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目次
喫茶『レトロ』
都市伝説のような、小さなお噂をご存知でしょうか。
この街のどこか、ビルとビルの狭間にある、光も届かないような薄暗い裏路地。
そこに、心にちいさな「忘れ物」をした人にしか見つけられない、不思議な場所があるといいます。
名前は、喫茶『レトロ』。
古びた木製のドアを開けると、カランコロンと涼やかなカウベルの音が響き、どこか懐かしい珈琲の香りが鼻腔をくすぐります。
カウンターの奥で穏やかに微笑むのは、白いシャツに黒いエプロンを纏った、若き店主の蓮。
「いらっしゃいませ。――今日は、どんなお忘れ物をお探しですか?」
ここには、普通のメニューはありません。
並んでいるのは、あなたの記憶の引き出しをそっと開ける、特別な一杯だけ。
もしもあなたが、日々の忙しさに追われ、大切な何かをどこかに置き忘れてきてしまったのなら。
どうか足元に気をつけて、あの裏路地を探してみてください。
ほら、ランプの灯りに誘われて、今日も誰かの足音が近づいてきました。
――喫茶『レトロ』、まもなく開店の時間です。
というわけで小説初シリーズ 『裏路地の喫茶店『レトロ』〜あなたの”忘れ物”お淹れします〜』がスタートします!応援してくださると嬉しいです!
第1話 初恋のほろ苦ブレンド
冷たい秋の雨が、アスファルトを黒く染めていた。
「はぁ……」
傘を叩く雨音に混じって、佳織の口から重たいため息がこぼれる。
時計の針は、すでに夜の九時を回っていた。
デスクの上に積み上がった書類と、上司からの容赦のない叱責。
「君の企画には熱意が足りない」と言われた言葉が、冷えた雨のように頭の奥でリフレインしている。
(熱意、か。そんなもの、とうに擦り切れてなくなっちゃったよ)
佳織は小さく首を振ると、いつもとは違う裏路地へ足を踏み入れた。駅への近道のはずだった。けれど、角を二つ曲がったところで、完全に見たことのない景色に出くわしてしまう。
街灯もない、静まり返ったビルの隙間。
その奥に、ぽつりと温かい琥珀色のランプが灯っていた。
木製の小さな看板には、掠れた文字で『喫茶レトロ』と書かれている。
冷え切った指先が、吸い寄せられるように真鍮のドアノブに触れた。
カランコロン。
涼やかなカウベルの音が、雨の音をかき消す。
ドアを開けた瞬間、鼻腔をくすぐったのは、驚くほど深く、香ばしい珈琲の香りだった。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、穏やかな声が響く。
白いシャツに黒いエプロンをきれいに着こなした、若い男の人が立っていた。年の頃は二十代後半くらいだろうか。柔らかい黒髪の隙間から、どこか見透かすような、けれど優しい瞳がこちらを見つめている。
「……あ、すみません。あの、まだやってますか?」
「ええ、もちろんです。お好きな席へどうぞ。ひどい雨ですね。今、温かいおしぼりをお持ちします」
マスターと呼ばれた青年――蓮は、静かに微笑んだ。
佳織は奥のボックス席に腰を下ろした。使い込まれた革のソファが、疲れた身体を柔らかく包み込んでくれる。店内に流れるのは、静かなジャズと、チクタクと時を刻む大きな柱時計の音だけ。
差し出されたおしぼりで手を温めていると、蓮がメニュー表を置いてくれた。
「当店のメニューは少し変わっていまして。もし迷われましたら、直感で気になったものをどうぞ」
手渡されたメニューを見て、佳織は目を丸くした。
そこにはブレンドやアメリカンといった文字はなく、不思議な名前が並んでいたのだ。
『夕立のあとのサイダー』
『お日様のホットケーキ』
