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四
それから、二人の間に、ある程度「マシな」会話が交わされるようになった。それによって、初めて分かったことがいくつかある。
一つは、住雪が学校の授業をほとんどサボって美術室に籠もっていること。そして家でも、寝食を忘れてひたすらに絵を描き続けているということだった。
二十四時間、ほぼすべてを製作に捧げている。
(どうりで、ハナから基礎の次元が違うわけだ……)
圧倒的な天才だと思っていた彼の背中には、狂気としか言いようのない、膨大な時間が積み重なっていた。
そしてもう一つ、雄二を驚かせた事実があった。
「あ、それ。こないだの国語の教師に頼まれたやつ」
新しく描き始めた静物画を指さして、住雪が事もなげに言った。
聞けば、彼はこれまでにも、顧問や他の教師、クラスメイトなどから、たびたび「こういう絵を描いてほしい」とリクエストを受けていたらしい。
気難しい性格のくせに、人からのリクエストはほぼ百パーセント断らないのだという。
つまり、あのとき雄二が『幸せそうな絵を描いて』と頼んで、それを受け入れたのは、特別に認めたからでも、心を開いたからでも何でもなかったのだ。ただ、いつものように「出されたオーダーを機械的に処理した」だけに過ぎない。
ほんの少しでも『特別』を期待してしまった自分が、雄二は急に恥ずかしくなった。自分だけが、彼の例外になれたのだと自惚れていた。ピエロもいいところだった。
けれど、住雪の口から稀に語られる私生活や、その歪なイエスマンっぷりを聞いているうちに、雄二の胸には、別の奇妙な感情が湧き上がっていた。
(……ああ、そうか)
住雪の横顔を見つめながら、雄二はぼんやりと、自分の心理を思い出していた。
「描きたい絵なんかない」と、あの底のない目で吐き捨てられた時。彼が、何だかもの凄く苦しそうに見えたのだ。
休みも許されず、ただひたすらに綺麗な世界をキャンバスに引きずり出し続けなければならない呪いにかかっているような、そんな風に見えてしまった。
『じゃあ、幸せそうな絵を描いてくれよ』
だから雄二は、あのとき、そんな言葉を口にしたのだった。
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技術を盗むための『観察』は、いつしか、この底知れない怪物そのものを解き明かしたいという、純粋な好奇心へと変貌していた。
(こいつ、絵を描いてないときは何考えてるんだ?)
筆を動かす手元だけでなく、その切れ上がった目元の微かな動き、絵の具を混ぜる瞬間の指先のタコ、夕日に照らされた細い首筋のラインまで、じっと見つめる。
住雪は、集中しているときは人の視線など一ミリも気にしていないようだった。だから雄二は、斜め後ろから息を潜めて、その一挙手一投足を網膜に焼き付け続けた。
住雪が時折、心底だるそうに前髪をかき上げる仕草。リクエストされた『幸せそうな絵』を描くとき、そのパレットに、普段は使わない鮮やかな黄色や桃色が、まるで事務作業のように淡々と並べられていく矛盾。
人間としては、関わればいつ怪我をするか分からない。だが、そんな危険な猛獣の檻の隙間から、その生態をじっと覗き見ているような時間が、雄二の胸を、妙にぞくぞくと高鳴らせた。
「おい、雄二」
「うおっ、はい」
不意に住雪が、筆を持ったままこちらを振り向いた。完全に目が合う。心臓が跳ね上がる。観察していたことがバレただろうか。
「……何」
住雪は冷淡な目でじっと見つめ、それから、雄二の手元にあるスケッチブックへと視線を落とした。
「お前、さっきから一歩も進んでないぞ。描かないなら、その鉛筆よこせ。芯がすり減ってて使いにくい」
「あ、いや、これは構図を練ってたんだよ! ほら、鉛筆ならこれ使えよ、削りたてのやつ!」
慌てて新しい鉛筆を差し出すと、住雪は「ふん」と鼻を鳴らしてそれを受け取り、またすぐにキャンバスへと向き直った。
(こいつの視界に、俺はどんな風に映っているのだろう)
ただの便利な画材置きか、それとも、背景の壁と同じただの置物か。
心臓が、いけない悪戯を企む子供のようにドクンと跳ねた。ちらりと住雪の背中を見る。彼はキャンバスに向かったまま微動だにしない。雄二は息をひそめ、さらさらと鉛筆を走らせた。
切り揃えられた黒い前髪。感情の起伏を一切感じさせない、涼しげな目鼻立ち。筆を持つときの、驚くほど繊細で綺麗な指先のライン。
(…………待て)
ふと、鉛筆を握る手がピタリと止まった。
さっきまで表現者としての熱に浮かされていた脳が、急激に、冷水をかけられたように冷めていく。
雄二は、自分のスケッチブックを見つめた。
そこには、夕日の陰影まで妙にこだわって描かれた、住雪の──男の横顔が、おそろしく美麗に、かつ熱烈な密度で描き込まれている。
(……いや、おかしいだろ。何やってんだ俺⁉︎)
一気に顔がボッと熱くなった。恥ずかしさが津波のように押し寄せてきて、心臓がさっきとは違う意味でバクバクと暴れ出す。
周りの女子が授業中に好きな男子の名前をノートの端に落書きする、あの痛々しいムーブを、今まさに自分が、この美術室で、しかも本気のデッサン力でやらかしてしまったのだ。
住雪は男だ。しかも、かつて丸椅子を投げつけてきて、こめかみに大きめの絆創膏を貼る羽目になった元凶だ。
それなのに、技術を盗むとか観察するとか、もっともらしい言い訳の裏で、自分は──。
(いや、違う。違う違う違う)
必死に心の中で弁明を並べ立てる。
けれど、一度頭をよぎってしまった最悪の疑惑は、もう消えてくれなかった。
毎日、放課後になるのが楽しみだったこと。「物飛んできたりとかするけど」などと笑って、美術室に通い詰めていること。彼がちょっとマシに会話してくれただけで、現金に舞い上がっていたこと。
そして今、髪の毛一本、まつ毛の長さ一つまで、愛おしむように必死で紙に書き写していること。
(それって、要するに──)
認めた瞬間に人生の何かが終わりそうな結論が脳裏をよぎった。
否、恋愛感情とかそういう綺麗なものじゃないかもしれない。もっとこう、ストーカーに近いような、歪んだ執着なのかもしれない。
どちらにせよ、まともな精神状態としては、完全にアウトな領域に片足を突っ込んでいる。
「おい、雄二」
「うあっ⁉︎」
突然声をかけられ、雄二は文字通り飛び上がった。慌ててスケッチブックを胸に抱え込み、バッと住雪を見る。
住雪は、パレットを持ったまま、絵の具のついた顔で怪訝そうにしていた。
「……何、大声出してんだよ。気持ち悪い。オイルのストック、もうねぇぞ」
「あ、あ、オイル、あるよ。 物置から持ってくる」
雄二はスケッチブックをカバンに無理やり押し込むと、真っ赤になっているであろう顔を隠すように、逃げるように美術室を飛び出した。
冷たい廊下の空気を吸いながら、頭を抱える。
(あいつの絵のせいだ。あの絵に溺れているうちに、俺の脳のネジまで一本外れてしまったんだ)