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艶
満月の夜には、女装をして散歩に出かける。
おれはカレンダーに、月の周期を書きこむ。弓張月、十三夜、そして満月。
この日には、工場での仕事をいつもより早くきりあげて、呑みのさそいもことわり、まっすぐ家に帰る。納豆と米ときゅうりのいつもの夕飯を食べて、念入りに歯をみがいてから、化粧品をひっぱりだす。
パフをはたき、長い茶髪のウィッグをかぶって、最後にまっかな口紅をひく。
傷ひとつない鏡のなかに、まろやかな女の顔がうつっている。白い肌がもったりとした薄闇にうかびあがり、くろぐろとした瞳と紅い唇だけが、にじみだすようなひかりを放っている。
化粧の出来に満足すると、カシミヤのコートを羽織り、ヒールの高い靴をはく。姿見にうつったおれは、まるで口裂け女のようだった。ざくりと裂けた口をひらき、すべてをあんぐり食べてしまいたい。そんな考えにおそわれて、思わず笑った。
アパートの階段を降り、うすい群青にみたされた夜道をあるく。すれちがう人々は、だれもおれを女だとうたがわない様子で、平然と通りすぎてゆく。スーパー、レンタルビデオ店、焼肉屋。夜のまえぶれをながしこんだ街並みは、つくりばなしめいて見えた。ものがたりの登場人物。紙面にのみ住まうひとびと。
この世がそんなに平坦であればいいだろうな、と思う。自分が過去も未来もなりふりの決められた存在であれば。そうならおれは、もっと安らかに生活できるだろう。
夜は音もなく密度を増してゆく。遠くで鳴りひびくクラクションの音と、すれちがう人々の一瞬のさざめきを耳にしながら、大通りをはずれて小道をすすんだ。
植物を植えすぎた箱庭みたいなアパートの群れをながめてあるく。うちすてられた自転車のタイヤは大きくへこみ、どこからか焼きそばの匂いがした。
窓からあたたかい光がもれる住宅街をしばらく行くと、目的地の公園がある。
なんの変哲もない公園だ。錆びかけの遊具とそっけない水道と、古びたベンチがあるだけの。おれは迷わずブランコをえらび、腰かける。
キイ、と頼りなげに鳴いて、それでもブランコはゆれだした。地面をゆるやかに蹴るたび、靴のなかに砂利がはいりこむ。こどもの頃、ぴったりしたスニーカーをはいていても、きまってそうだった。どうして公園の砂というのは、やたらと靴にはいるのだろう。
とりとめもないことを考えながらブランコをこぐ。呑気でいるように見えて、夜中に大の大人が、公園で一人ブランコをこいでいるところをだれかに見られでもしたら、という不安がまつわっている。結局小心なのだ。
けれどその一方で、だれかに見つかりたい、という気持ちもある。そうして、れっきとした女だと、きれいな女だと、思われたい。
艶。あで。華やかさのなかに気品があるさま。おれはいつか、そうなりたい。
ブランコに飽きると、すべり台に目をつけたけれど、さすがにという気がしてやめた。もうかなりおそくなっていたし、コートが砂利まみれになるのは避けたかった。
帰りは、コンビニに寄ってのんびりあるく。いつ見ても高いやきとり串二本と、缶ビールを買った。