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霧影館の告解
その招待状が神崎蓮(かんざき れん)の元に届いたのは、十月のよく晴れた火曜日の午後だった。
十月とは名ばかりの、肌を刺すような西日。蓮は大学の講義を終え、所在ない足取りでアパートの狭い自室へと戻ってきたところだった。築三十年を超える木造アパートのポストは建付けが悪く、いつも入れるときにガタガタと不快な音を立てる。その日も、鍵を差し込んで引っ張ると、乾いた音とともに数枚のチラシが床にこぼれ落ちた。
水道局からの検針票、近くのピザ屋の広告、そして、一番下にその「異物」が紛れていた。
それは、現代の郵便物としては明らかに場違いな代物だった。
サイズは定形外の、やや大ぶりな長方形。何より目を引いたのは、その色だった。光を一切反射しないような、漆黒の厚手の上質紙。触れると、ざらりとした独特の質感が指先に伝わってくる。宛名は万年筆による手書きで、几帳面だがどこか神経質な、角ばった文字で「神崎蓮様」とだけ書かれていた。裏返してみても、差出人の名前も住所もない。ただ、封蝋の代わりに、銀色の不気味な紋章――霧から這い出る蛇のような意匠が型押しされていた。
蓮は部屋に入り、カバンを床に放り出すと、ベッドの端に腰掛けてその封筒をハサミで丁寧に切り開いた。中から出てきたのは、同じく黒い二つ折りのカード。そこに、白銀のインクで以下の文字列が躍っていた。
『神崎蓮様。
あの忌まわしい事故から、早いもので三年が経ちました。
私たちはそろそろ、あの日に置き去りにした真実と向き合うべきではないでしょうか。
思い出してください。あなたが失ったものの大きさを。
今週末、あの島でお待ちしております。
追伸:当時のゼミナール生全員に、同様の案内を送付しております』
その文字を目にした瞬間、蓮の視界がぐにゃりと歪んだ。
心臓が警鐘を鳴らすようにドクドクと激しく脈打ち始め、額から嫌な汗がじわりと滲む。
「……霧影島(きりかげじま)」
カードの最下部に書かれた集合場所の文字を、蓮は声に出してなぞった。その瞬間、頭の奥を、錆びた五寸釘で貫かれたような激しい頭痛が襲う。蓮は思わずこめかみを押さえ、ベッドに倒れ込んだ。
三年。その月日は、蓮にとって空白の同義語だった。
大学二年の秋、所属していた東都大学の犯罪心理学ゼミナール。その合宿で訪れたのが、本土から船で二時間ほど離れた孤島、霧影島だった。しかし、蓮の記憶はその島に上陸した初日の夜を最後に、完全に途絶えている。
次に目覚めたとき、蓮は本土の大学病院のベッドの上にいた。医師からの診断は、頭部外傷による「外傷性逆行性健忘」。崖から転落した衝撃で、合宿中の数日間の記憶が丸ごと消し飛んでいたのだ。
そして、その空白の間に、一人の少女が死んだ。
阿澄結衣(あずみ ゆい)。ゼミの同期であり、誰に対しても真摯で、いつも古い万年筆で熱心にノートを取っていた、あの物静かな彼女が、同じ崖から落ちて遺体で発見されたのだ。警察の捜査結果は「不慮の転落事故」。台風が接近する嵐の中、足を滑らせて海へ落ちたのだろう、と。
だが、記憶を失った蓮は、自分がなぜ崖にいたのか、なぜ彼女と一緒に落ちたのか、何一つ説明することができなかった。遺族の泣き崩れる姿を、ただ遠くから、他人事のように眺めることしかできなかったのだ。
チカ、と手元でスマートフォンの画面が明るくなった。
静まり返った部屋に、バイブレーションの振動音がやけに大きく響く。画面を見ると、メッセージアプリの通知が狂ったように数字を増やしていた。通知の主は「東都大・城戸ゼミ3年」――かつてのゼミ生たちのグループチャットだった。卒業を控え、今では誰も発言しなくなっていたそのグループが、完全に覚醒していた。
<『みんな、手紙届いた!? 黒い封筒のやつ! 正直、気味が悪すぎるんだけど……これ、悪質なイタズラだよね?』
普段から気が小さく、周囲の顔色ばかり伺っていた大野のメッセージには、隠しきれない動揺が滲んでいた。
<「大野、お前もか。俺のところにも来た。三年前のことなんか、今更ほじくり返して何の意味があるんだよ。警察の捜査だって終わってんだろ」
お調子者で、当時はゼミのムードメーカーだった藤井だが、その文面からは余裕のなさが伝わってくる。
<【騒々しいわね。私にも届いたわ。放っておけばいいじゃない。差出人も書けないような卑怯者の誘いに、わざわざ乗る必要なんてないわ】
財閥の令嬢であり、常にプライドが高かった香織の返信は冷徹だった。しかし、すぐに既読がついたのを見るに、彼女もこの通知を無視できずにいたのだろう。
『私は、行くべきだと思う』>
ゼミのリーダー格で、常に冷静沈着だった美咲の一言で、チャットの流れが一気に変わった。
『誰がこれを送ってきたにせよ、私たちの過去を知っている人間よ。もしこれを無視して、外部に三年前の変な噂でも流されたら、私たちの就職や将来はどうなるの? 誰が仕掛けた罠なのか、全員で乗り込んで確かめるべきよ』>
その美咲の現実的な脅しに、大野も藤井も沈黙した。誰もが、自分の未来が懸かったこの時期に、過去の「事故」で泥を塗られることを恐れていた。
蓮は震える指で、スマートフォンの画面を叩いた。
「僕も行く。自分の目で、確かめたい」>
蓮の書き込みに対して、すぐに全員の「既読」がついた。だが、誰一人としてそれに対する返信はしなかった。
四日後の土曜日。
本土の港は、どんよりとした灰色の雲に覆われていた。
天気予報では、大型の台風が急速に北上しており、今夜半にはこの地域を直撃するという。海面は不気味なほど黒くうねり、岸壁に打ち付ける波の音が重く響いていた。
「蓮、久しぶりだな……」
声をかけてきたのは、藤井だった。かつての派手な服装は影を潜め、地味なトレンチコートの襟を立てて身を縮めている。その顔色は驚くほど悪く、目の下には濃い隈が刻まれていた。
「ああ、久しぶり。みんな、揃ってるな」
蓮が周囲を見渡すと、そこには三年前と全く同じ顔ぶれが集まっていた。