『初恋のほろ苦ブレンド』
「初恋、のほろ苦ブレンド……?」
「そちらにされますか?」
「あ、いえ……なんだか今の私には、一番遠い綺麗なものに見えて。……じゃあ、それでお願いします。少し苦めがいいです」
佳織が自嘲気味に笑うと、蓮は「かしこまりました」と深くお辞儀をした。
カウンターの向こうで、蓮が丁寧に豆を挽き始める。
かりかり、と小気味いい音が店内に響き、先ほどよりもいっそう濃い香りが満ちていく。
お湯を注ぐ蓮の手元は、まるで精密な時計の針のように無駄がなかった。
「お待たせいたしました。『初恋のほろ苦ブレンド』です」
目の前に置かれたのは、藍色の綺麗なカップ。
立ち上る湯気と一緒に、なぜか胸の奥がキュッと締め付けられるような、懐かしい匂いがした。
佳織はカップを両手で包み込み、そっと口をつける。
(――あ、苦い)
けれど、ただ苦いだけではなかった。
その奥から、ほんの少しの甘みと、鼻に抜ける爽やかな香りが追いかけてくる。
その瞬間だった。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
(……え? なに、これ……)
視界が、急にセピア色から鮮やかな色彩へと変わっていく。
耳の奥で、雨の音ではない、別の音が聞こえ始めた。
――ザザザ、と風に揺れる校庭の木々の音。
――放課後の図書室の、古い紙の匂い。
『なぁ、佳織。将来さ、どんな服作りたいの?』
頭の中に、はっきりと声が響いた。
夕日が差し込む夏の図書室。机いっぱいにデザイン画を広げた、高校生の自分がそこにいた。
隣でノートを広げて、自分の拙い夢を「すごいじゃん、絶対形にしてよ」と真っ直ぐな目で応援してくれていた、初恋の男の子の笑顔。
『私ね、自分が作った服で、世界中の人を笑顔にしたいんだ!』
目を輝かせて、大きな夢を語っていた。
あんなに純粋で、あんなに熱かった、かつての自分。
「あ……」
佳織の目から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
カップの珈琲に、小さな波紋が広がる。
「私、忘れてた……」
仕事の忙しさに追われ、数字や効率ばかりを気にしているうちに。
「人を笑顔にしたい」という、自分の原点だったはずの、一番大切な熱意を、どこかに置き忘れてきてしまっていたのだ。
ボロボロと溢れる涙を、佳織は止めることができなかった。
蓮は何も言わず、ただ静かに、新しいおしぼりとコースターをそっと机の端に置いた。
十分ほど経っただろうか。
泣くだけ泣いてすっきりした佳織は、残りの珈琲をゆっくりと飲み干した。
不思議なことに、身体の芯からじわりと元気が湧いてくるのがわかった。
「……ごちそうさまでした。不思議な珈琲ですね。なんだか、ずっと忘れていた大切なものを、思い出した気がします」
バッグを肩にかけ、立ち上がった佳織は、店に入った時とはまるで見違えるような、凛とした笑顔を浮かべていた。
「それは良かったです。素敵な『忘れ物』が見つかりましたね」
蓮はお代の五百円玉を受け取ると、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「明日、もう一度、自分の作りたい企画を上司にぶつけてみます。私、やっぱり服で人を幸せにしたいから」
「いってらっしゃいませ。またいつでも、雨宿りにいらしてください」
カランコロン。
再びカウベルが鳴り、佳織は夜の街へと歩き出していった。その足取りは、もう重くはなかった。
静かになった店内で、蓮は佳織が使っていたカップを愛おしそうに洗う。
そして、カウンターの隅にある、古びた革製の日記帳を開いた。
ページには、万年筆の文字でこう書き留められる。
