一話読み切りをまとめたもの
一次創作のごった煮 明るいのも暗いのもある。
続きを読む
読み方
1話ずつ表示します。
閲覧設定
名前変換設定
この小説には名前変換が設定されています。以下の単語を変換することができます。空白の場合は変換されません。入力した単語はブラウザに保存され次回から選択できるようになります
1 /
目次
春色讃美
習作
しおらしくひらいた桜の花びらにふれると、ほろほろとくずれ落ちた。
ひとつの可憐な生をこの手で壊してしまった気がして、罪悪感がした。
なんて。
桜の花を落としたくらいでそんなふうに哀しさを感じる人間というのは、たいそうゆとりのある生活をしているんだろう。
その日食う飯は用意されているに違いない。学校や職場になんの不満もないんだろう。金に困らず、考えることしかやることのない人間。
そんなの子供か金持ちしかいねえな、と思いながら、桜が咲きほこる道をゆく。
なだらかな丘になっている道の、短い草が生えた傾斜には、シートをひろげて花見をする近隣住民の姿。
平和だなぁ。
春は好きだ。甘いもんが多くて、みんなフワフワしてて、浮かれた気持ちになる。
「ねえ、あなた、花見なんて柄じゃないでしょ。帰りましょうよ」
隣をあるく由芽は、しきりと文句を言う。さいきん染めなおした白髪からやさしい匂いがする。
由芽はあんまりやさしくないけど、由芽のまとうものはやさしく見える。
白いブラウス、グレージュのスカート、平たいシューズ。
きれいだなぁ。
由芽を見ているといつも思う。灰色っぽい目も、淡い桃色で艶めいた唇も、うすい鼻も、するどいあごの曲線も。
つくづく惚れきってんだ。
由芽はずるい女だ。俺が買ってきた酒を勝手にのむし、節約しなさいよと俺に言っておきながら自分は高い煙草を買うし、アイスはかならず一口くれと要求してくる。いやだと言うと小一時間拗ねる。
でも、酒に酔った由芽はすごくかわいいし、俺が落ち込んでると自分の煙草を一本分けてくれるし、コンビニに行くと108円均一のお菓子を買って俺にひと袋ぜんぶくれる。
好きなんだ。由芽のこと。
春が好きって気持ちは春にしか芽生えねえけど、由芽が好きって気持ちは年中消えない。
だから俺は、由芽を相手にすると溶けかけたチョコみたいにふにゃんとヤワになって、たちまち言ってしまう。
「おう。帰るか」
あまくて可憐で、ずるくてあざとい、春のような俺の恋人。
魚
一度めには、痩せた白猫のように見えた。
二度めには、途方に暮れた子供に見えた。
三度めは、四度めは、会うたびに女の印象は変わっていった。優しいふり、夏の妖精、K-POPアイドル、なにかえたいの知れないもの、溶けかけたプリン、転がる箸、およぐ小魚、そんなもののように。
小魚を猫が捕まえて、女は痩せた白猫に戻った。
風俗で知り合った女だった。名前をユメと言った。
他の女たちと同じように、ユメは胸元がほんの少し見える、きわどい服を着ていた。
けれどもユメのからだは欲をさそうとは言いがたく、小学生のように小さくて平坦だった。髪が真っ白で、あちこちに跳ねていた。顔は、うつくしかった。
捨て猫のような女だった。指名すると、数秒かたまってこちらの顔をじっと見つめる。それから、おずおずともしずしずともとれるような動きで、卓に向かってくるのだった。
ユメの髪は、あまいにおいがした。金木犀と無花果が混ざったようなにおいだった。
ユメは、客が話していれば、いくらでもきいた。すなおに、健気に、やや身を乗りだしていつまでもきいていた。自分の話をしろと言うと、こまったように口ごもった。
「わたし、自分の話をするのって、きらい」
ユメは小さい声で言った。水をはじいたような声だった。
ユメの客は少なかった。物好きか、なんでもいいか、顔しか見ていない連中。あるいは、多少の小児性愛の気がある者。ユメを見ていると、幼いなにかを相手にしているような気持ちになるのだった。
「彼氏はいるの」
いつか、そうきいてみたことがある。ユメはびっくりしたようにかたまって、唇をふるわせ、慎重にことばをえらび、答えた。
「いないけど、同居している男の人はいる」
それを彼氏っていうんじゃないの、という顔を、彼女の隣にすわっていた女の子が、した。ユメはうつむいていた。
「そのひとは、どんな男のひとなの」
ふたたび問うと、ユメは小さくガイジンさん、と答えた。酒をつくっていたハーフの女の子が、ちらりとユメを見、すぐにそらした。
「外国人?ふうん、どこのうまれ」
「たぶん、イギリス」
「背は高い?顔は?」
「高いわ。顔は——すっごくきれい」