美咲は変わらず毅然とした態度で佇んでいるが、その視線はどこか落ち着きがない。香織はブランド物の大きなキャリーケースを傍らに置き、不機嫌そうに海を睨みつけている。大野は終始、スマートフォンの画面を見つめ、爪を噛む癖を繰り返していた。そしてもう一人――物静かで、当時は結衣と並んで成績優秀だった木下(きのした)も、古い一眼レフカメラを首から下げたまま、一言も発さずに立っていた。
「本当に、あの船に乗るのね……」
香織が、目の前に停泊している小さな定期連絡船を見上げて、嫌悪感を露わにした。「こんな漁船もどき、揺れて酔いそうだわ」
「文句を言っても始まらないよ、香織。これが島へ渡る最後の便だ。これを逃したら、もう島へは行けない」
美咲が冷たく言い放ち、最初にタラップを上がっていった。
乗客は、蓮たち六人のみだった。
船が港を離れると、激しい横揺れが始まった。窓ガラスを叩く波しぶきが、外の景色を完全に遮断していく。
船室の中は、息が詰まるほどの沈黙に満ちていた。誰も口を開こうとしない。ただ、エンジンの重低音だけが床を通じて身体を揺さぶる。
(あの日……僕たちは、本当にただの合宿をしていたのだろうか)
蓮は窓に頭を預け、白い波飛沫を見つめながら、自問自答を繰り返していた。
記憶のない自分以外の五人は、何かを知っている。彼らの怯え方は、単なる「同級生の事故死」を悼むそれではない。もっと根深い、ドロドロとした何かを隠している。
二時間の地獄のような航海を経て、船はついに目的地へと到着した。
周囲を切り立った断崖絶壁に囲まれた、孤島――霧影島。
タラップを降りた蓮たちの前に、一人の男が傘を差し伸べて立っていた。黒い三つ揃いのタキシードに身を包んだ、初老の男。白髪を綺麗に後ろへ流し、背筋をピンと伸ばした姿は、まるで絵画から抜け出してきた本物の執事のようだった。
「ようこそおいでくださいました、皆様。私はこの『霧影館』の管理を任されております、執事の森(もり)と申します。主人に代わり、皆様を御案内いたします」
「主人……? 執事の森さん、言っておくけれど、私たちは誰がこの手紙を送ってきたのかを突き止めに来たのよ。あなたの主人の名前は何というの?」
高遠美咲が、激しくなる雨を避けるように傘の柄を握り直しながら、鋭い口調で執事を問い詰めた。
しかし、森と名乗った初老の男は、表情一つ変えずにただ深く一礼するだけだった。
「それは、今夜の晩餐にて明らかになります。主人は皆様と直接、お話しされることを望んでおられますので。さあ、雨が本格的に酷くなってまいりました。どうぞ、こちらへ」
案内された道は、ぬかるんだ土とゴツゴツとした岩肌が露出する山道だった。
傘を叩く雨音は、すでに会話を遮るほどに激しさを増している。湿った土の匂いと、どこか生臭い潮風が混ざり合い、蓮の鼻腔を不快に刺激した。一歩進むごとに、スニーカーの底が泥に沈み、冷たい水が靴の中に染み込んでくる。
やがて、鬱蒼と生い茂る木々の隙間から、その建物が姿を現した。
切り立った崖の頂、海を見下ろすように佇む、古びた二階建ての洋館――「霧影館」。
大正期に建てられたというその館は、黒ずんだレンガの壁にツタが絡まり、まるで周囲の自然に侵食されつつある巨大な怪物のようだった。屋根から突き出た煙突からは煙も立たず、窓の多くは厚いカーテンで閉ざされ、生活感を一切拒絶している。
「おいおい、冗談だろ……。本当にあそこに泊まるのかよ」
藤井が愚痴をこぼしたが、その声は風の音にかき消された。
重厚な木製の玄関扉の前で、森が大きな真鍮の鍵を差し込み、ゆっくりと回した。
ガチャン、と重い金属音が響き、扉が内側へと開く。
内部は、外の荒涼とした景色とは一変して、息を呑むほど豪奢な空間が広がっていた。
床には色褪せつつも緻密な模様が織り込まれた絨毯が敷き詰められ、壁には出所不明の古い油絵がいくつも掛けられている。天井からはクリスタルのシャンデリアが吊り下がっていたが、そこに灯っているのは電球ではなく、数十本の白いキャンドルだった。ゆらゆらと揺れる炎が、館の壁に巨大で不気味な影を落としている。
「皆様のお部屋は二階にご用意してございます。お着替えを済まされましたら、午後七時に一階の食堂(ダイニング)へお集まりください」
森はそう言うと、影のように静かに廊下の奥へと消えていった。
各自、割り振られた客室へと向かう。蓮に与えられたのは「201号室」だった。
部屋の中は清潔に保たれていたが、どこか長い間、人が立ち入っていなかったような特有の冷気と、古い紙のような匂いが漂っていた。蓮は濡れた上着を脱ぎ、備え付けの椅子に腰掛けた。
窓の外を見ると、完全に陽は落ち、漆黒の闇の中で激しい雨がガラスを激しく叩いている。時折、鋭い雷光が走り、一瞬だけ露出する狂ったような海の白波が、蓮の心に言い知れぬ不安を植え付けた。
午後七時。
一階の食堂には、巨大なマホガニーの長テーブルが置かれ、その上には豪奢な銀の食器と、湯気を立てるコース料理が並べられていた。
しかし、その席に就いた五人の顔に、食欲の色は一切なかった。
「……誰も来ないじゃない」
西園寺香織が、スープスプーンを持ったまま冷ややかに呟いた。
テーブルの主座(ホスト席)には、背もたれの高い椅子がぽつんと空いたまま置かれている。
「森さん、主人はまだなのか? もう約束の時間を過ぎている」
大野が、怯えたような目をきょろきょろと動かしながら、ワインを注いで回っていた森に尋ねた。
森はボトルを静かに置くと、懐から一本の懐中時計を取り出し、文字盤を見つめた。
「申し訳ございません。主人から、皆様が席に着かれたら、以下の伝言をお伝えするようにと言われております」
五人の視線が、森の一挙手一投足に集中した。
森は、彫刻のように整った顔に、歪な、しかし完璧な微笑を浮かべてこう言った。
「『三年前のあの嵐の夜、お前たちが犯した罪を、ここで精算しよう』……と」
「――なっ!?」
藤井が激昂し、テーブルを叩いて立ち上がった。ガタガタと食器が不快な音を立てる。
「ふざけるな! 罪だと!? あれは事故だ! 警察だってそう結論づけたんだ!」
「そうだ……私たちは何も悪くないわ。結衣が勝手に……」
大野が声を震わせ、言葉を濁した。
「森さん、あなたの主人は一体誰なの!? 阿澄結衣の遺族か何かなの!?」
