、いつも張り詰めている。
雄二の学校生活は『観察』の二文字に支配されていた。その視線はいつも、どうしても、あの変わり者へと向かう。
住雪は、絵を描いているとき、信じられないほど深い、底のない目をしている。その視界には、目の前にあるキャンバスも、美術室の風景も、映っていないようだった。
彼はいつも、自分の頭の中にしか存在しない、誰も見たことのない世界をただ必死に、キャンバスへ引きずり出している。
(なんなんだ、この無駄のなさは……)
制作過程を見るたび、心臓が高鳴りをあげる。
住雪の描き方には、迷いがない。常軌を逸した速さだった。
普通、絵を描くときは構図を練り、色を慎重に選びながら塗り重ねていく。だが彼には、躊躇の時間が一秒すらなかった。
パレットの上で絵の具を混色する手つきからして、すでに異常だった。狙った色彩を一瞬で作ると、迷いなくキャンバスへ筆を滑らせる。
その動作には、怪我をさせられた時のあの剥き出しの凶暴さは微塵もなかった。むしろ、極限まで研ぎ澄まされた外科医のメスさばきのように、静かで、冷徹で、正確無比。
キャンバスを擦るかすかな音だけが、静まり返った美術室に規則正しく響く。
住雪の頭の中には、最初から微塵の狂いもない完璧な完成図が存在していて、それをただ、キャンバスへ完璧な精度で「写し取っている」だけなのだ。その超人的な処理速度に、雄二はただただ圧倒される。
なにより驚くべきは、その圧倒的なスピードと同時に現れる、尋常ならざる美しさだった。
住雪が、濁った暗青色の絵の具をキャンバスの隅に、すっと一閃させた瞬間。
それまでただの絵の具の層に過ぎなかった画面が、まるで魔法がかかったかのように、劇的な意味を持ち始めた。
無駄なく引かれた一本の線が、一瞬にして完璧な深い影へと変貌する。隣に置かれた白は、夕暮れの窓から差し込む、刺すような光の粒子へと姿を変えていた。
色彩と色彩がキャンバスの上で完璧に噛み合い、息を呑むほどに透明で、そしてひどく孤独な空間が、目の前でみるみるうちに構築されていく。
「……あ」
言葉を失い、雄二の喉が小さく鳴った。
ほんの数分前まで真っ白だったキャンバスが、今はもう、見る者の心を狂わせるほどに美しい世界に支配されている。
彼の凶暴な本性から想像するような、おどろおどろしい絵では決してない。意外なほどに、ひどく綺麗な絵だった。
キャンバスの中に佇む人物は、まるでガラス細工のように繊細で、どこか神聖さすら漂っている。
光の描き方が、とにかく美しい。濁りのない色彩が透き通るように重ねられ、キャンバスの奥から本当に光が射しているかのような錯覚を覚える。
暴力的な彼の手から、どうしてこんなにも静かで、清らかな世界が生まれるのか、雄二はわけが分からなかった。
写実的なリアルさとも違う。それは、対象の一番美しい瞬間だけを残酷なほど純粋に切り取った、完璧な『絵』だった。
(あいつのどこに、こんな綺麗な世界があるんだ……?)