すっごくきれい、と言ったユメの表情は、とろけなかった。惚気ているようには見えない。あいかわらず、途方に暮れた子供、溶けかけたプリン、そういったものの顔をしていた。
ユメの瞳のなかに、無数の魚が泳いでいた。ユメの灰色がかったうすみずいろの瞳の奥で、すいすいとながれていた。魚は金木犀を食べ、無花果色に染まって、ゆっくりと沈んでいった。
ハーフの女の子が、酒をはこんできた。ユメの前に置いたとき、蜜色のそれがほんの少しこぼれた。ユメはさりげなくおしぼりで隠した。
それからは、自分の話をした。ユメはほっとしたように、あるいは何も感じていないように、聞き役に徹した。もう瞳に魚はいなかった。かわりに、鏡のように、透明な水のように、目の前のものをただ映しだしていた。
帰りぎわ、ユメは、また会いにきてねと、彼女にしてははっきりした声で言った。瞳がゆれていた。また来るよと言ったら、桜が咲きこぼれるように笑った。
それきり、店に行っていない。
ペット
微嘔吐表現注意
スーパーでキャットフードをかう。この前のは気に入らなかったようだから、ちょっと高いやつにする。パッケージが白猫なのがよかった。アイツと同じだから。
レジで並んでいると、「そのキャットフード、いいですよ。食いつきが違うんです」と声がした。ふりむけば、いつもペット関連の売り場で会う女のひとが、にこにこと俺に笑いかけていた。彼女の買いものカゴにも、同じキャットフードが入っている。
「そうなんですね。はじめてかうんで、よかったです」
「ほんと、これしかたべなくなって、こまってるくらい。おたくの子も、結構グルメちゃんですか?いつもちがうのかってますもんね」
そうきかれ、俺は少しおどろく。よく見ているひとだ。
「ええ、うちのはかなりわがままで。でもつい甘やかしちゃうんですよね」
「ああ、わかります…おたくの子、きっとかわいいんでしょうねえ」
女のひとはうっとりと言う。俺はアイツの顔を思い出しながら、「とっても」とこたえた。
家につくと、床をひっかく音がした。またか、と思わず苦笑する。
「ただいま、ユメ」
言いながら、リビングの明かりをつける。ユメが俺を見あげ、座りこんだ。
俺が帰ってきたらおすわりするようにしつけたのが、功を奏したらしい。いい気分になって、かってきたばかりのキャットフードをとりだす。ま新しいパッケージにひかれてか、ユメは目を見ひらいた。
「今日はちょっと高いのをかってきたんだ。きっと気に入ると思う」
俺はユメ専用の赤い皿をとり、キャットフードのパッケージをひらく。いかにもエサらしいにおいがふわっとひろがった。茶色で、ひとつひとつが小魚の形になっている。
「ほら、魚のかたちしててうまそう。おあがり」
ざらざらと皿に出してすすめると、ユメはおずおず皿に口をちかづけた。二口、三口と口に入れて咀嚼し、飲みこんだのち、すぐに吐いた。
「あちゃー」
これもだめか。仕方ないなあと俺は笑い、咳きこむユメの背中をさする。ユメの目には涙が浮かび、吐いたものの上に落ちた。
ユメは俺のペットだ。ただし、猫ではなく人間の。
ユメを飼いだしたのはいつ頃だっただろうか。もうおぼえていない。きっかけも。ただ、ユメがひどく怒っていたのと、泣いていたのはおぼえている。
逃げると困るから、首輪と足枷をつけている。性行為のそういうプレイで使うような、ネットで探せば手に入る代物だ。そんなでも、ちゃんと効き目はある。しっかり躾をすれば。
俺はとにかく、ユメは人間より猫の方が似合っていると思ったのだ。だってユメは、真っ白でふわふわしてて、気まぐれで、人間よりよっぽど猫に近い。
ユメの吐物を片づけながら、俺はきいた。
「おまえさあ、名前なんだっけ?名前の漢字」
ユメは部屋の隅で固まりながら、かぼそい声で答える。
「…結瞳。結うに瞳で、結瞳」
「ふうん。かわいいね」
でもさ、と言いながら、俺は立ち上がる。ユメが怯えた目をする。
「おまえにはもったいないよ。結うも瞳も」
そう言って、俺はユメの頬を殴る。腕を、腹を、胸を、殴る。ユメを傷つけるたび、俺はみたされる。
仕方ないよな、男はときどき、暴力的な気分になるんだって、科学的に証明されてんだから。おまえだって昔は、生理だから仕方ないでしょって、よく言ってたもんな。
ユメは俺のペットだ。とってもかわいい。
愛のやり方
「おれたちはさ、オープンマリッジにしよう」
ヒロと私、結婚するとき、ヒロは平然とそう言った。
「なにそれ。結婚式をみんなに見せるってこと?」
「ちがうよ。なに言ってんの」ヒロは笑って、とんでもないことを続けた。
「オープンマリッジっていうのは、お互いに浮気してもいいよっていう結婚のこと」
私はびっくりして、あんまりびっくりしたから、ヒロの顔をまじまじと見つめた。