美咲が席から身を乗り出し、鋭い声で叫んだ。
その問いに対し、森は答えなかった。ただ、静かに目を閉じ、一歩後ろへと下がった。
その瞬間だった。
じじっ、という不快な放電音とともに、館全体のわずかな電灯が消え、シャンデリアのキャンドルの炎が、まるで見えない巨大な手で吹き消されたかのように、一斉に掻き消えた。
「きゃあああああ!」
香織の短い悲鳴が響き渡る。
食堂は、一瞬にして完全な暗黒に包まれた。
「停電か!?」
「おい、藤井、押すなよ!」
「誰か、ライトを……!」
闇の中で、椅子がひっくり返る音や、人々がパニックになって交錯する気配が響く。外の雷鳴が、建物を揺らすほどの大音響で轟いた。
蓮は冷静さを保とうと必死に呼吸を整え、ポケットからスマートフォンを探り当てた。画面を立ち上げ、フラッシュライトのスイッチを入れる。
白い直進的な光が、暗黒の食堂を切り裂いた。
「みんな、落ち着いてくれ。僕のライトを見るんだ」
蓮は光を床に向かって走らせた。
その光が、テーブルのすぐ脇、絨毯の上に広がっている「赤黒い液体」を捉えた。
「え……」
大野の声が、喉の奥で引きつった。
蓮がライトの焦点をさらに先へと進めると、そこには、先ほどまで冷静に給仕をしていたはずの執事・森が、仰向けに倒れていた。その白いワイシャツの胸元は、ドクドクと溢れ出る鮮血で赤く染まり、その中心には、見覚えのない細く鋭利なナイフが、根元まで深く突き刺さっていた。
森の目は見開かれ、焦点の合わない瞳が天井の暗闇を見つめている。
「嘘……だろ……? 死んでる……?」
藤井が床にへたり込み、這いつくばるようにして後ずさりした。
「嫌、嫌ああっ!」
香織が顔を覆って美咲にしがみつく。
蓮は震える手を必死に抑えながら、ライトの光をさらに上方、食堂の白い漆喰の壁へと向けた。
そこに、べっとりと、まだ乾いていない大量の血で、殴り書きされた文字が浮かび上がっていた。
『一人ずつ、あの日の恐怖を味あわせてやる。 復讐の始まりだ』
ゴゴゴゴ……と、まるで館をへし折らんばかりの激しい雷鳴が、タイミングを合わせるように頭上で轟いた。
嵐の孤島、逃げ場のない密室。三年前の秘密を抱えた者たちの、血塗られた夜が、ついに幕を開けたのだ。
「いやだ……いやだ、何でこんなことに! 何で僕たちがこんな目に遭わなきゃいけないんだ!」
大野の叫び声は、ほとんど過呼吸に近い悲鳴となって、天井の高い食堂に虚しく響いた。彼は床に両手をつき、執事・森の死体から流れ出る赤黒い液体が自分の靴を汚さないよう、必死に這いつくばって距離を取ろうとしていた。スマートフォンの白いライトが小刻みに揺れるたび、壁の血文字が生き物のように蠢いて見えた。
「落ち着きなさいよ、大野!」
高遠美咲が声を荒らげるが、大野の肩を掴む彼女の手もまた、目に見えてガタガタと震えていた。彼女は必死にスマートフォンの画面を指で叩いていたが、すぐに絶望的な顔で頭を振った。
「だめ……完全に圏外。さっき船を降りたときは、かろうじて一本だけアンテナが立っていたのに、今は非常通報すら繋がらないわ」
「外の嵐で、島のどこかにある基地局のアンテナでも倒れたのか。……あるいは、この館の主が、最初から妨害電波(ジャマー)でも仕込んでいるのか」
神崎蓮は、自分の声が周囲のパニックに対して驚くほど冷徹に響くのを耳にして、奇妙な自己嫌悪を覚えた。
頭の奥が、締め付けられるようにずきずきと痛む。
鉄錆のような血の匂い、そして窓の外を支配する大嵐の轟音。それらが引き金となり、蓮の脳裏にある「失われた記憶の壁」が、激しく内側から叩かれているような強烈な圧迫感を感じていた。三年前、僕も確かにこの匂いを嗅いだ。この、逃げ場のない閉塞感を肌で知っている――。
「ちょっと、待ちなさいよ」
それまで藤井の背中に隠れるようにして震えていた西園寺香織が、不意に声を潜め、冷徹な視線を周囲のメンバーへと走らせた。その瞳には、恐怖を通り越した鋭い猜疑心が宿っていた。
「森さんが刺された時、館は完全に停電して真っ暗だったわ。そして私たちは全員、この長テーブルの席に就いていた。……本当に、『全員』ここにいたの?」
その一言が投下された瞬間、ダイニングの空気が文字通り凍りついた。
蓮は、右手に持ったスマートフォンのライトをゆっくりと動かし、一人ずつの顔を照らし出していった。
高遠美咲――怯えながらも、全員をまとめようと虚勢を張っている。
大野――床にへたり込み、涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにしている。
藤井――香織の前に立ち、椅子の背もたれを武器のように握りしめて身構えている。
西園寺香織――高価なドレスの裾を泥で汚しながら、冷たい目で全員を値踏みしている。
そして、神崎蓮、自分自身。
「……一人、足りないわ」美咲が、乾いた声で呟いた。
「おい、まさか、嘘だろ……」
藤井が顔を青ざめさせ、蓮のライトの光を奪うようにして食堂の隅、そして誰も座っていない空席を照らし出した。
そこにいるはずの男の姿がなかった。ゼミ仲間の一人である「木下(きのした)」だ。彼は夕食の約一時間前、「船酔いの頭痛が酷いから、部屋で少し横になる」と言って、二階の客室へ上がったきり、ディナーの時刻になっても戻ってきていなかったのだ。
「木下だ……! 木下の奴、最初から体調不良なんて嘘だったんだ!」
大野が弾かれたように立ち上がり、狂ったように笑い声を上げた。
「あいつが犯人なんだよ! 部屋に戻ると見せかけて一階の厨房に隠れ、電気のブレーカーを落として、暗闇の中で森さんを刺したんだ! 壁の文字だって、あいつが事前に準備してたに決まってる!」
「確かめるしかないわ」
美咲が床に落ちていた自分のバッグを拾い上げ、毅然とした口調で言った。
「ここに全員で固まって、怯えているだけじゃ次の標的にされるわ。全員で木下の部屋へ行きましょう。一人で行くのは絶対に禁止よ」
誰もが暗闇の中に一人で残されることを恐れ、五人はまるで一つの生き物のように肩を寄せ合い、死体の転がる食堂を後にした。
