公開中
九、溺れる者は
住雪はポケットに両手を突っ込んだまま、微動だにせず、ただじっと暗い川面を見つめていた。周囲の闇を吸い込んだようなその横顔は、今にも夜に溶けて消えてしまいそうなほど静かで、そして──雄二の目には、残酷なまでに、綺麗に映った。
雄二が息を呑んだ、そのわずかな気配を察したのだろうか。住雪の首が、ゆっくりとこちらへ回った。夜の沈下橋、欄干のないコンクリートの平坦な道。その上で、二人の視線がぶつかり合う。張り詰めた沈黙を破ったのは、住雪の、いつもと変わらない抑揚のない声だった。
「お前、見たろ」
心臓が冷水に浸されたように冷え切った。住雪の目が、薄闇の中で獣のように据わっている。
「え、あ、何のこと、だよ……」
「とぼけんな。新しく描いたページの絵の具が擦れてた。明らかに俺じゃない指の跡だ!」
ポケットから抜かれたその両手には、何も握られていない。けれど、夜の闇を身にまとったシルエットが、おぞましい勢いで一気に距離を詰めてくる。バタバタという足音すらしない。ただ、彼が動いた瞬間、夜風の温度がガリリと削れるような、圧倒的な殺気が肌を突き刺した。
ヒッ、と雄二の喉奥で短い悲鳴が爆ぜる。怨霊のような執念で雄二を追ってきたのだ。
「待て、住雪、悪かった! 出来心だったんだ、誰にも言わない、本当に──」
言い訳を掻き消すように、住雪の顔が目の前に現れた。あまりの至近距離。網膜に飛び込んできた彼の顔には、怒りも、憎しみも、人間らしい感情が何一つ浮かんでいなかった。完全に、狂っている。鼓膜が震えるほどの衝撃とともに、胸ぐらを強烈な力で掴み取られた。
「触るな、見るなと言ったはずだ」
耳元で囁かれた声は、冷たい。住雪の細い身体のどこにそんな怪力があるのか、雄二の身体は抵抗する間もなく、紙切れのように後方へと押し込まれた。ずるり、と靴底がコンクリートの端を滑る。そのすぐ後ろには、すべてを飲み込む漆黒の川面が口を開けて待っていた。
「おい、やめっ、落ちる、落ちるから!」
住雪の瞳には、一ミリの躊躇も、躊躇うための光もなかった。そのまま、全体重をかけるようにして、雄二の身体を橋の縁から外へと突き出す。視界がぐにゃりと反転し、夜空と暗い水面が混ざり合う。
(死ぬ──!)
雄二はなりふり構わず、自分を見下ろす住雪の服の襟元を、両手で引きちぎらんばかりの力で掴み取った。薄闇の中で、住雪の顔が初めて驚愕に歪む。雄二に掴みかかられ、想定外の質量で引っ張られた住雪が、自らその手を離し、後ろに大きくよろめいた。欄干のない、コンクリートの端の、さらに先へと。
反動で、雄二の身体は橋の固い床へと無様に叩きつけられた。視界の端で、住雪の華奢な身体が、重力に従ってあっけなく宙へ投げ出されるのが見えた。夜の静寂を切り裂くような、巨大な水飛沫の音が響く。
橋の上に這いつくばったまま、雄二は激しく咳き込み、慌てて縁から下を覗き込んだ。暗い川面のどこかで、水に溺れるような鈍い音が聞こえる。最初、雄二は、すぐに泳いで上がってくるだろうと思っていた。だが、水を打つ音が、明らかに異常だった。水面に上がっては、すぐに沈む。不規則で、激しい音。
(……嘘だろ。こいつ、泳げないのか)
冷酷だったあの瞳が、今は恐怖に大きく見開かれ、暗闇の水面で必死に虚空を掴もうともがいている。
「住雪!」
雄二はコンクリートの縁に腹ばいになり、限界まで身体を乗り出して、下へと右手を伸ばした。川面までは距離がある。届かない。雄二がさらに上体を乗り出した瞬間、住雪の、水に濡れて凍えるように冷たい指先が、雄二の手首をがちりと掴んだ。
---
雄二は全身の筋肉を軋ませ、住雪の手首を引っ張り上げた。濡れた衣服の重みがずっしりと腕にかかる。橋の縁に擦れる鈍い音とともに、住雪の身体がずるりと橋の上へ引きずり戻された。二人はそのまま、沈下橋に無様に転がり込んだ。
