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二
翌日、雄二が美術室のドアを開けて中に入ると、住雪はすでにキャンバスに向かっていた。
ドアの音に、彼の視線が向けられる。一瞬、空気が凍りついた。雄二は無意識に、こめかみの大きな絆創膏を指で押さえていた。
住雪は、雄二の顔と絆創膏を交互に見た。謝罪の言葉はなく、雄二が今日も部活に現れたことに対して、少しだけ意外そうに眉を動かしただけだった。
平然とキャンバスに向き直る彼へ、雄二は一歩、足を進めた。
「……住雪」
声をかけると、筆がピタリと止まった。暗い瞳がじっと雄二を捉える。
また彼が暴走するかもしれないという緊張で、喉がカラカラに乾く。
「お前が絵を描いてるところ……その、斜め後ろの場所から、見ててもいいか。邪魔は絶対にしないから」
一世一代の賭けだった。
住雪は、言葉を理解するのに少し時間がかかったようだった。ピクリとも動かない表情のまま、観察するように見つめてくる。
美術室の時計の秒針の音が、やけに大きく響いた。
「勝手にしろ」
彼はふいっと興味を失ったようにキャンバスへ視線を戻した。
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美術室の空気は、いつも張り詰めている。
雄二の学校生活は『観察』の二文字に支配されていた。その視線はいつも、どうしても、あの変わり者へと向かう。
住雪は、絵を描いているとき、信じられないほど深い、底のない目をしている。その視界には、目の前にあるキャンバスも、美術室の風景も、映っていないようだった。
彼はいつも、自分の頭の中にしか存在しない、誰も見たことのない世界をただ必死に、キャンバスへ引きずり出している。
(なんなんだ、この無駄のなさは……)
制作過程を見るたび、心臓が高鳴りをあげる。
住雪の描き方には、迷いがない。常軌を逸した速さだった。
普通、絵を描くときは構図を練り、色を慎重に選びながら塗り重ねていく。だが彼には、躊躇の時間が一秒すらなかった。
パレットの上で絵の具を混色する手つきからして、すでに異常だった。狙った色彩を一瞬で作ると、迷いなくキャンバスへ筆を滑らせる。
その動作には、怪我をさせられた時のあの剥き出しの凶暴さは微塵もなかった。むしろ、極限まで研ぎ澄まされた外科医のメスさばきのように、静かで、冷徹で、正確無比。
キャンバスを擦るかすかな音だけが、静まり返った美術室に規則正しく響く。
住雪の頭の中には、最初から微塵の狂いもない完璧な完成図が存在していて、それをただ、キャンバスへ完璧な精度で「写し取っている」だけなのだ。その超人的な処理速度に、雄二はただただ圧倒される。
なにより驚くべきは、その圧倒的なスピードと同時に現れる、尋常ならざる美しさだった。
住雪が、濁った暗青色の絵の具をキャンバスの隅に、すっと一閃させた瞬間。
それまでただの絵の具の層に過ぎなかった画面が、まるで魔法がかかったかのように、劇的な意味を持ち始めた。
無駄なく引かれた一本の線が、一瞬にして完璧な深い影へと変貌する。隣に置かれた白は、夕暮れの窓から差し込む、刺すような光の粒子へと姿を変えていた。
色彩と色彩がキャンバスの上で完璧に噛み合い、息を呑むほどに透明で、そしてひどく孤独な空間が、目の前でみるみるうちに構築されていく。
「……あ」
言葉を失い、雄二の喉が小さく鳴った。
ほんの数分前まで真っ白だったキャンバスが、今はもう、見る者の心を狂わせるほどに美しい世界に支配されている。
彼の凶暴な本性から想像するような、おどろおどろしい絵では決してない。意外なほどに、ひどく綺麗な絵だった。
キャンバスの中に佇む人物は、まるでガラス細工のように繊細で、どこか神聖さすら漂っている。
光の描き方が、とにかく美しい。濁りのない色彩が透き通るように重ねられ、キャンバスの奥から本当に光が射しているかのような錯覚を覚える。
暴力的な彼の手から、どうしてこんなにも静かで、清らかな世界が生まれるのか、雄二はわけが分からなかった。
写実的なリアルさとも違う。それは、対象の一番美しい瞬間だけを残酷なほど純粋に切り取った、完璧な『絵』だった。
(あいつのどこに、こんな綺麗な世界があるんだ……?)
エベレストを見上げて「俺の方が高く跳べるのに」と悔しがる人間がいないのと同じだ。胸の奥に残ったのは、ドロドロした嫉妬ではなく、むしろ澄んだ諦めと、それに伴う強烈な狂信だった。
この怪物の手から神聖な世界が削り出されていくその瞬間を、一秒たりとも見逃したくない。
技術を盗むという名目の裏で、雄二はただ、住雪の絵という奇跡の目撃者になった。
夕日の中で、淡々と筆を動かす住雪の背中を見つめながら、雄二は息をすることすら忘れてその世界に溺れていた。