――『初恋のほろ苦ブレンド。OLの女性。忘れていた夢の記憶』――
蓮は、そっと自分の胸に手を当てた。
「……誰かの忘れ物を淹れるたびに、僕の忘れ物も、いつか見つかるのかな」
失われた、自分の三日間の記憶。
それを探し出すまで、この裏路地の喫茶店は、今夜も静かに灯りを灯し続ける。
第2話 夕立の後のサイダー
ジリジリと照りつける太陽が、アスファルトから熱い陽炎を立ち上らせている。
「あー、最悪だ……」
大学生の大輝(だいき)は、肌に張り付くTシャツの襟元を引っ張りながら、大きくため息をついた。
さっきまであんなに晴れていたのに、空は一転してどす黒い雲に覆われ、バケツをひっくり返したような夕立が街を襲っていた。にわか雨なんてレベルじゃない。
慌てて飛び込んだのは、見覚えのない古いビルの隙間――細い裏路地だった。
激しい雨音に追われるように走る大輝の目に、ぽつりと温かい、琥珀色のランプの灯りが映る。
木製の小さな看板には『喫茶レトロ』。
大輝は吸い寄せられるように、真鍮のドアノブを回した。
カランコロン。
涼やかなカウベルの音と共に、ひんやりとした心地いい冷気と、深く香ばしい珈琲の香りが大輝を包み込む。
「いらっしゃいませ。ひどい雨になりましたね」
カウンターの奥から、白いシャツに黒いエプロンを纏った、穏やかな佇まいの青年――店主の蓮(れん)が微笑みかけてきた。
渡された温かいおしぼりで濡れた顔や手を拭きながら、大輝は窓際の席に腰を下ろした。外では、激しい雨がガラス窓を激しく叩いている。
蓮がそっと置いてくれたメニュー表を開き、大輝は首を傾げた。
『初恋のほろ苦ブレンド』『お日様のホットケーキ』『夕立のあとのサイダー』……。
「すみません、この『夕立のあとのサイダー』をください」
「かしこまりました」
蓮が静かに一礼し、カウンターの奥で氷の涼しげな音がカランと響く。
待つ間、大輝はスマートフォンを強く握りしめ、液晶画面を見つめた。そこに映っているのは、高校時代からの大親友である「拓海(たくみ)」の連絡先だ。
大学に進学し、お互い新しい環境になってから、少しずつ価値観のズレを感じ始めていた。一ヶ月前、小さな意見の食い違いから、思わず「お前とはもう合わないわ」とキつい言葉を投げつけてしまったのだ。
すぐに謝ればよかった。なのに、つまらないプライドが邪魔をして、連絡できないまま時間だけが過ぎていた。
「お待たせいたしました。『夕立のあとのサイダー』です」
蓮が置いたのは、すりガラスの美しいグラス。
透き通るような淡いブルーの液体の中で、無数の小さな泡が、きらきらと星のように湧き上がっている。
添えられたストローを口に含み、大輝はそれを一気に吸い込んだ。
シュワッ。
喉を刺激する強い炭酸と、レモンのような爽やかな酸味。
その瞬間、大輝の頭の中で、パチンと泡が弾けるような音がした。
視界が、急にセピア色から、抜けるような夏の青空へと変わっていく。
耳の奥で、激しい雨音ではない、別の音が聞こえ始めた。
――セミの圧倒的な大合唱。
――遠くから聞こえる、野球部の掛け声。
『おい大輝! 早く走らねえと、夕立が来るぞ!』
頭の中に、はっきりと声が響いた。
高校二年の夏休み。突然のゲリラ豪雨に襲われ、二人で一つのカバンを頭の上に乗せて、大笑いしながら走ったあの日の通学路。ずぶ濡れになって飛び込んだ近所の公園の東あずまやで、拓海が「ほらよ」と手渡してくれた、冷たい缶サイダー。
『お前がどんなに変わっても、俺はずっと親友だからな』
笑い合いながら、一本のサイダーを分け合って飲んだ。
あの頃の二人の間には、見栄も、プライドも、遠慮も、何一つなかったはずなのに。
「……なんだよ、アイツ」
