名前変換設定
この小説には名前変換が設定されています。以下の単語を変換することができます。空白の場合は変換されません。入力した単語はブラウザに保存され次回から選択できるようになります
1 /
目次
その子の笑い方
2025/08/27
初めてみた時、綺麗な子だなって思った。艶やかな長い黒髪、黒曜石のようで吸い込まれそうな瞳、華奢だけど芯がありそうな微笑みを浮かべていた。席が隣だったのもあって、私はその子と仲良くなっていった。毎日、一緒に下校して、途中の公園で遊んだ。寄り道はダメだと先生に言われていたけど、どうせ誰もいないし、夜まで公園にいるわけでもない。
今日も2人で下校する。
「最近、はまってるアニメがあるんだー。」私がニコニコしながら言うと、その子は小さく微笑んだ。それがなんだか大人っぽくて、私も大口開けて笑うんじゃなくて小さく笑うようにしよう、と思った。
「どんなアニメ?」その子が聞いた。例えるなら、穏やかな広い湖みたいな声だった。それもまた参考にしたくなった。「バトル系だよ。今、すごいはやってる。クラスの子達も話してたよ。知らない?」私が訊くと、その子は上品に首を傾げ、困ったように眉を八の字にした。
「アニメ、あんまり見れないから。」そっかー。私はアニメが大好きだったので、その子とアニメの話で盛り上がれないことが、残念でならなかった。
公園に着いた。滑り台や、シーソーや、ブランコがある。けれどそのどれもが錆び付いていて、たいして大きい公園でもないので、人は誰もいない。私たちはやはり錆び付いているベンチにランドセルを置いて遊んだ。15分ほどした頃から、その子は自身のキッズケータイをやけに気にするようになった。そろそろ時間なのかな、と最初は思ったが、それならすぐにごめんねー帰るねと言い出せるだろう。それにまだ4時にもなっていないのだ。「どうかした?」私が尋ねると、その子は画面から顔をあげ、口をもごもごとさせた。「あ、いや…。」その子は一瞬画面に視線を落とし、申し訳なさそうに私に言った。
「ごめん、私帰るね。」「えっ。なんで?」「ちょっと親が…。」その子はキッズケータイをポケットにしまい、ランドセルを背負って帰っていった。私は呆気に取られつつ、その子が、お母さんあるいはお父さんのことを「親」と呼んだことに驚いていた。「ママ」「パパ」「お母さん」「お父さん」と呼ぶのが普通ではないだろうか。それが親。その響きは冷たく、その子と家族との間に、距離や壁があるように感じた。
大人びているんじゃなくて、大人びなきゃいけないような理由があるのかも知れない。嫌な何かが心の底から湧いでていた。
弱々しい風が、私の短い髪の毛をすこしだけ揺らした。
次の日、学校に来たその子に、私は訊いた。「昨日、どうして突然帰ったの?」嫌なら、言わなくても良いんだけど。そう付け足すと、その子は「ごめんね。」と答えた。「親が荒れてたから。」俯きがちにその子は続けた。「あんまり詳しいことは言えないんだけどね。」と言いながら、ランドセルを漁りキッズケータイを取り出した。そして、それを操作し私に画面を見せてきた。
「メッセージ画面。お母さんとの。」私は息を呑んだ。その子のお母さんが送ってきたであろう文面に、驚きを隠せなかった。『あああああああああああああああああああああああああああああああああ』…。もはや文章ですらなかった。相手の叫び声が聞こえてきそうになった。目を見開いている私を見て、その子は再び「ごめんね。」と言った。キッズケータイをランドセルにしまう動作は、やっぱり大人のようだった。「いや…。大丈夫だけど…。」この状況で果たしてなんと言葉をかけるべきなのかわからなくて、私とその子の間には、しばらく沈黙が流れた。
その日、その子は早退していた。
放課後、私は久々に1人で下校しながら、その子について思考を巡らせていた。複雑な家庭環境なんだろうなぁと、そこまでは予想がついた。そこからだ。お母さんはどんな状態なのかとか、いろいろ気になるところはあった。が、さすがに根掘り葉掘り聞くわけにもいかないだろう。私が1人もんもんと考えていると、いつの間にか通学路ではない変な道を歩いていた。ボロボロのアパートや小さな家が立ち並んでいた。ここどこだろう、と慌てながら辺りを見渡していた時だった。ボロボロのアパートの部屋から、人が2人出てきた。私はそれをみて、思わずあっと声を上げた。艶やかな長い髪の毛、黒曜石のような瞳。大人っぽい微笑みではなかったけれど、すぐにわかった。その声で相手も私の存在に気付いたようで、驚いた様子で数秒固まった。
「み、美香ちゃん。」その子は女の人を支えていた。お母さんだろう。整えられていないボサボサの髪の毛、よれよれの服。この人があのメッセージを送ってきたのか。その子は女の人を支えながら、ゆっくりと歩いて私の方に来た。「どうしたの?なんでこんなところにいるの?」焦ったような、しかしやはり綺麗な声で、その子は言った。「ちょっと迷っちゃった。」女の人のことが気になったけれど、触れて良いのかわからず、無難な返事をした。女の人から酒の臭いが漂ってきて、思わず一歩、後退る。
「そう、通学路に戻りたいのね?そしたら、ここを真っ直ぐ行って、あの角で右、そしたらすぐに左に曲がって、しばらく歩いたら通学路に出るよ。手が離せないから、案内できないけど…。」その子はいつもとは少し違う、私のみたことのないような表情を浮かべた。「いや、いや、全然、ありがとう。」私がぶんぶん首を横に振ると、その子は大人びた微笑みを浮かべ、「じゃあ、明日、学校で。」女の人を支えながら歩き始めた。少しずつ、少しずつ遠ざかっていくその背中は、なんだかちょっと、寂しげだった。
「…また明日、また明日ね!」私は大きく手を振った。その子は振り返って、口角を上げた。小さくだけれど手を振りかえしてくれた。それは、大人びた笑顔なんかじゃない、疲れと、希望と、それ以外の何かが混ざった、その子だけの笑い方だった。
2026/07/17
きしょくわり。
冷めた視線はでもちょっとぬるい
まえがきわに
2025/09/18
「私にばっかり押し付けないでって言ってるじゃん!」
捺実が叫んだ。班活動で調べたことを、クラスメイトの前で発表する時間のことだった。うちの班の発表はぐだぐだで、席に戻りながら「ダメダメだったね。」と小さく笑い合っていた。捺実の大声に、クラスが水を打ったように静まり返った。そのあと一気にざわつき、クラスメイトの声で溢れかえる。「え、なになに?」「やば!キレてんじゃん。」いつもおとなしい捺実の大声は、クラスのみんなに大きな衝撃を与えたようだった。
「え、どうしたの、捺実?」捺実の幼馴染である遙が、動揺した様子で訊ねる。捺実はくちびるを震わせながらこぶしを握りしめた。「みんな何もしなかったじゃん。私が全部1人で調べてまとめたのに、なんで文句ばかり言うの。」私は何も言い返せなかった。私だけじゃなくて、班の全員が気まずそうに黙り込んでいた。全員、捺実に任せておけば大丈夫だろうと思って、何もしていなかった。捺実も「わかった、やっておくね。」と笑っていたし、不満を言われることもなかった。捺実はいつもそうだった。大人しくて優秀で優しくて、弱音を吐かない。だから強い人間なんだと思い込んでいたけれど、そうではないのかもしれなかった。「ごめん…。」班の誰かが言った。誰の声なのかはわからなかった。私の心がそんなことを判断する余裕もなかったからだろう。みんなの視線が痛かった。みんなに悪者だと認識されることへの恐怖とか、みんなの前で告発まがいのことをした捺実への苛立ちとか、罪悪感とか、焦りとか、そういうの全部が私の喉を締め付け、言葉を出せなくした。
捺実は深く息を吸って、班の全員を1人ずつ見つめたあと、心底軽蔑したような瞳で言った。「もういい。」そして踵を返すと、教室を出て行った。クラスメイトがまたざわついた。本来は事態を収めるべきなのにずっとあわあわと戸惑っていた担任が、捺実を追いかけていった。体から一気に力が抜け、私は自分の席に座った。私を責める捺実も、叱るであろう先生もいなくなったことに安心していた。「俺は謝ったのに…。」班の男子が、椅子に腰を下ろしながら小声で呟いていた。先ほど謝罪していたのは彼だったのだと理解した。私も謝っておくべきだったと思った。例え捺実の心に届かないような表面上だけの謝罪でも、謝ったという事実があれば、それだけで良いから。
Σ੧(❛□❛✿)←使ってる人あまりみない
いもうと
駄
2025/12/18 いもうと
妹が生まれた。お母さんは愛おしそうな目で生まれたばかりの妹を見る。壊れ物を扱うような手つきで抱く。私はそれが嫌い。お母さんだけじゃない、お父さんも妹に目をやるの。私のことなんてどうでもいいのかなって思う。もちろんそんなことはないんだろうし、誰も悪くないけど、けど、私は私から両親の視線を奪った妹が、ほんの少し嫌い。
「ただいまー」玄関のドアを開け、私は声を張り上げた。靴を脱いでランドセルをほとんど落とすみたいにして降ろす。「外さむかったあ。雪、降ってるよ」返事はない。お母さんと妹は、もしかしたら買い物に行ってるのかも知れない。ランドセルを引きずりながらリビングの方に行った。「おかあさ…」言いかけて、お母さんが床で寝ていることに気づいた。横には妹もいて、やっぱり寝ているので、たぶん妹を寝かしつける時に一緒に寝ちゃったんだろう。ちょっとつまんない気持ちになりながら、でも無理に起こしちゃいけないことはわかっているので、私は自分で自分のおやつを用意することにした。もう背伸びしないでも届く冷蔵庫を開け、プリンを一つとる。あと、スプーン。静かなリビングで食べてもあんまり美味しくなかった。
数分で食べ終え、暇になった私は、妹の顔を覗き込んだ。寝ている妹は、小さくて暖かそうでふやふやしていて、簡単に壊れてしまいそうだと思った。ちょっと興味が湧いた。憎いとまではいかないけど、ちょっとの怒りを込めてツンツンして、ちょっと仕返しみたいなことをしてやりたくなった。頬に触れた。柔らかい。簡単に形が変わる、マシュマロみたいだ。この鼻をつまんだらこの子は息ができなくなるんだろうなとか、息ができなくなったら、この子は死んじゃうなとか、頬をふにふにしながら考える。私は簡単にこの子を殺せてしまうのに、お母さんは全然私のことを警戒していないことに、変な罪悪感を抱く。私はこの子を簡単に殺せてしまうことに、恐怖も抱くの。
あんまり美味しくなかったプリンのカラメルが、喉の奥で甘味と苦味を増して気持ち悪い。甘いのに気持ち悪いなんて、初めてだ。私は自分の手を妹から離して、キッチンに走った。蛇口を捻ると水が勢いよく出てくる。手を洗う。石鹸を使って、何度も、念入りに、洗う。
作
途中1
田中くじら。転校生は俯きがちに自身の名を口にした。「え、名前、くじら?」という驚きの声がいくつか漏れた。
「田中さんの席はあそこ、窓側の1番後ろ。」窓側の1番後ろは、私の後ろの席だった。「教科書とかもう届いてるよね? まあ、届いてないのあったら隣の席の本田さんに見せてもらって。本田さん、お願いね。」くじらが小さく頷き、席に歩いたことを確認すると、担任は「じゃ、出欠とります。」と声を張り上げた。
1時間目が終わった後の休み時間、くじらの席の周りには誰もいなかった。ふつう転校生がやってきたらその珍しさに人が集まりそうなのに、なぜ誰も話しかけないのかというと、おそらくくじらが特段可愛くもなく、明るそうでも面白そうでもなく、猫背で陰気くさいから、そして、闇が深そうだから。
くじらという珍しい名前の由来は、クラスメイト全員が気になっているだろう。それでも気軽に訊きに行かないのは、この話題が彼女の地雷を踏んでしまわないか、不安になるからだ。きっとくじらが明るく親しみやすい性格なら、そんな心配はなくて、底の浅い質問が教室を飛び交っていただろう。
くじらが転校してきてから、1ヶ月が経った。いつも教室の隅の自分の席に座り、背中を曲げて本を読んでいる彼女に、友達はいないようだった。まあ、わざわざこんな暗そうな子と友達になりたいと思うことは、そうないのだ。
味の上書き
タイトルださ
2026/01/02
ぶすじゃん。
田山くんの好きな人を初めて見た時、そう思った。あくまで見たのは遠目からだから、近くで見たら美人なのかもしれないけど、その可能性は限りなく低そうだった。
あの子、名前は確か篠原だったか。篠原さんより、わたしの方がずっと綺麗だ。スタイルもわたしの勝ち。外見に注いでいる時間も熱量も、多分、わたしが上。声も__あの子の声は聞こえないけど__わたしの声がきもいわけじゃない。そもそも、わたしには特別な欠点はない。あの子には少なくとも、顔っていうどうしようもないような欠点があるのに。それなのに、田山くんはわたしではなくあの子を好きになったらしい。わたしは、自分の好きな人の思考回路が、急にわからなくなってしまった。
あの子のどんなところに惹かれたのだろう?確かに、あの子は人気そうだけど、今も友達と笑い合ってるけど、それは恋愛的にモテてるわけではないだろう。友達として、一緒にいて居心地がいいとか、そういうものなのではないか。だっていくら性格が良くったって、あの顔じゃ、男子の恋愛対象になるのはなかなか難しそうだ。
わたしは下唇を軽く噛みながら、自分の教室に戻った。
昼休み、わたしは友人に訊ねた。
「ねえ。隣のクラスの、篠原さんって知ってる?あの、ツインテールで身長が低い、あの子。」
知ってるよ、という返事は正直あまり期待していなかった。友人は可愛い方だけど、外交的なタイプではないからだ。しかし返ってきたのは意外な言葉だった。
「あ、けっこう話すよ。1年の時、同じクラスだったから。友達。」
「…ふーん。どんな子?」卵焼きをお箸でつまんで、口に運ぶ。わたしの家の卵焼きはちょっとしょっぱい。甘い方が、わたしは好き。
友人は楽しげな口調で言った。「優しいし、良い子。意外とノリいいしね。」わたしの眉がぴくりと動いたのがわかった。でも、ぶすじゃん。内心で反論した。誰にも言わないけれど。友人は続けた。「まあまあモテるらしいし。今彼氏とかいるのかな?てか、ゆみはなんで気になるの?」
わたしはその問いには答えず、ミートボールを口に放り込んだ。卵焼きのしょっぱさと、ミートボールの甘辛さが混ざって、独特な味が広がった。
「わたし、田山くんが好きなの。」唐突に暴露すると、友人は目を輝かせた。女子は恋愛話が大好きだ。
「へー、お似合いじゃん、2人。美男美女。」さっきのあの子の話なんてどこかに行って、わたしと田山くんが褒められてることに、優越感を抱いた。だよねだよねと思い切り乗っかりたい気持ちを抑えて、控えめに口角を上げてみせる。「告白しようか悩んでるの。」友人は、絶対成功するって、と根拠のあるようなないようなことを口にした。
田山くんにわたし以外の好きな人がいることなんて、そしてそれがぶさいくなあの子だなんて、考えもしていないみたいだった。
うん。そうだよね。わたしはミートボールをもうひとつ食べた。卵焼きの味なんてすぐ消えて、甘辛さだけが残った。
(><)
通学路
2026/01/05 通学路
電車に乗り込んだ。席は空いてない。まあ朝の満員電車なんだから当たり前だ。吊り革につかまりぼうっと外の景色を眺める。なかなか動き出さない電車、変わらない景色、ほんの10秒程度で飽きて視線を少し下に落とす。前の人のカバンにキーホルダーが揺れている。知ってるキャラクターだった。何年か前に流行ったやつ。名前は知らない。3文字だったという記憶はある。最近はもう全然みないし。電車が動き出した。体が横に揺れないよう足にグッと力を入れて立つ。これが地味にキツくて、席に座れている人が羨ましくなる。体の前で抱えるようにしている通学リュックが重い。中には教科書やら参考書やら辞書やらが入っている。学校のロッカーに置いておくこともできるけど、家で勉強するわけだから、持ち運ぶしかない。
目的の駅で降りた。学校に向かう。学校に近づくにつれて同じ制服の人が増えてきてなんだか愉快な気分になった。校門をくぐり校舎に足を踏み入れ、下駄箱で靴を履き替える。私の教室は1階にあるので少し廊下を歩けばすぐに教室に着く。自分の席に座ると、前の席の友人と、自然と会話が始まる。
「今日、メガネ忘れて、黒板何も見えないんだけど。」「えーどうすんの。」「ノート見せてくんね。」「えー。まあ考えておく。てか、さっき電車で、なんか結構前に流行ったキーホルダーつけてる人みたんだよね。」「ふーん。ノート頼むよ。」「でさーずっと思い出せなくて、あれ、なんて言うキャラなんだろ。」「その情報だけで私がわかるわけなくね。」「3文字だった気がするんだけどな。」「名前が?」「うん。」「調べれば?」「なんて調べたら出てくるんかわからんもん。」「3文字の名前、何年か前にはやったキャラ、あと、見た目で調べたらいけるでしょ。」「見た目ー、なんか、クマみたいな、ウサギみたいな、それともゾウなんかな。水色ってことしかわからなかったし。」「水色のクマとウサギなんていないから、ゾウでしょ。」「でも1番最初に思ったのはクマなんだよね。」「てか、この教室さむくね?」「暖房ついてるけど、窓開けてるし意味ないよね。」「閉めたいけど閉めちゃだめなんだっけ?」「そう、きついよねー。」取り止めもない会話。
お昼休み。私は購買に向かった。購買は、私がどれだけ早く来れたと思っても、もう生徒で溢れている。どんなスピードで買いに来ている人がいるのか、いつも不思議だ。1番人気の焼きそばパンはとっくに売り切れで、私はメロンパンとカレーパンを買って教室に戻った。先にお弁当を食べ始めている友人の席に、自分の椅子を持って行って座る。カレーパンにかぶりついた。咀嚼し、飲み込んだ後、口を開く。「休み時間にあのキャラのこと、調べたんだけど、出てこなかった。」「キャラ?」「言ったやん、電車で前の人がキーホルダーつけてて、そのキャラが思い出せないみたいなこと。」「あー思い出した思い出した。私は黒板見えないことのが重大だったからさ。」「ノート見せてあげたでしょ。」「まあね。でも授業中に当てられたら答えられないし。」「で、そのキャラがさ、出てこなかったんだよね。」「いまさっき聞いたって。」「あんたもなんか調べてよ。」「いや、私はそのキーホルダー見てないし、共通認識がないじゃん。」「それは確かにその通りなんだけど。」カレーパンを食べ終えた。メロンパンの袋を開ける。甘い匂いが私の鼻をくすぐってきた。
放課後、私は電車に揺られていた。午後4時の電車は朝と比べてあまり人が多くないので、今日みたいに席に座れることもある。通学カバンからスマホを取り出し、検索アプリを開く。水色、クマ、キャラクター、1文字ずつ打ち込んで検索をかけてみる。フリー素材のイラストや、大して水色でないクマのキャラクターが出てきた。一応目を通したけれど、あのキーホルダーのキャラクターはやはりいなかった。やはりあれはクマではなく、ウサギかゾウだったのか。スマホを閉じて息を吐きながら顔を上げた。あのキャラクターが特別好きだったわけでも、思い入れがあるわけでもないし、絶対に名前を知りたいわけでもない。思い出せなくても問題はない。まあいっか、とスマホをカバンの奥に突っ込み、窓の外の景色を眺めた。夕焼けが綺麗だし、景色が動いているから、10秒程度で飽きることはなかった。電車の心地よい揺れが私の眠気を誘ってきた。寝たら起きれなくなるから、寝ないけど。
1️⃣
小説執筆の文字数稼ぎたかった!