エベレストを見上げて「俺の方が高く跳べるのに」と悔しがる人間がいないのと同じだ。胸の奥に残ったのは、ドロドロした嫉妬ではなく、むしろ澄んだ諦めと、それに伴う強烈な狂信だった。
この怪物の手から神聖な世界が削り出されていくその瞬間を、一秒たりとも見逃したくない。
技術を盗むという名目の裏で、雄二はただ、住雪の絵という奇跡の目撃者になった。
夕日の中で、淡々と筆を動かす住雪の背中を見つめながら、雄二は息をすることすら忘れてその世界に溺れていた。
三
いつしか、毎日放課後に美術室へ向かい、住雪の絵を眺めることは、雄二の学校生活で最大の娯楽になっていた。
「おい、どけ」
「うおっと」
短い警告と同時に、顔の横を黒い影がすり抜けていく。
直後、背後の壁にアクリル絵の具のチューブが激突し、ベチャリと鈍い音を立てて床へ落ちた。住雪は雄二の方を見もしないまま、次の筆をパレットへ伸ばしている。
(あぶねぇ。今日は青か。服についたら落ちないんだよな)
バクバクと跳ねる胸を押さえながら、床のチューブを拾い上げ、住雪の机の端にそっと戻した。しかし、最初の頃の、あの心臓が縮み上がるような恐怖はどこへ行ったのだろう。
『おい雄二、それ、舞田にやられたのか?』
廊下でクラスメイトに腕の青あざを指摘されても、『いや、ちょっと美術室で転んでさ』と雑に誤魔化して流せるくらいには、雄二の感覚は麻痺していた。
二人きりの美術室は、住雪の神業を見届けるには最高で、同時にいつ殺されるか分からない最悪の場所だった。
けれど、彼視界の端に潜り込み、その筆さばきを網膜に焼き付けている時間は、何物にも代えがたい至福のひとときだった。
美しい肌の階調が、夜の街並みが、彼の手によって生み出されていく。
「理不尽な目に遭うリスク」と、「圧倒的な技を特等席で眺めるメリット」。天秤にかければ、後者が勝つのだった。
---
季節が巡るにつれ、美術室の空気に、わずかな、けれど決定的な変化が訪れていた。
住雪から飛んでくる「物」の頻度が、明らかに減ってきたのだ。 相変わらず機嫌が悪い日にはパレットナイフが床を転がることもあり、完全に安全になったとは言いきれない。
それでも、あの命の危険を感じるほどの凶暴な牙が、雄二の前では徐々に潜められつつあった。住雪は、雄二がそこにいることに慣れたのだ。
背後からの視線に怯えることもなく、どれだけ手元を覗き込もうとも、ただ淡々と、冷徹に筆を動かし続ける。
そんなある日の夕暮れだった。人物画を一枚描き終えた住雪が、めずらしく筆を置いた。
キャンバスには、ガラス細工のように儚く美しい少女の横顔が完成している。 雄二がその完成度に息を呑んでいた、その時だった。
パレットを持ったまま、住雪がふいと、斜め後ろへ視線を向けた。底のない瞳と、真っ正面から視線がぶつかる。雄二は思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……次、何描けばいい」
抑揚のない声だった。
美術室の壁掛け時計の音が、急に大きく聞こえ始める。
「え……?」
一瞬、雄二は自分の耳を疑った。
住雪は、面倒くさそうに首を小さく傾げ、もう一度同じ言葉を口にした。
「次、何描けばいい」
それは、ただの気まぐれだったのかもしれない。頭の中のキャンバスが、一瞬だけ空白になっただけなのかもしれない。
けれど、あの住雪が確かに、雄二に向かって「次」を尋ねている。
(マジか!何が良いだろう)
風景か、それともまた人物か。彼のあの神速の筆で、今度はどんな世界が削り出されるのか。真剣に答えを巡らせ、言葉を探そうとした、ほんの数秒の沈黙だった。
「もういい」
住雪は吐き捨てるように言うと、雄二から視線を外した。すでにその手は新しいキャンバスへと伸ばされ、パレットナイフで機械的に絵の具を削り取っている。
「え、あ、待てよ。今考えてるから──」
「遅い」
一瞥すらしない。彼にとって、一秒の迷いは無価値と同じだ。
驚くと同時に、雄二の口からは、ごく当たり前の疑問がこぼれ落ちていた。
「……っていうか、もう次のを始めるのか? 一枚描き終えたばかりだろ。たまには少し休んだらどうなんだよ。そんなに詰め詰めで描いてたら、流石に疲れるだろ」
それは、同じ絵を志す者としての、純粋な気遣いだった。学校の部活という枠を差し引いても、彼の制作ペースは人間の体力の限界を超えているように見えたからだ。
だが、その言葉が口から出た瞬間、空気が一変した。激しい金属音が響き、住雪が座っていた丸椅子が後ろへ大きく跳ね返った。
雄二は、心臓が口から飛び出すかと思った。床に転がる丸椅子を見下ろす間もなく、目の前に、住雪の顔があった。