館の中は完全な静寂と暗黒に包まれており、スマートフォンの貧弱なライトだけが、古い廊下の床板を白く浮き上がらせていた。ギィ、ギィ、と五人分の足音がやけに大きく響く。窓ガラスの外では、時折激しい稲光が走り、館の廊下に置かれた不気味な彫刻の影を、引き伸ばされた怪物の姿に変えて壁に投影していた。
中央の広大な螺旋階段を上り、二階の長い廊下を進む。
木下に割り振られていた客室は、廊下の突き当たりにある「204号室」だった。
「木下! 開けろ! 木下、中にいるんだろ!」
藤井が狂暴な勢いで木製のドアを拳で激しく叩いた。しかし、中からは衣服の擦れる音一つ、返ってこない。ただ、ドアの隙間から、ヒューヒューと不気味な風の音が漏れ聞こえていた。
蓮が藤井の肩を押し退け、金属製のドアノブに手をかけた。ゆっくりと力を込めると、カチャリと軽い音がして、扉はあっけなく内側へと開いた。鍵はかかっていなかった。
「木下……?」
蓮が最初に、部屋の奥へとライトの光を向けた。
ベッドの上には、綺麗に整えられたシーツがあるだけで、人影はなかった。
しかし、その部屋の異様な光景に、全員が息を呑んだ。
部屋の奥にある大きなスイング窓が、完全に外へと開き放たれていたのだ。そこから吹き込む激しい雨風が、室内のカーテンを生き物のように狂おしく揺らし、絨毯をぐっしょりと濡らしていた。
蓮はライトを床に走らせた。窓際の、水浸しになった床の上に、場違いな「黒い塊」が転がっているのが見えた。
美咲が慎重に近づき、それを拾い上げる。それは、泥と雨水にまみれた、古びた一台のデジタルカメラだった。レンズの蓋は外れ、液晶画面には無数のヒビが入っている。
「これ……結衣のカメラじゃない?」
その名前が美咲の口から溢れた瞬間、蓮の脳髄の奥深くで、強烈なフラッシュバックが巻き起こった。
『――蓮くん、危ない! 引っ張って、早く!』
激しい嵐の音。足元が崩れ落ちる感覚。目の前で、誰かの細い指先が、自分の手をすり抜けていく。真っ逆さまに、黒い海の底へと落ちていく恐怖――。
「うっ……、あ、ガハッ……!」
蓮は耐え難い割れるような頭痛に襲われ、その場に激しく膝をついた。視界が急速に狭くなり、呼吸の仕方を忘れたように胸が苦しくなる。
「蓮! しっかりしろ、大丈夫か!?」
藤井が慌てて蓮の肩を支え、強引に立ち上がらせた。
「何で……何で結衣ちゃんのカメラがここにあるんだよ!」
大野がカメラを凝視しながら、狂ったように叫び続けた。
「あのカメラは、三年前の事故の時、彼女と一緒に崖の下の激流に落ちて、警察の鑑識だって見つけられなかったはずだろ! 何で木下の部屋の床に転がってるんだよ!」
「木下があれをどこかで見つけて、パニックになって外へ逃げ出したの? それとも……」
香織が、開き放たれた窓の外の闇を見つめた。窓のすぐ外は、漆黒の海へと垂直に落下する、切り立った断崖絶壁だった。
その時だった。
一階の遥か下から、「キィ……ィ」と、金属の蝶番が重くきしむ音が館内に響き渡った。
それは、館の正面玄関の、あの重厚な扉が開け放たれた音だった。
「誰か、入ってきた……!」
五人は弾かれたように部屋を飛び出し、廊下を走って一階のロビーを見下ろす手すりへと群がった。
蓮が震える手でライトを下へと向けると、白い光の束が、ロビーの床を横切ってゆっくりと歩く「不気味な人影」を鮮明に捉えた。
全身、激しい雨を浴びて泥まみれになり、衣服からボタボタと水を滴らせている男。
それは、失踪していたはずの木下だった。
しかし、彼の様子は明らかに異常だった。虚ろな、焦点の合わない目を宙に向け、ぶつぶつと判別のつかない呟きを繰り返しながら、操り人形のように不自然な足取りで歩いている。
そして、蓮のライトの光が、彼の右手へと移動した瞬間。
女性陣から、この日一番の悲鳴が上がった。
木下の右手には、厨房から持ち出されたと思われる、刃渡り二十センチを超える大きな牛刀が握られていた。
そしてその刃先からは、未だ新鮮な、ドロリとした赤い血が、床へと静かに滴り落ちていたのだ。
「木下……! お前、一体全体、何をしたんだ!」
藤井が手すりを激しく掴み、引き裂くような声をロビーへと投げつけた。
一階の床を這うように歩いていた木下は、ライトの強い光に目を細め、ゆっくりと顔を上げた。その顔は、雨水と冷や汗で白くふやけたように青白く、唇はガタガタと小刻みに震えている。彼は手にした血塗れの包丁を落とそうともせず、ただ虚空を見つめたまま、喉の奥から掠れた声を絞り出した。
「僕じゃない……僕じゃないんだ。結衣が、結衣がそこに立っていたんだ。あの庭の、嵐の暗闇の中に……。三年前、僕たちが彼女を見殺しにしたって……そう言って、僕を殺しに来たんだ!」
「狂ってる……完全に正気を失ってるわ!」
香織が美咲の背中に顔を埋め、声を震わせた。
神崎蓮は、階段の手すりをすり抜け、一段ずつ慎重にロビーへと降りていった。頭痛はまだ続いていたが、目の前の異様な光景から視線を外すわけにはいかなかった。
「木下、落ち着くんだ。その包丁を床に置いてくれ。話をしよう」
「近づくな!」
木下が突然、包丁を前方へと突き出した。刃先から滴る血が、床の絨毯に小さな赤いシミを作っていく。
「触るな! 誰も信じない! 君たちだって、僕をあの物置に閉じ込めて、結衣の生贄にするつもりなんだろ!?」
「誰もそんなことはしない! 頼むから捨ててくれ!」
蓮が両手を上げて一歩踏み出したその時、背後から駆け下りてきた藤井が、床に転がっていた真鍮製の重厚な傘立てを掴み、木下の背後へと回り込んでそれを振り下ろした。
重い金属音が響き、木下は悲鳴を上げる間もなく床へと倒れ込んだ。手から離れた牛刀が、乾いた音を立てて床を転がる。
「やった……やったぞ! 俺たちがこいつを捕まえたんだ!」
藤井は荒い息を吐きながら、落ちた包丁を素早く足で遠くへ蹴り飛ばした。大野も慌てて階段を駆け下り、藤井と二人で、気絶した木下の両腕を後ろに回して押さえつけた。
蓮は、床を転がった包丁へと歩み寄り、スマートフォンのライトでそれを照らした。
(……おかしい)
それが、蓮の脳裏に浮かんだ第一の違和感だった。