今日は3文字しか書いてなかったらしいので、流石に3文字は…と思い。
中学生の頃だった。いじめられてる彼を、私は助けようとした。
助けようとした。
それだけだ。手を伸ばしかけて、やめた。
教室の真ん中で、バケツに入っていた汚い水をかけられた彼は、震えていた。
いじめっ子たちと傍観者である私たちは、彼を囲うように佇んでいた。私はほうきをぎゅっと握った。
こんなことはもうダメだ。私が変えなきゃ。
しばらく前から思っていたことだった。
数十秒か、数分か、誰も動かなかった。いじめっ子たちはくすくすと笑い声をあげ、他のクラスメイトは視線を彷徨わせながら延々と床を掃くような仕草をしている。
私は一歩、足を踏み出した。いじめっ子たちの視線が私に集中した。
ほうきの柄から手を離し、彼に伸ばそうとした。
私の行動を見定めるような視線。心臓がぎゅうと縮こまっていく。彼は助けを求めるような瞳を長い前髪から覗かせた。
あ。ダメだ。
いろんな感情が私にのしかかってきて、もう、ダメだった。重かった。倒れてしまいそうだった。
私が彼に手を伸ばして、彼が私の手を取って、それで、どうする?私は彼を、自分自身を犠牲にしてまで守れない。
私はいじめに耐えれない。
きっとここで彼を見捨てたら、私は助かる、いじめられない。
私は手を下げた。彼から視線を逸らし、一歩あとずさった。
いじめっ子たちが、急に、私を認めてくれたような気がした。
もう恐怖からは逃れられたはずなのに、汗はやっぱり、止まらなかった。
高校生になった。
いま、私のクラスでは、いじめが行われている。
高校生になったのに何も変わっていない。
その事実が、汚くて、でも、生暖かった。
ずぶずぶと沼にはまっていくみたいな感覚が、私は、破滅に向かっていっているようにしか思えなかった。
そしてこの認識は、たぶん、合ってる。私はこのままだと、どうしようもなくなる。
そこまで理解しているのに、沼から出ようと足掻けないのだ。
足掻いたら足掻いただけ、沈んでいってしまう。足掻く私を鎮めるように、沼から、手が伸びてくる。
足掻いたこともないけど、私はそれが、どうしようもなく怖かった。
「ねえ、はな、聞いてる?」
「え。」
ハッとした。目の前には、友人のユカリが不満げな顔を浮かべている。
ここは学校。いまは、ホームルームの前だった。
そこまで思い出した私は、ごめんと苦笑を返した。
「聞いてなかった。」
「もう。」
ユカリは可愛い顔をしている。むっと頬を膨らませても可愛いのは変わらない。平凡な顔立ちの私からすれば、どうやっても羨ましい。でもユカリは、顔なんて普通でいいんだ、というスタンスらしい。どうしてかは知らない。
「今日、日焼け止め塗ってくるの忘れて、ね、ちょっと貸してー。」
「べつにいいよ。体育の時でいい?」
「ありがと!」
ユカリの肌は真っ白で美しい。整った顔立ちに白い肌、まるで高級な人形みたいだ。
私が見とれそうになっていた時、教室に先生が入ってきた。それとほとんど同時にチャイムが鳴り響き、ホームルームが始まった。
先生の話をぼんやり聞いていると、ふいに、教室のドアが開いた。
「北山ー、遅いぞ。」先生が言う。
教室に入ってきた北山ゆずは、俯いたまま頭を下げ、自分の席に座った。どうしてか私の心臓が、彼女を見て、震えるように鳴った。
メモ→ゆかりがいじめてる奴の1人に好かれて(可愛いから)いやだねー。ゆかりちゃん過去にもこう言うことあったから「顔は普通でいい」スタンスなんだろうね。
あと北山はいじめられてる子なので、なんか、主人公が…罪悪感を…こう。
でも多分わたしは続きかけない。
ていうか「ゆ」から始まる名前ばかりだとわかりにくいね。
ほうきと熱
2026/01/10 ほうきと熱
あ、と思った時には、遅かった。私たち以外誰もいない音楽室の空気は、ひどく凍りついていた。目の前に立つマドノさんの顔からは、先ほどまでの薄い笑顔は消え、代わりに驚いたような焦ったような表情が浮かんでいた。
「何、怒ってんの。」マドノさんは眉を歪め口角を上げた。私の先ほどの大声を中途半端な笑いに変えることで取り繕い、表面だけでも整えたがっているのがわかった。私の首に、熱が集中している。熱い。私はほうきの柄を握りしめた。手のひらの汗のせいで少し滑った。「私、そのキャラ、好き。」先ほどの雑談でマドノさんに子供っぽいし可愛くないと笑われていたキャラクター。私の通学カバンにもそのキャラのキーホルダーが揺れていて、マドノさんは多分、続けて「でもゆうかはカバンにつけてるよねー、謎すぎ!」とか言うつもりだったんだろうと想像する。
私は俯いてほうきを動かした。首の熱さが顔にまで上ってくる。心臓が、耳の奥でどくどくと鳴っている。私の顔は真っ赤だろう、いつもだったらそれが面白いなんて笑われてたはずだ。けど今は笑われない。廊下から別のクラスの子達の笑い声が聞こえてくる。
マドノさんが大きく息を吸った。私は顔は上げないまま、視線だけをそちらに動かしたが、制服の襟までしか見えなかった。「ば、…は?…急にこわ…きもいし。」マドノさんは変に震えた声で言って、私と同じようにほうきを動かした。せっかく吸った息を、怒声ではなく細く長いため息として外に出していた。ぶつぶつと何か呟いているけど、私が聞き取れるような声量ではなかった。私の悪口か、文句か、内容がほんの少し気になったけど、知らなくても良いはずと思い直す。
音楽室にゴミはほとんど落ちていなかった。私たちは今までにないくらい、静かにひたすらほうきを掃いたけど、ちりとりに集まったのはゴミとも言えないゴミだった。マドノさんはゴミ箱にそれを捨てた。掃除の時間の終わりを知らせるチャイムが鳴り響き、私たちはロッカーにほうきとちりとりを片付けて、音楽室をでた。教室に戻っている時、マドノさんは私の三歩分ほど前を歩いていた。
春だね
ざつ
「春だねー。」
桜の木を見上げながら私は言う。
「リツナは西高、行くんでしょ?」視線を、隣を歩くリツナに動かして訊ねた。リツナは薄い黄緑色の瞳を私に向けながら頷く。私はその瞳が好きだった。どこまでも透き通っていて美しい。
「そう。ミナミは緑丘高校だよね、制服がかわいいところ。」
吐息のようで消えてしまいそうだけど、どこか芯のある声だった。私はその声も好きだ、耳触りが良い。「でも私よりもリツナのほうが似合いそう。」「そう?」「そうだよ。それに私は、西高の制服のほうが可愛いと思うし。」私の第一志望は西高だった。偏差値62、制服は今と同じようなセーラー服だ。偶然リツナも西高を志望していたので、2人で受かったらいいねという話を何度かした。けれど結果は、私だけが落ちた。仕方のないことだった。模試の点数も良いとは言えなかったし、テスト当日もひどく緊張していたから。それでも第二志望の緑丘高校には受かっていた。なので私は、今年の4月からそこに通うことになっている。
「手紙書こうよ。」リツナは静かな声で言った。「別の高校だし、会う回数とか減るだろうけど、やり取りは続けたいし。」私は背の低いリツナをみおろした。たぶん、150cmもないんじゃないだろうか。
「連絡先交換してるのに、手紙?」「…あ、たしかに。」「え、忘れてたの?」「一瞬。」ふっと笑いがこぼれる。ネガティブでもなんでもなく、リツナはいいなと思う。その性格が好きだなと思う。結局私は、勉強でリツナに置いていかれても、彼女のことが嫌いになれない。
「じゃあ、毎日メッセージ送るからね。」
「うん。」
風が吹いて、桜の花びらが光に滑るように舞った。私とリツナの入学式まで満開でいてねと、自分勝手だけど、心の中で願った。
ざつ
散文
(1/1)
友達と学校から帰っているとき、自動販売機があったので、何か買うことにした。私は自動販売機の前に立ち、どれにしようか、飲み物を睨むようにしながら考えた。甘いジュースが美味しそうだとまず思った。でもジュースは太るかな。しかし部活の後で汗を流したし、ちょっとくらい良いんじゃないか。あるいは緑茶か、いっそシンプルさを追求して水だろうか。ジュースと緑茶の中間っぽい炭酸? 隣でガコン、という音がした。友達はカフェオレを購入したようだ。「まだー?」急かすように言われ、私は慌てて緑茶を選んで買った。冷たい緑茶は、まあまあ美味しかった。
(1/1)
あ。これ美味しそうだな。コンビニに置いてある、肉が入ったおにぎりに手を伸ばしかけてやめた。何度見ても美味しそうなのに変わりはないけど、女子が肉ばかり食べてると、引かれたりしそうだと思ったから。代わりに、シャケが入ったおにぎりをとった。肉の次に好きなシャケ。
(1/13)
隣に座ってる子が消しゴムを落とした。私はそれにすぐに気づいたけど、隣の子のことがあまり好きじゃないから、視線をすっと逸らして、何も知らなかったことにした。しばらくして、ようやく消しゴムが机の上にないことに気づいた隣の子が、席から立ち上がり探し始めた。私も上半身を軽く動かして探すふりをした。数秒して私はあっと声を上げ、消しゴムを取った。隣の子に渡した。低い声でありがとうと言われた。私は黒板に向き直して、シャーペンを握った。
(1/13)
自習の時間。先生はしばらく席を外している。ちゃんと勉強してる子は6人程度で、鏡で見た目を整えてる子が2、3人、友達とこそこそ話してる子が4人くらい、私みたいにぼーっとしてるのが3人。それ以外の子は、何してるのかよくわかんない。
(1/13)
糖分補給でラムネを食べてたら、1粒床に落とした。3秒ルールということでサッと拾ったけど、一瞬食べるか迷った。でも結局食べた。普通の味がした。
(1/13)
学校の廊下を掃除してたら、画鋲が落ちてた。ほうきで軽く掃くと、思った以上に廊下の上を滑って私の方に来たから、ちょっと後ずさった。ちりとりで回収しながら、これってゴミ箱に捨ててもいいのかなとか考えた。考えた末、捨てた。
(1/13)
ご飯を食べていると、奥歯の方で砂を噛んだみたいなジャリッという音がした。え、砂?と一瞬嫌悪のような不安のようなものを抱いたけど、確認するほどでもないし、変な味がするわけでもないので、そのまま飲み込んだ。飲み込んだ後、なんだったんだろうと思った。
画鋲は燃えるゴミではないよ。
まあ小説ってフィクションですから。
小説では犯罪者主人公が肯定されて生きてることもある。
素敵なイナちゃん
水をかける描写があるけど、グロエロはないので
2026/01/17 素敵なイナちゃん
あなたに幸せは似合わないよ。だからあたしが不幸にしてあげるね。
さばーと水がバケツから落ちる音がする。結構好きな音だ。そもそも、水が好きなのだ、あたしは。イナちゃんは数秒かたまったあと、小さくほとんど吐息みたいに、え、と言った。ずぶ濡れの前髪をおでこにはりつけてあたしを上目遣いぎみにみた。恐怖とどまどいがそこに滲んでいた。「なに、これ。」イナちゃんはかすかに声を震わせた。あたしはバケツをトイレの床に置いて笑顔を浮かべた。
「イナちゃんには、不幸の方が似合うでしょ。」
あたしは不幸なイナちゃんの方が、かわいくて、好き。イナちゃんの白いセーラー服は濡れたことで透けて、下着がうっすらと見えていた。イナちゃんは涙を落とした。けれど水に濡れているおかげで、それが涙かただの水なのか見分けがつかなくて、それがよかったね、と思った。
職員用のトイレには人が来ない。イナちゃんは泣いてる。肩が震えてる。さっきは声も震えていたのを思い出し、泣くとなんでも震えちゃうんだなと気づく。イナちゃんの背は低く、体格は華奢で、性格もびびりなので、なんだか小動物みたいだ。あたしはイナちゃんを優しく抱きしめようとした。でもやめた。あたしまで濡れてしまうなんて、勘弁だから。あたしは可愛いイナちゃんを、ずっと見ていたいだけだから。
どれくらい経ったのか、チャイムが校舎に鳴り響いた。なんのチャイムだろう、と少し考えて理解した。下校完了時刻の10分前を知らせるチャイムだ。あたしはイナちゃんの肩に触れた。冷たかったはずの水は夏の暑さのせいで生ぬるくなっていた。無性に気色悪くてあたしはすぐに手を離した。「ねえ、帰ろうよ。」イナちゃんは声を出した。それが言葉なのか嗚咽なのかあたしにはわからなかった。首を傾げながら微笑んで、帰ろうとまた言った。イナちゃんは顔を上げると急に走り出してトイレを出ていった。ちょっと驚いた。数秒迷って、その背中を追いかけた。すぐに見つけた。イナちゃんはトイレを出てすぐある、階段のところに座り込んでいた。
あたしの姿を確認するとイナちゃんは顔を歪ませた。
あたしはそんなイナちゃんが、とても素敵だと思った。
可愛い名前シリーズ。イナちゃん。ツミちゃん。
あと、飯田さんって苗字の子どっかで出したいな。いつか出す。
嘘と熱、毒
まえがきわに
2026/01/22 嘘と熱、毒
朝。通学路を歩いていると地面に赤く鈍く輝く何かを見つけた。なんだろう。駆け寄ろうとしたが通学リュックが重くて走るのはしんどいから早歩き。歩道の端っこに落ちているそれは、おそらくピアスだった。触っても大丈夫そうだったから、あたしはしゃがみ手を伸ばした。小さくて硬くて、太陽光でキラキラと輝いていて美しい。あたりを顔をあげあたりを見回し持ち主を探そうとしたが、誰もいない。とはいえ交番に行って届けるのも、時間が厳しくて無理そうだった。とりあえずあたしが回収して学校が終わったら交番に届けようか。でも持ち主はピアスを無くしたことに気づいたらまず来た道を戻るよね。じゃあ、ここに置いておく方がいいのか。だけどそれはちょっと罪悪感がある。それに踏まれたらかわいそうだ。道の端にでも移しといたらいいかなって、それじゃ余計に持ち主が見つけにくくなるだけだろう。結局あたしは、学校が終わったら交番に届けようと思い、赤いピアスをスカートのポケットに突っ込んだ。小さいから、そのまま忘れてしまいそう。メモしなきゃと思いつつ、ペンはリュックの中だし、スマホも持っていない。頭の中でピアス、ピアス、ピアス、と繰り返しながら立ち上がり学校の方に急ぐ。
学校。休み時間、あたしは次の授業の教科書をとりに、廊下にあるロッカーに行った。スカートのポケットには、まだちゃんとピアスがある。
自分のロッカーから教科書を取り出して、教室に戻ろうとした時、視界の端に黒い服が映った。顔を動かしたら、隣のクラスから男子生徒が出てきて、地面やロッカーの上をキョロキョロと見渡していた。果ては、窓の枠まで。明らかに何かを探している様子だったので、窓枠を熱心に見つめている彼に、あたしは声をかけた。
「何、探してるの」彼は一瞬こちらをみて、またすぐ視線を戻して、答えた。
「ピアス。片方だけ。おれのじゃない」
その言葉に、どきりとした。スカートの中の赤が、主張し始めた気がした。「なんで?」少し困惑しながら、訊ねた。
うちの学校はピアスが禁止されているし、つけてくる生徒もまあいない。まだ、中学生だし。それに、つけてくるにしても、あたしの持ってる赤いようなやつは派手すぎる。耳につけていたらすぐに先生にバレてしまうだろう。だからきっと、これは彼が探しているものじゃない。そんな思考を巡らせる。
「なんで、ってなに?落としたからだけど」
「…じゃ、どんなの。見た目。何色」
「赤いやつ」
答え合わせみたいなものだった。あたしは頭に、毒みたいに鮮やかなあの赤を思い浮かべた。じわじわと、ポケットの赤が、熱くなっていく。ここでこれを出して、素直に「朝拾った」と言えばいい。
でもあたしには、それがなんだかとても難しいことに思えてしまった。今言うべきだと理解していても、手はポケットに伸びていかない。ただ、教科書の端をいじるだけだ。
「なんでいるの、あんたは」
彼に訝しげに問われて、あたしは焦った。焦った末、答えた。
「あたしも探してあげようと、思って。」
ああ、もう、ポケットからピアスを取り出して渡すことはできない。余計な嘘をついてしまったことを、すぐに後悔する。だがその嘘で心がどうしてか軽くなっていることも、事実だった。
彼は、あたしの言葉に驚いたように目を見開いた。好きにすればと小さく言い、別のところを探し始める。その態度に少しムカついたが、あたしは頷きだけを残し、教室に戻った。自分の机の上に教科書を置いた後、また廊下に出て、ピアスを探す。
しかしもちろん、あるわけがないのだ。あたしが持っているのだから。探すふりを20秒ほどして、あたしはふと疑問が浮かび、廊下の奥の方にいる彼に駆け寄りながら訊ねた。
「ねえ、ピアスって、誰のなの?その人はなんで、学校にピアスなんか持ってきてるのよ」
彼は顔をしかめながらあたしに向けた。ずっと思っていたけど、愛想がまるでない。普通の男子中学生って、こういうものなのだろうか。
「山下夏美」
呟くように言われた。知らない人だった。その山下さんがなぜ学校にピアスを持ってきているのかは、教えてもらえなかった。あたしは追求せず、ただ、山下さんは自分が無くしたピアスを他人に探してもらっているのか、と思った。
「てか、名前なに?あなたの名前」続けて問うた。
「は、知らなかったの?」「うん」
彼は視線を下に落としながら答えた。「佐田だけど」ふーん。あたしは身を翻し、廊下の端から端まで探しながら、自分の教室に戻った。次の授業がそろそろ始まる。
昼休み。友達とご飯を食べる。ポケットにはやっぱり、赤いピアスが入っている。
あたしはシャケを咀嚼し飲み込んだ後、口を開いた。「隣のクラス…か、わかんないけど、山下夏美って子、知ってる?」
友達は白米をお箸でつまみながら首を傾げた。数秒考えるような沈黙が落ちて、友達はあ、と声をあげる。
「知ってる。あんまり学校、来てないらしいけど。」
「え、なんで」
「え、知らないけど」
「そりゃそうか」
白米を食べる。シャケと一緒に食べた方が美味しいなと、咀嚼しながら思う。白米は甘いってよく言うけど、まあ確かに甘いけど、白米だけで美味しいと思えるほど、あたしの味覚は発達していないようだ。
昼食を食べ終え、あたしは廊下に出た。5時間目の教科書を取りに行くという目的もあるが、それより、佐田がまだ探しているのか気になったからだ。ロッカーから教科書を取って、彼の姿を探す。しかし廊下に彼はいなかった。流石に教室で友達と遊んでいるか、あるいは、廊下ではない別のところを探しているのか。あたしは無性に気になって、階段のほうまで歩いて行った。
彼はいた。階段の隅から手すりまで、視線をゆっくりと動かし探している様子だった。まだ、探しているのか、まだ見つかっていないのか。まあ見つかっていないのは当たり前だ。もう諦めてしまえばいいのにと、罪悪感を抱きながらポケットに手を入れてみる。このピアスを適当な場所に落として、さも今見つけたかのように「あった!」と彼に差し出してみようか。だけど、彼の探しようならこんな鈍く輝くピアスを見落とすわけはないし、あたしは演技が苦手だから、疑われるかもしれない。
あたしは結局、赤はそのままでポケットから手を出した。教室に戻るか、佐田に声をかけるか迷っていると、階段を探していた彼が顔を上げた。こちらを見た。目が合う。
「何?」
彼に問われ、あたしは慌てて、首を横に振る。何に対しての否定かはよくわからないけど。焦っていることを誤魔化したくて、口を開いた。
「て、ていうか、案外交番に届いてるんじゃないの?学校で落としてたら、目立つから誰かが拾って職員室に届けるじゃん、そしたらタブレットに落とし物の連絡とか、くるし、来てないってことは、外なんじゃないの」
唐突に早口で捲し立てられた彼は、ギョッとした表情を浮かべ、次に不機嫌そうに眉をしかめた。「もう行った。昨日行った」
「あ、そう」気まずい沈黙が落ちる。あたしはそれに耐えられなくなって、くるりと体を動かして、教室に歩いた。背中に彼の鋭い視線が向けられている気がして落ち着かなかった。けれど、ちらりと後ろを見てみれば彼は普通に探していて、あたしの自意識過剰だったことを知る。朝「あたしも探してあげる」なんて言っちゃったけど、全然探していないなとふと思う。だってあたしは、どれだけ探しても見つからないことを理解しているから。彼にとっては、嘘をついたやつでしかないんだろうけど。
放課後。あたしはいつもと違う道を歩いていた。交番に向かっているのだ。交番があるのは知ってるけど、落とし物を拾うことも、迷子になることもそうないので、あたしの記憶が間違っていなければ交番に行くのは人生で初めてだ。
交番に入ると、お巡りさんがデスクに座っていて、少し緊張した。ポケットから赤いピアスを取り出しながらあたしは声を出した。
お巡りさんの反応は驚くほど淡白で事務的だった。それが普通なんだろうけど、あたしの緊張はなんだったんだろうなんて思った。どこでいつ拾ったのか、謝礼をもらうかとか、持ち主が現れなかったらとか、そんなことを訊かれた。謝礼や所有権は正直よくわからなかったし、面倒くさそうだったので、大丈夫ですと答えた。ピアスで謝礼をもらっても、ちょっと恥ずかしいし。
あたしのポケットの中でずっと存在を主張していた赤いピアスは、お巡りさんの手によって無造作に袋に入れられていた。それが、よくわかんないけどズレてて、よくわかんないけど、目が離せなかった。
交番を出て、あたしはあまり歩いたことのない道で家に帰っていた。家が立ち並んでいる住宅街に入った。ここを曲がって、しばらく歩いたら、いつもの通学路に戻れるはずだ。あってるよね?足元にあった石を蹴りながら考えて、角を曲がる。すると、誰かの話し声が聞こえてきた。内容まではわからない。あたしが顔をあげると、前の方に人の姿があった。見慣れた制服を着ている。
佐田だ。
気づいて、心臓が跳ねた。彼は一軒の家の前に立っていて、誰かと話している。普通に考えて、その家の住人だろう。髪が長くて背が低くて、だから多分、女子だ。佐田が通学リュックから赤いファイルを取り出し、その子に渡す。また何か話す。
あたしは自然と止まっていた足を動かした。少しずつ彼らとの距離が縮まっていく。会話の内容が聞き取れるほど。
「__ピアス、探したけど見つからなかった」
「そっか」
あたしは息を呑んだ。でも、歩みは止めなかった。
佐田があたしの足音に気づいたようで、こちらに顔を動かした。その瞳が見開かれる。あたしは別に、悪いことをしているわけじゃない。わかってはいる。けれどもあたしが会話の内容を聞いてしまったことは、あたし自身にとっても、彼らにとっても、良くなかったなと思った。
あたしは彼らと普通に会話ができる距離で立ち止まり、喉の奥に苦味が広がるような感覚になりながら、言葉を探した。
「いや、偶然だから」
出てきた言葉は、言い訳のようで、余計にあたしがなにか悪いことをしてるみたいになった。
佐田の横に立つ私服の女子があたしを不思議そうな表情で見つめていた。その耳に、ピアス穴は開いていなかった。あたしは彼女が誰なのか、全然知らない。けれど、先ほど少しだけ聞き取れた会話と、視界の端に映る表札の「山下」に、あたしはあの赤を握りしめたくなった。
今日、佐田に嘘をつく前に、さっさとピアスを渡していたら、遠回りしなくて済んだのに。こんな会話聞かなくてよかったのに。そもそも佐田たちもこんな会話はしなくて、あってよかった、で終わっていたのに。この気まずさや苦味とは、全く無関係だったのに。
佐田は目を細め、ああそう、とだけ答えた。あたしは曖昧に頷いて歩き出した。彼らの横を通り過ぎてすぐ、佐田という表札のかかった家を見つけた。
あたしはなんとなく、スカートのポケットに手を突っ込んだ。赤はもうない。熱は感じない。ただ、厳しい冬の寒さが、少しマシになるだけだった。
うける
世界で1番綺麗なひと。
2026/02/05 世界で1番綺麗なひと。
世界で1番綺麗なひと。
あの子はただ教室に存在しているだけで、話すことはないし、動くこともない。消えてしまいそうに不安定に、でも確かに、窓のそばに立って微笑んでいる。
絶対、私の期待を裏切らない存在。どれだけ期待しても良い存在。
あの子の髪は、長くてこまかくてすうっとしている。柔い風が吹くと髪だけが静かに揺れる。髪色は、光によってかなり変わるけれど、薄い黄色か白。曇りや雨の日はどこか濁ったような、けれどあの子の一部と考えればどこまでも美しい色。晴れの日は、色というより輝きが目立つ。あの子から鋭い光が放たれているように見える。あの子の瞳は、大きくはない。小さくもないから平均なのだろうが、一括りに平均と言うことに違和感を覚えてしまうほど、存在感がある。瞳の色はなくて、黒目もない。白目があるから、瞳の位置を認識できるだけだ。あの子はスタイル抜群。きっとモデルになったら大人気だと思う。身長は170cmは超えているけれど、線は細く華奢で、強く触れたら折れてしまいそうな弱さがある。あの子の、ブレザーのせいで角ばっている肩が、私は好き。あの子のふくらはぎは、透き通るような色。健康的な太さがあって、輪郭が完成されている。