「お前に何が分かる」
彼の表情は、暗く、冷たく、そして激しい怒りに燃え上がっていた。呼吸もわずかに荒くなっている。
至近距離で睨みつけられ、全身の血が引いていく。雄二は、いつまた殴られるか分からない恐怖、こめかみが痛むかのような感触に襲われた。
「す、すまん! 悪かった、俺の失言だ!」
両手を上げて、慌てて数歩下がった。謝りながらも、頭の中はパニックだった。
雄二は引きつった笑顔を浮かべながら、必死にその場の空気を収めようと、言葉を口走った。
「ほら、やっぱり、住雪が描きたいと思う絵をさ、自由に描くのが一番いいよ。俺なんかが口出すことじゃなかった。な?」
宥めるように、必死に紡いだ言葉。絵描きなら誰だって、自分の内側から湧き上がる「これを描きたい」という衝動に従うのが一番のはずだ。
……そんな甘い観測は、住雪の次の一言によって、無残に打ち砕かれた。
「描きたい絵なんかない」
静まり返った美術室に、冷え切った声がぽつりと落ちた。
「え……?」
雄二は間抜けな声を漏らしたまま、硬直した。
住雪の激しい怒りは、一瞬にして消え去っていた。その瞳は、怒りよりもさらに深い、一切の光を通さない底なしの暗闇に戻っている。
「描かないといけない、気が済むまで……」
住雪は、まるで自分の体温すら忘れてしまったかのような淡々とした口調で、繰り返した。
それ以上、一言も発しなかった。
倒れた丸椅子を起こすことなく、立ったまま、機械的な動きで新しいキャンバスへ筆を滑らせ始める。
静まり返った空気があまりに重苦しい。
「……じゃあさ」
住雪の背中に、あえてもう一度声をかける。雄二は自分の張り詰めそうな神経をなだめるため、半ばヤケクソで、気休めのような言葉を口にしていた。
「じゃあ、『幸せそうな絵』を描いてくれよ。お前が描きたいものがないならさ、俺のリクエストってことで」
住雪の筆が、一瞬だけ止まった。振り返りこそしなかったが、心底わけがわからないというように、肩が低く揺れる。
「なんだよそれ。意味が分からない。気持ち悪いこと言うな」
「いいだろ、描きたい絵がないんなら」
住雪は舌打ちをすると、「お前の趣味は最悪だ」と不機嫌に文句を吐き捨てた。彼はそのまま、パレットの上の明るい色彩へと筆を伸ばした。
四
それから、二人の間に、ある程度「マシな」会話が交わされるようになった。それによって、初めて分かったことがいくつかある。
一つは、住雪が学校の授業をほとんどサボって美術室に籠もっていること。そして家でも、寝食を忘れてひたすらに絵を描き続けているということだった。
二十四時間、ほぼすべてを製作に捧げている。
(どうりで、ハナから基礎の次元が違うわけだ……)
圧倒的な天才だと思っていた彼の背中には、狂気としか言いようのない、膨大な時間が積み重なっていた。
そしてもう一つ、雄二を驚かせた事実があった。
「あ、それ。こないだの国語の教師に頼まれたやつ」
新しく描き始めた静物画を指さして、住雪が事もなげに言った。
聞けば、彼はこれまでにも、顧問や他の教師、クラスメイトなどから、たびたび「こういう絵を描いてほしい」とリクエストを受けていたらしい。
気難しい性格のくせに、人からのリクエストはほぼ百パーセント断らないのだという。
つまり、あのとき雄二が『幸せそうな絵を描いて』と頼んで、それを受け入れたのは、特別に認めたからでも、心を開いたからでも何でもなかったのだ。ただ、いつものように「出されたオーダーを機械的に処理した」だけに過ぎない。
ほんの少しでも『特別』を期待してしまった自分が、雄二は急に恥ずかしくなった。自分だけが、彼の例外になれたのだと自惚れていた。ピエロもいいところだった。
けれど、住雪の口から稀に語られる私生活や、その歪なイエスマンっぷりを聞いているうちに、雄二の胸には、別の奇妙な感情が湧き上がっていた。
(……ああ、そうか)
住雪の横顔を見つめながら、雄二はぼんやりと、自分の心理を思い出していた。
「描きたい絵なんかない」と、あの底のない目で吐き捨てられた時。彼が、何だかもの凄く苦しそうに見えたのだ。
休みも許されず、ただひたすらに綺麗な世界をキャンバスに引きずり出し続けなければならない呪いにかかっているような、そんな風に見えてしまった。
『じゃあ、幸せそうな絵を描いてくれよ』
だから雄二は、あのとき、そんな言葉を口にしたのだった。
---
技術を盗むための『観察』は、いつしか、この底知れない怪物そのものを解き明かしたいという、純粋な好奇心へと変貌していた。
(こいつ、絵を描いてないときは何考えてるんだ?)