木下が持っていたのは、厨房にある肉切りのための太い牛刀だ。だが、さっき食堂で見た執事・森の胸に突き刺さっていたのは、果物ナイフのような細く鋭利な刃物だった。傷口の形状が明らかに一致しない。さらに言えば、木下の服や掌は泥と雨水で汚れてはいるが、森のあの「血の海」から想像されるような、激しい返り血の痕跡がどこにも見当たらなかった。
「とにかく、この狂人をこのままにしておくわけにはいかないわ」
階段の上から、美咲が冷徹な声を響かせた。彼女の目は、すでに冷酷な現実を見据えていた。
「食堂のすぐ隣に、リネンや古い家具を仕舞う頑丈な物置部屋があるわ。あそこなら内側から開けられる窓もないし、扉は外側から南京錠で施錠できる。あいつの意識が戻る前に、あの中に閉じ込めましょう」
異論を唱える者は誰もいなかった。藤井と大野が、ぐったりとした木下の身体を引きずるようにして一階の廊下を進み、重い木製の扉を持つ物置部屋へと放り込んだ。美咲は事前に管理人室から見つけておいたという古い真鍮の南京錠を取り出し、ガチャリと音を立てて扉を外側から施錠した。
「この鍵は、私が預かっておくわ」
美咲は鍵を自分のポケットの奥深くへと仕舞い込んだ。
「これで、あいつが外に出て私たちを襲うことはできない。夜が明けて、嵐が去って、船が来るまではこれが一番安全なはずよ」
五人は疲れ果てた足取りで、再びロビーの中央にある小さな暖炉の前に集まった。電気は消えたままで、館の寒さは容赦なく彼らの体温を奪っていく。美咲がどこからか持ってきた数本のキャンドルに火を灯し、その微かなオレンジ色の炎を囲むようにして、床に直接座り込んだ。
外では、雷鳴が怪物の咆哮のように館を揺らし続けている。
「なぁ……木下が言っていたことは、本当じゃないか?」
長い沈黙を破ったのは、膝を抱えてガタガタと震えていた藤井だった。彼の瞳には、かつての快活な面影は微塵もなかった。
「三年前のあの日、俺たちは確かに結衣を見殺しにした。あの崖の上で、嵐の中で……。これは、あいつの呪いなんだよ」
「やめて、藤井!」
美咲が鋭く制する。
「あれは事故よ。私たちは誰も悪くない。警察だってそう言ったわ!」
「隠してたって意味ないだろ! 蓮は記憶を失ってるから何も覚えてないだろうけどさ!」
藤井の叫び声が、暗い天井に跳ね返る。
蓮は思わず身を乗り出した。
「教えてくれ、藤井。大野。三年前、僕たちの間に何があったんだ? 僕の記憶は、あの日の夜の直前で途切れている。君たちは、何を隠しているんだ?」
大野が口を開こうとし、美咲を恐れるように視線を泳がせた。その時、それまで一言も発さずにキャンドルの炎を見つめていた香織が、不意に立ち上がった。
「そんな昔の話、今したって始まらないわ。私は一度部屋に戻って、濡れた衣服を着替えたい。雨水で身体が冷えて、死にそうだわ。……美咲、悪いけど部屋まで付き合って」
「ええ、分かったわ」
美咲は頷き、キャンドルを一本持って香織と共に二階へと上がっていった。廊下を上っていく二人の足音が消えると、再び一階は重苦しい静寂に包まれた。
残されたのは、蓮、藤井、大野の三人。
「蓮……」
大野が消え入るような声で言った。
「結衣ちゃんはね、足を滑らせて落ちたんじゃないんだ。あの日、僕たちは激しい言い合いになって……誰かが彼女を突き飛ばしたんだよ。君はそれを止めようとして、彼女の服を掴んで、一緒に巻き込まれて落ちたんだ」
「誰が……結衣を突き飛ばしたんだ?」
蓮の心臓が激しく脈打つ。失われたパズルのピースが、今にも目の前に現れそうだった。
「それは、確か――」
大野がその名前を口にしようとした、まさにその瞬間だった。
二階の遥か上から、「キャーーーッ!」という、引き裂かれるような美咲の悲鳴が館内に轟いた。
「美咲の声だ!」
蓮は弾かれたように立ち上がり、キャンドルの微かな光を頼りに二階への階段を駆け上がった。背後から藤井と大野の慌てふためく足音が続く。
声がしたのは、階段を上がってすぐの右手に位置する、香織に割り振られた客室の前だった。
ドアは完全に開き放たれており、廊下の絨毯の上に高遠美咲が腰を抜かした状態でへたり込んでいた。彼女の手から落ちたキャンドルが床で消えかけ、不気味な煙を上げている。
「美咲! どうした、何があった!?」
蓮が駆け寄り、彼女の肩を支えて立ち上がらせた。美咲はガタガタと全身を震わせ、言葉にならない声を漏らしながら、真っ白な指で香織の部屋の内部を指さしていた。
蓮はスマートフォンのライトを部屋の奥へと向けた。
部屋の中央、ドレッサーの前に、西園寺香織が立ち尽くしていた。彼女の足元には、先ほどまで大切に抱えていたはずのブランド物のハンドバッグがひっくり返り、中身の化粧品や高級な財布が床一面に散乱している。
しかし、蓮たちの目を釘付けにしたのは、そのきらびやかな小物のなかに転がっていた、場違いな「一本の古びた万年筆」だった。
それは、お世辞にも高級とは言えない、一世代前の型落ちしたプラスチック製の万年筆だった。本体のあちこちに深い傷が入っており、キャップの隙間には乾燥した泥のようなものが詰まっている。
「あれは……結衣の万年筆よ……」
美咲が乾いた喉を鳴らし、掠れた声で呟いた。
「結衣が、肌身離さず持っていた、お父さんの形見の万年筆。三年前、彼女が崖から落ちた時、遺体と一緒に黒い海に流されて、警察の鑑識だって絶対に見つけられなかったはずのものが……どうして香織のバッグの中から出てくるのよ!?」
「違うわ……!」
香織が鋭い悲鳴のような声を上げた。彼女の完璧に整えられていた顔は今や恐怖で歪み、ライトの光の中で幽霊のように白く浮かび上がっている。
「私じゃない! 私はそんなものバッグに入れてないわ! 部屋に戻って、着替えようとしてバッグを開けたら、中からこれが転がり出てきたのよ! 誰かが……誰かが私を犯人に仕立て上げようとして、勝手に入れたのよ!」
「嘘をつくな!」
藤井が部屋に踏み込み、床の万年筆を指さした。
「お前、三年前からずっとそれを隠し持っていたんだろ!? 結衣ちゃんを突き落としたのは、お前だったんじゃないのか!?」
「バカ言わないで!」
香織は激昂し、藤井を睨みつけた。