ヒロの言葉は、まるでヒロではない別の誰かが言ったようにきこえたけれど、つまり私はこの瞬間、ヒロがヒロでないように思えたのだけど、目の前にいるのはまちがいなく彼で、まぎれもなく私が好きになったヒロなのだった。
「私が他の男のひととデートしたり、寝たりしていいってこと?」
「そうだよ。そのかわりおまえは、おれが他の女の子と浮気してもなにも言わない。どう?よくない?」
ヒロはうかがうように私を見た。その顔が仔犬みたいで可愛かったのと、どうしてもヒロと結婚したかったので、私は「うん」とうなずいていた。
結論から言うと、オープンマリッジはわるくなかった。
ヒロがあたらしく彼女をつくったときや、忙しくて家でゆっくりする時間がないときを見はからって、私は浮気した。ヒロが浮気して私はしないというのは、なんだか癪にさわったからだ。
男の人はみんな優しかった。遊び方をよく知っていて、決して本気にはならず、女の子の扱いをよく知っている人たち。夫に浮気されて、と言えば、それはつらかったね、かわいそうに、と甘い言葉をかけてくれる。触れられて拒まなければ、期待どおりに事はもつれこむ。
掴んでも振りほどかない女を、彼らは選り好みしない。ひとしく、やさしく、いいようにつかう。本当は彼らからもすこし憐れまれていることはわかっていた。でも、欲がみたされるなら、かまわない。
ヒロも同じようなものだっただろう。気ままに女を捕まえ、あそび、ときにはあそばれて、帰ってくると私のご飯を食べる。
都合のいい女だと思われているのかもしれない。でもいいのだ。結局のところ、ヒロのシャツをアイロンして、ヒロのシャンプーを買い足し、ヒロが食べるものをつくっているのは、この私なのだから。
私たちは、それでも夫婦なので、ときどきは正しく自分たちでした。ヒロは優しくて、痛いことなんか全然しなくて、だからそれ以上もなかった。毎度だいたいおなじ、いつも以上に昂ることも、乱暴にされることもない。つまらないと言ってしまえばそれまでだけど、そう思うのは悲しいことに思えたから、いつもよかったと思うようにしていた。
あるひ、ヒロは私を腕のなかにおさめて、ぽつんと言った。
「おまえさ、自分のことを、おれのものだと思ってる?」
言い方があまりにもひとり言っぽく、また、むずかしい問いだったので、私は少しおくれてこたえた。
「ええと、わからない。ヒロは自分が私のものだと思うの?」
「思わない」
ヒロは即答した。そのことに、私はまったく傷つかなかった。自分でもふしぎなくらい。
愛しているのに、心から好きなのに、ヒロが私のものであってほしいというきもちは、湧いてこない。
かといって、自分がヒロのものでありたくないかというと、それはやっぱりわからなかった。
「おまえはおまえ、おれはおれ。結婚してても、互いのこと好きでもさ。そういうのって、成り立つと思うんだよな」
ヒロは自分の意見を淡々と述べるように、もしくは言い訳するように、ぶつぶつとそう言った。私はおかしくて、少し笑った。
「なにがおかしいの」
「だって、なんか言い訳してるみたい。心配しないでも、私は今のやり方になんの文句もないのに」
私が言うと、ヒロは安心したように、からかうように、楽しげに囁いた。
「おまえと結婚して、ほんとによかったよ」
私も、と心から思う。ヒロと結婚してよかった。こうしてヒロの心地いい体温を感じて、都合よく遊んで、最後には夫婦という肩書きがのこる、この生活ができるのが幸せだった。
くだもの
高校卒業のときから連絡をとっていない友だちから、結婚したと報告するLINEがきた。
ゆめちゃん、元気してる?また3-Eのメンバーで会いたいねぇ——…
彼女らしいあかるい文面に、変わっていないなと笑みがこぼれる。そうだね、絶対また会お——四角いひらがなの群れをタップしているあいだ、否応なしに彼女のメッセージが目をひきつけてゆく。3-E。高校生活最後のクラス。
やわらかく落下するように、意識が記憶に引きずりこまれた。
学校、ときいて思い浮かぶのは、体育館だ。ひろいのに閉じていて、空気はうすいのに密度が高く、饐えた甘いにおいがする。
学校は、みんな優しかった。
没個性な同じ服を着ているからこそきわだつ個々の身体的特徴と、芽生えたばかりの青い性。だれとだれが喧嘩した、あいつとそいつが付き合った、または別れた——複雑に絡みあった人間関係のなかで、生徒は互いにゆるくふれあい、相手の反応をうかがって、ながれるように変化していく。等身大の思想を持ってひとと関わるから、とうぜん傷つき、傷つけられる。それでも、みんな、優しかった。