筆を動かす手元だけでなく、その切れ上がった目元の微かな動き、絵の具を混ぜる瞬間の指先のタコ、夕日に照らされた細い首筋のラインまで、じっと見つめる。
住雪は、集中しているときは人の視線など一ミリも気にしていないようだった。だから雄二は、斜め後ろから息を潜めて、その一挙手一投足を網膜に焼き付け続けた。
住雪が時折、心底だるそうに前髪をかき上げる仕草。リクエストされた『幸せそうな絵』を描くとき、そのパレットに、普段は使わない鮮やかな黄色や桃色が、まるで事務作業のように淡々と並べられていく矛盾。
人間としては、関わればいつ怪我をするか分からない。だが、そんな危険な猛獣の檻の隙間から、その生態をじっと覗き見ているような時間が、雄二の胸を、妙にぞくぞくと高鳴らせた。
「おい、雄二」
「うおっ、はい」
不意に住雪が、筆を持ったままこちらを振り向いた。完全に目が合う。心臓が跳ね上がる。観察していたことがバレただろうか。
「……何」
住雪は冷淡な目でじっと見つめ、それから、雄二の手元にあるスケッチブックへと視線を落とした。
「お前、さっきから一歩も進んでないぞ。描かないなら、その鉛筆よこせ。芯がすり減ってて使いにくい」
「あ、いや、これは構図を練ってたんだよ! ほら、鉛筆ならこれ使えよ、削りたてのやつ!」
慌てて新しい鉛筆を差し出すと、住雪は「ふん」と鼻を鳴らしてそれを受け取り、またすぐにキャンバスへと向き直った。
(こいつの視界に、俺はどんな風に映っているのだろう)
ただの便利な画材置きか、それとも、背景の壁と同じただの置物か。
心臓が、いけない悪戯を企む子供のようにドクンと跳ねた。ちらりと住雪の背中を見る。彼はキャンバスに向かったまま微動だにしない。雄二は息をひそめ、さらさらと鉛筆を走らせた。
切り揃えられた黒い前髪。感情の起伏を一切感じさせない、涼しげな目鼻立ち。筆を持つときの、驚くほど繊細で綺麗な指先のライン。
(…………待て)
ふと、鉛筆を握る手がピタリと止まった。
さっきまで表現者としての熱に浮かされていた脳が、急激に、冷水をかけられたように冷めていく。
雄二は、自分のスケッチブックを見つめた。
そこには、夕日の陰影まで妙にこだわって描かれた、住雪の──男の横顔が、おそろしく美麗に、かつ熱烈な密度で描き込まれている。
(……いや、おかしいだろ。何やってんだ俺⁉︎)
一気に顔がボッと熱くなった。恥ずかしさが津波のように押し寄せてきて、心臓がさっきとは違う意味でバクバクと暴れ出す。
周りの女子が授業中に好きな男子の名前をノートの端に落書きする、あの痛々しいムーブを、今まさに自分が、この美術室で、しかも本気のデッサン力でやらかしてしまったのだ。
住雪は男だ。しかも、かつて丸椅子を投げつけてきて、こめかみに大きめの絆創膏を貼る羽目になった元凶だ。
それなのに、技術を盗むとか観察するとか、もっともらしい言い訳の裏で、自分は──。
(いや、違う。違う違う違う)
必死に心の中で弁明を並べ立てる。
けれど、一度頭をよぎってしまった最悪の疑惑は、もう消えてくれなかった。
毎日、放課後になるのが楽しみだったこと。「物飛んできたりとかするけど」などと笑って、美術室に通い詰めていること。彼がちょっとマシに会話してくれただけで、現金に舞い上がっていたこと。