「私がそんなリスクを冒すわけないでしょう! 確かに私は、結衣のことが大嫌いだったわ。何をやっても私より優秀で、ゼミの教授からも気に入られて……。でも、私はあの日、あなたたちが崖の上で結衣と激しく言い争っているのを、少し離れた茂みから見ていただけよ! その後、激しい音がして駆けつけたら、もう結衣も蓮も崖の下へ消えていた。地面を見たら、この万年筆だけが落ちていたの。だから、私は彼女の生きた証を奪ってやりたくて、つい拾って、それからずっと自室の引き出しの奥に隠していたのよ!」
香織の口から飛び出したのは、醜い嫉妬の告白だった。しかし、彼女の「今日の夕方、ベッドの上にこれが置いてあった」という言葉は、別の恐怖を物語っていた。誰かが、彼女の三年前の盗みを完全に把握し、このタイミングでバッグに仕込んだのだ。
(これが第二の違和感だ。犯人は僕たちの過去を、完全に知っている――)
蓮は頭の奥の痛みに耐えながら、床の万年筆を見つめた。
「とにかく、ここにいても拉致が明かないわ」
美咲が震える手でポケットから物置の鍵を取り出した。
「一度、一階に戻りましょう。木下にも、香織の話を聞かせた方がいい。あいつが窓の外で見たという『結衣の影』の正体も、何か分かるかもしれない」
五人は再び、暗黒の階段を降りて一階へと向かった。
外の嵐はさらに勢いを増し、館の窓を激しくガタガタと揺らしている。
食堂の脇にある、木下を閉じ込めた物置部屋の前に到着した。美咲が手元をライトで照らし、鍵穴に鍵を差し込む。カチャリ、と重い音がして、錠が開いた。
「木下、出し……」
美咲が扉を開けた瞬間、言葉を失った。
ライトの光が映し出したのは、信じられない光景だった。
部屋の奥で、木下が壁に背を預けたまま、ぐったりと座り込んでいた。その胸には、先ほど食堂で執事の森を貫いていたものと全く同じ、「細く鋭利なナイフ」が、深々と突き刺さっていた。
「いやあああああーーーっ!」
美咲の悲鳴が、密室の物置に響き渡る。
「そんな馬鹿な……鍵は美咲がずっと持っていたはずだろ!?」
藤井が腰を抜かす。
窓はすべて内側から鍵がかかっており、出入り口はこの扉一つだけ。完全なる密室の中で、木下は息絶えていた。
「開かない……窓は全部、内側から完全に閉まってる。ネジ付きのサッシも、古い掛け金も、全部だ……!」
藤井が、雨水の滴る物置の窓枠にすがりつきながら、狂ったように叫んだ。彼の指先はサッシの金属線で擦れ、微かに血が滲んでいる。
しかし、その窓が内側から施錠されているという事実は、この部屋が「完全なる密室」であったことを残酷に証明していた。
床に転がった木下の死体は、まだ温もりを失いきっていない。胸に突き刺さった細いナイフの周囲から、どくどくと溢れ出た血が、物置の灰色のコンクリート床を黒く染めていく。
「嘘よ……そんなの、絶対にあり得ないわ!」
高遠美咲が、自身の髪をかきむしりながら後ずさりした。彼女の背中が物置の対面の壁に強く当たり、棚に置かれていた古い工具がガタガタと不快な音を立てる。
「この部屋の鍵は、木下を中に入れた直後、私がこの手で閉めたのよ! それからずっと、私の衣服のポケットに入っていたわ。みんなと二階の香織の部屋へ行くときも、ここに戻ってくるまで、一瞬たりとも肌身離さず持っていたのよ!」
「じゃあ、美咲、お前が犯人なんだろ!」
大野が、血走った目で美咲を指さした。彼の声は恐怖のあまり裏返り、狂気的な響きを帯びている。
「鍵を持っていたのはお前だけだ! 二階で香織の悲鳴を聞いたとき、お前は香織と一緒に部屋にいた。でも、その直前……私たちが一階のロビーにいたとき、お前は香織を連れて先に二階へ上がったじゃないか! その途中で、一瞬だけ一階に引き返して、この物置の鍵を開けて木下を刺すことだって、お前なら出来たはずだ!」
「バカなこと言わないで!」
美咲が叫び返す。
「私はずっと香織と一緒に階段を上ったわよ! 香織、あなた言いまさき! 私はずっとあなたと一緒にいたでしょう!?」
「……ええ、そうね」
香織は、壁に寄りかかりながら、冷たい視線で美咲を見つめた。
「階段を上りきるまでは、確かに一緒だったわ。でも、私が自分の部屋に入って、あなたが廊下で待っている間の数分間――私は部屋の中で濡れた服を着替えていたから、あなたが外で何をしていたかまでは見ていないわ」
「香織、あなたまで私を疑うの!?」
美咲の顔から、完全に血の気が引いた。
「大野、美咲を責めるのは筋違いだ」
蓮は、木下の遺体の前に屈み込みながら、二人の言い争いを遮った。スマートフォンのフラッシュライトを遺体の胸元へと向け、じっとその傷口を観察する。
「美咲が香織の部屋の外で数分間、一人になったとしても、その短い時間で二階から一階の物置まで往復し、鍵を開けて、木下を刺して、また鍵を閉めて二階に戻るなんて芸芸当は物理的に不可能だ。それに……もし美咲が木下を殺したなら、なぜわざわざ自分から進んで『木下の様子を見に行きましょう』なんて言って、真っ先に鍵を開けたりするんだ?」
「じゃあ、どうして木下は死んでるんだよ!」藤井が頭を抱えて怒鳴り散らす。「窓は閉まってる、扉の鍵は美咲が持ってた! 犯人は壁をすり抜けたとでも言うのか!?」
蓮は答えず、木下の顔を見つめていた。
木下の表情は、食堂で見た執事・森の、驚愕に満ちた死に顔とは明らかに異なっていた。彼の顔にあったのは、恐怖というよりも、どこか深い絶望と、何かを諦めたような虚無感だった。
そして、蓮は第三の違和感に気づく。
木下の死体のすぐ傍ら、彼が右手で握りしめていたはずの、あの血塗られた「牛刀」が、床の上にぽつんと転がっていた。だが、その包丁の刃についている血痕は、彼自身の胸から流れた血によって完全に洗い流され、混ざり合っていた。
(いや、待てよ……。もし、木下は最初から――)
蓮の頭の中で、バラバラだったピースが、不吉な音を立てて繋がり始めようとしていた。だが、あと一歩のところで、記憶の空白がそれを阻む。
「とにかく、ここにいるのは危険だわ」
香織が、身震いをしながら物置の出口へと歩き出した。
「死体が二つもある館なんて、一刻も早く出たい。でも、外はあの嵐でしょう……。お願いだから、みんながいるリビングに戻りましょう」