あの子には血が通っていない。あの子には体温がない。あの子は呼吸しないし、声をあげて笑うこともない。それでもいいの。それがいいの。それがあの子だから、いいの。
あの子は、私の理想。憧れ。期待。生きている人には向けられないほど、重い、愛。
私はあの子を、世界で1番綺麗なひとだと思う。私はあの子を、私が卒業するまで、いいえ、卒業してからもずっと近くに置いておきたい。いまはそう胸に置いている。
でもきっと、何年か後に私の中の「綺麗」が変わったら、あの子にはなんの価値もなくなる。
あの子は、世界で1番綺麗なひと。
いまだけ。
途中2
最近、私の小説の表現と似たようなのを他の小説でちょくちょく見かけることがあって(だいたい同じ人なんだけど)、偶然ならすごい。
名前出さないけどもし意図的だったらコメントください(^_−)−☆
「わたし、誰のことも好きにならないよ。」
彼女は夕陽の差し込む教室で、そう言って微笑んだ。私は教室に足を踏み入れることすら忘れて、微笑みに見惚れた。数秒して彼女の長いまつ毛が伏せられた。髪の毛がその胸元に落ちた。彼女がペンを筆箱にしまったのを見て私はようやく何か言おうとした。でも言葉は出てこなかった。開いた口をまた閉じた。私は少し俯いて教室に入った。自分の席の上に置かれている教科書を回収して、カバンを肩にかけている彼女に目をやって、すぐに逸らした。
彼女が去った後、教室の温度がいくらか上がった気がした。私は教科書をカバンにしまい廊下に出た。彼女の姿はどこにもなかった。
急に校庭から運動部の掛け声が聞こえてきて私は窓の外をチラリと見やった。なんかやってるな。それだけ思って視線を戻し、歩き出す。階段を降りて下駄箱に向かう。
もう書かないよ。「彼女」好きじゃない。「私」好きじゃない。
小説を書いているときにキャラに愛着が湧くことってないけどね。
途中3
小説書こうと思って途中まで進めたけどありきたりだし普通に面白くないから終わりです。
「高杉さんて、ノリ悪いよねー。」
ユミコが言った。それは意図的になのか案外大きな声で、私は内心で少し焦った。本人に聞こえてしまうじゃないか。チラリと教室の隅の席に座っている、高杉直子の方に目をやる。いつも通り1人で本を読んでいて、聞こえたのか聞こえなかったのかよくわからない。「せっかくあたしが誘ってあげたのに!」ユミコは不機嫌そうに続けた。子供みたいだなと思う。まだ中学生だし、子供なのだけど、カラオケに誘って断られたから、陰口を叩くのは、幼稚だろう。ユミコは自己中心的な性格だ。私やほとんどのクラスメイトは、それを、リーダーシップがあると勘違いしてしまっただけ。いや、勘違いではない。実際リーダーシップはある。同時に、わがままで、自己中心的でもある。
私はユミコの口から出てくるゾワゾワするような言葉に、曖昧に首をかしげるしかなかった。私はいつもこれでやってきた。相手からすれば物足りない反応なのかもしれない。でも、嫌われて突き放されるほどでもないから、これがいいのだ。
早く、チャイムが鳴ってくれないだろうか。次の授業はロングホームルーム。何をする予定だったか。ユミコの話を聞き流しながらぼんやりと考えていると、教室のドアが開き、先生が入ってきた。チャイムはまだ鳴っていないけれど、クラスメイトたちは各々の席に散らばっていき、私もそれを見て同じようにする。
ロングホームルームでは席替えが行われた。先生が事前に作ってきた表が学校用タブレットに送られてきて、それを見て、机をガタガタと移動させる。表を拡大し、私の名前を探す。右から左へスライドして行ったら、すぐに見つかった。廊下側の1番後ろ。前の席はまあまあ仲の良いクラスメイトで、安堵しながら隣の席にある名前を確認する。
「高杉直子」
そう書かれていた。
教室に、机が一斉に動くうるさい音が溢れる。言葉にするなら、ガタガタか。しかし「ガタガタ」よりもっと不鮮明でこもっていて、耳の奥で暴れるような音だ。
クラスメイトが机を動かし終え、この時間は自習になった。1人で机の上で完結する静かなことのなら、何をしてもいい、ということだ。私は数学の課題を解きながら、時々隣の席に視線をやった。
高杉直子は、やはり本を読んでいる。ページをめくる音が、数分に1回聞こえてくる。
放課後は、ユミコと数人の友人とカラオケに行った。高杉直子は無論、来なかった。
黒縁メガネのあなた
2026/02/18 黒縁メガネのあなた
それでも私みゆちゃんが好きよ。
みゆちゃんと初めて会ったのは中1だった。中学の入学式が終わった時にみゆちゃんの方から私に話しかけてきたのだ。初めてかけられた言葉を、私はもう覚えていない。私がその春にみゆちゃんと交わした会話で唯一覚えている内容は、みゆちゃんの視力が0.1もないということだけだ。だからみゆちゃんは、分厚い黒縁メガネをかけていた。
みゆちゃんと私は、いわゆるスクールカーストでいうと、少なくとも上位ではなかった。いつも2人だったし、身内ノリみたいなものしか持ってなかった。私は身内ノリをしながら、自分今イタいな、と思っていた。けれどみゆちゃんは楽しそうだから言えなくて、恥ずかしくない程度に合わせていた。もしかしたらみゆちゃんも、私と同じようなことを考えていたのかもしれないな。
中1の10月。私が風邪で数日学校を休んでいる間に、みゆちゃんと私の関係性は少し変わった。みゆちゃんは、私が事務的なこと以外で話したことのない子と少し仲良くなっていた。その分、私との距離は少し離れた。このままだったらみゆちゃんがどんどん離れていってしまう。そう直感して、でも引き留めるのは気恥ずかしくてダサい。私は何もしなかった。みゆちゃんは案の定、あっさりその子の方に行った。
中1が終わる頃にはみゆちゃんの黒縁メガネは無くなっていた。肌の色もちょっと白くなっていた。前髪の横の部分に、触角というものができていた。全体的に顔が少し華やかになっていた。
みゆちゃんと私は、もう友達じゃなかった。だって、私と目が合っても、みゆちゃんはにこりともせず何かを言うこともなく、すぐに逸らす。コンタクトが入った瞳は、メガネの時より濁ってる。逸らした後、みゆちゃんはたいてい、教室の真ん中で弾けるような笑い声を上げる。あの頃の潜めるような笑い声とは、全然違う。耳がキーンとなるような声。
それでも私はみゆちゃんが好きだ。
みゆちゃんは、決して完璧な人間ではなかった。気持ちが盛り上がったら声が大きくなって抑えるのが大変だし、みんなの前で発表する時は俯いてボソボソ話すようになるし、深爪しがちだし、私のお弁当のおかずを勝手にひとつ取っていくし、学校配布のタブレットで夢小説を書いたりしている。
だけどみゆちゃんは、ちゃんと「ありがとう」と口にするし、よく笑う。
私は、自分から懇願するのは絶対に嫌だけど、みゆちゃんとまた友達になりたいと思っている。
いつかみゆちゃんがなんらかの理由で孤立しても、私だけはすぐあなたの元に行く。言う。「それでも私、みゆちゃんが好きよ。」
もしそうなったら、みゆちゃんは前みたいに、分厚い黒縁メガネにしてね。
途中4
2025/10/28 無題
1話
「たな、か、あゆみです。早生まれで、あ、3月生まれです。すきな…いや趣味…は、読書です。好きな食べ物はお米で、ええと、嫌いなのは、なすとか…にんじんです」
まばらな拍手を聞きながら、自己紹介を終えた私は椅子に座る。
最悪だ。声は裏返るし、言葉は詰まるし、言うことに迷いすぎた。そのくせ声はでかくなってしまって、あまりにもちぐはぐだ。普通に自己紹介をすることすらできないのに、中学では明るい性格でいこうだなんて、無理なことだった。
私の次の生徒の自己紹介は迷いがなくて、声がしっかりしていて、面白くて、クラスに笑いが溢れた。比べるものじゃない。でも比べた。そしたら、もっと落ち込んだ。
胸の奥が自己嫌悪でぐずぐずになった。
チャイムが鳴り響いた。初めての授業が終わり、初めての休み時間がやって来た。
「田中さん」
山瀬緋奈。私は、私の名前を呼んだ生徒の名前を知っていた。私の前の席の子だから。実際今も、彼女は自身の席に座ったまま、体を捻ってこちらを見ている。
「なに」初めてクラスメイトに声をかけられ、心臓が1回だけ飛び跳ねた。
「もしかして、西小学校だった?」
私が通っていた小学校についての話だと理解するまでに1秒かかった。
頷いて、声を出すまでにさらに1秒。
「あ、う、うん」
彼女は私の返事に、ふーんと目を細めた。
「2年の時、同じクラスだったよ。…田中さんは覚えてないかもしれないけど」
にっこりと可愛い笑顔を浮かべた彼女に、好意を抱く。
「そ、う。そっか」
「うん」
同じクラスだったかは、覚えてなかったけど、でも、この子は優しいから、好き。
2話
小学2年生の時のことは、あまり思い出したくないなと思う。忘れられないだろうなとも思う。
1番覚えてるのは両親が離婚したことだ。当時の私は離婚なんて理解ができなかった。ただお父さんがいなくなった、私の苗字は水口から山瀬になった、それだけ。お母さんに「お父さんは帰ってこないの」と訊ねたとき、お母さんは激昂した。いつもは優しいお母さんがこんなに感情をむき出しにしたことが怖くて、それ以降お父さんの話題はタブー扱いになった。
次に覚えているのは、クラスメイトのことだ。確か名前は、田中あゆみ。私は彼女のことが嫌いだった。よくいじめられていたのだ。足を引っ掛けられたり、私の好きな人をみんなに言いふらされたり、私の苗字が変わったことについてもしつこく訊かれた。彼女からすればただの遊びだったり悪意のない疑問なのだろうし、きっと彼女はもう忘れているだろうけど、私は覚えている。嫌い。
中学に入学して、2日目。半日授業の日の朝のHRの時間。
後ろの席の生徒の自己紹介を聞いた時、胸の奥がざわっとした。
「たな、か、あゆみです」
かなり緊張しているようで裏返っている声は聞き取りにくかったけれど、理解はできた。
田中あゆみ。私の嫌いな元クラスメイト、いや、クラスメイト。
好奇心と悪意と怒りの混じった感情で、休み時間、私は彼女に話しかけた。
「もしかして、西小学校だった?」
もしかしてとつけたのは、あるいは希望だった。田中という苗字もあゆみという名前もありふれているから、私の嫌いな田中あゆみじゃない、全く関係のない田中あゆみなのかもしれない。西小学校出身で私と同じ学年で、名前が田中あゆみである生徒はただ1人だけだ。彼女が頷けば本人であると確定した。
否定してくれと心のどこかで願っていた。
「あ、う、うん」
願いは簡単に打ち砕かれた。私はふーんと薄く口角をあげた。無邪気に喜ぶなんてもちろん無理だったが、あの時の恨み晴らしてやるーと怒りを爆発させることだって同じくらい無理だ。
「2年の時、同じクラスだったよ」
そう伝えれば何か思い出すかもしれないと考えたが、彼女はそう、と気まずそうに少し首を傾げるだけだった。
性格が変わっているな。ぼんやりと、そう思った。
3話
「ひな」って、こう書くんだね。
山瀬緋奈のノートを見て私がこぼすと、彼女は薄い反応を示した。「ええ?ああね。」それはどこか嫌がっているようにも受け取れたので、私はそれから彼女の名前について何かを言うことをやめた。
中学校に入学して2ヶ月が経った6月の下旬、私はふと思った。
これが恋なのだな。目の前に座る彼女の、半袖からのぞく細く白い腕をぼんやりと眺めていた。HR中だが担任の話は何も頭に入ってこなかった。彼女が夏服で登校してきてから、私は内心で動揺が止まらなかった。今まで服に隠されていたその肌を直視することができなかった。彼女の高い位置で結ばれたポニーテールがわずかに揺れただけでも美しいと感じるし、彼女が口を開けて笑った時にちらりと覗く八重歯に胸が高鳴るし、彼女の手が私の手に触れた時などは小さく声をもらしてしまうほどだった。
しばらく前から、心のどこかでは気づいていたことだった。それでも私と恋愛を結びつけることに抵抗を抱いて、認めていなかった。どうして今このタイミングでするりと受け入れられるようになったのかは、よくわからない。もう認めるほかないと思ったのかもしれない。
チャイムが鳴り響いた。私が頭の中でぐるぐると恋だとか愛だとかについて考えている間にHRは終わり、1時間目が始まったようだった。数学教師が入ってきて、日直が号令をかけて、私の意識もほとんど無理やりそちらに向けることで、ほら、昨日と全く同じだろう。
この思いとの付き合い方について考えるのは、まだ先でいい。後回しでいい。だって向き合うことは怖いことだから。
4話
「田谷くんと南さん、付き合ったらしいよー」
そう言う話題を耳にするたびに、馬鹿らしいと内心で嘲笑っていた。中学生の恋愛なんてたかがしれている。どうせ数週間で別れるだろう。その程度の想いなのだ、大抵は。私は自分のその考えを信じて疑わなかった。
「ねー、山瀬さんって田谷くんのこと好きなの?」
クラスメイトにそう問われた時、心の底からはあ?と思った。全く、意味がわからなかった。田谷くんは私の2つ後ろの席に座っている男子生徒。そして今は他のクラスメイトと付き合っているようだ。どうして私がそんなやつのことを好きにならないといけないのだろう。私もその程度の人間だと思われていることに対してイライラしながら、しかしそれを表には出さず、あくまで笑顔で首を横に振った。
「好きじゃないよ。どうして?」
「だってー、田谷くんが山瀬さんのこと好きらしいから、山瀬さんはどうなのかなあって。」はあ、と言うほとんど吐息のような声がこぼれた。
「いや、田谷くん南さんと付き合ってるでしょ?」田谷くんのことはあまり知らないが、流石に二股をかけるほどではないはずだ。中一でそこまでのプレイボーイがいたら驚愕する。
「んー、別れたらしいよ。三日?くらい前に」
三日前に別れて、はい次の女、と言うわけである。気が変わりやすく軽薄な男だなと、一回も話したことのない彼の好感度がどんどん下がっていくのがわかった。
「…ふーん」やばいやつじゃん、と思わず続けそうになり、少し慌てる。「私は恋愛とか、興味ないかな」かなりオブラートに包んで、けれど気づかれるか気づかれないか程度の棘を混ぜて、笑って見せた。
恋愛なんて馬鹿げている、周りでカップルが増えていく中で私はその意見を突き通すつもりでいた。
それは意地なのかもしれなかった。
5話
好きな人が恋愛アンチであると知った時、私の心は何色に染まっただろう。
よく覚えていないなと首をひねる。
王道は灰色あたりだろう。灰色は気分が沈んでいる心情の象徴のようなものだ。でもあまり落ち込んだ記憶はなかった。と言って喜ばしかったわけでもないから、明るい色も違うだろう。悔しいとかもなかった。ただああそうなんだなと受け取っただけ、受け入れただけ。
はみ出し
駄作すぎる
2026/03/01 はみ出し
「マナカです。ヨロシクおねがいします。」
前の席の子がそれだけ言って頭を下げ、席についた。一拍おくれてまばらな拍手が起こった。下の名前は? あたしは少し視線を揺らしたあと、立ち上がった。用意していた自己紹介を、明るい声で口にする。「宮中あおばです! 趣味は、アニメをみることです。よろしくお願いしますっ。」パチパチパチ。さっきよりは大きい拍手に安心しながら座り直した。
*
「ミヤナカさんって、好きな色なに。」
休み時間に、前の子に聞かれた。体を捻ってあたしを真っ直ぐに見つめる、マナカ…なんとかさん。リュックに大量にキーホルダーをつけている、ボーイッシュな子だ。あたしは質問の意図が汲めないまま、きゅっと口角を上げて答えた。「お、オレンジ! です。」
マナカさんは目を細めた。感情の読めない表情に居心地の悪さをいだく。数秒の沈黙が流れる。彼女は言う。
「青じゃ、ないのね。」
名前はあおばなのに、好きな色は青じゃないんだね、そういう意味なんだろうと理解するのに、少し時間がかかった。「…あ、う、うん。言われてみれば、そうかもー。」曖昧に首を傾げ愛想笑いを浮かべると、マナカさんは体を前に戻した。…一体なんの会話だったんだろう。引きつった笑みだけがあたしの顔に残った。
*
中学に入学して2週間が経った。クラスでは、いわゆるグループみたいなものが形成されつつあった。けれどあたしは、ぼっちだ。なるたけ好印象になるよう頑張った自己紹介のおかげか、最初の数日は話しかけてきてくれる子もいたが、会話が続かなかったせいか離れていった。
あたしは少々焦っていた。中学生活をぼっちで過ごすのは嫌だった。ペア授業で余るのは気まずいし、友達と一緒に青春したいし、学校を休んだ時などノートを見せてもらいたいし、親に余計な心配をかけたくない。
誰か、まだどこのグループにも入っていない子がいないだろうか。騒がしい休み時間。そう思いながら、あたしは本から顔をあげた。
すぐに見つけた。まだ、どのグループにも入っていない子を。
「ね、ねえ! マナカさん。」
あたしは勢いよく席を立ち上がり、目の前の背中に声をかけた。マナカさんがこちらを振り返る、たった数秒のあいだ。心臓がうるさい。
*
「マナカって、漢字で書いたら真中でしょ。真ん中って意味の。でも実際は全然はみ出てるよね。集団から。」
通学リュックにつけている大量のキーホルダーが、私が歩くたびにじゃらじゃらと揺れる。
学校からの帰り道、私はそう言ってきた友人に笑いを返した。あんただって名前はあおばなのに好きな色はオレンジでしょ。たいした反撃でもないけれどそう口にすると、友人は肩をすくめた。
「テッパンネタ?それ。中1の時も言ってたよね。いま、中3なのに!」
傾き始めた夕日が、私たちの影を長く伸ばす。呆れたように笑っている友人に、「あのアニメ、今日からなんじゃないの。」と訊ねると、友人は知ってるよと声を弾ませた。
私はグループの真ん中にはいないし、友人も青い色を選ばないけど、それで特に困ることはなく、もうすぐ高校受験。
駄作すぎる
犬が話す日
結構前に書いたやつ
2025/09/22 犬が話す日
「やあ、僕はポチ。」
飼っている犬が急に人語を話し始めた場合、どう対処するのが最善なのだろう?私は思考を巡らせた。だが答えなどでない。なぜならそんな前例聞いたことがないからだ。
「はは。」思わず乾いた笑いを漏らすと、目の前の犬はまた声を上げた。
「信じられないっていう顔をしているね!」声に連動して口も動いているので、犬が話しているのは間違いがなさそうだが、やはり理解ができない。好奇心でも恐怖でもなく、純粋な困惑。そして世界が狂い始めたのかという、不安。
「ていうか、あなた、女の子でしょ。それに名前はココアでしょ。ポチって誰?」
私がなんとか言葉を絞り出す。途中からは案外スラスラと声が出てきて、喉を縛り付けられているようなそれは、勝手な思い込みであったのだと気づく。
「お腹が空いたよ!飼い主!」
私の質問を無視し、犬は話を進めた。私のことを名前ではなく飼い主と呼んでくるところにカチンとくる。
「まあ、はい。ご飯食べて。」
私は犬が話し始めた衝撃で止まっていた、餌入れにドッグフードを入れる手を再び動かした。犬が抗議するように言う。
「えぇ、人にドッグフードを食べさせるつもりなの?」
「人じゃない。」
「僕は人だよ!」
「人じゃない。」
「僕は人だよ!」
「人じゃない。」
「僕は人だよ!」
私が同じことを繰り返すと犬も同じことを繰り返す。なんだこの無駄極まりない会話はと思いながら、犬の前に餌入れを置いた。食べなかった。「食べないの?お腹空くよ。」どうやら拗ねた様子の犬はそれを無視してきた。ため息をつきながら、まあお腹空いたら適当に食べるだろうと、私は私の部屋に戻った。いつまでも犬の相手をしていられるほど暇ではないのだ。いや、この状況では犬の相手をするべきなのだろうか。
翌日、犬は相変わらず人の言葉を話していた。
「やあ、僕はポチ。」
「昨日も聞いた。」犬の朝ごはんの用意をしながら、適当に答える。昨日はいつの間にかドッグフードを食べていたようなので、今日も同じ調子でドッグフードを与える。
「信じられないっていう顔をしているね!」
「はあ?してないよ。」どこをどう見たらそう感じるのだろう。それとも犬なので、わからないのだろうか。
「お腹が空いたよ!飼い主。」
餌の入った餌入れを犬の前に置いた。犬はそれを見て、次に私を見上げた。抗議するような声をあげる。「えぇ、人にドッグフードを食べさせるつもりなの?」
昨日も同じことを言っていたなと、気づいた。
犬の方を見た。犬だった。ふわふわの毛があった。私は犬の体に触れた。まるで毛の塊みたいな犬。いつも通りのように思えた。手を埋めていくと、胴体に触れた。
冷たく、硬い、胴体。
翌日、犬は相変わらず人の言葉を話していた。
「やあ、僕はポチ。」
私は無言で犬の朝ごはんを用意した。
この犬は普通の犬と同じようにご飯を食べ、水を飲み、運動をし、排泄をする。そしてよく寝る。
「信じられないっていう顔をしているね!」
私は犬の前に餌入れを置いた。
「えぇ、人にドッグフードを食べさせる気なの?」
餌を餌だと認識すると、犬は抗議するように私を見上げた。
翌日、犬は相変わらず人の言葉を話していた。
「やあ、僕はポチ。」
犬の前に餌を置いた。それを認識すると同時に、犬は私を見上げた。
「えぇ、人にドッグフードを食べさせる気なの?」
私はそれを無視した。
翌日、犬は相変わらず人の言葉を話していた。
「やあ、僕はポチ。」
それから、言った。
「明日、地球がなくなるよ。」
犬の朝ごはんを用意する手が、止まった。
「え?」思わず聞き返すも、犬が私の方を見ることはなかった。
「明日、地球がなくなるよ。」犬は同じことを繰り返す。
翌日、犬はいた。人の言葉を話すことはなかった。
横たわっていた。動かなかった。毛は全て抜け落ちていた。シルバーの胴体に、何かが写っていた。数字だった。
00:01:00
それは減っていった。00:00:59、00:00:58、どうやら59秒、58秒ということらしかった。
タイムリミットなのだろうと思った。
私は犬の横に寝転んで、目を瞑った。宇宙というものを想像して、心を躍らせていた。
私の作品の中では平均ちょいした。50点だ。
タイトルがいいです!好き。タイトル効果で15点くらい加算。
アイデアで35点。
制服
ひまつぶし
ひつまぶし
2026/04/05 制服
制服が好きだ。
制服に身を包む。そうすると、わたしは「高校生」になれる。
だからわたしは制服が好きだ。例えばバス停でバスを待っているとき、制服を着て通学カバンを背負っていれば、他の人は「あ、中高生が登校しているんだな」とわかるし、わたしはそれを裏切らないようにしていればいい。簡単なことである。普通に過ごせば良いだけなのだ。
だからわたしは制服が好きだ。周囲からの視線に悩まなくていいから好きだ。行動が多少幼くても、失礼でも、学生なのだから仕方ないと解釈されるところが好きだ。
学校からの帰り、バスに乗り込むと、制服を着た誰かがいた。中学生か高校生か、どこの学校か、そんなことは何もわからないけれど、制服というだけでわたしは彼女を仲間だと認識する。きっと彼女も、仲間とまでは思っていなくても、わたしに警戒心をいだくことはないはずだ。
降りるべきバス停に着いて、わたしは人を避けながら前方に歩いた。制服の彼女はまだ座ったままで、動きが特にないところを見ると、もうすぐ降りるというわけでもないのかもしれない。それに少し距離を感じる。物理的にも精神的にも遠いことを理解する。
スマホをいじったままの彼女をみて、ふと、彼女は他人に仲間意識を覚えるほどすがっていないのかもしれないという仮説が生まれる。
わたしはそれを内心で否定しないし、肯定もしない。ただ、そうかもしれないとだけ思う。
バスを降りると、太陽がわたしをジリジリと照らしつけてきて、バスの中の涼しさが恋しくなる。
s
架空のことわざ/名前
エンタメ
架空のことわざを作ろう。
#小説以外
あいつの顔に泥を塗ってやれ
意味:面白いこと。
イソギンチャクと腰巾着
意味:似ているけれど違うこと。
腕まくりより半袖
意味:見た目より実用性を優先しろと言うこと。
Edo will become Tokyo.
