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三、リクエスト募集中
季節が巡るにつれ、美術室の空気にわずかな、けれど決定的な変化が訪れていた。
住雪から飛んでくる「物」の頻度が明らかに減ってきたのだ。相変わらず機嫌が悪い日にはパレットナイフが床を転がることもあり、完全に安全になったとは言いきれない。それでもあの命の危険を感じるほどの凶暴な牙が、雄二の前では徐々に潜められつつあった。住雪は雄二がそこにいることに慣れたのだ。
そんなある日の夕暮れだった。人物画を一枚描き終えた住雪が、めずらしく筆を置いた。
キャンバスには、ガラス細工のように儚く美しい少女の横顔が完成している。 雄二がその完成度に息を呑んでいた、その時だった。パレットを持ったまま、住雪がふいと斜め後ろへ視線を向けた。底のない瞳と真っ正面から視線がぶつかる。雄二は思わずごくりと唾を飲み込んだ。
「……次、何描けばいい」
抑揚のない声だった。
美術室の壁掛け時計の音が、急に大きく聞こえ始める。
「え……?」
一瞬、雄二は自分の耳を疑った。
住雪は面倒くさそうに首を小さく傾げ、もう一度同じ言葉を口にした。
「次、何描けばいい」
それは、ただの気まぐれだったのかもしれない。頭の中のキャンバスが一瞬だけ空白になっただけなのかもしれない。けれどあの住雪が確かに、雄二に向かって「次」を尋ねている。
(マジか!何が良いだろう)
風景か、それともまた人物か。彼のあの神速の筆で、今度はどんな世界が削り出されるのか。真剣に答えを巡らせ言葉を探そうとした、ほんの数秒の沈黙だった。
「もういい」
住雪は吐き捨てるように言うと雄二から視線を外した。すでにその手は新しいキャンバスへと伸ばされ、パレットナイフで機械的に絵の具を削り取っている。
「え、あ、待てよ。今考えてるから──」
「遅い」
一瞥すらしない。彼にとって一秒の迷いは無価値と同じだ。
驚くと同時に、雄二の口からはごく当たり前の疑問がこぼれ落ちていた。
「……っていうか、もう次のを始めるのか? 一枚描き終えたばかりだろ。たまには少し休んだらどうなんだよ。そんなに詰め詰めで描いてたら、流石に疲れるだろ」
それは、同じ絵を志す者としての純粋な気遣いだった。学校の部活という枠を差し引いても、彼の制作ペースは人間の体力の限界を超えているように見えたからだ。だが、その言葉が口から出た瞬間、空気が一変した。激しい金属音が響き、住雪が座っていた丸椅子が後ろへ大きく跳ね返った。
雄二は心臓が口から飛び出すかと思った。床に転がる丸椅子を見下ろす間もなく、目の前に住雪の顔があった。
「お前に何が分かる」
彼の表情は暗く冷たく、そして激しい怒りに燃え上がっていた。呼吸もわずかに荒くなっている。
至近距離で睨みつけられ全身の血が引いていく。雄二は、いつまた殴られるか分からない恐怖、こめかみが痛むかのような感触に襲われた。
「す、すまん! 悪かった、俺の失言だ!」
両手を上げて慌てて数歩下がった。謝りながらも頭の中はパニックだった。雄二は引きつった笑顔を浮かべながら必死にその場を収めようと口走った。
「ほら、やっぱり、住雪が描きたいと思う絵をさ、自由に描くのが一番いいよ。俺なんかが口出すことじゃなかった。な?」
宥めるように紡いだ言葉。絵描きなら誰だって、自分の内側から湧き上がる「これを描きたい」という衝動に従うのが一番のはずだ。……そんな甘い観測は、住雪の次の一言によって無残に打ち砕かれた。
「描きたい絵なんかない」
冷え切った声がぽつりと落ちた。
「え……?」
雄二は間抜けな声を漏らしたまま硬直した。住雪の激しい怒りは一瞬にして消え去っていた。その瞳は怒りよりもさらに深い、一切の光を通さない底なしの暗闇に戻っている。
「描かないといけない、気が済むまで……」
住雪はまるで自分の体温すら忘れてしまったかのような口調で繰り返した。それ以上、一言も発しなかった。倒れた丸椅子を起こすことなく、立ったまま新しいキャンバスへ筆を滑らせ始める。
静まり返った空気があまりに重苦しい。
「……じゃあさ」
住雪の背中にあえてもう一度声をかける。雄二は自分の張り詰めそうな神経をなだめるため、半ばヤケクソで、気休めのような言葉を口にしていた。
「じゃあ、『幸せそうな絵』を描いてくれよ。お前が描きたいものがないならさ、俺のリクエストってことで」
住雪の筆が一瞬だけ止まった。振り返りこそしなかったが、心底わけがわからないというように肩が低く揺れる。
「なんだよそれ。意味が分からない。気持ち悪いこと言うな」
「いいだろ、描きたい絵がないんなら」
住雪は舌打ちをすると「お前の趣味は最悪だ」と不機嫌に文句を吐き捨てた。彼はそのまま、パレットの上の明るい色彩へと筆を伸ばした。