わたしは女だから、必然的に、整髪料や、腕に巻いたヘアゴムや、スマホケースに挟んだプリクラや、極端にみじかい靴下、日焼け止め、リップグロス、コーム、そんなものを多く目にしてきた。
まるいお団子髪をふわふわのシュシュで飾り、桜の花びらみたいな爪にクリアジェルネイルをひろげ、顔まわりの髪をととのえる。
縁なしのカラコンを入れ、トーンアップの日焼け止めを塗り、笑いさざめいてコームを貸しあう。教師の目をぬすんで——おそらくぬすめていなかっただろうけど、どちらでもよかった——女子生徒は均一化されたかわいさをめざした。みんなおなじ、という快感を、知っているから。
わたし含め、多くの女子生徒は、群れて生活することに安心と快感をおぼえていたのだと思う。じぶんがじぶん以上に強く、大きなものになったような全能感。なにもこわくない、なにをしたっていい——そんなわかりやすい快楽の底には、わたしは群れからはぐれていない、そこなっていない、認められている、という、途方もない安心感がある。わたしたちはそれを、青春と呼んだ。
すこしだけ嘘をついたきれいな顔をつきあわせ、共通の話題で笑うその、どうしようもないくらい甘やかな快感に身をゆだねる。それがわたしたちで、ほぼすべての幸せだった。
女子があつまるところはいつも、腐敗したくだもののようなにおいがつきまとう。とても甘くて、苦いくらいに甘くて、少しの悪意と、結局はみんな仲良く、自分がきもちいい状態でいたいだけ、という幼さがまじって、はじけるような若さに発散される。
くだもの。くだすもの——くだものの語源に、わたしは女子を見る。甘くとろけて、結局は自分も他人も傷つけることでしか関わり方を知らない存在に、私は愛しさと、とても大きなやさしさを感じる。
指がすいと押した送信ボタンと、付随するメッセージ音に、意識がひきもどされる。
3-E。高校生活最後のクラス。あのクラスは、女子がすこしだけ多かった。だからわたしたちは、いつも甘くどろけたくだものでありつづけた。みんな幸せで、ふかく傷ついていて、群れる快感によろこんでいて、とてもやさしかった。
幸せだった、まちがいなく幸せだった、と思う。甘く饐えた高校生活は、私にとって幸せなものだった。
殺人
おさななじみが、人を殺したらしい。朝の報道番組でそうながれてきて、食べたばかりの目玉焼きが胃のなかでひっくりかえるような心地がした。
かれが殺したのが、かれの母親であるということにも、おどろいた。かれとかれの母親は、血がつながっていないけれど、仲はよかった。ネットでは「義理の母親だから愛せなかったのでは」もしくは「(母親に)愛されなかったのでは」などと憶測がとびかっていたが、とんでもない、かれは母親を愛していた。愛せないどころか、むしろやや過剰なまでに、母親に執着していた。母親はきれいなひとだった。とてもきれいだけれど、いつもどこか心ここにあらずといった表情をしているひとだった。
かれは殺したあと自首し、いまは拘置所にいるらしい。私はかれに会いにいくことにした。
「ひさしぶりだね」
そう言ってゆるく片手をあげたかれは、ぜんぜん変わっていなかった。人を殺したからとつぜん目つきがするどくなったとか、爪や腕がぼろぼろになっているとか、そんなところはひとつも見あたらなかった。髪はあいかわらず羨ましいほどつやつやだったし、やせ型の体型もそのままだった。顔色だけはわずかに青白い気がしたけれど、それは一面コンクリートむきだしの無愛想な部屋のせいかもしれなかった。
じっとりと重たい監視官の視線を感じながら、私はきいた。
「なんで、おかあさんを殺したの」
部屋の空気が一瞬、とまった。でも、息を詰めたのは監視官だけで、かれはとくに動じたふうではなかった。それでもだまっていたので、私は、愛していたんじゃないの、おかあさんのこと、とつけくわえた。
「愛していたよ」ようやくかれは口をひらいた。なつかしむような表情だった。私はすこし、かれのことがこわくなった。
「愛していたなら、どうして」
「愛していたからこそ、だよ」
かれは私のことばに重ねるようにして言った。ぱちりと瞬きして、つづけた。
「愛していたから、殺したんだ」
部屋の空気が、今度こそ完全にとまった。私は息を吸った。のどがふるえていた。
「意味が、わからない」
「みんなそう言うよ」
かれはちいさく息をついた。口角がかすかに持ちあがっていたから、笑っているのだと、一拍おくれて理解した。
「でも、ぼくには、みんなの方が理解できない。愛しているのにどうして、殺したくならないのか」
言いおえたとき、かれはもう笑ってはいなかった。かわりに、頰が杏のようにあかく紅潮していた。瞳孔がくっきりと見える色素のうすい瞳は、ガラスで隔たれた私の手のあたりを見つめていたけれど、たぶん本当は、なにも見ていなかった。かれの心は、ここにはなかった。かれの母親のように。