意味:諸行無常。
折り紙で月に行く
意味:理論的には可能だが、実際は不可能なこと。
化石と化す
意味:誰しもいつかは過去の人になるということ。
化石とカス
意味:対比していること。
やる偽善よりやる善
意味:損得勘定抜きの行動が、1番まともであるということ。
苦労人ほど早く死ぬ
意味:当たり前であること。
半殺しはただの殺し
意味:どちらも地獄であること。
空(くう)に想いを馳せる。
意味:無意味であること。
換羽期の鳥
意味:イライラしていること。
例文:「お前、換羽期の鳥かよw」
---
名前案
Bクラス
出席番号1番 井上美涼(いのうえみすず)
出席番号2番 宇野凛(うのりん)
出席番号3番 岡本咲子(おかもとさきこ)
出席番号4番 岡本寧々(おかもとねね)
出席番号5番 加藤夏樹(かとうなつき)
出席番号6番 小林佳奈(こばやしかな)
出席番号7番 品川ゆず(しながわゆず)
出席番号8番 鈴木玲奈(すずきれな)
出席番号9番 田崎優香(たざきゆうか)
出席番号10番 田中真奈美(たなかまなみ)
出席番号11番 富谷陽菜(とみたにひな)
出席番号12番 七宮由紀(ななみやゆき)
出席番号13番 新田あかり(にったあかり)
出席番号14番 野口ひなの(のぐちひなの)
出席番号15番 長谷川詩織(はせがわしおり)
出席番号16番 早川菜子(はやかわなこ)
出席番号17番 福崎理央(ふくさきりお)
出席番号18番 溝口美津子(みぞぐちみつこ)
出席番号19番 村田梨花(むらたりんか)
出席番号20番 矢田恵里(やだえり)
出席番号21番 吉田舞(よしだまい)
出席番号22番 吉田萌香(よしだもえか)
出席番号23番 渡辺紗凪(わたなべさな)
Cクラス
出席番号1番 安藤咲希(あんどうさき)
出席番号2番 江口瑞穂(えぐちみずほ)
出席番号3番 大田理沙子(おおたりさこ)
出席番号4番 木村花梨(きむらかりん)
出席番号5番 久保田真奈(くぼたまな)
出席番号6番 小山美里(こやまみさと)
出席番号7番 佐田莉音(さだりおん)
出席番号8番 閑谷りか(しずたにりか)
出席番号9番 住本佑(すみもとゆう)
出席番号10番 田宮薫(たみやかおる)
出席番号11番 坪田未奈(つぼたみな)
出席番号12番 遠山静佳(とおやましずか)
出席番号13番 丹羽めぐみ(にわめぐみ)
出席番号14番 服部彩葉(はっとりいろは)
出席番号15番 日比野サツキ(ひびのさつき)
出席番号16番 間宮実乃里(まみやみのり)
出席番号17番 森芽衣子(もりめいこ)
出席番号18番 山口一葉(やまぐちかずは)
出席番号19番 山下紗英(やましたさえ)
出席番号20番 横井かえで(よこいかえで)
出席番号21番 和田瀬奈(わだせな)
Dクラス
出席番号1番 荒井美歌(あらいみか)
出席番号2番 宇田絵里子(うだえりこ)
出席番号3番 永川ほのみ(えいかわほのみ)
出席番号4番 小野田美月(おのだみづき)
出席番号5番 香川佐奈(かがわさな)
出席番号6番 河村麗央(かわむられお)
出席番号7番 近藤夏海(こんどうなつみ)
出席番号8番 真田結衣(さなだゆい)
出席番号9番 篠田冴子(しのださえこ)
出席番号10番 田口伊織(たぐちいおり)
出席番号11番 津川美緒(つがわみお)
出席番号12番 手塚もも(てづかもも)
出席番号13番 長井明日香(ながいあすか)
出席番号14番 能瀬汐里(のせしおり)
出席番号15番 濱口光(はまぐちひかる)
出席番号16番 日野美帆(ひのみほ)
出席番号17番 福田恵菜(ふくだえな)
出席番号18番 丸山紬(まるやまつむぎ)
出席番号19番 安田未音(やすだみおん)
出席番号20番 山崎レイ(やまさきれい)
出席番号21番 芳川紗央里(よしかわさおり)
出席番号22番 鷲田樹(わしだいつき)
--
正しい地面の踏み方
2026/06/06 正しい地面の踏み方
「この白い線から落ちたら死ぬからな!」とクラスメイトのみゆなが言って私は頷いた。言われた通りに白線上をバランスをとりみゆなの後ろをついていきながら、彼女の名前はみゆなだっけ、もしかしたらみうなだったかもしれない、などと考えた。ふと顔を上げると目の前にはみゆなの茶色のランドセルがあってそのかぶせが揺れている。底の金具を止めてないんだな、と思う。お辞儀したら中身がアニメみたいに出ていっちゃうんじゃないか。ちょっと見てみたい。それから私は自分の赤のランドセルの底の部分に手を伸ばす。手探りで金具が止められていることを確認すると、口を開いた。
「みうな、だっけ。みゆな、だっけ。」
「え?なにが。」
前を歩くみゆながこちらを振り返った。「なまえ。」と単語で返すと、彼女は一瞬の間のあとムッとしたように口を固く閉ざし、前を向き直しながら「みゆな!」と大きな声で言った。そっか、やっぱりみゆなだったか。良かったあってた。
白線の上を歩いていると横断歩道に辿り着いた。ここを曲がらないと私は家に帰れない。みゆなもそうだ。私たちは足を止めて、びゅんびゅん走っている車が尽きるのを待った。数十秒ほどお互い無言で車たちを眺めていたが、ふいに1台の車が止まってくれたので私は足を前に出した。みゆなが言った。「白線の上!」私は慌てて灰色のコンクリートに着きかけた足を白線まで移動させようとしたけど、もう間に合わなかった。あーあ死んだ、と思うと一気にどうでも良くなって私は車を待たせないように走って横断歩道を抜けた。後ろを見るとみゆなは急ぎながらもジャンプして死なないようにしていた。急げよって言おうとしたときにはもうこちらに辿り着いていたので私は口をつぐむほかなかった。
私は横断歩道の時点で白線の上を歩くゲームから離脱していたのでいつも通りの地面を踏んだ。しかしみゆなはまだ参加しているので、「はい死んだー。」と私に煽るように笑いかけながらも手でバランスを保って慎重に足を踏み出している。当然、普通に歩く私より遅い。一瞬置いていこうかという考えがよぎったけど、仕方がないのでみゆなのスピードに合わせた。
「はやくしてー。」合わせつつも私はみゆなを急かす。半分冗談で言ったそれにみゆなは意外と「わかってるって待ってっ。」と歩を早めていた。私はだんだんと面白くなってきて、みゆなの前を行きながら後ろ歩きしてさらに急かした。
みゆなの足が白線から飛び出そうとしている。
私がそれを認識した次の瞬間には「うわ!」という声とひっくり返るような音が耳につきささっていた。反射的におどろいて目を瞑った。数秒の沈黙のあとまぶたを開くと、目の前にはノートや筆箱が散らばっていた。みゆなが転んで金具を止めていかなかったせいで中身が飛び出たんだろうとあっさり推測できた。妙な納得感を抱きながら私はみゆなのほうに歩く。体勢を立て直しながらみゆなは俯いて服を手ではらっていた。彼女の膝に滲む赤が、目に入る。「だいじょうぶ。」と訊くもみゆなは返事をしない。ノートと教科書とリコーダー。あと筆箱を拾って押し付けるとみゆなは顔を上げた。不愉快そうに口に力を入れ何かをこらえている表情を見て、うわ、と思った。だってこれはどう見ても泣きそうな顔だ。私はみゆなの泣き顔も泣きそうな顔も知らないけれど、泣きそうな顔っていうのは万国共通のものだろうし。私の思ったとおり、じわじわとみゆなの瞳には涙が溜まってきて、口元もゆるみ始めた。
「ねえ、ちょっと、えぇ、」
こんなところで泣かないでよ、みっともないから…。私はひとまず先ほど押し付けた教科書たちを取り上げてみゆなのランドセルに適当にしまった。ランドセルのかぶせもきちんと金具で勝手に開かないようにした。そこまでして私はなるべく急いで家に帰ろうとその手を取ったが、そのときにはみゆなはしっかりと涙をこぼしていた。俯いて、大袈裟な声は上げていないことに安堵しつつ、それでも聞こえてくる嗚咽に居心地の悪さを覚えた。
「じゃあ、私、こっちだからね。」
曲がり角まで来て私はみゆなの手を離した。あとは自分ひとりで帰ってね、という意味を込めたそれがちゃんと伝わったかなんてわからないけど、私は振り返ることもなく帰路についた。手のひらにじんわりと残った汗を服で拭うと、自然と足の動きが速くなった。結局走った。みゆなの膝の赤色がいまどうなっているのか、少し気になった。だけど知りたくはなかった。
だって普通、人の怪我なんて、見たくないでしょ。
67点
あやか
2026/06/09 あやか
「私、結婚するかも。」とお母さんが言った。私は「へー。」とだけ答えた。誰と、いつ、私の知ってる人、結婚したら一緒に暮らすの、何歳の人、どんな人、どこで知り合ったの、いつから知ってるの、恋人いるの、みたいな質問をするべきだったしお母さんはされると思っていたんだろうけど、どれも微塵も気にならなかった。だから口にしなかった。食パンを咀嚼して飲み込むと私は席を立ち上がってお皿を流しに置いた。テレビの時計で時間を確認すると家を出るまであと15分ほどだった。体操服をタンスから取り出して着替えた。それから歯を磨きに洗面台に行く。また、日常。
1ヶ月ほど経って、目玉焼きを食べながら私はそういえば結婚の話はどうなったんだろうと浮かんだ。この1ヶ月、お母さんの口からそれらしい言葉は出てこなかった。もしかして相手に振られたのかな、子持ちだし。「もう40分だよ。」とお母さんが言った。私は顔を上げて時計を確認した。家を出るまであと10分。慌てて体操服に着替えて、ランドセルの中に、昨日宿題をするために出して机の上に放置していた筆箱を放り込んだ。洗面台で歯を磨いた。鏡にうつる私は記憶より幼かった。「早くしなよ。」と私を急かしに来たお母さんも幼いように見えたので、鏡の問題か、今日の私の脳みそがそういう設定になっているんだろうと思うことにした。歯を磨くのに、5分かけた。時間がなくなった。私はランドセルを背負って家を出た。行ってきます、と言うとお母さんは「早く。」と言った。
「結婚、やめにしたよ。なんか面倒臭くなっちゃって。」とお母さんが言った。私は「そうなんだ。」とだけ答えた。どうして、面倒臭いってどういうこと、振られたんじゃなくて、面倒臭いっていう理由だけでやめられるものなの結婚って、相手と別れるの、みたいな質問がぽんぽんと思いついたけれど、訊いたところで教えてくれるわけないだろうから口にはしなかった。これからもこのお母さんと私の日常が続いていくのかとふと理解して私は自分の爪を見下ろした。色はピンクだった。
ランドセルを揺らしながら通学路を歩いていると、いつもと同じ角にいつもの友達が立っていた。私の姿を確認すると友達は「おはよー。」と手を振った。手を振りかえすか一瞬迷ってやめて、走るだけにした。友達の元に着くと「おはよう。」と言った。学校に行く。友達は今日の授業参観にお母さんが来るらしい、嫌だな、ということを話していたがその表情は満更でもなさそうだった。私は無難な相槌を打つだけにした。それよりも私はもうすぐ梅雨に入るという事実の方が嫌だった。「あやかちゃんのお母さんは、来ないの。」と友達は訊いた。2秒ほど黙って返した。「来ないでって言っておいた。」本当は授業参観のお知らせのプリント自体見せていなかった。多分今も、ランドセルの中のファイルに眠っている。私はなんとなくランドセルの底の金具に手を伸ばした。きちんと止まっていることを確認して、再び体の横におろす。
「お母さん、結婚しないの。」と私は言った。お母さんは数秒遅れで「した方がいい?」「どっちでもいい。」「まだ、しないよ。」「じゃあいつかするの。」「するかも。」
会話は途切れ、テレビの音とお皿を洗う音が部屋に響いた。結婚、できるの、お母さんが。と思ったけれど口にはしなかった。
「ねえ、アイスもう1本食べていい。」と訊くとお母さんは「何本目?」と答えた。
61〜66点。
ロング・グッドバイ
タイトルはオマージュです。
2026/06/12 ロング・グッドバイ
「なんでそんな髪伸ばしてんの?」と友人に訊くと「惰性。」と返ってきた。「切れば?ばさっと。」「めんどくさい。」「長い方がめんどくさいでしょ。毛先パサパサじゃん。」「まあね。」「切ればいいのに。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥って言うでしょ。」「どういうこと?切るは一時の面倒、切らぬは一生の面倒?関係ないじゃん。」「そう。」「適当すぎ。」ふと時計を見やり時間を確認すると私は席を立ち上がり通学カバンを手に取った。肩にかけながら不思議そうに私を見上げる友人に、今日早退だから、と言う。朝礼で担任に言われてたはずだけど友人は聞いていなかったのか、あるいは単純に忘れていたのだろう。「ふーんそう。どっか行くの。」「病院。」「へーなんでの病院。」「ひみつ。」「ふーんじゃ、また明日ね。」「明日土曜だけどね。また月曜日。」「そーか。じゃあたしも昼ごはん食べるかー。」廊下に出て階段を降りる。4時間目が終わって5分も経てば生徒は各々の場所で昼食を食べているようで、歩いている生徒はほとんどいなかった。職員室を訪ね先生に帰ることを告げてから下駄箱に向かう。母はもう学校に着いているだろうか。
病院で医師に突きつけられた現実は想像より無情だった。経過があんまり良くない、みたいなことを、私の脳みそのCT画像と難しい専門用語を交えて私と母に説明する医師は疲れた顔をしていた。それでやっぱり大変な職業なんだなあとある種の感心を抱いた。母は難しい表情で説明に相槌を打っていた。あとで結局どういうことなのか教えてもらおうと思った。
診察室を出てから母は無言で、私は医師の説明の意味を訊ねるタイミングをじりじりと逃し続けた。億劫でもあったし、恐怖のせいでもあったし、知らなくても良いかという諦めが発声をさえぎったからでもあった。会計を終え自動ドアを抜けて生ぬるい風に包まれた途端、母は口を開いた。「とりあえず髪、切っちゃおうね。短い方が色々楽だから。」「どうして。」返事はなかった。母の軽自動車に乗り込んで家に帰った。母が言うなら切った方が良いんだろう、と私は自分の長い黒髪に触れた。惰性じゃない、長い方が好きだからと何年もかけて丁寧に伸ばした、つややかでサラサラで、光を受けるとやわく輝くようなこの黒髪を切るのか。などと考えたがもはや執着は湧いてこなかった。
日曜日、髪を切りに行った。肩より短い髪の毛の自分はやはりプロにやってもらったからか意外と可愛く映った。母もいいじゃんと言ってくれた。「これから楽になるね。」何が、と訊き返しそうになったけど抑えた。訊いたところで返ってくるのは多分「手入れが。」だろうし。
月曜日、学校に行った。惰性で髪を伸ばし続けている友人は、ショートヘアになった私を見て目を丸くした。「切ったの。」「切ったよ。」「なんで?」「楽だから。」「えーどこで切ったの?」「駅前の。」「え、わかんないんだけど駅前のって言われても。」「名前わかんない。」「ええ。まあいいけど。」「サキも切れば?」「毎日言うじゃん。」「お揃いになるよ。」「少なくとも先週まではお揃いだったよ。」友人は自身の毛先に手を伸ばした。やっぱりパサパサしてるしまとまりがない。だけど思った。分けてよ、その髪の毛。
66点
追記
いや、60かな。私の中に基準なんてないから適当に。
盤上の馬
2026/06/15 盤上の馬
「山野さんて人生つまんなそうよね。」クラスメイトの水下に言われた。は、と思わず口から出かけたがなんとか抑えて私はなんと返答するべきか探る。頬杖をついて私を見つめている水下は飄々とした表情で返答を待っている、あるいは待っていないのかもしれないが。どういう意図の発言なのかそこからはまるで受け取れなかったので私は2秒ほどの思考のあと諦めて「なんで?」と無難な返事をした。
「顔も特別かわいくないし全然笑わないしいっつも冷めてて可哀想だし夢中になれるものもないだろうし成績もそこまでよくないし。運動だってもちろん。」
水下は口角を綺麗にあげたりくちびるを尖らせたり人差し指をくるくると回したり、そんなことをしながら言った。私は自分の悪口が淡々と放たれていることよりもそんなことを大して親しくないクラスメイト相手に平気で伝えられることの方が驚いたし、こいつ大丈夫かと本気で心配した。脳腫瘍でもできていて、性格が変わってしまうとか、そんなんじゃないのか。元々の水下の性格なんてほとんど知らないし印象もないけれど、印象がないということはそこまで尖った奴ではなかったはずだ。それなのにどうしてこんな、「今もなんか色々考えてるんでしょーただのコミュニケーションにそこまでぐるぐる考え回せてすごいよね。なりたくはないけど。」…そうかこいつは何も考えずにただ思ったことを口にしているだけなのか。私こそ水下のようにはなりたくない。だが、水下のようになりたくないからこそ、私はそれをそのまま言ってはいけないのだ。必ず肺の中でかき混ぜて、適切な言葉を精査して、2、3割の本音も混ぜる。
「私は楽しいよ人生?水下さんはどう?」
これ以上適当な憶測で私について意見されたくなかったのでさっさと話の焦点を水下に移そうとした。「うんあたしも楽しいよ山野さんみたいな人相手にこんなコミュニケーションして楽しくないわけないでしょ。」苛立ちが募る。我慢する。水下は自分の黒髪ボブに触れながらニコニコと笑った。彼女の吊り目が細められるとそれは意外と愛嬌を出してきてこいつ結構可愛いんだなと場違いなことを知る。
「でもねあたし時々寂しくなるの、山野さんみたいな人間が増えればあたしはとても生きにくくなっちゃうんじゃないかってね、」