大輝の視界が、急に滲んだ。大学に入って少し大人ぶって、親友の前でカッコつけて意地を張っていたのは自分の方だった。
どんなに環境が変わっても、アイツと過ごしたあの真っ直ぐな時間は、何一つ変わらない宝物だ。
大輝はスマホの入力画面を開き、メッセージを打ち込んだ。
【こないだは、ごめん。今日の夜、ちょっと空いてる?】
送信ボタンを押すと、胸のつかえが、サイダーの泡のように消えていく気がした。
ふと気づくと、外の雨はすっかり上がっていた。
雲の切れ間から、夏の夕暮れの、強いオレンジ色の光が路地に差し込んでいる。
大輝は残りのサイダーをぐっと飲み干し、席を立った。
「ごちそうさまでした。……最高に美味しかったです」
「それは良かったです。素敵な『忘れ物』が見つかりましたね」
蓮はお代を受け取り、いつものように穏やかに微笑んだ。
「はい! ちょっと、アイツと会ってきます!」
店を飛び出した大輝のスマホが、ぶーと震えた。拓海から【おう、いいぞ。いつもの公園な】と短い返信が届いていた。
カランコロン。
静けさを取り戻した店内で、蓮はカウンターの隅の日記帳を開いた。
――『夕立のあとのサイダー。男子大学生。親友との絆の記憶』――
万年筆の文字を眺めながら、蓮はぽつりと呟く。
「僕の失われた記憶の空にも、いつかこんな綺麗な青空が広がるのかな」
蓮は静かに日記帳を閉じ、次の客を待つために、ネクタイを少しだけ整えた。
第2話です!!前回より少し短くして読みやすくしようとしたのですがちょっと無理でした、、笑
第3話 お日様のパンケーキ
「ただいま……って、そっか。誰もいないんだった」
会社員の一華(いちか)は、一人暮らしを始めたばかりの狭いワンルームで、ぽつりと呟いた。
実家を出て半年。慣れない仕事と、誰もいない静かな部屋の冷たさに、最近どうしようもない孤独感とホームシックを抱えていた。
週末の夕暮れ、気分転換に散歩へ出かけたものの、冷たい秋風に吹かれて心まで寒くなっていく。
気づけば、見覚えのない薄暗い裏路地に迷い込んでいた。
(早く大通りに戻らなきゃ……)
身をすくめて歩く一華の目に、ぽつりと温かい、琥珀色のランプの灯りが映る。
木製の小さな看板には『喫茶レトロ』。
吸い寄せられるように、真鍮のドアノブを回した。
カランコロン。
涼やかなカウベルの音。店内は、どこか懐かしい珈琲の香りと、大きな柱時計のチクタクという優しい音に満ちていた。
「いらっしゃいませ。外は冷えてきましたね」
カウンターの奥から、白いシャツに黒いエプロンを纏った店主の蓮(れん)が、穏やかに微笑みかけてきた。
一華は奥のソファー席に腰を下ろし、手渡されたメニュー表を開く。
『初恋のほろ苦ブレンド』
『夕立のあとのサイダー』
『お日様のホットケーキ』
「あの、この『お日様のホットケーキ』をください。それと、ホットミルクも」
「かしこまりました。少々お時間をいただきますね」
蓮が静かに一礼し、厨房からパチパチとバターの溶ける、良い音が聞こえ始めた。
一華は、テーブルの下でスマートフォンを見つめた。
母親からの『ちゃんとご飯食べてる?』というメッセージが届いている。一華は、心配をかけたくなくて『食べてるよ、大丈夫』とだけ短く返して、画面を伏せた。本当は、レトルトやお惣菜ばかりの日々に、心も体もすり減っていた。
「お待たせいたしました。『お日様のホットケーキ』です」
蓮が置いたお皿には、絵本から飛び出してきたような、黄金色にふっくらと焼き上がったホットケーキ。その上を、四角いバターがとろりと滑り落ちていく。
一華はナイフで小さく切り分け、口に運んだ。
もぐ、と一口噛み締める。
優しい小麦の甘さと、バターの塩気。
その瞬間、一華の頭の中で、ぽっと温かい明かりが灯った。