かれの顔はきれいだった。それで私は、自分がかれに恋をしていた時期があったことを思い出した。
「私、もう帰る」
「そう。また来てよ。どうせ他にはだれも来ないからさ」
かれは顔をあげ、ひきつれたような笑みをつくった。その笑みでさえ、うつくしかった。
帰りみち、スーパーに寄りながら、もし私が、かれを好きだから殺させてほしいと言ったら、かれは了承してくれるだろうかと考えた。私にはそんなこと、とてもできないけれど。
艶
満月の夜には、女装をして散歩に出かける。
おれはカレンダーに、月の周期を書きこむ。弓張月、十三夜、そして満月。
この日には、工場での仕事をいつもより早くきりあげて、呑みのさそいもことわり、まっすぐ家に帰る。納豆と米ときゅうりのいつもの夕飯を食べて、念入りに歯をみがいてから、化粧品をひっぱりだす。
パフをはたき、長い茶髪のウィッグをかぶって、最後にまっかな口紅をひく。
傷ひとつない鏡のなかに、まろやかな女の顔がうつっている。白い肌がもったりとした薄闇にうかびあがり、くろぐろとした瞳と紅い唇だけが、にじみだすようなひかりを放っている。
化粧の出来に満足すると、カシミヤのコートを羽織り、ヒールの高い靴をはく。姿見にうつったおれは、まるで口裂け女のようだった。ざくりと裂けた口をひらき、すべてをあんぐり食べてしまいたい。そんな考えにおそわれて、思わず笑った。
アパートの階段を降り、うすい群青にみたされた夜道をあるく。すれちがう人々は、だれもおれを女だとうたがわない様子で、平然と通りすぎてゆく。スーパー、レンタルビデオ店、焼肉屋。夜のまえぶれをながしこんだ街並みは、つくりばなしめいて見えた。ものがたりの登場人物。紙面にのみ住まうひとびと。
この世がそんなに平坦であればいいだろうな、と思う。自分が過去も未来もなりふりの決められた存在であれば。そうならおれは、もっと安らかに生活できるだろう。
夜は音もなく密度を増してゆく。遠くで鳴りひびくクラクションの音と、すれちがう人々の一瞬のさざめきを耳にしながら、大通りをはずれて小道をすすんだ。
植物を植えすぎた箱庭みたいなアパートの群れをながめてあるく。うちすてられた自転車のタイヤは大きくへこみ、どこからか焼きそばの匂いがした。
窓からあたたかい光がもれる住宅街をしばらく行くと、目的地の公園がある。
なんの変哲もない公園だ。錆びかけの遊具とそっけない水道と、古びたベンチがあるだけの。おれは迷わずブランコをえらび、腰かける。
キイ、と頼りなげに鳴いて、それでもブランコはゆれだした。地面をゆるやかに蹴るたび、靴のなかに砂利がはいりこむ。こどもの頃、ぴったりしたスニーカーをはいていても、きまってそうだった。どうして公園の砂というのは、やたらと靴にはいるのだろう。
とりとめもないことを考えながらブランコをこぐ。呑気でいるように見えて、夜中に大の大人が、公園で一人ブランコをこいでいるところをだれかに見られでもしたら、という不安がまつわっている。結局小心なのだ。
けれどその一方で、だれかに見つかりたい、という気持ちもある。そうして、れっきとした女だと、きれいな女だと、思われたい。
艶。あで。華やかさのなかに気品があるさま。おれはいつか、そうなりたい。
ブランコに飽きると、すべり台に目をつけたけれど、さすがにという気がしてやめた。もうかなりおそくなっていたし、コートが砂利まみれになるのは避けたかった。
帰りは、コンビニに寄ってのんびりあるく。いつ見ても高いやきとり串二本と、缶ビールを買った。
覧
F30。B1。F50。
パネルのサイズだ。白金、焦茶、モカの、色とりどりの髪みたいな木製のそれを、埃にまみれたパネル群のなかからえらびだす。
つかうのは、ケント紙か画用紙。画用紙は紙の裏表を気にしなくてはいけないから、私はケント紙の方が好き。
丸められた細長いケント紙と、腰のあたりまであるF30のパネルを抱えると、見かけよりも重い。
スケッチブックに自分本位の落書きをしていた頃とはちがうのだ。いまの私に求められているのは、目の肥えた審査員をうならせる絵画。緻密な写実性。
筆洗に水を入れて、ペンキを塗るときに使うような大きい筆を二本、取り出す。友達に手伝ってもらいながら、水張りをする。
パネルの四隅にケント紙を合わせる。1センチくらい余分に残して、切り落とす。裏返して、筆で撫でるように、紙に水を塗る。
そこ乾いてるよ、ちょっと、水多すぎ、これ破けるって——笑い合いながら作業する。来年はきっと、周りに頼らず、自分だけでできるようにならなければいけないだろう。