その性格を突き通せば現代社会に適応しにくいのは当然ではないだろうか、別に私のような人間が増えなくとも、とぼんやり思う。今だって少なくとも私から見れば水下は明らかにやばい人間だし協調性のかけらも感じられない。ひとつ相槌を打つと、しかし私の相槌なんて彼女には関係ないのだろうが、水下は続ける。「だってねみんなが山野さんみたいになっちゃえばあんまりにも楽しくないでしょう?」自分への悪口に内心で文句を垂れることも面倒くさく、また水下の言ったことには同意もできたので、「確かにそうだね私もそんなの嫌だ。」と半分ヤケクソで身を乗り出してみると、水下は驚きも困惑もないむしろ納得で満ちた表情で「やっぱり山野さんならわかってくれると信じてたの!」と黒髪を揺らした。さらりとほどけるような黒髪に一瞬見惚れて次になんだこいつと思う。なんだこいつ、は表情には出ていなかったはずだけど水下にはなぜか伝わったようで沸点おかしいわよあなたと言われた。水下の方がおかしい。それから私は水下の笑顔に急激に嫌悪を抱いて椅子ごと後退り距離を取った。
「どうしたのそんなに。」水下は不思議そうにする。何がそんなに、なんだろう。「なんでもないよ。」口元に笑みを貼り付けると水下も同じようにした。真似なんだろうか。頬が引き攣った。
「山野さんて苦労しそうよね。」そう、と返した。ぞわぞわした。水下はまるでただ口の運動をしているように無感情にくちびるを突き出して「急につまんなくなっちゃったわねどうしたの。」と首を捻った。それも首の運動みたいに見えた。そうだ水下はこういう奴だ。先ほど、さして印象のなかったからクラスメイトからあんなことを言われて薄まっていたその感覚が、じわじわと私の元に寄ってきていた。水下は私に瞳を向けた。「ねえ山野さんて、人生楽しいの。」
楽しいよ、て答えたのに。私は席を立って「楽しいよ!」と自分の想像よりも大きな声で言うと教室を出た。廊下にある自分のロッカーを無意味に開けて、数秒漁るふりをして閉めた。水下の吊り目も、黒髪も、おかしな主張も、それに反応してしまった自分も、大声を出した自分も、恥晒しみたいで悲しくなった。またロッカーの扉に手をかけて引っ張った。広がるのは教科書とノートと辞書と、その隙間から覗く無機質な白と、ただそれだけだったけど、私は心臓をがっちり掴まれた気分になって動けなかった。だから全く無関係のクラスメイトが歩いてきて私の様子を訝しげに伺って、それから「山野さん何してんの?」と声をかけてきてほしかった。そうされないとどうしようもないしどうにもならない気がした。
タイトル漢字ばっかりでダメ中国語かよ読めねえよ難しい字使うな!難しくないけど
59点
既読、のち、暗転
2026/06/18 既読、のち、暗転
数日前に死んだお姉ちゃんのスマートフォンに通知が来ていた。お姉ちゃんの冷たい部屋に入って机の上に置きっぱなしにされているそれを見つけた時、私はふ、と息を吐いて手を伸ばした。パスワードなんて聞いたこともないけれど推測はできた。お姉ちゃんは単純な人間だったのでたぶん誕生日だろう。0809、とほとんど確信しながらお姉ちゃんの誕生日を入力したがそれは意外にも弾かれた。あと2回間違えれば自動的に1時間ロックされるらしい。私は数分考えてペットの犬の誕生日を入れたがそれも弾かれ、迷った結果、これで通らなければもう私にはわからないだろうから諦めようと思いつつ、0314と打つとすっとロックは解除された。これは私の誕生日だ。驚きで喉がぐ、という小さな音を鳴らした。
罪悪感半分、恐怖半分でお姉ちゃんのスマホに入り込み、かなり通知が溜まっているメッセージアプリを開いた。通知の1番の原因はオープンチャットだったけれど、その次はよく知らない人だった。名前から男性だろうとは推測できた。ほんの数十分前にも送られてきている。この人はこんなにメッセージを送り合う仲なのにお姉ちゃんが死んだことを知らないらしい。私はその人とのチャット画面を開き妹ですが姉は数日前に亡くなりました、などと打って送信ボタンに親指を重ねる。圧力をかける。ぽ、と音がして画面に私の送信した言葉が吹き出しで表示されている。それを確認した後で好奇心の混ざる気持ちでメッセージに目を通す。
だんだんと心臓が音を鳴らし始めた。お姉ちゃんとこの男性の関係性をなんとなく理解してだけど理解したくなくて胃が暴れそうになっている。だってお姉ちゃんはまだ女子高生の未成年だったのだからそんなことあるわけがないじゃないか。知り合った経緯なんていくらでも想像がつくけれどお姉ちゃんにメリットがない。そう、メリットがない。金銭のやり取りがあったというような形跡もここにはなくて、けれどこの2人が何度それぞれの家族の目を掻い潜って逢瀬を重ねたのかはじっとりと残っている。ぽ、とスマホが音を鳴らしたので意識が現実に引き戻され、私はこの男性から返信が来たことに気づく。
社会人らしい冷静で丁寧な文章が連なっていた。真っ先に視界に飛び込んだのはお悔やみ申し上げますという定型文だったけれど1番吐き気がしたのは「不躾なお願いですが、」から始まる一文だった。このことは誰にも言わないで欲しいみたいなことがつらつらと書かれていて軽蔑するべき文章なのだと思ったが、結局私は上辺だけでもしっかりとしているこの文章にクラクラとして足元が崩れそうになった。それでも脳みそは勝手に動いて手は勝手に動く。「わかりました。」送る。既読がついて、また返信が来るのかと思ったが、なかなか来ない。来たところで、どうにもならないだろうから、私は画面の暗くなったスマートフォンを見る前と同じように机の上に伏せておいて部屋を出た。ドアを閉める直前にぽ、という音がした。
単純に好みじゃない。
50点
追記
いやーでも、うまいことはうまいよな。
60点にアップ!10点アップ!おめでとう。
はいのなかのくうき
2026/06/23 はいのなかのくうき
美羅、と書いてみら。教室のドアに張り出さられている名簿表で見つけて、珍しい名前だなと思った。派手そう、とも思った。口にはしないけど。ぽつんと浮かんだ感想で言う相手もいなかったし。安田美羅の出席番号は私の一つ次で、出席番号順で構成された席だと当然私の後ろに座っていた。「ねえ、よろしくね。」教室の自分の席で黒板を眺めていると後ろから声をかけられて、私はああ安田美羅って結構フレンドリーなんだとぼんやり考えつつ、振り返った。色素の薄い長い髪の毛がまず視界に入って次に彼女のやはり色素の薄い瞳と目が合う。あれこの子ってもしかして日本人じゃないのかな。それとも髪は染めてて目はカラコンなのかな。だけどうちの高校は校則がけっこう厳しいし、見逃されるわけないから、やっぱり日本人ではないのかもしれない。ハーフとか。うん、多分そう。「あたし安田美羅。あなたは。」流暢な日本語を話すんだな。幼い頃から日本で過ごしていたとかならそれも納得か。私は安田美羅の瞳に映る自分から視線を逸らして、「竹口小春。よろしくね。」と答えた。思いの外そっけない口調だったので言った後で密かに焦ったけれど安田美羅は気にしているそぶりなんて見せずに、机に身を乗り出して私との距離を縮めると、内緒話でもするように声をひそめた。
「あたし高校からだから、友達できるか不安なの。コハルちゃんは中学から?」この学校は中高一貫校なので高校から入った生徒が不安になるのもまあ仕方ないだろう。私は首を横に振った。「中学は公立だった。」主語のない簡素な返答で、自分でまた後悔する。会話が下手でごめんという目線を安田美羅に向けてせめてもの懺悔か何か、をする。伝わるわけないだろうと理解はしている。「そう良かった。じゃあ友達にならない、よければ?」一瞬驚いて、でもとにかく何か言わなければという思いが先行して、「いいよ。うん。」と口にした。そりゃ、私の方はいいよ、こんなコミュニケーション能力と愛想のなさで友達なんてできないと確信していたところにこんな、願ってもないもの。だけど安田美羅は私なんかと友達になってもつまらないんじゃないの?形式上の友達が欲しくてそこに利益とか青春とかは何にも期待していないの?いっそそうだったら気が楽だと至る。私は改めて「ほんとう、ありがとう。」と笑っている安田美羅の外見を観察した。
ふんわりと黄色、いや、はちみつ色なのかもしれない、金、ではないけど、そんな色をしている髪の毛は緩く巻かれていて女の子らしい彼女の瞳は髪の毛より深く暗い色をしている。ゆらゆらと揺れるそれに焦点を当てていると水のなかを泳がされている感覚になる。息がしにくくてやや苦しい。鼻筋がすっと通っていて、おかげで可愛いだけじゃない顔つきになっているんだろうと推測できる。くちびるは鮮烈な赤色をしている。くらくらするような色だ。美羅、という名前に負けない子のようで私は肺に詰まったくうきを一気に吐き出した。
私は思う。こんな子が私と仲良くするメリットはない、と。それから言った。「安田さんて、」
「下の名前でいいよ。」
「安田さんて、ハーフ?」
「そーだよ。」
「日本語うまいね。」
「まあずっといるから。日本語以外、話せないよ。」
名ばかりのハーフ、と安田美羅は自嘲気味に笑う。ふうん。私はやっぱり安田美羅の瞳を直視できなかったので目線を少し左にやる。「安田さんは、」「下の名前でいいよ。」「安田さんは、友達できると思うけど…。」「ほんとう?」お世辞がうまいね、と嘲笑を浮かべるんじゃなくて、ほんとう、と首を傾げる安田美羅に安堵する。お世辞がうまいねなんて言われたら、執着を持っていると認識されたくない私は違うよとは返せずに曖昧に笑って誤魔化す。別にそれで困ることはないけど勘違いは少ない方が多分いい。
「ほんとう。」
私は言う。安田美羅は視線を、私から見ての右下に落として、「初めて言われた、」とくちびるを尖らせた。強い赤のそれ。もう見たくない。「うん、初めて言った。」安田美羅の瞳を伺おうとして、しかし長いまつ毛が邪魔をしてくるので、諦めて教室のクラスメイトたちを見回す。入学式の日特有の不安と期待の入り混じったような初々しさはまるでない、強いて言うのならクラス替えでちょっと騒いでいる気もする彼らの姿を見て、また安田美羅を見て、最後に自分の体を見た。長い黒髪と膨らんだ胸と大きくも小さくもないちょうどいいサイズの制服とスカートからのぞく足。太いか細いかは自分では見分けがつかないけど標準の範囲に収まっているはずだ。肌は日に焼けているほう。鏡でも見ないと確認できない私の顔は、絶対に可愛くはない。でも不細工と言い切れるわけでもない。誰かに不細工って言われたことはない。もちろん可愛いと言われたこともない。勉強は得意か苦手かと問われれば得意と答えるけど、得意か普通か苦手かと問われれば普通を選ぶ。
そう、そんな平凡な人間だよ私は。
安田美羅に自己紹介をしないといけない。
私は顔を上げて口を開きかけたが、ちょうどその時、「え!」という廊下から聞こえた女子生徒の甲高い声によってタイミングを失い、仕方なくつぐんだ。「外国人いんじゃん!」あ、安田美羅のことだとすぐにわかった。呼ばれてるよ。自分の筆箱のキーホルダーをいじっている安田美羅に心の中で声をかけた。女子生徒が教室にズカズカと入ってきて安田美羅の肩をぽんと叩くと、本人は驚いたように体を震わせて「なにっ?」とほとんど反射のように言った。
「えっちょー可愛いじゃんウケる!」顔を見た女子生徒がテンションを上げて笑う。安田美羅は状況を理解したのかしていないのか、とにかくその顔が赤く染まっていった。意味もなく黒板を眺める時のようにぼんやりとそれを見届けて、女子生徒に受け答えする安田美羅のくちびるの赤が先ほどより目立っていないことに気づいて、あ、安田美羅の肌が白すぎて余計に気になってただけだったんだな、と思う。友達なろーよ、と女子生徒が誘う。安田美羅は、うん、と口角をあげて目を細めた。その一連の流れがあまりに自然で美しかったので私も目を細めた。くうきと同化して。肺に溜まるくうきを吐き出すことすらままならない中で。
2500文字超えると点数つけられなくなる。
追記
まあ65.8点とか65.9点くらいにしとくね
あっこちゃんのダンス
2026/06/27 あっこちゃんのダンス
あっこちゃんが体育館のステージの上で不自然に痙攣していた。右肩が跳ねて首が折れたみたいに傾いた。そこからあっこちゃんは回転したり、説明し難い動きでステージを端から端まで舐め尽くした。どこかから小さな笑い声が聞こえてきて私もそれに全く同感だった。このよくわからない動きはそれでもれっきとしたダンスらしい。今流れている曲はなんと言うタイトルだったか、先ほど司会を務める生徒が説明していたが、私はもう覚えていなかった。
私はムズムズする口元を右手の人差し指と中指で押さえた。そうしないとおかしな笑いがこぼれてしまいそうだった。こぼしてしまったらあっこちゃんは傷つくだろうし、その笑いが私のものだと気づかれたらあっこちゃんと私の関係にヒビが入りそうだし、なによりあとで「頑張ってる人を笑うな」って先生に怒られるだろうし。
あっこちゃんの数分間のダンスが終わると、あっこちゃんは会釈もせずに体育館のステージから立ち去った。数秒遅れて拍手が体育館にあふれたけど、それが形式的なものでしかないこと私は知っている。
毎週水曜日の6時間目はロングホームルームで、ロングホームルームといっても委員決めとかそんなことを毎週やるわけはなくて、行事の前とかはそれに関することをやったりもするけど、今日は特技発表会みたいなことが行われた。
自分の特技を披露したい人が体育館のステージの上でやるらしい。去年も一昨年もあったなそういえば、と私はぼんやり記憶を辿る。そんなのに立候補する人いるのか、と私は毎年軽蔑の入口みたいな気持ちになって、でも必ず10人弱はいることに毎年軽蔑みたいな気持ちを抱く。
それで今年は、あっこちゃんも立候補していた。
ダンス、だって。
特技発表会のプログラムのあっこちゃんの名前の下に『ダンス』と書かれていたのを見て、あっこちゃんてダンスもできたんだなって、驚いたし凄いと思ったけど。
思い出すたびに少しおもしろくなって、体育館から教室に戻っている時、私はくすくすと誰にも気づかれないように笑った。
クラスメイトもあっこちゃんがまだ体育館で片付けをしていることを良いことに、「あのダンス、なんだったの、おもしろ。」などと話しているのが廊下に響いた。
終礼の後、友人と雑談したりすぐに帰ったりしているクラスメイトの中であっこちゃんは自分の席に座って窓の外を眺めていた。私はあっこちゃんの友人という肩書を持っているから「ねえ、」と話しかけに行く。
「ダンスすごかったね。」
話題はそれくらいしかなかった。あっこちゃんは顔をこちらに向けて目を細め、さくらんぼ色のくちびるを動かして、愛嬌のある声で言った。
「ありがとう。」
うふふと笑うあっこちゃんが本当にあのダンスを踊っていた子と同一人物なのかよくわからなくなった。あっこちゃんは人差し指と中指で自身のくちびるを押さえて、機嫌の良さそうな顔で続けた。
「ダンスをね、習ってるの。」
「そうなんだ。」
「5歳の時から。」
じゃあもう10年。10年も習って、あれなんだ。あれはダンス経験者から見たらすごいものだったのかもしれないな。すごさを理解したいなんて思わないけれど、私はそういう可能性を頭に浮かべた。
「びっくりしたよ。踊れるの初めて知った。」
本当のことだった。
「今日もダンスのレッスンがあるの。」
そう、がんばってね、と私は返した。あっこちゃんはくちびるから舌を覗かせてありがとうとまた言った。
ダンス詳しく無さすぎた。
カラカラ
これどう考えても「見栄っ張りとおまえ」シリーズじゃないだろ。
追記
やっぱり「見栄っ張りとおまえ」シリーズじゃないだろ!って強く思ったから「全部」に移動。
2026/06/29 カラカラ
まじあいつ、しね、と言ってさくらは笑った。カラカラとしたそれが教室の後ろの方から聞こえてくる。あいつというのは先ほどまで授業をしていた数学Bの高柳のことだ。私たちの担任でもあり何かと干渉してくることから、授業中に全く別のことをしているさくらが100%悪いのにも関わらず、さくらは高柳を毛嫌いしていた。ネチネチしているから〜とかなんとか言っているけれど陰でこんなことを友人に話すさくらの方がネチネチしている。もちろん口には出さない、だって私はそもそもさくらと仲が良くない。今もさくらが大声で話しているのが勝手に耳に入ってきて私が勝手に苛立っているだけで、人の悪口を言うような子と進んで仲良くするわけない。
不可解だ、と私は水を飲みながら流れ込んでくる高柳の悪口を反対の耳に流していた。
なんでさくらには友人がいるんだろう。
さくらは勉強ができなくて、悪口も言って、授業妨害に近しいこともしてきて、友人と話しているときは迷惑なくらいの声量なのに前で話すときは小さくて、顔も可愛くなくて、良い点を挙げるなら名前が綺麗なことくらいで、私はだからさくらには友人はいても2人程度なんだろうと最初当然のように考えていた。それがまさか、クラスメイトの半数以上とぎゃーぎゃー話していて、このクラスいや学年の品格を疑った。
この学校の偏差値は60くらいで低くはないのに。私立の中高一貫校だから家柄もそこそこ良い印象が、入学前には確かにあったのに。
ち、と舌打ちをしたくなった。
さくらの悪口に乗っている子はそこまでいない。さくら以外の口から高柳の悪口を聞いたことは少なくとも私はないので、周りの子は適当に相槌を打っているだけなんだろうけど、その行動ができることに私はもっとなんで、と思う。さくらに友人がいること以上に不可解だ、と思う。
他人の悪口を聞くことの何が楽しいの、どうしてストレスを感じないの、自分のレベルが下がるとか危機感持たないの、さくらと関わるとかやばいよ、そんなに自分のことどうでもいいの!