五人は、木下の遺体を物置に残したまま、再び鍵をかけて部屋を出た。
一階のリビングには、暖炉の跡があるだけで火は灯っておらず、中央のローテーブルに置かれた数本のキャンドルだけが、微かな光を放っていた。
五人は、お互いから最も距離を取れる席を選んで、円を描くように座り込んだ。
誰の目にも、明らかな拒絶と、深い疑惑の色が浮かんでいた。三年前、阿澄結衣の死を「事故」として葬り去り、それぞれの日常に戻っていった仲間たち。だが、今この瞬間、彼らを繋いでいた「運命共同体」という鎖は完全に断ち切られ、代わりに「この中に殺人鬼がいる」という刃が突きつけられていた。
「なあ……」
藤井が、キャンドルの炎を見つめたまま、ぽつりと言った。
「三年前のあの日、俺たちが崖の上で結衣ちゃんに言ったこと……覚えてるか?」
大野がビクッと肩を揺らし、藤井を睨みつけた。
「やめろ、藤井。今その話をするな!」
「いや、話すべきだ!」
藤井は声を荒らげ、大野を睨み返した。
「木下が死んで、森さんも死んだ。次は俺たちの誰番だ!? 隠し通せるわけがないんだ! 蓮、お前は本当に、何も思い出せないのか!?」
藤井の鋭い視線が、蓮へと突き刺さる。
キャンドルの炎が激しく揺れ、館の壁に、五人の巨大な影が歪んで広がっていった。
「隠してたって意味ないだろ! 蓮、お前は本当に、何も思い出せないのか!?」
藤井の剥き出しの焦燥が、キャンドルの炎に照らされたリビングを支配していた。
神崎蓮は、自分の両手を見つめた。親指の付け根あたりに、うっすらと残る古い傷跡がある。崖から落ちたときに負ったものだと医者には言われたが、それ以上の意味を、蓮自身は今の今まで深く考えたことがなかった。
「……思い出せない。だが、君たちのその怯え方を見れば分かる。三年前の阿澄結衣の死は、本当にただの『転落事故』だったのか?」
「事故なわけないだろ!」
藤井が激しく髪を掻きむしりながら、ついにすべてを吐き出すように怒鳴った。
「あの日……俺たちは結衣ちゃんをあの崖の上まで追い詰めたんだ。事故なんかじゃない。俺たちが、あいつをあそこへ追い込んだんだよ!」
「藤井、もうやめて!」
大野が耳を塞いで叫ぶが、藤井の暴走は止まらない。
「大野、お前だって共犯だろうが! 蓮、いいか、よく聞け。三年前の俺たちのゼミは、ただの仲良しグループじゃなかったんだ。高遠(美咲)と西園寺(香織)の実家がバックについて、教授の紹介である特許技術の不正取得に加担していたんだよ。それが、結衣ちゃんの父親が人生をかけて開発した、特殊な金属加工のライセンスだったんだ」
蓮の頭の中で、錆びた歯車が不快な音を立てて回り始めた。
(結衣の、お父親……?)
「結衣ちゃんのお父さんは不器用な町工場の職人だった。でも、その技術には何十億という価値があったんだ」
藤井は乾いた唇を舐め、声を震わせた。
「教授はそれを言葉巧みに掠め取り、俺たちのゼミの共同研究実績として学会に発表した。そうすれば香織の実家の財閥に高く売れるし、俺たちも大企業への推薦就職が確約される手はずだった。みんな、自分の未来のためにそれを黙認したんだ。……結衣ちゃん一人を除いてな」
「結衣は……それを告発しようとしたのね」
蓮の口から、自然と冷たい言葉が漏れ出た。
「そうよ」
それまで沈黙を守っていた西園寺香織が、軽蔑の混じったため息とともに口を開いた。
「彼女、本当に馬鹿正直で融通が利かないの。『お父さんが命を削って作った技術を、あなたたちの出世道具にさせない』なんて言って、学会の理事長に直訴する手紙を用意していたわ。だから私たちは、合宿という名目で彼女をこの島に連れ出し、説得しようとしたのよ。でも、あの子は最後まで首を縦に振らなかった」
香織は懐から、先ほど自分のバッグから見つかった古びた万年筆を取り出し、キャンドルの光にかざした。
「これが、彼女が肌身離さず持っていたお父さんの形見の万年筆。あの日、崖の上で激しい言い合いになって、誰かが彼女を突き飛ばした……。私が駆けつけた時には、もう結衣も、それを止めようとしたあなたも、崖の下の闇へ落ちていくところだったわ。地面を見たら、これが転がっていた。私は……彼女に対する激しい嫉妬と、すべてを台無しにされた怒りから、これを盗んで三年間隠し持っていたのよ。でも、私は突き落としてはいないわ!」
香織の告白は、醜いエゴの塊だった。だが、蓮の脳裏を撃ち抜いたのは、彼女の言葉によって呼び覚まされた「本物の記憶の断片」だった。
激しい雨。足元の崩れる泥の感覚。
『あなたたちのしていることは泥棒よ! お父さんの職人としての誇りを汚させない!』
そう叫んで、泥だらけの手で万年筆を握りしめていた結衣の横顔。
そして、彼女に向かって狂気的な目をして歩み寄る、一人の「人影」――。
「……違う」
蓮は頭を抱え、痛みに喘ぎながら声を絞り出した。
「僕と結衣が言い争っていたんじゃない。あの日、結衣を崖の淵まで追い詰めて、突き落としたのは……」
蓮の視線が、ゆっくりと移動する。
その先にいたのは、終始冷静な表情を崩さずにキャンドルの炎を見つめていた、高遠美咲だった。
「美咲……君だったんじゃないか? ああの日、結衣の手を掴み、拒絶されて、突き飛ばしたのは」
リビングに、心臓の鼓動すら聞こえそうなほどの静寂が訪れた。
大野も藤井も、息を呑んで美咲の顔を見つめている。
美咲はゆっくりと顔を上げ、蓮と視線を合わせた。その瞳には、先ほど物置の前で見せた恐怖の色彩は微塵も残っていなかった。ただ、底の知れない、冷徹な闇だけがそこにあった。
「……そうよ、蓮」
美咲は、恐ろしいほどに穏やかな声で微笑んだ。
「私が突き落としたわ。だって、あの特許が告発されたら、私の内定も、私の人生もすべて終わるはずだったもの。あなたが止めに入って結衣の腕を掴んだから、私は面倒になって、あなたごと彼女を崖から突き落としたのよ。忘れてくれていたから、仲良くサークル仲間を続けられたのに。……本当に、余計なことを思い出してくれるわね」
「美咲、お前……!」
藤井が椅子を蹴り立てて立ち上がる。
「でもね」
美咲は果物ナイフのように冷たい視線を藤井に向けた。