水を塗ったら、再度ひっくりかえし、折り目をつけた四隅に合わせて、紙をパネルに貼る。ここからが大変なところ。
黒い水張りテープに水をつけると、粘度がうまれる。パネルの縦と横にテープを貼って、完成。手早く貼らないと乾いてしまう。紙とパネルの間の空気を抜かないと、たわんで描きづらい。空気を抜きつつ、テープを貼る。四隅はしっかり引っ張って。破れるかな、と思うくらいでちょうどいい。
水張りが終わると、ようやく絵が描ける。
下書きを横に並べ、うつしとりながら、完成させられるだろうかという淡い不安に駆られる。
大した実力はないのだ。素描の授業を受けたこともないのに、写実性を求められたって。
不満はあるけれど、はじめてしまったらもう描くしかない。
線をひく。消して、またひく。ひいては消し、消してはひいて、紙の上にひとつの別世界をうみだす。
色をのせ、かざり、そこにあるものたちを息づかせる。描けば描くほど、小さな世界は重みを増してゆく。
本当は、絵を描くことが、そんなに好きなわけでもないのに。
作品をうむのは好きだ。でも、そこに至るには、描かなければいけない。
描かない人生なんてありえない。
キャンバスから、絵の具から、筆から、私は一生のがれられない。
紙面いっぱいに好きなものをえがく。それらが審査され、容赦なく落とされ、否定されてゆく。
だから、絵を描くのは、傷つくことと似ている。私たちが何ヶ月もかけて表現したものは、一日で否定される。
それでも、描かずにはいられない。
美術の世界で生きること。芸術のなかで生きてゆくこと。
芸術は美しい。そこで生きることは、快楽と陶酔をうむ。
だから、呪いのようだと思う。
高めれば高めるほど、おちてゆく。
私はまだ、その入り口に立ったばかりだ。
これからどんな深淵をのぞくのだろう。
傷つくと分かっていて、呪いのように、私は筆をとる。
夏休み
草を、むしる。
無心で、汗を垂らしながら、ぶちぶちとむしる。
繊維が引きちぎれる暴力的な感触。たちのぼる土の匂いと草いきれ。足を、腕を、むきだしの肌を刺すように生え茂った植物の群れを、壊して、むしりとる。
蝉が鳴いている。ジュワジュワシュワシュワミーンミンミーンミン。鼓膜から染みこんだ合唱が頭のなかで反響する。脳みそが蝉の声でみたされる。
体が溶けるんじゃないかと思うくらい、暑い。太陽はたかく、苛立ったみたいにぎらぎらとひかっている。視界を白く染め抜き、頭がぐらぐらしてくる。
汗がひっきりなしにふき出し、ぱたぱたと音をたてて地面に落ちる。目に入った一粒は、とてもしみた。
それでも手は止めない。土だらけの掌でむしり続ける。指先に草の匂いがうつり、肺が青苦く充ちる。むせかえるように濃厚なみどりの酸素で口の中が熱く、熱くなる。火照った頬を汗が滑り落ちて、ひりひりと痛んだ。
むしる、むしる、むしる。草を、花を、むしる。
腕を伸ばすたびにシャツが背中に張り付く。汗を吸いすぎた下着がじゅっ、とこすれて、火をつけられたみたいに熱を持つ。暑い、暑い、それでも。
もっと、もっと。むしって、ちぎって、壊して。
「ねえ、麦茶入れたわよお。あがってきなさい」
もったりと間延びした声が、がつんと頭を殴る。我に返って見あげると、二階の窓から母さんが顔を出していた。汗ひとつかいていない、涼しげなまん丸の顔。
立ちあがり、手を洗ってから二階へあがる。ぬるい水道水で、青苦い匂いはたちまち溶け消える。
「もおあんた、汗でびしょびしょじゃない。シャワーあびたら?」
うちわを使いながら母さんにそう言われ、曖昧に頷く。壊れかけのクーラーと風量の弱い扇風機で、汗がすうっと冷えていく。
ちゃぶ台に、ふたり分のお茶と、山盛りの落雁が載っていた。お茶には半透明の氷が三つ、浮いている。
母さんはぱたぱたと忙しくうちわを振りながら、落雁に手を伸ばす。一つ、二つ、三つ。口の周りに砂糖がくっついて、咀嚼のたびにちゃぶ台に落ちる。
お茶の入った湯呑みを両手でくるむと、ひんやりとした快い感触が伝わってきた。
見ていないような目で、そっと見やる。まだ長いままの煙草の吸いがらが、ざっと5本。甘くて煙たい匂いが鼻をつく。
湯呑みを見つめる視界の端で、母さんの喉がひっきりなしに動く。
暴力的な摂取。どこか生々しくて、直視できない。
たっぷりの煙草とお菓子。甘い烟と砂糖の塊に、母さんは依存している。
そこにはなにか危うい違和感が、とてもいやだという濃い手ざわりだけがあるけれど、言葉にはできない。したいとも思えない。
きっと母さんも、それにすがらなきゃ生きていけなかったんだろう。今までも、たぶんこれからも。