ち、と舌打ちをした。
それは、他人のことなんて気にしてやる暇ないのに考え始めたら止まらない、自分に対しての舌打ちだった。
まじ高柳しね!とまた言ったさくらに、お前がしね、と呟いた。誰にも届かなかったそれは私のマスクの中で滞った。
「そんなの別に、ふつうでしょ。」
宮城の友人に電話越しに言われ、私は途端に通話を切った。さくらって言う子が愚痴ばっかりでなんて話を私がしおわって、一言目にこれだ。何こいつ、悪口が当たり前っていう思想なの。最低限の良心のある人間だと思っていたのに、一応幼稚園の頃から知り合いなのに、私はこいつの性格を勘違いしていたのかもしれない。突然切って放置はよくないので再び通話開始ボタンを押すと、友人はすぐに出て、「何きゅうに切って、びっくりしたー。」とカラカラ笑った。ごめん間違えちゃって、と説明してから、さくらに似ているように感じるのは私が今さくらの話をしていたからかなあと数秒頭を回す。視界の上に映る前髪が鬱陶しくなってきて、スマホを右耳に押し当てたままピンを探す。
「てか悪口当たり前とか、なわけないでしょ。」
私は至極正論を言ったつもりだったし、実際言っただろうが、友人は納得できないような声を出した。
「でも結局1番盛り上がれるのはそれ。」
なんだ東北に行くと人って心まで冷めるものなのか、まあそんな関係性はないけどってか東北に失礼だし、と考えたあとで見つけたピンをつけて「あっそう。」と答えた。
「あーいや、まあ大声で言うのは流石にアホかー、陰で言えよってね。」
あ、それはそうだよね。と自然と声が弾んだ。友人も流石にそこまで毒されてはいなかった。何に、学校の空気に、悪口を肯定するような女子同士の関係に。
電話越しのカラカラとした声は、冷静に聞けばさくらより乾いていた。「よかったー。」と吐息と共にこぼすと、友人は「なにが。」と多分首を傾げていた。
もーすぐ進級だからさあ、担任絶対変わってほしーわ。さくらは湿ったように言う。しね、とは言わないことに勝手に安堵する。全く関係ない私がなぜこんなにひやひやとあるいはひたひたの方が適切か、冷たい水が首元まで来るか足元で止まるか、なんていう私にはどうしようもない心配をしないといけないのか、ひどく理不尽に感じられた。
しかしそれ以上の理不尽は翌週にやってきた。学年末ということで締め、のような役割でも担っているのかもしれない、家庭科の調理実習。先生が出席番号順で機械的に割り振ったがために私はさくらと同じ班になった。無害なクラスメイト2人もいる4人班なのでまだ関わらなくて済むかもしれないとなんとか希望を保っていたのに、いざ本番を迎えるとさくらは
「うち包丁とか無理、指落ちるしー、だれか変わってー。うち、お皿洗いやるからさあ。」などと騒ぎ始めた。お皿洗いは元から班の全員でやることになっているくせに。私は聞こえないふりを貫こうと淡々とピーマンを切っていた。麻婆豆腐を作るからピーマンはみじん切り、とさくらの声をシャットダウンするために脳内で繰り返した。集中しているふりをした。だが1人が「仕方ないなー。」と応えてしまったために結局さくらの仕事がただ減っただけになった。
ピーマンを切り刻んだ。繰り返していたピーマンはみじん切り、はとっくに消え失せて、代わりにまた甘やかすの、と思った。そりゃ無視なんてしたらクラスメイトとしての関係が崩れてしまかもしれないから返事をするのは理解できる、それでも笑って許してしまうからさくらは学習しないだろ、許すなよと呪詛みたいなもの、きっと呪詛、が溢れた。舌打ちが落ちた。マスクを突き破って誰かに伝わるほどの威力もないことが今は少しありがたかった。
最近よく舌打ちをしている気がした。それは気のせいではなかった。
「ねえ、ピーマン切れたけど次、何かある。」
私はさくらの代わりに長ネギをみじん切りにしているクラスメイトに訊ねた。「ああじゃあ、」と口角をあげて応えるクラスメイトはお人よしな性格をしていて無害で好きだったけど、さくらに対してもそうであるということを知ってしまった今はもう好きでも嫌いでもない。
さくらの様子を伺った。別の班にちょっかいを出しに行っているのを見て、包丁を握る手に力が入って、豆腐がぐちゃっとなってはいけないから慌てて入れた力のぶん緩める。
「うわー美味しそうじゃん早く食べよー!」出来上がった麻婆豆腐をお皿に盛り付けているとさくらが戻ってきて笑った。「さくら何にもやってなかったじゃん。」と別の班でずっとさくらと戯れていたクラスメイトが笑った。さくらはそれに「いーのお皿洗いやるから!」と同じような笑いで返した。カラカラカラカラ。乾いてるのか湿ってるのかわからない。自分のお皿に適当な量をよそって席についた。さくらと向かい合わせに座るのは本当は回避したかったがあからさまに避けても気まずいし、あからさまじゃないうまいやり方も浮かばなかったので、諦めて料理だけを視界に入れようと努めた。さくらの話し声がまるで雑音だった。
「まじあいつ、しね、」
家に帰って私がそう落とすと、宮城の友人は「何どーしたの。」とカラカラさせた。珍しいねーとも言った。
私はどーしたのには答えずに
「もーすぐ進級だから絶対クラス変わってほしい。」
とつぶやいた。電話越しにまたカラカラと音が聞こえた。さくらのそれよりかはずっと乾いていてずっとマシで、耳に押し付けても心地の良い冷たい水は、いっそ頭の上からかけられてもいいんじゃないかと感じるくらいだった。ねえ、切らないでよと言うと友人は「いや、いつか切るけどまだ時間あるから切らないよ。」と的外れなことを言った。
。
夏冬、敵味方
2026/07/08 夏冬、敵味方
夏が私の幸せを奪いにきた。気がした。
7月に入ると同時に転校生がやってきた。橘サヤカという名前の彼女は転校してきて早々に行われた期末テストで私を差し置いて総合1位になった。9科目831点。圧倒的な成績だった。主要5科目ではほとんど1位を占領していた。
突然の転校だったのかまだ制服が仕上がっていなくて前の学校の白いブレザーに身を包んでいた彼女は、黒いセーラー服だらけの教室の中では浮いていた。「サヤカちゃん1位?すごーい。前の中学、私立だったの?」クラスメイトが訊いて、彼女は控えめに笑いながら首を縦に振った。彼女が通っていた中学の名前は、自己紹介の時に述べられていたはずだ。全く聞き覚えがなかった。私は自分の席で学校タブレットを開き、記憶のそれを打って検索をかけた。ホームページから偏差値を知る。71。
私はそれからもっと勉強した。私は努力ができた。頭は特別良いわけではなかったけど悪いわけでもなかったし、多分どちらかと言えば良い方だった。努力すれば大抵は結果につながった。
2学期の中間テストで1科目平均92点を取った。5科目で460点、前までならあっさりと1位を取れていたはずの点数は、橘サヤカの473点に圧倒されなす術もなく2位に収まっていた。
「たちっ、たちばなさ、ん。」総合点と順位が出た日の放課後、図書室で彼女を見かけた。本当に偶然だった。課題のために借りていた本を返しにきたら自習室に彼女がいたっていうただそれだけのことで、もちろん声なんてかけずにそのまま図書室を出て行こうと思った。思っていた。
机に向かっていた彼女は顔を上げて私を見た。少し驚いたような不思議そうな瞳で「どうしたの、高瀬さん。」と口角をやや上げた。薄いさくらんぼ色のくちびるから出てきた私の苗字はひどく陳腐に感じた。
私は困った。どうして話しかけてしまったんだろうと後悔もした。だけど心臓はどうにも高鳴っていた。
「べ…んきょう、好き?」
出てきたのはそんな無意味な質問だった。もっとこう、勉強法を教えてとかそんなことを訊けばよかったか…でも天才の勉強法なんて教えられても、私みたいな凡人寄りの人間には役に立たない。だからやっぱりこの質問でよかった。勉強法を訊いて自分の負けを認めるようなことをするよりローリスクだ。もしかしたらハイリターンかもしれない。
彼女は顎に自身の日に焼けた人差し指を当てて数秒だまった。彼女の顔は一般的にそれほど整っていないのにその動作はやけに絵になった。私が乾いた喉を少しでも潤すためにつばを飲み込んだとき彼女は言った。
「うん、好き。どっちかと言えばね。」
あ、と反射的に返事をしようとして一瞬詰まって「そうなんだ。」と言い直した。そのほんの1秒ほどが私にとってはそれなりに恥ずかしくあまりにも惨めなものだった。誤魔化すように小さく咳払いをして「勉強邪魔してごめん。」と踵を返した。図書室を出た。
彼女が使っていた参考書は学校配布のものではなかった。
冬が私の幸せを取り戻してくれた。多分。
11月に入ると同時に橘サヤカが学校に来なくなった。全く、ぱったり、唐突に。ひとつぽっかりと空いた机のある教室にパズルのピースが揃わないようなむず痒さを覚えた。だけどきっとそのピースはそれほど重要なものではなかったようで、中旬にもなると朝の出欠確認のたびに首を傾げることは無くなった。それよりも下旬に行われる期末テストの勉強で忙しくてしかたなかった。彼女はテストだけでも受けに来るかもしれない。きっと来る。手は抜けなかった。
期末テスト当日、彼女は来なかった。別室受験の可能性を考えて、でもそれは朝礼で担任が言った「欠席は橘さんですねー。」という流れるような言葉に打ち砕かれた。
1位。796点。高瀬ミズキ。12月上旬、廊下に張り出されたそれに私は息を吐いた。安堵からだった。いやそれとも諦念だったっけ、あるいは焦燥だったかもしれないし、ただ腹立たしかっただけだったのかもしれない。
学年9位の友人が「ミズキ1位じゃん、すご。」と言った。笑ってすごいでしょーと返した。
あーあつまんないと思った。これが幸せなのは知っていたけど『1位』の横に並ぶ私の名前はやっぱり陳腐だった。
屈折した賛美
2026/07/13 屈折した賛美
「ねえ、すっごくきれいなのねあなた。」
奈津はあたしを見てそう言った。奈津はうすい茶色か黄色か、淡い水色か、あるいは燃えるような赤色か、ともかくそのような瞳を長い前髪から覗かせていた。鮮烈で、ぼんやりしていた。あたしはくすくす笑ってうん、ありがとうと答えた。綺麗とか可愛いとかは言われ慣れていて退屈だったが、ただ、奈津の必死さが面白かった。なぜそんなに何かが差し迫っているような顔をしているんだろうとも思った。奈津はいくらか不安げに瞳を揺らした。長い前髪も連動して動いたように見えたけれど多分気のせいだ。奈津はねえ、と言った。
「あなた妊娠してるの。」
それは疑問文だったはずだろうに奈津は緊張しているのか語尾は断定のように下がっていて、一瞬もしかしたらほんとうに断定なのかもしれないともよぎった。でも断定できるような要素はないのだからおかしいだろうと考え直した。あたしは咄嗟に自分の腹を見下ろした。視界に入るのはふくらんだ胸。腹は見えない。なので手で触れたが、平坦で、左胸から心臓のどくどくが伝わってくるだけだった。あたし男性経験、ないの、と口走った。奈津は自分の前髪を指でときながら口角を上げた。良かったと返ってきて気持ち悪かった。
「次のひとぉ。」教室の中から先生が呼んだ。奈津はパッと顔をそちらに向けて教室のドアを開けた。あたしもそれに続いた。中で、上半身裸になって、心電図検査を受ける。いくら同性のクラスメイトといえども、服を脱いだり着たりするときに胸を見られるのには抵抗があった。これはきっと正常な感覚で、だからあたしは腕でそれとなく隠していたが奈津は堂々としていて、また気持ち悪さを感じた。目は隠すのに?という皮肉が生まれて少し笑った。自分への嘲笑が含まれていた。
奈津の小学生みたいな体なんて見てもあたしが欲情するわけないけれど、あたしは奈津に自分の体を見られるのが心底嫌だった。奈津はあたしの体になにかを思う。自意識過剰と一蹴されれば表面上はそれで終わりな、だけど私の中ではずっと消えないだろうという確信めいたものが、腹のあたりをぐるぐる回っていた。
奈津より少し早く検査を受けて早く終えたあたしは、さっさと服を着て教室を出た。廊下を歩きながら、「次のひとぉ。」という声が聞こえてきた。
自分の教室で次の歯科検診の時間まで待っていると、ドアが開いた。反射的にそちらに視線をやったら入ってきた奈津と目があってあたしの方がすぐに逸らした。奈津は前髪を耳にかけていていつもよりさっぱりとしていた。色白の肌に浮かぶ大きな丸い瞳は、今は山吹色をしていた。その奥で蠢くミミズたちも濁った山吹色をしていた。
「先に帰るなんて、卑怯よ。」
奈津はあたしの席に来て下手な微笑みで言った。いくぶんの怒りが滲んでいたので、あたしは何を言っているのかよくわからなかったがごめんと答えた。どうして謝っているのかやっぱりわからなくて、言ったあとに眉を寄せた。それでも奈津は満足げに山吹色を細めた。そのとき1秒だけ見つけた曖昧な水の色はけれどすぐに山吹色に戻って、奈津は自分の席に歩いた。
ねえ、すっごくきれいなのねあなた。
あたしは10分ほど前に奈津に言われたことを反芻した。でもきれいなのは多分あなたの方よと思った。怒ったとき、瞳が赤色にならないところが、きれいだ。
「あたし男性経験、ないの、と口走った。奈津は自分の前髪を指でときながら口角を上げた。良かったと返ってきて気持ち悪かった。」
ここがいいね!
各駅停車で帰りたい
鍵は外す可能性が高い。
2026/07/14 各駅停車で帰りたい
ぐずぐず泣きながらみずほは「あたしも、」と言った。言葉は続かなかった。あたしも、って果たしてなにがなんだろうと彼女にティッシュを渡しながらぼんやり考えた。鼻をかんでほしくて取り出したティッシュなのに彼女はそれで涙を拭いた。
みずほは最近親が再婚したらしくてそれでテンションが落ちている。テンションが落ちるなんて軽い表現で済ませて良いのかはわからないが私にはそう形容するしかできない。
だけど今、目の前の彼女が泣いているのは、親の再婚が原因ではないんじゃないかなあ。しばらく前からずっとまとわりついている事実だろうに今さら急に泣き出すのもおかしな話じゃない、それも学校で。周りに人がいる状態で。ティッシュ、とつぶやいたみずほに私はティッシュの箱ごと押し付けた。2月になって花粉が飛び始めたので箱ティッシュごと持ち歩いていたが、想定外な面で役に立ったようでラッキーだと思った。一気に2、3枚とって鼻をかむ彼女を眺めた。数秒ほどそうして、それからふと時計を見てあと30分と数分で下校完了時刻になることを知った。そろそろ部活から戻ってくる子もいるんじゃないか、とまだ通学カバンがかけられたままの机たちに順番に視線をやった。
「ねえ、みずほ、私そろそろ帰っても、」良い、と言おうとして止まった。教室のドアが開いてクラスメイトが入ってきたのに少し驚いたからだった。体操袋を片手に持ったクラスメイトの安西は、私たちを見て目を何度か瞬かせた。この状況って側から見たらあるいは私がみずほを泣かせているように見えるのかもしれない、それとも私がみずほを慰めていると捉えられるか。後者だったらまだマシだけど前者だったら解きたい誤解だ。
安西は私を見つめた。私は一瞬、苦笑か困ったような顔でも浮かべるか迷ったが、結局無表情で小さく会釈をした。
みずほは顔をあげなかった。泣き顔なんて晒したくないし当たり前か、と思った。
「え…入っていい空気?」
無言でそのまま出て行ったりするかもと予想していたけれど安西は意外と直球だった。
「あーどうだろいいよ。」
どうだろ、と真っ先に答えたのは、みずほがどう感じるかなんて私は知らないから、という意思表示だった。それを言っている間に、でもみずほからしたら気を遣われるほうが癪に触るものだろうと至って続けていいよと口にした。
「あーそう…まあ誰にも言わないから…。」
ありがとーと返した。かち、と時計の針が動いた音がやけに大きかったので視線をそちらに向けた。ちょうどあと30分で下校完了時刻だった。ねえみずほ、私もう帰りたい。安西がいる手前そんな冷たいとも捉えられるようなこと言えなかったが内心でつぶやいた。
さっさと荷物をまとめて教室を出ていく直前、安西は
「てか、山下とかも多分すぐ戻ってくるよ。陸上部、もう終わってた。」
「あーそっかありがと。」
ドアが閉められて教室に落ちる静寂。私は椅子を何センチか動かした。椅子の足と床が擦れる音がして、あっさりと静寂は終わった。
「ねえみずほ帰ろ早く。」
みずほはようやく顔をあげた。酷い顔だった。当然可愛くなんてなかった。泣いたらこんな顔になるんだじゃあ私は人前では絶対に泣かないでおこうと密かに決意した。やっぱりぐずぐずと鼻をならしている彼女は、急にティッシュで目を強く擦ったかと思うと立ち上がった。私が彼女を見上げるという構図になるのは新鮮だった。
「あたしも、」みずほは眉を寄せていた。「あたしは、」言い直したらしい。何が続くんだろうと待っていたが10秒経ってもそのうすいくちびるがまた開かれることはなかった。彼女の涙袋のあたりがぴく、と痙攣したので私はまた彼女が泣き出すんじゃないかと警戒した。帰りたくないと彼女は言った。これは先ほどの「あたしは、」の続きなのか、全く関係ないただの意思表示なのかどっちなんだろう。どっちでもよかった。
でも私は帰りたいよ。もう遅いじゃん。私、電車だから。帰りたいよ。
うーとみずほは呻いた。私も立ち上がると、いつもと同じ構図になって、安心した。
すき。
平和と退屈は並列する
鍵は外す可能性が高い。
追記 外した。
2026/07/15 平和と退屈は並列する
7月27日、月曜日。
祖父母の家で過ごす夏休みは平和で同時に退屈そうだった。田んぼだらけの景色を眺めていても面白いことは何もないし、時々見かける人はたいてい祖父母と同じくらいの年齢で、私と同じ中高生の子はもしかしたらいないのかもしれないと思った。それで特段困ることはないけれど、この夏休みに私は果たして何をすれば良いのだろうと漠然とした焦燥感だけ覚えた。
麦わら帽子を被らずに右手に持って田んぼ道をざりざり歩いた。太陽が容赦なく私を照らしつけていた。本当は麦わら帽子を被った方が良いと知りつつ、蒸れるんだよなあと持て余すばかりだった。
がらがらがら、という音が聞こえて私は反射的に顔をあげた。それから「あ。」と口だけ動かして声は出さなかった。近くの、田舎特有のでかさの家から出てきた人は、おじいちゃんやおばあちゃんではなかった。長い黒髪と膝下までの白いワンピースは漫画でよく見る『田舎の女の子』そのまんまで、私は近い年齢の子がいたことよりも、この格好と髪型の子が実在することに驚いた。サンダルをぱかぱか鳴らしながら家から道路までの坂道を降りたその女の子はふと視線をこちらにやって直後に目を瞬かせた。
わかいひと!と女の子は叫ぶように言った。
それが私に向けられた言葉であることは明白だったので、私はとりあえず1回、首を縦に振った。
「あ、あなた、あれね。お母さんが言ってた。最近、来たんでしょう。ここに。」女の子はこちらに駆け寄りながら跳ねるような不安定な声を出した。もう一度頷いた。私がここに来たのはほんの1週間前で、それも外にはあまり出ていないのにもう広まってるんだ、田舎ってすごい。ちょっと怖くもある。
「あなた、名前なあに、あたし高橋ミナミ。」たかはしみなみ。高橋みなみ。みなみ、ミナミ、南、美波、あるいはそれ以外。どれだろう。「カタカナで、ミナミ。」とちょうどよく捕捉されて脳内で高橋ミナミが固まる。
安西今日子、とつぶやくように答えると彼女は顔を明るくさせた。
「そう、キョウコ、何歳!あたしはね12歳、中学生。」いきなり名前呼び捨てにされたことにびっくり。これが田舎の距離感なのか?それとも高橋ミナミがフレンドリーなだけなのか?
「あたし、15歳…。」
声はさっきより小さくなった。聞こえなかったかも、言い直そうか、と考えあぐねたが、どうやらなんとか届いていたようで「年上!」となぜか声を高くされた。
「キョウコ、どこに行くの?」
「とくに、どこでもない…散歩。」
「そう、あたしはね探し物。」
探し物?と首を傾げた。
「カエルをね、探すの。」
カエル。カエルを探すとはなんだ。知らない概念だ。田舎では普通だったりするのかなカエルを探す、が。彼女の飼ってるカエルが逃げたのだろうか。しかし逃げたとしても普通は家の中を探す。外まで逃げられれば流石に諦めるだろう、他のカエルと見分けがつかないだろうし。ならペットにするカエルを探すのか。…だけどカエルって夜行性じゃないの、こんな真っ昼間に見つかるものなの?それに彼女は網とか虫かごとかを手にしていない。素手で捕まえて素手で家まで持って帰るつもりなのだろうか。なんてぼんやり考えつつも、どれも口にはしなかった。
「ひきがえる。」
カエルの種類を伝えられた。別にそこに興味はないのに。
「そうなんだ…。」
私はやっぱりぼんやり答えた。それから右手に持っていた麦わら帽子を被った。視界が急に薄暗くなってやっぱり脱ごうか、と思案する。結局手でつばを抑えて常にちょうどいい具合に調整し続けることにした。
「じゃあ、あたし、カエル探しに専念するから、またねキョウコ。」
「あ、うん。」
カエル探しに専念ってなんだ。高橋ミナミはまたサンダルをぱかぱか言わせて田んぼと田んぼのあいだにある細い道に入っていった。田んぼの泥の中にひきがえるがいるんだろう。泥に手、突っ込むのか。網がないってことはそういうことなんだろうけど。しばらくその背中を眺めて、私は踵を返した。ざりざり歩いた。汗がこめかみを伝って頬から落ちるのを感じながら、家に帰ったらシャワーを浴びようと算段を付ける。
心の中では一人称「私」だけど口にするときは「あたし」なタイプの主人公。
翳り
2026/07/17 翳り
「ねえ、名前、なんて読むの。」
前の席の子の肩をちょんちょん、とつつくようにして、直後に失礼だったかなと後悔して、だけど普通に振り返って「名前?あたしの?」と自分の顔を指す彼女は私の行動が失礼だったとか思っていなさそうで少し安堵する。「うん、あなたの、」首を縦に振って、名簿みたんだけど読み方わかんなくて、と補足する。名簿って教室のドアのところに貼ってあるやつね。なんてことまで丁寧に説明するべきか迷いつつ、迷っている間に彼女は口を開いたので私はくちびるを開かずに返事を待つ。
「えっとね、せゆ。」
せゆ。惺友ってかいて、せゆって読むんだ。珍しい。音も珍しいし、漢字も多分、珍しいんだろう。
そ、なんだ、へーっと返すと、せゆ、ちゃんは口角を少し上げた。「それで、あなたは、名前。」私は自分が名乗ってなかったことに気づいて、慌てて口を開いた。だけど咄嗟に出てきたのはあ、という無意味な音で、その影響で1秒ほど喉が詰まって、ツバを飲み込んだあとに「さ、咲季…川北…川北咲季。」となんとか述べる。ぐだぐだしすぎて、やっぱり後悔した。せゆちゃん、は少しだけ目を見開いて「お姉ちゃんと同じなまえ!」と言った。
「漢字は?」
「その、花が咲く、の咲くに、季節の季。」
漢字の説明なんて今までほとんどしたことがないから戸惑った。説明しやすい漢字で構成されていて良かったと思う。せゆちゃんは花が咲いたようにふんわり笑った。私よりせゆちゃんの方がこの名前似合うじゃんなんていうある種の申し訳なさを抱く。
「漢字はちょっと違ったけど。あたしのお姉ちゃんは、花が咲くの咲くに、希望の希だから。」
「あ、漢字の形はちょっと、似てるね。希望と季節だから…なんとなく似てる、気がする。」言いながらふたつの漢字を思い浮かべて、いやそれほど似ていないかも、と焦った。それでもなんとかすぐに、それなりの冷静さを取り戻して、そこら辺はきっとニュアンスだからと自分を納得させる。深く突っ込むところでもないだろうしせゆちゃんも普通に相槌を打って流すくらいの話だ。そうして欲しい。
「あー、たし、かに、似てるといえばそうかもね。」
せゆちゃんは首を傾げながら同意してくれた。
それきり、会話が止まる。
私はしばらく自分の机の傷と、机の上で組んでいる手を眺めていた。視界の上のほうにはせゆちゃんの椅子と冬服の紺色があった。
「…貝渕さんて、珍しい苗字、だね。」
