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第6話 夜明け前のホットチョコレート
十二月に入り、街の空気は本格的な冬の寒さに包まれていた。
深夜一時を回った頃、喫茶『レトロ』の真鍮のドアが、重そうにゆっくりと開いた。
カランコロン。
「いらっしゃいませ。外は冷え込みますね」
店主の蓮(れん)は、いつものように穏やかな笑顔で客を迎えた。
入ってきたのは、眼鏡の奥の目を真っ赤に腫らし、ひどく疲れ切った顔をした女性――徹夜明けの研修医である、真尋(まひろ・26歳)だった。
真尋はふらふらとした足取りで奥のボックス席に腰を下ろすと、コートも脱がずにメニュー表を開いた。その手はかすかに震えている。
「あの……一番、糖分があって、温まるものをください」
「かしこまりました。では、自家製の『夜明け前のホットチョコレート』はいかがでしょうか。少しスパイスを効かせてあります」
「……それで、お願いします」
蓮が厨房へ下がり、静かなジャズの旋律が店を満たす。
真尋は、テーブルの上に自分の両手を広げ、じっと見つめていた。
(私のせいだ。私がもっと早く気づいていれば……)
今日、担当していた患者の容体が急変し、先輩医師たちの懸命な処置も虚しく、亡くなってしまった。
医師になって初めて直面した「受け持ち患者の死」。遺族の泣き崩れる姿と、自分の無力さが頭から離れない。命の重さに押し潰されそうで、「自分は医者に向いていないのではないか」と、暗闇の底に突き落とされたような絶望を抱えていた。
「お待たせいたしました。『夜明け前のホットチョコレート』です」
蓮が置いたのは、ぽってりとした厚手のマグカップ。
濃厚なチョコレートの甘い香りと、ほんのりスパイシーなシナモンとクローブの香りが、冷え切った真尋の鼻腔をくすぐる。
真尋はカップを両手で包み込み、ゆっくりと一口すすった。
とろり、と濃厚な甘みが喉を流れていく。
その瞬間、真尋の頭の中で、パッと一本の小さなキャンドルが灯った。
視界が急に、暖かなお見舞いの光に満たされていく。
耳の奥で、病院の緊迫したアラーム音ではない、幼い自分の泣き声が聞こえ始めた。
――白くて、どこか安心する匂いのする病室。
――「大丈夫、痛いのは全部おじいちゃんが持って行ってあげるからね」と笑う、ベッドの上の祖父。
『真尋、お前が泣くと、おじいちゃんのお腹の痛いのが飛んでいっちゃうよ。ほら、笑って』
頭の中に、はっきりと大好きな祖父の声が蘇った。
幼い頃、大病を患っていた祖父の病室に毎日通っていた。自分が「お医者さんになって、おじいちゃんを絶対に治してあげる!」と言った時、祖父は本当に嬉しそうに涙を流して喜んでくれたのだ。
自分が医師を目指した原点。それは、神様のような完璧な存在になるためではない。
「目の前の大切な人を、大好きな人を、少しでも笑顔にしたい、救いたい」という、あの日の純粋な祈りだったはずだ。
「……おじいちゃん」
真尋の目から、堰を切ったように涙がぽろぽろとこぼれ落ち、ホットチョコレートの表面に波紋を作った。
すべての命を救うことはできない。だけど、自分の無力さに絶望して立ち止まってしまったら、これから出会うはずの、救える命まで見捨てることになってしまう。
真尋は眼鏡を外し、涙を何度も拭いながら、ホットチョコレートを最後の一滴までゆっくりと飲み干した。
お腹の底から、じわりと力強い温かさが満ちていく。
「ごちそうさまでした。……すごく、甘くて、救われました」
「それは良かったです。温かい『夜明け前』が見つかりましたね」
蓮はお代を受け取り、いつものように穏やかに微笑んだ。
真尋はコートの襟を正し、今度はしっかりと前を向いて、明日への一歩を踏み出すために店を出ていった。東の空が、ほんの少しだけ白み始めていた。
カランコロン。
静けさを取り戻した店内で、蓮はカップを洗いながら、ぽつりと呟いた。
「夜明け前、か……」
蓮はカウンターの隅の日記帳を開き、万年筆で書き留める。
――『夜明け前のホットチョコレート。女性医師。命と向き合う原点の記憶』――
文字を眺めながら、蓮は自分の左胸にそっと手を当てた。
誰かの夜明けを助けるたびに、自分の頭の中の暗闇にも、かすかな光が差し込んでくるような気がする。
「僕の夜明けは、いつ来るんだろうな」
窓の外を見つめる蓮の視線の先で、誰も座らせないカウンターの端の席の白いマーガレットが、朝の光を浴びて静かに輝いていた。
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