公開中
5話「無名の英雄」
「…**コル・ヒドラエ**」
---
世界は暗く、そしてどこまでも冷たい土の底から始まった。かつてその場所には、形もなければ言葉も持たない、ただの微小な光の塊があった。土の微精霊。
それが、世界に産み落とされた最初の姿。周囲を覆う土の温もりだけが世界のすべてであり、ただ微かに震えるだけの存在。やがて、長い長い歳月がその輪郭を削り出し、意思という名の灯火を宿すことになる。
肉体を持たない精霊は、世界を巡るために他者の体を借りる必要があった。最初に器となったのは、どこかの名もなき人間の肉体。初めて手に入れた手足、初めて見上げる空の青さ。
世界はこれほどまでに美しく、慈愛に満ちている。この世界を愛そう、人々を救おう、そのためにこの命のすべてを捧げよう。魔女教の穏健派と呼ばれる集まりに身を置き、困窮する人々に手を差し伸べる日々は、穏やかで満ち足りていた。
他者のために微笑み、他者のために汗を流す。それこそが、己が世界に存在する意義そのものであるはずだった。今から約百年前、旅の果てに辿り着いたのは、雪と緑に閉ざされたエルフの集落。
そこで運命は、かけがえのない二人の存在へと結びつけられる。集落の守り手であるフォルトナ、そして、まだ幼く愛らしい銀髪の少女、エミリア。
「ジュース! また来てくれたのね!」
と、小さな体を弾ませて駆け寄ってくるエミリアの弾んだ声が、静まり返った森に響く。その無邪気な笑顔を迎えるたび、胸の奥が確かな熱さで満たされていく。
「ジュース、いつも遠くからわざわざありがとう。みんな、あなたが持ってきてくれる物資を本当に心待ちにしているんだ」
と、フォルトナは少しはにかんだような、けれど深い信頼を込めた瞳でこちらを見つめていた。彼女たちのためにできることなら、どんな苦労も厭わない。冷たい差別の目に晒されながらも懸命に生きる彼女たちこそ、世界で最も優遇され、守られるべき尊き人々。肉体を持たないはずの精霊の身でありながら、その森で過ごす時間だけは、確かに心が生きていると感じられた。
しかし、そのささやかな楽園は、前触れもなく訪れた理不尽によって一瞬にして瓦解する。森の結界が乱暴に引き裂かれ、目の前に現れたのは、世界の秩序をあざ笑うかのような圧倒的な暴力。
「どうも。実に不愉快なところに僕を呼び出してくれたものだね。僕はただ、僕の権利が侵されない静かな世界を望んでいるだけなのに」
と、退屈そうに首を傾げる「強欲」のレグルス・コルニアス。そして、その傍らで残酷なほどに美しい微笑みを浮かべる「虚飾の魔女」パンドラ。
「はじめまして、ロマネコンティ司教。あなたのその健気な愛を、私はとても素晴らしいと思いますよ」
と、鈴を転がすような声が耳を打つ。突如として燃え上がる森、悲鳴を上げて倒れていくエルフたち。フォルトナが必死に武器を構え、エミリアを背後に隠して叫ぶ。
「ジュース、エミリアを連れて逃げて! ここは私が食い止める!」
と。だが、迫り来る圧倒的な力の前に、借り物の肉体は脆くも打ち砕かれ、地面に這いつくばるしかなかった。動かない四肢、溢れ出る血。このままでは、あの二人を守ることは叶わない。命に代えても、すべてを投げ打ってでも、力を手に入れなければならない。懐から取り出したのは、決して適合することのない呪わしい黒い箱。大罪の、怠惰の魔女因子。
「ジュース、やめて__! それに触れてはダメ__ッ!!」
というフォルトナの絶叫が鼓膜を破る。それを無視して、自らの胸へと因子の塊を突き立てた。肉体が内側から引き裂かれ、骨が砕け、黒い血が全霊から噴き出す。想像を絶する絶望的な激痛が魂を狂わせる。それでも、溢れる血の涙を拭うこともせず、黒い見えざる手を虚空へと解き放った。
死力を尽くした一撃がレグルスを退け、パンドラの姿を霧散させる。息を荒くし、泥と血にまみれながら、ようやく脅威を退けたと、最愛の者を守り抜いたのだと確信する。目の前には、胸を大きく貫かれ、鮮血に染まった怪物が倒れている。
これで終わったのだと、そう思った瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
「ああ、本当に見事な愛です。けれど、あなたが本当に倒したかったのは、その方だったのですか?」
というパンドラの囁きが、耳元で優しく響く。視界を覆っていた霧が晴れる。そこに倒れていたのは、怪物などではなかった。胸から血を流し、弱々しく息を吐きながら、こちらを見上げるフォルトナの姿。
自分の、この黒い異形の右手が、彼女の心臓を正確に貫いていた。フォルトナの唇が微かに動き、血を吐き出しながら、最後の力を振り絞って言葉を紡ぐ。
「ジュース……エミリアを……お願い……あなたを、愛して……」
と。その言葉を最後に、彼女の瞳から光が消え失せる。世界が完全に崩壊した。喉から出たのは、人間のものでも精霊のものでもない、獣のような掠れた絶叫。自分が何をしたのか。誰の命を奪ったのか。世界で最も愛し、守ると誓った女性を、この両手で屠ってしまった。脳の髄が沸騰し、精神を繋ぎ止めていた細い糸が、けたたましい音を立てて千切れ飛ぶ。