そして今、髪の毛一本、まつ毛の長さ一つまで、愛おしむように必死で紙に書き写していること。
(それって、要するに──)
認めた瞬間に人生の何かが終わりそうな結論が脳裏をよぎった。
否、恋愛感情とかそういう綺麗なものじゃないかもしれない。もっとこう、ストーカーに近いような、歪んだ執着なのかもしれない。
どちらにせよ、まともな精神状態としては、完全にアウトな領域に片足を突っ込んでいる。
「おい、雄二」
「うあっ⁉︎」
突然声をかけられ、雄二は文字通り飛び上がった。慌ててスケッチブックを胸に抱え込み、バッと住雪を見る。
住雪は、パレットを持ったまま、絵の具のついた顔で怪訝そうにしていた。
「……何、大声出してんだよ。気持ち悪い。オイルのストック、もうねぇぞ」
「あ、あ、オイル、あるよ。 物置から持ってくる」
雄二はスケッチブックをカバンに無理やり押し込むと、真っ赤になっているであろう顔を隠すように、逃げるように美術室を飛び出した。
冷たい廊下の空気を吸いながら、頭を抱える。
(あいつの絵のせいだ。あの絵に溺れているうちに、俺の脳のネジまで一本外れてしまったんだ)
五
それから数日、美術室の空気は、奇妙な熱を孕んで停滞していた。
そして、ある日の夕暮れ。窓の外が、燃えるようなオレンジ色に染まった頃。
「おい」
抑揚のない、無愛想な声。住雪は振り返らない。ただ、顎で「見ろ」とキャンバスを示した。雄二はごくりと唾を飲み込み、一歩、足を踏み出してキャンバスを正面から覗き込む。
視界に飛び込んできたのは、狂わんばかりの「春」だった。キャンバスを埋め尽くしていたのは、満開の桜の下、大勢の人間が笑い合っている花見の光景。
季節は秋へと向かう薄暗い夕暮れだというのに、その絵を見た瞬間、雄二の脳裏にはあの春の、少し生ぬるくて湿った風の匂いが吹き込んできた。
色彩が、あまりにも暴力的だった。住雪がパレットで淡々と混色していたあの桃色や薄紅は、画面の上で、本当に命を持って呼吸しているかのように爛漫と咲き乱れている。
桜の隙間から差し込む光の粒、楽しげにグラスを掲げる人々の肌の温度、敷物の青。それらが完璧な調和を保ちながら、見る者の網膜へ五感を揺さぶる強烈な「春」を送りつけてくる。
一見すれば、誰もが「温かい、幸せそうな絵だ」と涙を流すような大傑作。その美しさは劇薬のように鋭く、雄二の脳髄を直接殴ってきた。
雄二の口から、悲鳴のような声が漏れた。指先がガタガタと震え出す。恐怖でも嫌悪でもない。五臓六腑をかき回されるような、圧倒的な絵のチカラに対する、狂おしいほどの歓喜。脳のストッパーが完全に吹き飛んでいた。
「すごい……すごいよ住雪! お前本当になんなんだよこれ!」
雄二は頭を抱え、美術室の床を踏み鳴らすようにしてドタバタと暴れ回った。
「線一本、色の置き方一つってレベルじゃねえ。なんだよこの光の描き方! 桜の花びらが本当に舞って見える、頭おかしくなりそうだ! 最強だよ、お前マジで天才、いや怪物だわ……」
息を荒くしてキャンバスにすがりつくように凝視し、狂ったように絶賛し続ける雄二。
そんな彼を、住雪は座ったまま、心底気味の悪いものを見るような冷ややかな目でじっと見つめていた。スケッチブックを持つ住雪の指先が、わずかに強張る。
「……お前のリクエストだろ。早く持って帰れ。邪魔だ」