思わずまた、盛り上がりにくいだろう苗字やら名前やらの話を持ち出してしまって、もはや私は自分自身にため息を落としそうだった。もちろん今ため息を落としたらせゆちゃんに対してのものだと捉えられそうだから、内心でちょっと吐き出すだけにとどめている。
「あ、そう、まあ確かにあんまりみないよね。あたしも自分と同じ苗字のひと、みたことないし…あ、家族は含めないよ。」
「へー、そうなんだ…私の苗字は結構いるから、珍しい苗字はちょっとうらやまし、い。」それは嘘ではなかったけど本当でもなかった。今まで羨ましいと特段感じたことはないし、でもそれが羨ましいか羨ましくないかを選択する特殊な状況に陥ったならたぶん、本当にどちらでもいいから、まあ普通に前者を選ぶ。と思う。
せゆちゃんは微笑んだ。その微笑みが何を意味しているのか全く想像できなくてちょっと怖くなった。呆れか、失笑か、困ったからとりあえず微笑んだだけか。とりあえず微笑んだだけならそれが1番いいけれど。
「ねえ、でも川北さんも、なんていうか綺麗な苗字、だよね。北って入ってるとかっこいいし。」
無理矢理繋ぎ止めているようにしか思えないそれに、私も顔を上げて無理矢理笑顔を浮かべて応えた。初めてせゆちゃんと目があって、彼女の瞳は真っ黒みたいな紫をしていることを知った。その色は、せゆという音には合っているけど、惺友という漢字には全然似合っていなかった。
ぼくらの箱庭
2026/07/18 ぼくらの箱庭
「ねえことちゃんって、好きな人、いる?」
草田に訊かれた。
「え、いないよ、好きな人。」
あっさり答えると、
「あ、そう、よかった。あ、私はね、いるよ。」
草田は安心したようにはにかんだ。なんで良かったのと訊くか迷って結局口をつぐんだ。もう訊くはずだった相手は通学カバンを背負って、教室を出ていっていたからだ。
草田が白石のことを好きだと、たぶん私だけじゃなくてクラスメイトの多くの女子が認識している。男子のなかにもそういう人はいるかもしれないけど、それが表に広がっていないというただそれだけの事実があることに変わりはない。そして草田は水面下のことをきっと知らない。「私はね、いるよ。」は彼女にとって覚悟の言葉だったのかもしれないけど、なぜ私に話してきたのかは、想像がつかなかった。
「白石はね、ことちゃんのことが好きだから。2人が両思いじゃないか警戒してるんじゃないかな。」
隣の席の花岡がこそっと私に耳打ちした。えっ、と私は彼が言ってきた内容よりも、気づかない間に私と彼の距離がすごく縮まっていることに驚き、のけぞった。数秒ほどでこのくらいの距離が花岡にとっては普通なんだということを思い出せたけど、それにしたって近すぎる。よく花岡の友人はこの距離に耐えられるなと感心すら覚える。私のパーソナルスペースが広いだけなのか。
花岡は丁寧に、男子とは思えないようなどこか計算され尽くしたいじらしい笑顔を浮かべて、「おどろくよね。」と言った。
「はなおか、は、知ってるの。」
草田が白石を好きなことを。
「教えてもらったから。」
「草田に?」
「ううん秋泉さん…。」
頭に秋泉の顔が浮かぶ。だけど秋泉の印象といえばメガネと低い位置でのポニーテールくらいで、顔はそこまで正確に覚えていない。「確かによく、花岡と話してるよね。」
私がつぶやくように頷くと花岡はやっぱり何もかもが彼の手のひらの上にあるような笑顔で「うん、友だち。」と言った。男子なのに女子みたいに軽やかで華奢で、私はそれが気持ち悪い。
「へえ…白石って、私のこと、好きなんだ。」
今更反応する。花岡の情報ならまあ正しいんだろう。
「そうだよ。」
「なんか、やだねー。」
私はなんだか苦くなって、舌の上に広がるいがいがをどうにかしようと上顎に押し付けたりしたけれど、気持ちの問題なのだから効果はほとんどなかった。
秋泉を押し出すようにして脳内にでしゃばってきた白石の顔は、少女漫画に出てきそうなくらいで流石にかっこよくて、気取ってる。
「なんで?白石、イケメンなのに、うん、俺から見ても白石はかっこいい。」
「やだよ、嫌いではないけど。」
白石に告白なんてされればどうしようもない。白石と付き合うくらいなら草田と付き合いたい。
「それはほとんど、嫌いじゃん。」
花岡はくすくすと笑った。
ほんとうに嫌いではないのだ。白石のことはクラスメイトとしては好きだし、顔も整っていて草田が恋愛感情を抱くのも簡単に理解できる。けれど私は白石のことは好きではない。嫌いでもない。好き嫌い以前の、そもそも恋愛対象ですらない、ような気持ちだった。
「ことちゃんって女子が好きなの?」
花岡は私の考えてることを見透かしたように訊いてきた。首を横に振って答えると彼はまたくすくすと音を鳴らした。なにがそんなにおかしいのか私にはよくわからなかったが、深刻な雰囲気になるよりかはずっとマシだったので、笑われることに多少の不快感を抱かなかったわけでもないが黙っていた。
花岡はふいに自身の長い指を私に伸ばした。顔に触れられると直感して避けようとしたが、その前に「ゴミがついてる。」という発言を処理できたので衝動は抑えられた。
「なんでこんなとこに、ほこり付くの。」
私の髪の毛からとったらしい灰色のそれを数秒眺めてから花岡はゴミ箱に歩いた。
「大掃除あったからかな…。」
私は花岡の指が触れた部分を自分で撫でた。それはある種の抵抗だったし、あるいは自己愛だったけど、まあとりあえずもう帰ろうかなと思った。
学校から出れば私は、草田とも秋泉とも、白石とも、花岡とも離れられる。まるで関係のない他人という顔をできるからだ。
席を立つと花岡は「帰るの?」とゴミ箱からこちらに歩いてきた。
「うん、帰る。」
私と花岡が交わらないように、私は花岡から遠い方のドアに向かった。
あの子供
2026/07/19 童
初めて訪れた友達の家はマンションの最上階だった。見たことない景色に驚きながらも部屋のリビングに上がらせてもらうと、黒々とした髪の座敷童がいた。ソファに座ってテレビを見ていた。
「あ、妹。」
友達は言う。あたしの脳みそは咄嗟に座敷童と処理した、けれど実際にはただおかっぱなだけの普通の女の子は、突然やってきたあたしと目が合うと一瞬の困惑のあとに明らかな警戒をにじませて、ソファから立ち上がりさっと友達のほうに隠れた。
まあ子供ってこんなもんだよね。あたしは子供が好きではないからそんなの全く気にしていないというようにあえて無視して「リビング広いねーテレビでか!」と口にした。
「テキトーに座っといてソファでもなんでも。妹が話しかけてきたらなんか言っといたら大丈夫だから、まあ多分話しかけにいくことはないけど。めっちゃ警戒してるぽいし。」
友達はそれだけ一息に言うとしがみついている妹の手を引き剥がしてキッチンに歩いて行った。お茶でも出してくれるんだろう。妹はそれについていくんだろうと推測していたけど、意外にもその場から動かずにあたしをじっと見つめてきた。それなりの意思を持っていそうなのにどこかなよなよとした視線は、あたしの体に突き刺さって来るというほどの痛みもなくて、むしろ1番居心地が悪かった。あたしは気がつかないふりをしてテレビに夢中になっているふりをした。先程まで妹が見ていた番組は子供向けアニメで高校生のあたしには退屈だったけど大人しく座って眺めていた。
「ねー飲み物ないからなんか買ってくるね。」
キッチンから友達の声が聞こえてあたしは体を捻って視線をそちらに向けた。視界の端で妹も顔を上げたのがわかった。
「え?いやいや、そこまでしなくていいよ飲み物なくても大丈夫だし…。」
だって友達が外に行ったらあたしと友達の妹の2人だけになっちゃうじゃん。それなら喉の渇きなんて我慢する。しかし友達は首を横に振って
「や、おつかいも頼まれてるから、ごめんけどちょっとだけ待ってて。」
「えーそう…わかった。」
おつかいなんて言葉を出されてはあたしが引き止めることはできない。諦めて首を縦に振ると友達はさっさと財布を片手にリビングを出ていった。少しして、ドアを開ける音、閉める音。あたしはまたテレビに意識をやった。声優の明るい声がリビングを満たしているはずなのにそれより時計の秒針の方が大きく感じるのは一体どういうことなんだろう。
「…番組変えていい?」
しばらく見ていたあたしはいい加減にため息をついて、親に捨てられた子供みたいに心細そうに小さくなっている友達の妹に訊いた。やっぱりこの番組はつまらない。あたしも子供の頃はこれを面白いと思っていたのか、そもそもあたしが小学校低学年の頃にこんな番組あったのか、もう忘れてしまった。
妹は顔を少し上げてこくんと頷いた。それからようやく足を動かして、けれど目的地は決まっていなかったようでリビングをうろうろし出した。ソファに座りたいがあたしがいるから座れないんだろうか、と数秒ほどで至って、番組を変えるボタンをぽちぽちと押しながらどうしたらいいんだろうと考える。あたしがソファから退散したらうろうろするのが妹からあたしになるだけで、あんまり意味はないだろう。
妥協案としてソファの端っこまで動いた。距離が多少できたら妹も座れるんじゃないだろうか。とはいえこんなのに効果なんてないだろうという諦めもうっすらとあったがその予想は外れて妹は驚くほど素直にソファの端っこに腰を下ろした。
適当な番組でボタンを押す指を止めていたあたしは結局1番最初の子供向けアニメに戻した。
「名前なんていうの…。」
アニメがエンディングに入ったとき訊いた。
妹は「カナ。」と答えた。座敷童の気配なんて微塵も感じさせないようなふつうの名前、女の子の名前。
ふうん、いい名前だね、などという返答が浮かんだが言わなかった。それよりも、つまらない、という気持ちがあったからだ。
「年齢は。何年生。」
あたしはまた訊いた。2年生とかえってきた。じゃあ7歳か、8歳、くらいか。7歳だとしたらあたしたちのちょうど10歳下で、歳の離れた姉妹なんだなーなどとどうでも良いことを知る。
「好きな番組は。」
あたしは教えてもらったところで何にもならない質問を重ねた。
「これ…。」
妹はテレビを指差した。まさにエンディングが流れているこのアニメ。
「ふうん…。」
じゃあ、あたしのせいであんまりしっかり見れなかったんだね、かわいそう、ごめんね。と無責任に軽やかに、思う。
そのときドアが開く音がした。友達が帰ってきたらしい。それだけで無性に安堵するあたしは、やっぱり子供が得意ではない。
給食
死描写あり
2026/07/19 給食
「つむぎは死んだよ。」
ざく、ざくと雪を踏み固めて白い息を吐いてようやく辿り着いたつむぎの家は、わたしの記憶よりも汚れていて、小さかった。ほんとうに薄い灰色の膜に覆われているように見えて、敷地に足を踏み入れて良いのか、チャイムを押して良いのか少々迷った。それでも、と思って寒さのせいで赤くかじかんでいる人差し指をチャイムに押し付けると、たっぷり何十秒かでようやくドアが開いて、わたしの記憶よりもずっと高齢になっている女の人が出た。つむぎのお母さんだ。理解するのに2秒を要した。でもつむぎとは血が繋がっていないということを、いつだったか耳にしたことがある。正しいのかどうかは知らないけれど。
「こんにちは…。」わたしがつぶやくように放った挨拶に彼女は訝しげな目を向けた。わたしが果たして誰なのかわからないんだろうと気づいて、「吉田薫で、す。」とやや詰まった声で名乗る。彼女が吉田薫という人間のことをまだ覚えているかすら怪しかったが返事が来る前にわたしは捲し立てるように言った。
「つむぎちゃんに会いに来たんですけどいますか…。」
捲し立てるように言うはずだった。のに、結局終わりの方はしぼんでしまった。彼女は一瞬目を見開いて数秒して、
「いないよ。」と答えた。
「つむぎは死んだよ。」
それからドアは閉められた。
ざく、ざくと雪を踏み固めて白い息を吐いて辿り着いたのは学校だった。冬休みだから、当然門は開いていない。開いていたとしてもわたしはもうここの生徒ではないから入ることはできない。6年と少しぶりに見たわたしたちの小学校はそれでも大きく、わたしは成長しているつもりでしていないのかもしれないと不安になるけど、それは多分すかしているだけだ。
小学4年生の夏、つむぎは死んだ。7月21日火曜日の13時01分。この小学校の1階、図書室に続く廊下だった。小学校に侵入した不審者は刃物を片手に持っていたらしい。12時45分、他のクラスメイトよりも先に給食を食べ終えたつむぎは席を立って教室を出た。また図書室行くの、とコッペパンを手でちぎりながら訊ねたら、うん、とだけ返ってきたのを鮮明に覚えている。不審者が校内に侵入したのは12時59分だと言われている。つむぎが図書室を出たのはその直前だったんだと思う。他の教室は窓もドアも固く閉められ、給食の時間だったため廊下に生徒はいなかった。つむぎだけ。
あの日食べたコッペパンはすごく美味しかった。コッペパンを食べながら牛乳を飲むと、いい具合にひたひたになった。またあれ食べたい。とわたしはぼんやりあの日の光景思い出す。薄黄色のおぼん。深い赤色のお箸。コッペパンと牛乳以外のメニューはもう覚えていない。賑やかな教室。男子と女子の割合はちょうど半々か、女子の方がちょっと多かった気がする。急に流れ出した放送で先生が慌て出した。それから窓もドアも閉めて、きつい口調で静かにするよう指示をしてきた。時計の秒針のチクタクという音。困ったような戸惑ったような、不安そうな表情のクラスメイト。つむぎの何もない席が目立った。先生は教室を出ていった。わたしたちは絶対に出ないよう、やっぱりひどく厳しい口調で言った。薄黄色のおぼん。深い赤色のお箸。コッペパンの乗っていたお皿はもう空っぽになったし、牛乳もあとは潰して捨てるだけだった。
「つむぎは死んだよ。」
わたしはつむぎのお母さんに言われたことをつぶやく。思いの外口に馴染んだそれは、ただの事実であって、ただの事実以上のものでもあって、それを確認したわたしは少しだけ満たされて、小学校に背を向けた。
くちべに
2026/07/20 くちべに
「須藤さんて、ねえ、なんかね。」
川崎れみは色つきのリップを、彼女の元から血色の良いくちびるに塗りたくっていた。意味なんてあるんだろうかと化粧に興味のない私はぼんやりと考えながら、首を縦に振る。ねえ、なんかね、の意図は知らないけれど。須藤さんなんて人がクラスメイトにいたかもよく覚えていない。
「須藤さん、ちょっと、あれだよね。」と言うとれみは満足そうにくちびるを吊り上げた。トイレの光を受けてつやつやと輝いている。きれいだ。れみは端正な顔立ちをしている。決して華やかではない。どちらかといえば地味で、しっとりした顔だ。彼女の性格とはあまり合っていない。それがたぶん、良いんだと思う。
前髪を整え終えたれみは何も言わずにトイレの出口に歩いた。私も何も言わずについていく。こういうとき、私たちは友達なのか仲間なのかクラスメイトなのか、いつも不思議になる。姿勢の良いれなの長い髪の毛はどこか茶色っぽい。私の黒々とした髪の毛とは違う。
須藤さんて誰だろう。突然声を上げて、私の知らない派手な顔立ちの女子生徒と話し出したれみを置いて、私は自分の教室に戻る。あの女子生徒がもしかしたら須藤さんなのかもしれない。だけど似合わない。あんな派手な顔立ちには、すこし珍しくてうるさくて、そしてどこか下品なものが似合う。そんな苗字はなかなか思い当たらなかった。
チャイムが鳴ったときに滑り込むようにして教室に入ってきたれみに、生物担当の女性の先生が注意したけれど、れみは大して気にしていないふうに「ごめんなさーい。」と言った。そういうたびに私はれみの主張の激しいくちびるに多少の気持ち悪さを抱く。れみには赤いくちびるは変だよ、というような。うすい桃色か、さくらんぼ色か、肌とおんなじような色が良いと思うのだ。けれど、これはきっとれみの存在自体を否定するものだから、どうにか抑えようと視線を揺らす。
れみは私のことをそこまで好きじゃないだろうし、私もれみのことを友達とは認識していないことを、そろそろ受け入れないといけないんだけど、私は一旦は黒板に逃げている。
一箇所れなになってるけどれみのミスです
脳内で変換‼️よえおしく
よえおうぃあはよえおしくのへんかんみすでjs
じゃもみす
jsもみす
よろしくの変換ミスです‼️
鮮烈を少しぬぐって
2026/07/20 鮮烈を少しぬぐって
「なに。」
ゆいちゃんは私の手を掴んだ。私のなに、はたぶん緩やかに地面に向かっていって消えた。ゆいちゃんには届かなかった。だって手は掴まれたままだ。私は彼女の意図が全くつかめない。どうしたの、と言おうと口を開いたけれど、出てきたのはなぜか「あ、」という無意味な音で、それのせいで一瞬喉がしぼられて、結局言うはずだったどうしたの、が落ちたのは1秒あとだった。
「うん、あたし。」ゆいちゃんはそれだけ口にした。思わず眉をひそめて、長い前髪からわずかに覗く彼女のひとみをじっと見つめる。うすい紅色をしていて、なんだか今にもギラギラと光を放ちそうだと、なんとなく思うけど。思うけど、そんなのいまはどうでも良い。
「あたし好きなの、あかいろ。」
ゆいちゃんはほんとうにわずかに口角を上げた。彼女のくちびるは、頬の色とおんなじ色をしていた。
「ふうん。いいんじゃない…赤色。」
私はやっぱり眉を寄せたままうなずく。赤色が好きだからなに。興味ないよ。早く手を離して。少々辛辣な言葉がいくつか浮かんで、そのまま口にするなんて到底できないから、果たしてどうやって包み込もうかと思案する。そのあいだもゆいちゃんの手の力はゆるまない。重なっている部分があつい。
「じゅぎょう、はじまるから、行かなきゃいけないんだけど。」
私は言った。私が移動教室のために教室を出たのが44分とかそのへんだったから、3時間目が始まるまであと5分もないのは確実だ。口にしたとたんに、胸にかかえる美術の教科書が存在を主張し出して、ゆいちゃんの視線も私の視線もそこに集中する。
「うん…あたしも。」ゆいちゃんは隣のクラスだから3時間目は移動教室じゃないはずだ。あたしも、はちょっと違うんじゃないの。ねえ、どうでも良いけどね、私は「そうなんだじゃあ、離してくれる。」と先ほどまでより厳しい口調で、彼女と繋がっている手をすこし揺らした。
「くちべにどこで…買ったの。」
ゆいちゃんは顔をうつむけて呟くように言った。
「は?」
思わず口から飛び出たのは自分でも驚くほど低い声でゆいちゃんはさらに顔を下にした。肩にかかっていた彼女の長い髪の毛が、重力に従って胸元に落ちたのを眺めてから、私は言う。
「ごだい。」
ゴダイ。ドラッグストア。別に特別なリップでもなんでもない。そんなに高いわけでもない。むしろ安いほうだったはずだ。ただ赤色が鮮烈で気に入っただけだ。でも鮮烈だから、スクールメイクには向いていない。いつもちょっとだけ人差し指の腹でぬぐって、意味があるのかわからないけど気持ちうすめる。今日もそう。だから私のくちびるはそんなに赤くない。はずだ。
ゆいちゃんはようやく手を離してくれた。「ありがとう…。」と言って私の目を見た。そのひとみは、私のくちびるよりあのリップの本来の赤よりずっと濃くて、私が想像していたギラギラはなかったけれど、そのなかには茶色とか紫とか…もしかしたら水色とかも混ざっていて、こんな安物のリップでいいの、とぼんやり思った。それよりもっと、似合うものがあるんじゃないの。ねえ、まずはその、うっとうしい前髪を切るとかさ。
ゴダイ。兵庫県、岡山県、鳥取県、京都府などにある。
私の住んでる地域とは関係ないです。
あまいより
この小説はパスワードがかかっているため表示できません。通常の閲覧ページから閲覧してください。
わたしはこの小説に出てくるキャラには興味がないけど、
わたしが好きなキャラはよく笑うキャラだから、甘ったるい笑顔っていいよなー‼️‼️という熱量を主人公にそのまま持たせた
この小説に出てくるキャラには興味はない
放し飼い
2026/07/26 放し飼い
放し飼い。
家に帰ったら菜々美はいなかった。コンビニかコインランドリーか…菜々美がいくのは大体その二択で、けれどお風呂場を覗くと洗濯物は減っていない。じゃあコンビニかな。きっとそう。すぐに帰ってくるだろう。私はスーパーで買ってきたお惣菜をリビングの小さなテーブルに並べていく。菜々美と暮らし始めて今日で2年が経つ。そんな日にお惣菜で良いのかは私にはわからないが、菜々美はどうせ今日で2年だなんてこと覚えていないだろうから、まあ良いんだろう。
テレビをつけるとニュースがやっていた。今日の朝、殺人事件があったらしい。どこで。私は瞳を動かしてテレビの端から端までぼんやり眺める。音声が耳に流れ込んでくる。「〇〇県〇〇市のアパートで〜…。」アナウンサーの綺麗な声と同時に画面が切り替わり、上空から撮影したそのアパートが映し出された。その時ようやく私の意識はぼんやりからはっきりになった。
見覚えのある市の、見覚えのある建物だった。なぜならここは〇〇市であり、そのアパートは私の住むここの近くにあるからだ。私はアパートがある道をよく通るわけではないが、近くで事件が起こったことに変わりはない。
「犯人は未だ捕まっておらず警察は捜査を続けています…。」画面がまた切り替わって端正な顔立ちのアナウンサーが別のニュースを読み上げ始めた。打って変わって、明るい内容のニュースに、拍子抜けに近しいような気持ちになる。こっちは全然明るくないのにとなんだか変に憎らしくもなる。
スマートフォンを手に取った。家を出て行った菜々美のことが急に心配になった。けれど菜々美はスマホを持っていないから、電話もメッセージもできない。もどかしい。これまで菜々美にスマホを与えるか悩んだことは2度ほどあるが、それでおかしなことになっても困る。好きに外出をさせている時点で、とも思うが、スマホを与えてネットが自由に見れる環境になれば、話も変わってくるかもしれない。だからやっぱり与えることはできない。ただ自分のピンク色のカバーのそれを握りしめ、早く帰ってきてくれと願う。こんなことなら、放し飼いなんてするんじゃなかったかもしれない、と後悔もする。
どれくらい経ったかは曖昧だった。体感では1時間か30分かそれくらいだった。けれどおそらくは数分程度なんだろう、こういう時の体感というのは信用できないものだ。ガチャリという音が聞こえた。数秒後にはドアが開く音。私は慌てて立ち上がって玄関にかけていく。コンビニの小さな袋を下げた菜々美が靴を脱いでいた。私の姿を認めると、あ、と口を開く。
「おかえり。」
私は息を吐く。
「おかえりは、こっちのセリフでしょ。」
「ああ、そっか、まあ、どっちもか。じゃあただいま。」
「おかえり。ただいま。」
いつも通りタレ目で、いつも通り髪の毛は長くて、いつも通り私のだから大きさがあっていない服を着ている菜々美。いつも通りの会話ができることにひどく安堵して私は彼女を抱きしめる。一瞬、体を震えさせた彼女は、それでもすぐに力を抜いて私にもたれかかってくる。そこには諦めと受容と不安と恐怖があって、やっぱりいつも通りで、さっきまで考えていたことなんて吹っ飛んでいった。放し飼いはもうやめようかな、ということなんて。
「だって菜々美はこっちの方がいいよね。」
つぶやくと、彼女は今度はピンポイントで肩を上下に震わせた。なにが、とは訊いてこない。多分よくわかっていないまま、彼女は首を縦に振る。
私は菜々美から離れると、玄関の鍵を閉めて、チェーンまできちんとかけてから言った。
「ご飯を食べよう。今日はお惣菜を買ったの。白米は冷凍してるからそれチンしよう。」
「うん。」
菜々美はまた頷く。いつまで経っても迷子の子供のような顔をしている彼女に、私はたびたびどうしようもないほどの苛立ちを覚えて、それはすぐに愛おしさに変わるけれど、変わるまでの数秒をいつも持て余してしまう。
冬の終わりの温度計
https://tanpen.net/blog/06df42b5-c8da-4ed9-9e41-f392c77ba397/
