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第3話 お日様のパンケーキ
「ただいま……って、そっか。誰もいないんだった」
会社員の一華(いちか)は、一人暮らしを始めたばかりの狭いワンルームで、ぽつりと呟いた。
実家を出て半年。慣れない仕事と、誰もいない静かな部屋の冷たさに、最近どうしようもない孤独感とホームシックを抱えていた。
週末の夕暮れ、気分転換に散歩へ出かけたものの、冷たい秋風に吹かれて心まで寒くなっていく。
気づけば、見覚えのない薄暗い裏路地に迷い込んでいた。
(早く大通りに戻らなきゃ……)
身をすくめて歩く一華の目に、ぽつりと温かい、琥珀色のランプの灯りが映る。
木製の小さな看板には『喫茶レトロ』。
吸い寄せられるように、真鍮のドアノブを回した。
カランコロン。
涼やかなカウベルの音。店内は、どこか懐かしい珈琲の香りと、大きな柱時計のチクタクという優しい音に満ちていた。
「いらっしゃいませ。外は冷えてきましたね」
カウンターの奥から、白いシャツに黒いエプロンを纏った店主の蓮(れん)が、穏やかに微笑みかけてきた。
一華は奥のソファー席に腰を下ろし、手渡されたメニュー表を開く。
『初恋のほろ苦ブレンド』
『夕立のあとのサイダー』
『お日様のホットケーキ』
「あの、この『お日様のホットケーキ』をください。それと、ホットミルクも」
「かしこまりました。少々お時間をいただきますね」
蓮が静かに一礼し、厨房からパチパチとバターの溶ける、良い音が聞こえ始めた。
一華は、テーブルの下でスマートフォンを見つめた。
母親からの『ちゃんとご飯食べてる?』というメッセージが届いている。一華は、心配をかけたくなくて『食べてるよ、大丈夫』とだけ短く返して、画面を伏せた。本当は、レトルトやお惣菜ばかりの日々に、心も体もすり減っていた。
「お待たせいたしました。『お日様のホットケーキ』です」
蓮が置いたお皿には、絵本から飛び出してきたような、黄金色にふっくらと焼き上がったホットケーキ。その上を、四角いバターがとろりと滑り落ちていく。
一華はナイフで小さく切り分け、口に運んだ。
もぐ、と一口噛み締める。
優しい小麦の甘さと、バターの塩気。
その瞬間、一華の頭の中で、ぽっと温かい明かりが灯った。
視界が、急に鮮やかな色彩へと変わっていく。
耳の奥で、静かなジャズではない、懐かしい音が聞こえ始めた。
――トントンと響く、野菜を切るまな板の音。
――「朝だよー」とカーテンを開ける、眩しい光。
『一華、ホットケーキ焼けたわよ。しっかり食べないと、一日元気が出ないんだから』
頭の中に、はっきりと声が響いた。
幼い頃、日曜日になるとお母さんが決まって焼いてくれた、不格好だけど大好きなホットケーキ。お皿に乗ったそれを見ただけで、一日の始まりがキラキラと輝き出すような気がした、あの幸福感。
『お母さんのホットケーキ、まるでお日様みたいだね!』
『ふふ、一華がそう言ってくれるから、お母さん毎週焼いちゃうのよ』
注がれていたのは、当たり前すぎて気づかなかった、無条件の、圧倒的な家族の愛だった。
「お母さん……」
一華の目から、大粒の涙がぽろぽろとホットケーキの上にこぼれ落ちた。
一人で頑張らなきゃ、自立しなきゃと肩を張っていたけれど、自分はいつでも、あの温かい愛情に守られていたのだと気づかされた。
一華は涙を拭うと、ホットケーキを最後の一口まで大切に味わい、温かいミルクを飲み干した。お腹の底から、じんわりと力が満ちていく。
「ごちそうさまでした。……すごく、温かくなりました」
「それは良かったです。素敵なお日様が見つかりましたね」
蓮はお代を受け取り、いつものように穏やかに微笑んだ。
店を出た一華は、冷たい秋風の中でも、もう寒さを感じなかった。
スマートフォンを取り出し、母親にメッセージを送る。
【今度の日曜、久しぶりに実家に帰るね。お母さんのホットケーキが食べたいな】
送信ボタンを押すと、今度はすぐに【楽しみに待ってるね】と返信が届いた。一華は笑顔で、明るい街並みへと歩き出した。
カランコロン。
静けさを取り戻した店内で、蓮はカウンターの隅の日記帳を開いた。
――『お日様のホットケーキ。若い女性。家族の深い愛の記憶』――
万年筆の文字を眺めながら、蓮はぽつりと呟く。
「僕にも、こんな風に帰りを待ってくれている家族が、どこかにいるのだろうか」
蓮は静かに日記帳を閉じ、自分の空白の過去を愛おしむように、窓の外の夜空をそっと見上げた。
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