すべての記憶が、すべての純粋な誓いが、どす黒い狂気の色に塗りつぶされていく。引き裂かれた視界の中で、ただ一つの言葉だけがリフレインする。サテラ、愛、愛、愛。それ以外のすべてを失った器は、自らの顔を、皮膚を、肉をかきむしり、狂ったように笑い、そして狂ったように泣き叫んだ。こうして、世界を愛した心優しき土の精霊の記憶は、どこまでも深い絶望の闇の底へと沈み、二度と浮き上がってくることはなかった。
狂気の闇へと転落した肉体は、もはや「ジュース」という名も、それを形作っていた心優しき土の精霊の記憶も、すべてを忘却の彼方へと葬り去っていた。ただ一つ、魂の最奥に焼き付いた「愛(サテラ)」という妄執だけを道標に、異形の存在は新たな歩みを始める。
自らの顔をかきむしり、爪を血に染めながら、男は自らをこう呼んだ。魔女教大罪司教__「怠惰」担当ペテルギウス・ロマネコンティ。
かつて人々を救うために他者の体を借りていた精霊は、今や「見えざる手」を乱行させ、己の目的……「試練」を果たすためだけに、他者の肉体を「指先」として乗っ取り、文字通り使い潰すだけの化け物へと成り果てていた。幾度となく肉体を乗り換え、何十年という歳月をただ盲目的な福音の記述に従って彷徨い歩く。
その歩みの先に、かつて自分が命を懸けて守ろうとした銀髪の少女が、どのような運命を辿っているかなど、狂った脳髄が認識することは二度となかった。そして、時は流れ、福音書が新たな「試練」の刻限を告げる。導かれたのは、かつて自らの手で地獄へと変えた、あのルグニカ王国の東端にあるロズワール領の森。
そこに、魔女の寵愛を受けるにふさわしい、ハーフエルフの娘がいるという。洞窟の奥、薄暗い松明の光の中で、狂った男は自らの肉体をねじ切り、血を流しながら、歓喜に震えて叫び続けた。
「愛に! 愛に愛に愛に愛に愛に愛に愛に__! 報いなければならないの…デス!!!!脳が震える!」
と。そこに、一人の風変わりな少年が迷い込んでくる。魔女の残り香を濃密に漂わせ、けれど驚くほどに無力な存在。少年は、捕らえられたハーフエルフの少女……かつて「エミリア」と呼ばれた娘を守るため、泥をすすり、血を吐きながら、こちらの前に立ちはだかった。
少年は憎悪に満ちた目でこちらを睨みつける。だが、その程度の無力な抵抗など、怠惰なる「見えざる手」の敵ではなかった。少年の四肢を容赦なくねじ切り、その目の前で銀髪の娘の命を奪う。絶望に狂う少年の顔を見下ろしながら、ただ狂気的な嘲笑だけが洞窟に響き渡った。
しかし、歯車は狂い始める。何度命を奪っても、何度絶望の底に突き落としても、その少年は幽霊のように再び目の前に現れた。それどころか、次の瞬間には、こちらを狩るための冷徹な軍勢を引き連れて戻ってきたのだ。
王国の騎士たち、そして凄腕の傭兵たちが、一斉に牙を剥いた。幾度となく肉体を切り裂かれ、頼みの綱である「指先」の肉体たちも、一人、また一人と確実に潰されていく。追い詰められ、最期の肉体をも破壊された男は、霊体となってあの少年の肉体へと滑り込んだ。魔女の香りがするその器を乗っ取り、すべてを逆転させようとした、その瞬間。男の精神の前に現れたのは、焦がれ続けた、焦がれて焦がれて狂いそうになっていた、あの嫉妬の魔女の影。しかし、彼女が放ったのは、狂信者への抱擁ではなかった。
「あなたじゃない……違う……」
という、底冷えするような拒絶の囁き。その一言によって、男の霊体は少年の肉体から乱暴に弾き出され、荒野の地面へと叩きつけられた。もはや乗り換えるべき肉体はなく、霊体としての境界も崩れかけた男は、半ば千切れた醜悪な肉塊のような姿で、ただ這いつくばるしかなかった。
「なぜ……なぜですか魔女様ぁぁぁぁ! 私はこれほどまでに、あなたを愛しているというのに!」
と、血の涙を流しながら、なおも走り去る少年の竜車を追いかけて、狂ったように地面を這う。両足は折れ、両手は擦り切れ、ただ執念だけで進む器。だが、少年の冷ややかな視線が、上空からこちらを見下ろしていた。彼が手に持っていたのは空白のページを開いた福音書。少年は、そこに何かを書き込む。
「これでお前は終わりだぁぁぁぁぁ!!!!」
彼が福音書に書いたのは、「終わり」。確かにそう、血で記されていた。そして、激しい爆風とともに、男の体は竜車の車輪へと巻き込まれていく。骨が砕け、肉が潰れ、意識が完全な闇へと沈んでいく寸前、少年の容赦のない、けれどどこか哀れみの混じった声が、爆音の中で確かに鼓膜に届いた。
「じゃあな。ペテルギウス・ロマネコンティ。お前……怠惰だったな」
と。その言葉を最後に、世界を震撼させた大罪司教の肉体は完全に消滅し、狂気に塗りつぶされた長い旅路は、荒野の泥の中でひっそりと幕を閉じた。
---
「がぁ!?っはぁ…はぁ…」
「…?」
「…お前らなんだ?その目線は…」
「ねぇ。あなたは…」
「____」
「一体……誰ですか?」
「__は?」
6話次回予告
「なんかめんどくさい奴が来ると、色々とめんどくさいから早めにタイトルコールを済ましておく。次回6話「自称英雄 ナツキ・スバル」お楽しみに」
「ちょっと!?めんどくさいってどういうことかなぁ!?」