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七、スケッチブックの中身
美術室の引き戸を開けたが、中には誰もいなかった。夕日が差し込む室内はしんと静まり返っており、壁の時計の秒針の音だけがやけに大きく響いている。
住雪の席には、描きかけのキャンバスやパレット、画材がそのまま残されていた。便所にでも行っているのだろうか。主を失った丸椅子の横には、彼の荷物が床へ置かれている。
(……あ)
雄二の足が、ピタリと止まった。住雪のスクールバッグの口から、一冊のスケッチブックがはみ出ていた。あの日、住雪に猛獣のような血走った目で睨まれ、「勝手に触るな!」と丸椅子を振り下ろされる原因となった、あの曰く付きのスケッチブックだ。
あのときは、本当に棚から落ちそうになったのを直感的に支え、表紙に『触れた』だけだった。中身なんて一ページどころか、一ミリも見ていない。住雪だって、雄二が中身を見ていないことくらい分かっていたはずだ。それなのに彼は、「触った」というその一点だけで狂い、雄二を思い切り突き飛ばした。
(──見たい)
ずっと、その気持ちはあった。住雪のプライベートなスケッチブックに、一体どんな世界が、どれほど凄まじい『美』が眠っているのか。彼の絵の重度なファンとして、中身への興味は最初から狂いそうなほどあった。そして、今のこの渇きは、それだけじゃない。
『急に私のこと無視するようになったんだよね』
『うちの父親、住雪への当たり、昔から本当に酷いんだよね』
廊下で聞いた苺枝の言葉が、今も胸の奥を激しく揺さぶっている。雄二は、あの理不尽で、空っぽで、キャンバスにしがみつく舞田住雪という人間そのものに、狂おしいほど興味を持ってしまっている。
(俺なら、絶賛する。絶対に、全部を素晴らしいって言ってやる自信がある)
学校に持ってきているのだから、そこまで突飛なものは描かれていないかもしれない。だが、仮にこのスケッチブックを開いた先に、常人には見せられないような、どす黒い鬱憤や、狂気じみたアレな絵ばかりが並んでいたとしても。世界中の誰もが引いて彼を拒絶したとしても、自分だけはあの凄まじい筆致の虜であり、それを全肯定する最初の人間になれる。
その自負が、雄二の背中を強烈に押し上げた。住雪がいつ戻ってくるか分からない。もし見つかれば、今度は丸椅子じゃ済まない、本当に殺されるかもしれない。バクバクと暴れる心臓を抑えつけながら、雄二は音を立てないよう、ゆっくりと、そのスケッチブックへと手を伸ばした。
手が、震えていた。ページの端に指をかけ、音を立てないように、そっと表紙をめくる。中に何が描かれていようと、全部を受け止めて絶賛してやる。そう意気込んでいた雄二の視界に飛び込んできたのは──予想していたような絵では、断じてなかった。
めくっても、めくっても。
そこに描かれていたのは、無数の、ありとあらゆる『舞田苺枝』の姿だった。ノートの余白を埋め尽くすように、執念深く、けれど恐ろしいほどの熱量と精密さで描き込まれた妹のデッサン。笑っている顔、退屈そうに頬杖をついている顔、教科書を読んでいる横顔、髪を結い直す一瞬の仕草。
まだ住雪が妹に優しかった頃の記憶なのか。それとも、家庭内で無視し合うようになってからの、盗み見るような視線なのか。剥き出しの執着と、狂気とも言える歪んだ愛情が、紙の上に生々しくのたうち回っている。
(……これ、は)
既視感が、津波のように雄二の脳髄を襲った。
数日前、この美術室で、住雪の背中を盗み見ながらさらさらと鉛筆を走らせた、あの放課後。
切り揃えられた黒い前髪、涼しげな目鼻立ち、綺麗な指先のライン。髪の毛一本、まつ毛の長さ一つまで愛おしむように、自分の本気のデッサン力で男の横顔をノートに落とし込んでしまった、あの時の自分の姿。あの狂おしいほどの熱、自分の脳のネジが外れてしまったのだと頭を抱えた、あの最悪の自覚。
「あいつ、何でこんなの持ち歩いてるんだ……?」
鳥肌が止まらなかった。ぞっとするような戦慄と同時に、頭を殴られたような混乱が雄二を襲う。
『急に私のこと無視するようになったんだよね』
さっき廊下で聞いた苺枝の声が、頭の中でリフレインする。無視しているというか、逆だ。あまりにも巨大で、歪で、まともな人間関係としては成立させられない激情が、そこにはあった。
(……妹のことが、好──)
そこまで考えかけて、雄二は自分の思考のあまりのグロテスクさに吐き気がした。
その時、廊下から、聞き覚えのある足音が近づいてくるのが聞こえた。最悪の事態だけは、本能が察知していた。
(バレたら、死ぬ)
雑にページを閉じ、はみ出ていた通りにスクールバッグの口へスケッチブックを押し込む。心臓が肋骨を内側から破りそうなほど激しくのたうち回っていた。足音が、美術室のすぐ手前まで迫っている。
雄二は自分の荷物を持ち、グラウンドに面したベランダの非常扉へと飛びついた。ガタリと大きな音を立てて鍵を開け、外へ滑り込む。直後、背後で美術室の引き戸がガラガラと開く音が響いた。
冷たい夕方の風が、汗ばんだ顔を叩く。
雄二は外階段を駆け下りた。