ごきゅごきゅと音をたてて母さんはお茶を呑み干す。そして、砂糖がついたままの口元をきゅっと歪ませて、僕に言う。
「一休みしたら、また草むしりお願いね」
ぼくはなるべく目を逸らしながら、でも逸らしていることが分からないように、こころもち顔を俯けて答える。
「うん、任せてよ」
はじまったばかりの、青苦いぼくの夏休み。
花死に
春靄がたちこめる花園は、むうっとするようなあまい匂いに充ちている。
小さなローズピンクの革靴が一足、こつこつと歩いている。靴からのびた白い足は、ふっくらと丸みをおびてワンピースの黒い裾をひるがえしていた。
外は粘こい雨が降る。でも大丈夫。花園は硝子のドームに守られているから。
思うがままに咲いた花々のあいだを縫って、こどもが歩く。しっとりと滑らかな艶を秘めてかがやく金髪は、持ち主の動きにあわせてさらさらとゆれる。
硝子のドームに雨滴が垂れる。湿った別れ話みたいな雨。吐息のような熱いあつい酸素が充ちる。
淡く甘やかな瓶覗、潤い滴るような唐紅、高貴に耀く孔雀緑。憂いをふくんだ牡丹鼠、華やかにいろづく金糸雀。
さまざまな彩りをたたえた花弁は、天にむかって自らのうすい羽衣をのばす。可憐で高慢なうつくしさ。
たかく気ままに茎をのばし、葉脈のはしる葉をひろげ、どこまでも成長してこどもに覆いかぶさる。
密度を増したあまい春靄がこどもを包み、じわじわと圧していく。真綿で絞められるような、ゆるやかな終焉。花死に。
こどもはたちどまる。息が苦しい。
茎が足に絡みつく。雄蕊が肌をなでる。花弁が誘う。此岸の先へ、終わりへ、なにもないところへ。
こどもはゆっくりと倒れこむ。ちいさな体の上を植物たちが這い、やがて見えなくなる。
小さな亡骸を呑みこんだまま、花園はしずかに繁殖を続けてゆく。
プール
透きとおったなまぬるい水のかたまり。ヤシの木に似て、でもたぶん違う種類の木。キラキラ白く輝く太陽。
親友とふたり、プールに来ていた。
ぬめってざらついたプールサイドに水分補給のペットボトルを置いて、そろそろとプールに足をつける。
思っていたよりずっとぬるくて、学校のなんか比にならないくらい浅い。思わず親友とふたり顔を見合わせ、「浅いじゃん」「ぬっる」とげらげら笑う。
二人ともラッシュガードを着ている。私は紺の、親友は白地にくだもの柄の。
二人とも浮き輪を持ってきていなかった。親友はゴーグルをつけて泳ぐ気まんまん、私は泳げないから、けのびの要領で水中を滑って足をつき、また滑る、をくり返すことにした。
平泳ぎをはじめた親友の横で、手足をのばしてすーっと滑る。これが意外と、楽しかった。
ごく軽いてざわりの水たちが、するすると後ろに流れるのを全身で感じる。気持ちいい、と思った。
でもそれも三秒とつづかない。私のからだは浮力に勝って沈み、足がついてしまう。もう一度。間髪入れずにまた滑る。
滑って、足をついて、滑って。ひとときのあいだ、私の世界は「滑ってついて」で構成された。他の動作は何ひとつない。
束の間の快楽。なまぬるい水の奔流にうかぶ、ぷちぷちとした泡のような快楽。ほんの一瞬肌をなでて、すぐに消える。
この時間が永遠につづけばいいのに、と思った。
同時に、癖になるのは苦しいことだから、今すぐやめたいと思った。
空を見あげながら泳ぐ。泳ぐといっても、滑っているだけだけど。
空は青い。いつもどおりの、何も考えてないときみたいな青。いびつにちぎれた雲によごされた、中途半端な青空。
いつもの青空。私の青春の象徴。
私は歪んだ形の雲を目に焼きつける。ヤシの木似の木々を、プールサイドで動きまわる人々を、泳ぐ親友を、しっかりと覚える。忘れないように。思い出せるように。
大人になったとき思い出したいのは、きっとこういう日々だと思うから。
一度プールサイドにあがり、水分補給する。親友が持ってきた緑茶も、私が持ってきた天然水も、レンジで温めたみたいにぬるくなっている。
まずかった。それがおかしくてまた笑った。げらげら。もう、この場に存在しているだけで面白い。親友と私、ふたりでいれば最強。ぜんぶ笑いとばせる。
そういう気持ち。無敵感。
笑いながら、青春とか幸せってこういうことなんだろうな、と思った。
ささやかな幸せ。手のとどく幸せ。指で触れられる幸せ。
ちいさな幸せで日々が構成されてゆく。それは最後にふりかえって見たら、とても幸福なことなんじゃないだろうか。
帰りにコンビニでアイスを買って食べた。気だるいからだに甘さとつめたさがおさまって、まだまだ泳げる気がした。
いやなきもち
実験的な小説
昨日は、というか日付はもう今日なのだけど、明け方まで起きていた。白む空を見て、朝じゃん、と思いながら目をとじたのを覚えている。
