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第5話 雨上がりのトロンボーン
十一月に入り、街を吹き抜ける風はすっかり冬の冷たさを帯びていた。
喫茶『レトロ』の真鍮のドアが、少し重たげに開く。
カランコロン。
「いらっしゃいませ。温かいお席へどうぞ」
店主の蓮(れん)は、いつものように穏やかな笑顔で客を迎えた。
入ってきたのは、大きな四角いケースを背負った青年――律(りつ・22歳)。音大を卒業したばかりの彼は、疲れ切った表情で奥のボックス席に腰を下ろした。
席に置かれたメニュー表を開き、律はぼんやりと呟く。
「『初恋のほろ苦ブレンド』……『夕立のあとのサイダー』……。なんだか、どれも物語みたいな名前ですね」
「ええ。当店のメニューは、お客様の心に寄り添うように作られておりますから」
蓮が微笑むと、律は少しはにかんで「じゃあ、一番甘くて温まりそうな『木漏れ日のカフェオレ』を」と注文した。
蓮が厨房へ下がり、静かなジャズの旋律が店を満たす。
律は、足元に置いた大きなケース――トロンボーンのケースを愛おしそうに、けれどどこか悲しげに見つめていた。
彼はプロの楽団のオーディションに落ち続け、今日、ついに音楽の道を諦めて一般企業に就職することを決めたばかりだった。
「もう、この楽器を吹くこともないな」
そう思うと、胸の奥がぽっかりと空いたように冷たくなっていた。
「お待たせいたしました。『木漏れ日のカフェオレ』です」
蓮が置いたのは、柔らかなミルクの泡がたっぷり乗った、大きめのマグカップ。
シナモンスティックが添えられており、ふわりと香ばしく甘い香りが立ち上る。
律はカップを受け取り、ゆっくりと一口すすった。
ふわっ。
口いっぱいに広がるミルクの優しさと、深い珈琲のコク。
その瞬間、律の頭の中で、柔らかな光が弾けた。
視界が急に、暖かなオレンジ色に染まっていく。
耳の奥で、ジャズの音ではない、力強く華やかな管楽器の音色が響き始めた。
――夕暮れの合奏室。夕日に照らされた、ピカピカに光る真鍮の楽器。
――「お前の音、すごく温かくて好きだよ」と笑ってくれた、仲間たちの顔。
『律、音楽ってさ、誰かに届けるためにあるんだろ? 上手い下手じゃなくて、お前の音を響かせろよ』
頭の中に、はっきりと大切な言葉が蘇った。
コンクールで失敗して落ち込んでいた時、背中を叩いてくれた恩師の言葉。自分がなぜトロンボーンを選んだのか、なぜここまで音楽を愛してきたのか。その原点にある「ただ、誰かを笑顔にしたい」という純粋な情熱。
「……そっか。俺、プロになることばかりに囚われて、音楽そのものを楽しむ気持ちを忘れてた」
律の目から、大粒の涙がぽろぽろとカフェオレの泡の上にこぼれ落ちた。
プロにはなれなかった。けれど、自分の音楽の価値が消えたわけじゃない。これからも、趣味でも、誰かのためでも、楽器を吹き続けていけばいいんだ。
律は涙を拭うと、カフェオレを最後まで大切に飲み干した。身体の芯から、心地よい熱がじんわりと広がっていく。
「ごちそうさまでした。……心が、すごく軽くなりました」
「それは良かったです。素敵な『木漏れ日』が見つかりましたね」
蓮はお代を受け取り、いつものように穏やかに微笑んだ。律はケースをしっかりと背負い、今度は前を向いて、力強い足取りで店を出ていった。
カランコロン。
静けさを取り戻した店内で、蓮はカウンターの隅の日記帳を開いた。
――『木漏れ日のカフェオレ。若い男性。諦めかけた音楽の情熱』――
万年筆で文字を書き留めながら、蓮はふと、自分の胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
『木漏れ日』という言葉。
(木漏れ日……。なぜだろう、この言葉に、すごく胸が締め付けられる)
蓮は無意識に、誰も座らせないカウンターの端の席を見つめた。
そこにある白いマーガレット。
(僕は、あの席に座るはずだった人と、どんな木漏れ日の中で過ごしていたんだろう……)
ほんの少しだけ、記憶の霧の向こうから「誰かの笑い声」が聞こえた気がしたが、すぐに消えてしまった。蓮は静かに日記帳を閉じ、ネクタイを少しだけ整えて、次の客を待つために静かに佇んだ。
最後まで読んでいただきありがとうございます!とうとう5話書くことができました!
まだ続いていくのでどうぞ応援よろしくお願いします!