視界が、急に鮮やかな色彩へと変わっていく。
耳の奥で、静かなジャズではない、懐かしい音が聞こえ始めた。
――トントンと響く、野菜を切るまな板の音。
――「朝だよー」とカーテンを開ける、眩しい光。
『一華、ホットケーキ焼けたわよ。しっかり食べないと、一日元気が出ないんだから』
頭の中に、はっきりと声が響いた。
幼い頃、日曜日になるとお母さんが決まって焼いてくれた、不格好だけど大好きなホットケーキ。お皿に乗ったそれを見ただけで、一日の始まりがキラキラと輝き出すような気がした、あの幸福感。
『お母さんのホットケーキ、まるでお日様みたいだね!』
『ふふ、一華がそう言ってくれるから、お母さん毎週焼いちゃうのよ』
注がれていたのは、当たり前すぎて気づかなかった、無条件の、圧倒的な家族の愛だった。
「お母さん……」
一華の目から、大粒の涙がぽろぽろとホットケーキの上にこぼれ落ちた。
一人で頑張らなきゃ、自立しなきゃと肩を張っていたけれど、自分はいつでも、あの温かい愛情に守られていたのだと気づかされた。
一華は涙を拭うと、ホットケーキを最後の一口まで大切に味わい、温かいミルクを飲み干した。お腹の底から、じんわりと力が満ちていく。
「ごちそうさまでした。……すごく、温かくなりました」
「それは良かったです。素敵なお日様が見つかりましたね」
蓮はお代を受け取り、いつものように穏やかに微笑んだ。
店を出た一華は、冷たい秋風の中でも、もう寒さを感じなかった。
スマートフォンを取り出し、母親にメッセージを送る。
【今度の日曜、久しぶりに実家に帰るね。お母さんのホットケーキが食べたいな】
送信ボタンを押すと、今度はすぐに【楽しみに待ってるね】と返信が届いた。一華は笑顔で、明るい街並みへと歩き出した。
カランコロン。
静けさを取り戻した店内で、蓮はカウンターの隅の日記帳を開いた。
――『お日様のホットケーキ。若い女性。家族の深い愛の記憶』――
万年筆の文字を眺めながら、蓮はぽつりと呟く。
「僕にも、こんな風に帰りを待ってくれている家族が、どこかにいるのだろうか」
蓮は静かに日記帳を閉じ、自分の空白の過去を愛おしむように、窓の外の夜空をそっと見上げた。
最後まで読んでいただき本当にありがとうございます!
何か感想や提案などありましたらファンレターの方へお願いします!
第4話 思い出のアップルパイ
秋が深まり、裏路地を吹き抜ける風が落ち葉をカサカサと鳴らす夜。
喫茶『レトロ』のドアが、静かに開いた。
カランコロン。
「いらっしゃいませ」
店主の蓮(れん)は、いつもの穏やかな笑顔で客を迎えた。
入ってきたのは、仕立てのいいコートを着た、白髪混じりの初老の男性――正蔵(しょうぞう)だった。どこか落ち着かない様子で店内を見回し、やがてカウンターの端の席へと歩み寄る。
「……あ、申し訳ありません」
蓮はすかさず、柔らかく、けれど毅然とした声で遮った。
「そちらの席は、いつも『先客』がおりまして。よろしければ、お隣の席か、奥のボックス席へどうぞ」
蓮が示したカウンターの端の席には、誰も座っていない。ただ、ピカピカに磨き上げられた木目の上に、小さな一輪挿しの白いマーガレットだけが飾られていた。
「おっと、そうか。すまないね」
正蔵は少し寂しげに微笑むと、一つ空けた隣の席に腰を下ろした。
メニューを開いた正蔵は、そこに並ぶ奇妙な名前に目を細める。
「おや、珈琲だけじゃないんだね。『お日様のホットケーキ』に……『思い出のアップルパイ』か。――じゃあ、このアップルパイと、温かい紅茶を。甘さは控えめで頼むよ」
「かしこまりました」
蓮が厨房へ下がり、静かなジャズの旋律が店を満たす。