翌朝は12時に起きた。夏休みの自堕落な生活は、ぐずぐずとあまい。大好きだ。でも明日は登校日だから、早く寝て早く起きなければいけない。
登校日、と考えたら、いやなきもちになった。
いやなきもち。これを、分析する。暇だからすることにした。
まず前提として、私は学校が嫌いではない。女子はかわいいし、男子はやさしいし、先生はべつにこわくない。勉強も、まだ簡単。環境としては、かなりいい。
ただ、隣のクラスに嫌いな人がいる。そして、学校に行く日は、6時台に起きなければいけない。原因は、たぶんこの2つだろう。
それでは本題。いやなきもちとは、具体的にどんなものだろう。
いやなきもちは、吐きそうなときに似ている。
泣く寸前にも似ている。
お腹がすいたときにも、少し近い。
喉の奥がつっかえるような。かたまりが詰まっているような感覚。
前者2つは吐露、内側から発するものだけど、「空腹」は外側のものを欲する動きだ。いやなきもちというのは、爆発なのか、欲望なのか、はっきりしない。
それと、もう1つ。他人と私の「いやなきもち」は同じ感覚なのだろうか。こればかりはどうもわからない。
他の人は、いやなきもちになると、頭が痛くなるかもしれない。足が硬直するかもしれない。喉が詰まっているのは、私だけかもしれないのだ。
人の心はむずかしい。自分のものしか覗けない。自分のものも、変わったり、閉じこもったりして、断定ができない。
だから面白いと思う。もっと知りたくなる。人の心。きもち。
考えごとは時間が溶ける。こんなことができるのは、今日が休日だからだ。
明日は学校。気をひきしめる。喉の奥が、きゅっとした。
おじさん
ピノって食べたことありますか。
電車で隣に座ったおじさんに、そう聞かれた。
「ピノ」
鸚鵡返しをした私の声はひどく間抜けで、でもおじさんは真剣な顔で頷いた。
「ピノって、あのピノですか」「そうです、あのピノです」「アイスの」「そうです」
ありますよ、と答えながら、私はおじさんを観察していた。頭頂部が禿げている。青いTシャツを着ている。無害そうな、どこにでもいるおじさん。
おじさんは私の返事を聞いて、満足そうに頷いた。そうですか。はい。私も頷いた。私の前で立っている二十代くらいの男の人と、その隣でスマホを見ていた女子高生が、怪訝そうな顔で私たちを見た。でもその目はおじさんと私で微妙にちがって、私にむけられたのは、「変な人に絡まれて可哀想」の成分をふくんでいた。
おじさんは二人の視線を全く気にせず正面にむきなおり、私もふたたびだまった。
数分後、おじさんはまた話しかけてきた。
「アメリカのポストが、ぜんぶラムネに変わればいいと思いませんか」
「ラムネ」
私はまた鸚鵡返しをした。でも、今度はもう呆気にとられなかった。
「思いませんけど、爆発はあぶないと思いますよ」
答えながら、あれ、何を言ってるんだろう私、と思った。おじさんの「不審者とまではいかないけどちょっとそういう感じの人」オーラにあてられたのかもしれなかった。
おじさんはぱちぱちとまばたきをして、それから嬉しそうにほほえんだ。
「そうですか。爆発はあぶないですか」
「はい。あぶないです」
私は頷きかえした。車内は「そういう感じの人」が二人に増えたことで、おだやかにはりつめていた。
「そんなこともあったねぇ」
おじさんがなつかしげに目を細める。おじさんは今、私の夫だ。
ドーナツと被虐
短い
ドーナツを、指でゆっくりと圧す。コーティングされた砂糖の脆い硬さが、かすかに抵抗を返す。
糖衣でできた薄い皮膚の下には、小麦粉由来のやわらかい肉。
皿の上で私の指に圧されているドーナツを見て、このドーナツの運命は私が握っているんだな、と思う。
指で割るもよし。つぶすもよし。ナイフとフォークで切るもよし。このままかぶりつくもよし。公園の鳩にやったり、食べずに捨てたりという選択肢だってある。半分だけ胃に収めて、残りは冷蔵庫に放置したっていい。
私がそんなふうにすべてを決められる存在って、どれくらいあるだろうと考える。たぶん、そんなに多くない。
いつも、他人を傷つけてなお、自分のことすらままならない。傷つけることと傷つけられることのくり返しで育っていく。成長とはすなわち、傷つくことに慣れること。傷つけることに慣れること。
圧す指先に、少しだけ力をこめた。さり、と小さな音をたてて、糖衣が壊れる。
こんなふうに傷つきたい、と思う。
鮮烈な悪意を浴びたい。ドーナツを指で押しつぶすように、やわらかく抉られたい。
傷ついて壊された先に何があるのか、見てみたいから。
やわらかい弱いものを、そっと押しつぶした。