住雪は這いつくばったまま、激しく水を吐き出し、肩を大きく上下させて喘いでいる。黒髪は額にべったりと張り付き、水浸しの顔が哀れに歪んでいた。それを見下ろした瞬間、雄二の頭の中で、張り詰めていた何かが「ブツン」と大きな音を立てて弾け飛んだ。
「──ふざけんな!」
殺されかけた恐怖、全力の逃走、そしてこの救出劇。怒涛の流れが、一気にとてつもない怒りへと変換される。
「泳げないなら、こんなとこで突っかかってくんじゃねえよ! バカじゃねえの⁉︎ ああ⁉︎ もし俺が手を離してたら、お前今頃マジで沈んで死んでただろ!」
声を荒らげる雄二の横で、住雪はまだ激しく咳き込んでいる。けれど、雄二の怒りは止まらない。溜め込んでいたすべてをぶちまけるように、言葉が口から溢れ出た。
「あのスケッチブックを見たのは悪かったよ! 出来心だったんだよ! でも、だからって本気で人を突き落とそうとするか普通⁉︎ 自分のことなんだと思ってるんだよ、化け物かよ! 狂ってるのも大概にしろ!」
一気にまくし立て、雄二は肩で息をした。はぁはぁと荒い呼吸を繰り返しながら、濡れネズミのようになって震えている住雪をキッと睨みつける。いつもなら、ここで苛烈な報復が帰ってくるはずだった。だが、違った。住雪はコンクリートに両手をついた姿勢のまま、小さく身体を震わせていた。
そして、ゆっくりと持ち上げられたその顔を見て、雄二は言葉を失った。住雪の瞳が、見たこともないほど潤み、大粒の涙を湛えていた。切れ上がった目元が赤くなり、濡れた睫毛の隙間から、今にも零れ落ちそうな涙がきらきらと光っている。怒りと恐怖で獰猛だった猛獣の気配は、完全に消え去っていた。
そこにいたのは、秘密のを暴かれ、命の危機に晒され、ただただ恐怖に震えている、信じられないほどに脆い人間だった。
(いや、なんでお前が泣いてんだよ)
さっきまで怒髪天を突く勢いだった雄二の脳内は、目の前のあまりにも予想外すぎる絵面を前にして硬直した。心臓が、さっきの恐怖とは全く違う、おそろしいほどの速度で鐘を打ち始める。
(泣きたいのは、こっちだろ……)
関わるのは面倒にもほどがある。そう頭で理解したはずなのに、夜風に吹かれてガタガタと震え、涙を溜めている彼を見ていると、突き放すことができなかった。
「……はぁ。もういい」
雄二は頭をガシガシと掻きむしり、完全に白旗を揚げた。なんだかんだ言っても、雄二はこの男に甘かった。自分が着ていた制服のブレザーを脱ぐと、住雪の頭からバサッと乱暴に被せる。
「ほら、お前、細いんだからすぐ風邪引くぞ」
「……お前のだろ。気持ち悪い」
住雪は上着の下から、まだ潤んだ目でフイと顔を背けようとした。だが、その声にはさっきまでの冷徹な拒絶の威力はなく、どこか強がっているだけの子供のようだ。ブレザーの袖で、顔に滴る水を不器用そうに拭っている。
「お前な、助けてもらった人間に向かって気持ち悪いとは何だ。いいから大人しくしてろ。……ほら、立てるか? 早く帰らねぇと」
雄二は手を貸そうとする。住雪はブレザーの裾をぎゅっと両手で掴み、縮こまるようにして身を小さくしたまま、ぽつり、と呟いた。
「……らない」
「え?」
「このまま、帰ったら……」
その声は、ガチガチと噛み合う歯の音の隙間から漏れ出た、本物の恐怖に怯える響きだった。
「……ああ、なんかお前の家、お父さんが厳しいんだっけ?」
その問いかけを、住雪は否定しなかった。
雄二は住雪の前にしゃがみ込み、視線を合わせる。
「じゃあさ、俺んち、来いよ。風呂貸してやるし、服も乾かしてやる」
住雪はタオルのように被ったブレザーの隙間から、信じられないものを見るような目で雄二を見つめた。
「……なんで」
「さぁな。俺が頭おかしいからじゃねぇの」
自嘲気味に笑って、雄二は住雪の細い肩を抱くようにして立ち上がらせた。
住雪は一瞬、身を硬くしたものの、それ以上は拒絶する気力もないのか、雄二の体温にすがるようにして静かに体重を預けてきた。