この小説はパスワードがかかっているため表示できません。通常の閲覧ページから閲覧してください。
金平糖のうすいろに
2026/07/28 金平糖
なんで、高柳のこと、好きなの。小声でそう訊いてきたのはガリレオだった。ガリレオといってもガリレオ・ガリレイのことではない。2010年か2011年生まれのれっきとした私のクラスメイトで、ただ理科が得意そうだからそういうあだ名がついただけだ。実際は数学のほうが得意らしいけど。
まさに、理科の授業中だった。理科、というか、生物基礎。生物化学教室1で行われている授業。担当の高柳は出席番号にとらわれないで適当に席を決めるので、出席番号で考えれば絶対に近くの席にならないようなガリレオとも隣同士になった。
「え?」
私は訊き返した。高柳っていうのは今授業をしている高柳のことか。それ以外、思い浮かばない。この、背が高くて比較的若くて、趣味はマラソンらしくて、自分語りが好きで、50分のうちの15分くらいを雑談で潰す、この高柳のことか。
「高柳のこと、なんで、好きなの…。」
ガリレオはさっきよりも小声で言った。そのメガネのレンズの奥にある、金平糖みたいな輝くような色の瞳は、けれどいつも眠そうなまぶたに半分くらいは隠れている。もちろん今も例外ではなくて、綺麗なのにもったいないなあと私は現実逃避のように思った。メガネだって、外せばいいのに。
「高柳のこと好き、じゃないけど。」
それからぼんやりとした声で答えた。ガリレオの定義する『好き』が恋愛の話なのか憧れを含んだ淡い気持ちを指しているのか純粋な憧れだけなのかわからなかった。いっそどれでもない気もして、だけどきっとどれかではあって、そのどれだったとしても、肯定しないほうが良かった。特に恋愛の話だった場合。
「ふうん…じゃあなんでいっつも話しかけるの。」
ガリレオは不思議そうに私を見つめる。
「今、授業中、なんだけど…。」
とりあえずその金平糖から逃げ出したくなって話を逸らす。至極真っ当なことを口にするとガリレオは素直に「あ、ごめん。」と前を向く。
高柳が話している。ホワイトボードには汚い字が並んでいて、ただでさえ席が後ろのほうなのに、わからないなあ、と困ってしまった。あるいはこれも実際はそれほど困っていなくてただ現実逃避の一種なのかもしれなかったけれど、自分自身ですら現実逃避だと確信できていないそれを、誰が断言できようか。私は脳みそのどこか端っこのほうでそんな理屈をこねくり回すと、満足して、ガリレオをちらりと見やった。真面目に板書しているガリレオの字も汚かった。
授業終わり、私は高柳には話しかけずに友達と一緒に教室を出た。
「私って高柳のこと好きに見える?」
軽い調子で言った。ようにした。友達は首を傾げた。
「別に?よく話しかけてるけどその割に生物の成績良くないし、高柳のこと好きなら頑張って勉強するはずじゃん。」
「いや、それは花ちゃんが私の生物の成績を知ってるから言えることであって、知らない人から見たら私って高柳のこと好きそうに見える?」
「ええ?知らない。私は知っちゃってるから。まあ見えるんじゃない、多分。少なくとも嫌いには見えないでしょ。」
「あー、そっかあ。」
よく話しかけてると好意を抱いているように見えるというのは容易に理解ができる。しかしそれに対して「なんで」と問うてくるのは、やっぱりよくわからない。高柳はそれほど生徒に嫌われていないはずだ。自分語りが好きと言っても話がつまらないわけではないし授業では笑いも起きる。テストは多少難しいけれど、それだけで教師のことを嫌う生徒はあまりいないのではないか。テストが難しいと平均も下がって、自分の点数が低くてもうまく周りに紛れることができるだろうし。もちろん点数が高ければいうことはない。
「ガリレオにさあ、なんで高柳のこと好きなのか訊かれたんだけどさ、どういう意味だったんだろうね。」
友達は眉を寄せてみせた。だが数秒後には元の顔に戻ってまあ、とくちびるを開く。
「ガリレオって変わってるし。」
その発言は理解を諦めているだけでは、と思って、でも理解できないんなら諦めるしかないのもそれはそうか、と思い直す。ガリレオが変わっているのはただの事実でもある。「ああ、まあね。」と私は曖昧に首を縦に振った。
次の生物基礎の時間、隣に座るガリレオに私は小声で話しかける。
「私、高柳のこと、別に好きじゃないよ。」
ガリレオは数秒ほど不思議そうに私を見上げていたが、ああ、と納得行ったように呟く。そうしたら今度は別の疑問が浮かんだらしくまた不可解そうにした。そんなときでもまぶたに半分ほどは隠れている、見れば見るほど金平糖みたいな薄い黄色の瞳。そこに映る私は案外綺麗だったので意外といいかもなと思った。逸さなかった。
「ならどうして話しかけるの、いつも。」
ガリレオは言う。彼女は変わっている。そんなの気分でしかないのに。今、彼女にわざわざ好きではないと弁解したのだって、ただの気分だ。思い出したから、訂正できるならしたほうが良いのが普通だからだ。
「いや…気分、ただの。」
返答に困っている、という意思表示のように眉を下げて見せると、ガリレオは流石に察したようで、でも疑問が解決したわけではないようで、その中間みたいな変な顔をした。
「ふうん…。」とだけ言って、ガリレオはすぐには前を向かない。ずっと私と目を合わせていたわけでもない。ただしばらくは、斜め下をゆらゆら眺めていた。まつ毛に遮られる中で、金平糖が揺れていた。
吐く
⚠️嘔吐描写あり
2026/07/30 吐く
吐き気がした。頭痛もしていた。吐き気がする、ということを認識して咄嗟に手で口を塞いだ。う、ともらすと、隣に座っている安藤かほがこちらに顔を向けて、数秒私の様子を伺うように眺めたあと、「どうかした?」と言った。
「はく。」
私は端的に告げた。長々と話したら口から溢れる、と直感していた。安藤かほは私の言葉を聞いて勢いよく席を立ち上がった。先生とクラスメイトたちの視線がこちらに集まるのがわかって、私のほうが恥ずかしくなった。
「先生、山内さん、吐くかもって。」
ちょっと死にたくなった。そんなにみんなの前で言わなくてもいいじゃん、今ここで吐くわけには余計にいかなくなった。クラスメイト全員の目が私に向けられているということは吐く瞬間までバッチリ見られてしまうということだ。クラスメイトの目が向けられていなくても、教室で吐くのなんて嫌だけど、この状況ではもっと嫌だ。耐えなければならない、と痙攣するのどに力を入れたが、大して意味はないように思えた。
先生は私を教室から出してトイレに連れていった。足を踏み出し体が揺れるたびに口からいろんなもの、それは吐瀉物だとか心臓だとかその他の内臓だとか、が飛び出そうな感覚だった。トイレに着いたとき安心感と、先生は果たしてどこまで付き添うのだろう、という不安を同時に抱いた。
私、1人で吐きますよ、先生授業に戻っていいですよ、正直に言えば吐いてるところ見られたくないから。などと伝えたいが、こんな状態じゃ物理的に不可能だった。ならジェスチャーを駆使して伝えるしかないかと思案していたが、私がそれを行動に移す前に先生が養護教諭を呼んでくるので吐いておいてなどと言ってくれて助かった。首を縦に振って私は個室に駆け込んだ。
うえ。
気持ち悪い味がした。気持ち悪い味、てどんな味だよとおもうけど、気持ち悪い味としか表現できなかった。酸っぱくて、それがアクセントになっていて最悪だった。
トイレの便器に私の無駄に長い髪の毛が触れていたりしないか、触れていたらどうしようとか、口の中に広がるなまぬるい液体を吐き出しながら考えた。脳内はこんなときでも割と冷静なんだなと、考えている自分に対してさらに思った。
しばらくそうしていた。どれほどかは、具体的には知らない。知る術がないからだ。
個室のドアが、こんこん、と叩かれた。養護教諭がきたんだなとすぐに察して、ロックはかけていないからすぐに開けてくるだろうと判断して体を後ろに捻ることはしなかった。私の推測通りドアはさっさと開けられて養護教諭が入ってきた気配がした。背中をさすられた。背中に生まれたぬくもりに、安心するべきなんだろうけど、気持ち悪いとしか感じなかった。
うえ。また吐いた。
頭痛はちょっと治った気がした。
もう吐かないかな。終わったかな。うん、たぶん。そのあとの数秒くらいは呼吸を整えるのに使った。ずっと養護教諭に何か言われている気がしたけど、その声はぐちゃぐちゃと絡まった糸のようでうまく認識できなかった。そんなことより先に私はトイレの蓋をしてすぐに流した。自分の吐瀉物なんて見たくないのだ。
「うがいがしたいです。」と私は言った。ただ不快だった。糸を引くみたいな胃の内容物が。
胃酸と溶ける
⚠️嘔吐あり
2026/07/31 胃酸と溶ける
届かないなーと悟った。彼女をライバルにするには遠すぎたし、近すぎたし、余計なものが多すぎた。そうじゃなかったとしても私が彼女に届くことはなかっただろうが、そうじゃなかったとき、私がこのような虚無感に諦めることはなかった。私がどうしてもどうなっても彼女は私のことを好きでいてくれるということを知っている今、諦めるという行為は簡単すぎた。
家のドアが開く音がした。
「おかえりー。」と私は言った。間の抜けた声はいくらか滑稽で言い直そうか一瞬迷うくらいだった。
数秒経っても返事は聞こえてこなかった。ドアを閉める音だけが返ってきた。おそらく施錠もしていない。私は眉をひそめて、ソファから腰を浮かせた。まさか今帰ってきたのは彼女ではなくて泥棒とか、泥棒だったら「帰ってきた」ではないけれど。まあ泥棒だったとして私はしっかりおかえりと発してしまったから遅い。そんなことを考えながらぺたぺた歩いて廊下に出、玄関に視線をやった。ドアにもたれかかって座り込んでいる彼女がいた。
「なに。」
どうしたの、と付け加えた。体調不良?熱でもあるのかなあ。止めていた足をまた動かして彼女のほうに行く。一歩踏み出すたび、彼女が無言でいるわけではないという事実に近づく。
「あれ、泣いてる。」
気づいたのは彼女の目の前についたときだった。顔を俯けているからよくわからなかったけど、息がうまくいっていないようだし、鼻を啜る音も聞こえてきた。
少し困惑した。彼女が泣いているところなんて見たくなかったし、だからなんでこんなところで泣くんだよ、と憤りも覚えた。とりあえず手を伸ばして鍵をかけた。それから呻くようにしながら涙を拭っている彼女に言う。
「どーした。」興味があった。彼女がそこまで打ちのめされるなんて果たしてなにがあったんだろう。
彼女はわずかに顔を上げた。私はそれを覗き込むか数秒悩んで、結局覗き込んだ。泣いている人間の顔をまじまじと眺めるのは初めてだったけど、案外ふつうだなという気持ちと、涙で濡れていて気持ち悪いという生理的嫌悪が両立することに驚いた。
「なにもない。」
彼女は変な声だった。喉が締まるのか裏返ったり小さくなっていたりした。なにもない、は説明するつもりがないのか、それ自体が説明なのか、どちらもありえて厄介だった。だから私はそれについて理解することをやめて「ふうん。」と言った。それからしばらく突っ立っていた。だんだんと当然のように、もう戻っていいかな、と思い始めた。流石に薄情かな。こういう状況で、私はなにをすればいいんだろう。模範解答はなんなんだろう。スマホはリビングにあるから調べられないし…。まあでも、戻ってもいいよね。彼女にしても泣きたいときにずっと人がそばにいても扱いに困るだろう。なんて「思いやり」のふりをできるような理由を浮かべると、私は自己満足して、彼女から一歩離れた。
「えっとじゃあ、」
「ごめんはく。」
私の言葉をさえぎって彼女は切羽詰まるように言った。はく。履く。ちがう、吐く。理解すると私はええ、と声をあげて袋かなにかを探した。玄関にそんなものありはしない。リビングにはしって、視界に入った小さめのゴミ箱を手に取った。彼女のもとに戻って渡すと、彼女は躊躇なくその中に吐瀉物を吐き出した。ゴミ箱で口元を覆うようにして目をつむっている彼女には罪悪感の色も見られた。
ある程度吐き出せたのか彼女は目をうっすら開けた。瞳の表面が涙の膜に覆われている。それからまた吐き気がきたのか彼女は目をつむった。涙が押し出されて彼女の目からあふれ、白い肌を伝ってゴミ箱に乗る。ゴミ箱の上も伝って、重力に従って落ちていく。その、落ちる直前の涙を私は中指の腹で掬い取るように捕まえた。優しくしたはずなのに涙は形を崩して私の指紋に溶け込むようにして消えていった。
「ぅえ…終わった。」
彼女の瞳が覗く。ゴミ箱の袋をしばりはじめる。
「吐くの終わった?」
まあ、それ以外でなにが終わったんだって話だけど、一応訊くと彼女は頷いた。
「吐くの終わった。」
「うがいしてきたら。」
「うん。」
彼女はゴミ箱ごと抱えて立ち上がると、靴を脱いでリビングに歩いていった。その背中を見送ったあとで、あ、それ私がやるべきだったのかもしれない、と気づく。吐いた直後の人間を動かすのは良くなかったか。けれど彼女がそうしたのだから、誰も私を責めてはこないはずだ。私は腰を上げて玄関に吐瀉物が飛び散っていないか確認した。目視では特になにも飛び散っていないように見えたけど、気にはなるから掃除をすることにしよう、と決めると、踵を返して彼女の後を追った。
足取りは軽かった。私の心の中は不思議と充足感に満ちていた。
お腹が空いた。早くご飯を食べたい。彼女は食べるかわからない。吐いたんだからしばらくは食べないほうがいいんだろうけど、彼女が食べるならそれでいい。そしてきっと彼女は、私が頑張って作ったことを仄めかせば食べてくれると思う。そういう優しさを持ち合わせた人間だから、私はそう信じている。
彼女に届くとか届かないとかは、もはやどうでも良くなっていた。
ぽんこつぽん
2026/08/03 ぽんこつぽん
「ねー、ぽんのお姉ちゃんってちょっと変なの。別のクラスの子が、話してた。」
私がお弁当の蓋を閉めながら言うと、とっくに昼食を食べ終え読書していたぽんは顔を上げて眉をひそめた。
屋上でも読書しているぽんはズレてる。加えて能天気でぽんこつだから、ぽんっていうあだ名をつけた。最近つくったばかりで私の中ではまだあんまり馴染んでいない。たぶん、ぽんの中ですら。
いつも温和な雰囲気の彼女の珍しいしかめっ面に、私はやっちゃったかな、と思った。同時にぽんにこんな顔をさせる彼女のお姉ちゃんというのは一体どんな人間なんだろうと好奇心を抱く。あるいは、私の抑えきれなかった面白がるような気持ちが癪にさわっただけなのだろうか。
ぽんのうすいくちびるが動いたのを見て、怒られるかもしれないと咄嗟に構えた。けれどそこから出てきたのは
「ちょっとどころじゃねーよ。」
という嫌悪と諦めとそれ以外の何かを熱して溶かして、それから冷ましたようなもので、私は安堵する。
責められなかった。よかった。ていうか実の妹にまで諦めちゃってるんだ、かわいそう、ぽんのお姉ちゃんが。えーっと、名前はなんだっけ。別のクラスの子はなんて言ってたっけ。それとも言ってなかっただろうか。それとも、そんなこと、どうでもいいか。
ぽんは本を閉じた。赤い表紙に、白で明朝体の文字が並んでいる。
「まいにち、一緒に登校して、一緒に帰らんとあかん。」
ここは関東だしぽんは関西人じゃないはずだけど、彼女は時折関西弁のような口調になって、それを聞く私はエセ関西弁に対する反発とあまり聞かないイントネーションへの違和感でいっぱいになる。
「ふうん。大変なんだ。」
大して思考せずに相槌を打った。ぽんって私が知らないだけで関西出身なんだっけ?いや、この間訊いたときは生まれも育ちも千葉って返ってきたしそんなわけない。じゃあこれはやっぱりエセ関西弁なのだろう。ちょうど内心で結論をだしたときにふろしきでお弁当を包み終える。
「今日も、帰らんとあかん。姉ちゃんと。」
「ああ、そう。そうだね。」
そりゃそうでしょ、とぼんやり思う。毎日一緒に登下校しないといけないってさっき言ってたんだから、『毎日』に今日が含まれてることくらい、わかるよ。こういうのもぽんこつに入るんだろうか?ぽんはもしかしたらぽんこつなんじゃなくてただ本当に頭が周りよりも悪いのかもしれない、お姉ちゃんもそうらしいし…なんていう、絶対に口にはしていけないような推測は、考えてもいけないんだろう。だから首を横に振って打ち消す。ぽんはそんな私を見て不可解そうな瞳を向けたが無視して、別の話題を持ち出そうと口を開いた。
「花瓶、割ったらしいよ。」
「え?」
「今朝、羽田が。」
「ああ。姉ちゃんも昨日割ったから、その話してんのかなって、びびったじゃん。」
別の話題を持ち出したつもりだったのに、そんな偶然が。まあいいか。いや、いいんだろうか。まあ、いいんだろう。私はぽんのお姉ちゃんも花瓶を割ってたなんて知らなかったんだ。
そんなことよりも、ぽんってもしかして、自分のお姉ちゃんのこと誰かに話したいのかな、今わざわざ出してきたってことは。ふつうあんまり触れられたくないものなんじゃないの?一種のアドバンテージだとでも認識しているんだろうか。まさか、そんな。私はみんなの話す『変な子』と関わったことがないから想像もできない。首を突っ込むつもりもあまりない。
「花、いま、バケツの中にある。」
「へえ。」
ぽんが興味なさげに頷くのを見ながら、私は教室のロッカー上にあるはずのバケツを思い出す。花の長さがバケツと全然合っていない上にバケツの口が広すぎるせいで、花は薄く張られた水にほとんど沈んでしまっていた。蛍光色に近い青とは全然合っていなくて、むしろ青の方が主役みたいで、いくらか面白かった。面白かったというか。滑稽というか。花に滑稽とか感じることこそ、滑稽なのかもしれないが。
「姉ちゃん、花瓶で怪我して、あせったわー。」
ぽんはうっすら笑った。私は意識を記憶から今に戻す。
やっぱり、アドバンテージって、思ってる?現実ってそんなもの?私の考えすぎなのかもしれないけど、そう見えてしまうのだから仕方がない。
「もう、うるさいんだよ。」
「そうなの。」
「そーだよ、パニックなって泣く。」
「そうなんだ。」
そんな話して大丈夫なのか疑問だったけれど、曇り空の下の屋上は当たり前のように晴れの日より生徒が少なくて、人口密度も低いから誰にも聞こえていないんだろう。そう願う。私が願ってやる必要は本来はないはずなのに、ぽんの無駄によく通る声のせいで、なんとなく居心地が悪い。
「ぽんはお姉ちゃんのこと好きなの。」
私は問う。
「嫌い。」
ぽんはからりとした笑顔で言った。それがあまりにも眩しく湿度が低いので、今日は晴れだったのかと錯覚しかけた。
「でも、障害あるから嫌いってわけじゃないから、セーフ。」
「あ、そう。」
それはよかった。というべきなのかな。わからない。ただ、私が安堵したことは確かだ。
ぽんが『変』などと濁さずにはっきり『障害』という言葉を使ったことに、数秒遅れで気づく。ぽんは基本子供っぽいけど、時々大人みたいになる。ちゃんとしてるし、狡いところもあるし。友達の狡いところなんて見たくないけど不可抗力のときもあるのだ。
私は腰を上げた。
「お昼休み、たぶんもうそろそろ終わるし、戻ろ。」
屋上に時計なんてないし私たちは腕時計をつけていないから適当だけど。ぽんは頷いてお弁当と水筒と本を抱えた。ほんの数秒だけ続いた、私がぽんを見下ろすという構図は、ぽんが立ち上がったことによってあっさりと終わってしまった。
「ぽん、背、伸びたな。」
「だろー。」
「いや、そんな伸びてないよ。適当言っただけ。」
「そーか。」
「嘘、ほんとは伸びたと感じた。」
「事実を言うと、伸びた。」
「あっそう。」
答えて、歩いて、ドアを開けて、校舎に戻った。
あー二次創作書きたい自給自足したい。
成り下がった
2026/08/05 成り下がった
「ねえ、髪の毛切ってぇ。」
かずちゃんの家で漫画を読んでくつろいでいたら、彼女がふと思い出した、というような調子でそう言って、あたしにハサミとゴミ箱を押し付けるように渡してきた。漫画を体の横に置いて思わず受け取ってしまったあたしは、当たり前に問う。
「切るの?あたしが?誰の髪?」
「うん、スウちゃんにあたしの髪の毛切って欲しいの、後ろ髪。長いから、邪魔なのね、さいきん。」
「あたし素人。」
「だいじょーぶだよ結ぶから。肩よりちょっと長いくらいでよろしく。」
髪の毛結ぶから、失敗しても大丈夫って、どういう論理なんだろうか。あたしは自分の右手の全く普通のハサミを数秒眺めた。髪の毛を切る用の、あのシルバーでシャープなやつですらない。こんなのでうまく切れるんだろうか、しかも初心者が。答えはほぼ確実にノーだろうけどかずちゃんはその点についてどう考えているんだろう。あたしの目の前にすとんと腰を下ろして、多分、あたしが切るのを待っている様子のかずちゃんに、また問う。
「美容院行ったほうが、いいって。ぜったい失敗するよ。」
「めんどいし、いいって、なんとかなる。」
「ええ、本当にいいの?失敗してもいいの?」
「だいじょぶだって。自分で切るよりは成功する確率高いから。」
「自分で切っても初心者に託しても、結果はあんまり変わらないと思う。」
「ほんとにやばかったら仕方なく美容院行くからいいよ。」
「えー。」
それなら最初から美容院に行けばいいのに、という意見を述べてもまあ無駄だろうな、と判断して喉に押し込む。またハサミと、それなりに容量のあるゴミ箱を交互に見遣って、
「うーんまあ、じゃあ、切るからね。」
と口にした。四角い口のゴミ箱をかずちゃんの背中に密着させるように置いた。それから、彼女のよく梳かされた黒髪に手を伸ばす。ほとんど手入れされていないことを示す毛先をある程度まとめて、髪ではなく紙を切るのに適しているだろうハサミを入れる。切る直前、
「ほんとにいいのね?」
「うん。」
あたしはため息をついてどうにでもなれ、という気持ちで指を動かした。ハサミの刃が閉じられて、けれど髪の毛はゴミ箱にはあまり落ちてこない。このハサミは断髪用ではない上、毛量があるのを一気に切ろうとしたらそうなるか、と納得して、まとめていた手をほどいた。彼女の背中に広がった髪の毛の右端から、慎重に切っていく。手で押さえないと毛が簡単に動いてうまく切れない。ガタガタになる。
難しいな、と思った直後に、でもあたしが本気になる必要はないのか、と気づく。だって、あたしから切ってあげようかと名乗り出たわけでもない。あたしは美容師でも、美容師を目指しているわけでもない。
切り方は左に行くにつれて大胆になっていった。刃先で少しずつ切っていたのが、刃の根本からざくざく切り進めた。切り終えた部分は明らかにガタガタしていたけど、失敗していいと言ったのはかずちゃんの方だし良いんだろうと開き直る。これでかずちゃんが下手じゃんって怒ってきたら、あんまりにも支離滅裂だ。
「切れたよ。」
多分、と付け加えた。切ったことに多分も何もないのに。
「ありがとー長さどれくらい?」
「肩甲骨のちょっと下。」
「おーサンキュー。」
「毛先全然揃ってないけど、いいよね?」
一応訊いた。だめ、と返されてみても面白いかなと思っていた。
「うん。」
かずちゃんは頭が軽くなったと満足げな顔をしていた。
「ふうん、じゃあよかった。」
ハサミとゴミ箱を返して、漫画を手に取った。あたしは特段面白いともつまらないとも感じていなかったこの漫画は、世間では評価されているらしくて、それを知った頃から、あたしの中でこの漫画は退屈なものに成り下がってしまった。
「漫画、面白いでしょそれ。」ハサミの刃についた髪の毛をティッシュでゴミ箱に落としながら、かずちゃんは言った。「今いちばんアツい漫画。」
「ふうん。」
面白くないよ、あたしには魅力わかんないかな、どこがアツいの、なんで好きなの。純粋な疑問と反発との間の気持ちであたしの脳裏にはいくつかの返答が浮かぶ。けれど結局どれも口にはせず、代わりにかずちゃんの顔をしばらく見つめて、
「前髪も切れば。」
と提案した。そーだよ、切ってしまえばいいよ。その、長いわけでもない前髪。
かずちゃんは「前髪は、まだ、伸びてない。」と答えてハサミを引き出しにしまった。