正蔵は、膝の上で自分のゴツゴツとした手をじっと見つめていた。
彼は、長年連れ添った妻を、半年前の秋に亡くしたばかりだった。
「これからは二人で色んな場所へ旅行に行こう」と約束していた矢先の、突然の別れ。
正蔵はそれ以来、妻の遺品を見ることも、妻の名前を口にすることもできずにいた。哀しみが大きすぎて、妻と過ごした楽しかった日々のディテールが、霧がかかったように思い出せなくなってしまっていたのだ。
「お待たせいたしました。『思い出のアップルパイ』です」
蓮がそっと置いたのは、焼きたての狐色のアップルパイ。
パイ生地の間から、とろりと煮詰まったリンゴが顔をのぞかせ、シナモンの甘く芳醇な香りがふわりと立ち上る。
正蔵はフォークを入れ、小さく一口、口に運んだ。
サクッ。
軽やかな音と共に、口いっぱいに広がるリンゴの甘酸っぱさと、シナモンの香り。
その瞬間、正蔵の心臓が、ドクンと大きく震えた。
視界が、急に鮮やかな色彩へと変わっていく。
耳の奥で、ジャズの音ではない、懐かしい笑い声が響き始めた。
――小さなキッチンの、オーブンから漂う甘い匂い。
――「ちょっと焦げちゃったけど、味は保証するわ」とはにかむ、エプロン姿の妻の姿。
『あなた、お仕事お疲れ様。今週も頑張ったご褒美に、アップルパイ焼いたのよ』
頭の中に、はっきりと妻の声が蘇った。
まだ若く、貧しかった結婚当初の二人の暮らし。決して贅沢はできなかったけれど、週末に妻が焼いてくれる不格好なアップルパイを二人で突っつく時間が、何よりも幸せだった。
妻はいつでも、正蔵の味方だった。苦しい時も、その笑顔に何度も救われてきたはずだった。
「……あぁ、そうだったな」
正蔵の目から、溢れんばかりの涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
哀しみのあまり、妻を失った「最後の瞬間」ばかりを反芻していたけれど、自分たちの人生には、こんなにも温かく、愛に満ちた時間が溢れていたのだ。
「私は……寂しさにかまけて、一番大切な、妻の笑顔を忘れるところだった」
正蔵はハンカチで何度も涙を拭いながら、アップルパイを最後の一切れまで、愛おしそうにゆっくりと完食した。その表情からは、取り憑いていた暗い影がすっきりと消え去っていた。
「ごちそうさまでした。素晴らしい味だった。これでようやく、妻の写真とちゃんと向き合えそうです」
「それは良かったです。温かい『忘れ物』が見つかりましたね」
蓮はお代を受け取り、静かに微笑んだ。正蔵は深く一礼すると、今度はしっかりと前を向いて、夜の街へと帰っていった。
カランコロン。
静まり返った店内で、蓮は正蔵の使った食器を洗い始める。
ふと、蓮は手を止め、カウンターの端の、誰も座っていない席に目を向けた。
そこにある、白いマーガレットの一輪挿し。
「……マーガレット」
蓮の頭の奥で、突如、激しい頭痛が走った。
白いマーガレットの花言葉。確か、――『真実の愛』。
(なぜ、僕は頑なに、あの席に誰も座らせないんだろう)
(なぜ、この店にはマーガレットの花がいつも飾ってあるんだ?)
蓮は自分の左手の薬指をそっと撫でた。
そこには、まるで長い間指輪をはめていたかのような、うっすらとした白い線の跡が、今も微かに残っている。
「僕は、一体……誰を、忘れてしまっているんだ……?」
手元の日記帳を開き、正蔵の記録を書き留める蓮の万年筆の先が、かすかに震えていた。
その日記帳の、破り取られたような最初のページの切れ端が、秋の夜風に揺れて、小さくパタパタと音を立てていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
蓮は何を忘れているのでしょうか、、?