住雪が吐き捨てるように言った。
その言葉が鼓膜に届いた瞬間、雄二の動きがピタリと止まった。大きく見開かれた目が、住雪へと向けられる。
「……え?」
「聞こえなかったのか。お前が描けって言ったんだろ。いらないなら捨てる」
「待て待て待て待て」
雄二は美術室が震えるほどの声を上げた。住雪の前にすっ飛んでいき、その肩を掴みそうになって慌てて手を引っ込める。
「これくれるの⁉︎ ガチで⁉︎ 嘘だろ、あげるって言った⁉︎ 俺に⁉︎」
「うるさい。声が大きい」
「いや声もデカくなるわ! え、マジで言ってる? この神絵を俺がもらっていいの⁉︎ 家の家宝にする、いや毎日拝む、額縁買ってこなきゃ……!!」
狂喜乱舞を通り越して、もはや過呼吸気味に限界突破している雄二を、住雪は完全に不審者を見る目で睨みつけた。
「……お前、どうかしてるよ」
住雪の口から、本気の嫌悪の入り混じった声が落ちた。
「お前に言われたくねーよ」という言葉が口から出かかったが、雄二はすんでのところでそれを引っ込めた。そんなことを言えば、またいつ彼が暴走するか分からない。
住雪はそれ以上怒るでもなく、はぁ、と深く、呆れたように溜め息をついた。いつもの殺気が消え、夕日の中で、ただの少年の顔が露わになる。黒い前髪の隙間から、冷ややかな瞳が覗いていた。
雄二の心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
(吊り橋効果かよ)
いつキレるか分からない猛獣への「恐怖の鼓動」なのか、それとも、この顔に対する「好意の鼓動」なのか。自分の心音の正体がもう分からない。
脳のバグだと必死に言い訳を並べ立てながらも、雄二は住雪の呆れた顔から、目を逸らすことができなかった。
---
あの『幸せそうな絵』を抱えて帰宅してから数日、雄二の日常は完全に崩壊していた。
自室の机に飾られた、息を呑むほど美しい満開の桜。それを見つめるたびに、あの美術室での住雪の姿がフラッシュバックする。そして同時に、心臓がうるさいほど脈打つのだ。
(いや、ない。ないないない)
ベッドにひっくり返り、雄二は枕に頭を埋めて悶絶した。
好きかもしれない。
舞田住雪のことが。あの、恐ろしく沸点の低い男のことが。
(冷静になれ)
そう自分に言い聞かせるが、思い返せば、吊り橋から降りたはずの自宅でも、授業中でも、気づけば彼のことばかり考えている。
これまで「技術を盗むための観察」だと言い訳していた全ての行動が、別の意味を帯びて脳内で再翻訳されていく。
髪をかき上げる仕草。絵の具のついた指先。夕日に照らされた細い首筋。
それらを「綺麗だ」と思ったあの感覚は、表現者としてではなく、ただの熱い視線だったのではないか。
(いや待て、仮に百歩譲って俺の脳がバグってるとして、相手はあの舞田住雪だぞ)
関わる人間がみんな逃げ出していく、学校一の問題児だ。実際に雄二もこめかみを負傷したことがある。普通ならトラウマで不登校になってもおかしくない相手だ。
そんな奴を好きになって、一体どうしろというのか。付き合ってデートでもするのか。そもそも、少しでもそんな気配を察知された瞬間、今度こそ喉元を掻き切られるかもしれない。
雄二は顔を覆った。
放課後、どんな顔をして美術室のドアを開ければいいのか、さっぱり分からなかった。