「私が結衣を殺したのは事実だけど、今日の森さんと木下を殺したのは私じゃないわ。私は本当に、物置の鍵をずっと持っていたもの。第一、この不気味な招待状を送って、私たちをここに集めたのは誰よ? 私はただ、呼ばれたから来ただけよ」
美咲の言葉は筋が通っていた。彼女がどれほど冷酷な殺人者だとしても、この「館の罠」を仕掛けた真犯人が別にいることは明らかだった。
その時、リビングの重厚なスピーカーから、突如としてザーという激しいノイズが響き渡った。
五人が驚いて周囲を見回すなか、ノイズの向こうから、聞き覚えのある「あの声」が聞こえてきた。
『素晴らしい告解でした、皆様。三年間待ち望んだ、真実の言葉です』
それは、食堂で胸を刺されて死んだはずの、執事・森の声だった。
『神崎様、記憶を取り戻していただき感謝いたします。これでようやく、私の娘・結衣も浮かばれるでしょう』
「森……さん……? 生きてるのか……!?」
大野が絶叫する。
『私は最初から死んでなどいませんよ。さあ、皆様。三年前の罪の報いを受ける時間がやってまいりました。この館の地下には、十分な量のプロパンガスが充填されています。真実とともに、全員で灰になりましょう』
カチリ、という不吉なスイッチの音が、スピーカーの向こうから冷酷に響き渡った。
スピーカーから流れる執事・森の冷酷な宣告が、激しいノイズとともに途切れた。直後、リビングを満たしていたキャンドルの炎が、館の地下から這い上がってきたような不気味な微振動によって一斉に揺らめいた。
「嘘だろ……、おい、嘘だと言ってくれよ!」
藤井が狂ったようにスピーカーへ駆け寄り、マホガニー製の重厚な筐体を何度も拳で殴りつけた。
「おい、森! 出てこい! ふざけるな、何がプロパンガスだ! 俺たちを巻き添えにする気か!」
「そんなの……、そんなの嫌よ!」
西園寺香織が、自身の頭を抱えてソファの上に座り込んだ。完璧だったはずの巻き髪は乱れ、恐怖のあまり涙でマスカラが滲み、目の周りが黒く汚れている。
「私は西園寺家の人間よ! あんな町工場の娘一人のために、何で私がこんな辺鄙な島で死ななきゃいけないのよ! 誰か、誰か助けて!」
「パニックになるな!」
神崎蓮の声が、リビングの混沌を鋭く切り裂いた。蓮は立ち上がり、スマートフォンのライトを玄関の方向へと向けた。
「森さんが言ったことが本当なら、この館のどこかにガスが充填され始めている。猶予はない。一刻も早くこの館から脱出するんだ!」
「脱出って、どこへ行くのよ! 外はあの暴風雨なのよ!」
大野が、ガタガタと歯を鳴らしながら叫んだ。彼のズボンの膝部分は、先ほど食堂の床に這いつくばった際についた、森の(今思えば偽物の)血で赤黒く汚れたままだった。
「船だって、明日にならなきゃ来ないんだ! 外に出たって、崖から落ちて死ぬだけだ!」
「ここにいて確実に吹き飛ばされるよりはマシだわ」
不意に、背後から冷徹な声が響いた。
高遠美咲だった。彼女は自分が三年前の殺人者であることを暴露されたにもかかわらず、驚くほど冷静だった。その手には、いつの間にかリビングの飾り棚から持ち出したと思われる、アンティークの真鍮製ペーパーナイフが握られていた。
「蓮の言う通りよ。森が生きているなら、まずは正面玄関から外へ出る。島の中央には、三年前の合宿で使った古い避難小屋があったはずよ。あそこなら嵐を凌げる」
美咲の言葉に、誰も反論できなかった。
五人はリビングを飛び出し、暗黒の廊下を全力で駆け抜けて正面玄関のロビーへと向かった。蓮のライトの光が、ロビーの床に投げ捨てられたままの、あの木下が持っていた牛刀を映し出す。誰もその包丁に目を留める余裕はなかった。
「開けろ! 早く開けろ、藤井!」
大野が、正面玄関の重厚な木製扉に取り付き、狂ったようにドアノブを回した。
しかし、扉はびくともしなかった。
「クソッ、鍵がかかってる! 三寸はある頑丈なデッドボルトだ!」
藤井が体当たりを試みるが、大正期に建てられた洋館の強固な作りは、人間の体当たり程度ではきしみ音一つ立てない。
「美咲、物置の鍵の他に、玄関の鍵は持っていないのか!?」
蓮が振り返る。
「持っているわけないでしょう!」
美咲が苛立ちを隠さずに叫び返した。「私は森から、木下を閉じ込めるための鍵だけを渡されたのよ。玄関の鍵は、最初からあいつのポケットの中よ!」
「じゃあ、窓だ! 窓を割って出るんだ!」
香織が叫び、ロビーの側面に配置されたステンドグラスの窓を指さした。藤井が近くにあった鉄製の傘立てを掴み、渾身の力で窓ガラスへと投げつけた。
ガシャーーーン!!
激しい金属音とともに、色鮮やかなステンドグラスが粉々に砕け散り、ロビーの床へと降り注いだ。
しかし、歓喜の声は上がらなかった。砕け散ったガラスの向こう側に現れたのは、夜の闇ではなく、窓枠を完全に覆い尽くすように外側から打ち付けられた、厚い「鉄板」だった。
「な……何よ、これ……」
香織が絶望に目を見開いた。
蓮は砕けた窓枠に近づき、ライトでその鉄板を照らした。鉄板の表面には、無数の頑丈なボルトが館の外壁に向けて深く打ち込まれているのが見えた。
「森さんは、最初から僕たちを一人も逃がす気はなかったんだ。この館の窓という窓は、すべて外側から鉄板で補強されている。……ここは、最初から僕たちのための『処刑場(密室)』として改築されていたんだ」
「そんな……、じゃあ、私たちはここで焼き殺されるのを待つしかないの?」
大野がその場に泣き崩れた。
その時、蓮の鼻腔に、微かな、しかし決定的な「異変」が届いた。
ツンとするような、独特の不快な臭気。
「……ガスだ」
蓮は声を潜めた。
「床の通気口から、ガスが流れ込み始めてる。リビングのキャンドルがまだ生きているなら、引火するのも時間の問題だ」
「待って」
美咲が、真鍮のナイフを強く握りしめながら言った。
「森はさっき、『物置の密室なんて最初から存在しない』と言ったわ。木下は最初の停電のときに物置で刺され、私が彼を閉じ込めたときにはすでに瀕死だった。でも……森はどうやって、私たちが木下を物置に入れるように誘導したの? もし森が最初から物置の中に隠れていたとしたら?」
蓮はハッと目を見開いた。
「物置の中に……隠し通路がある! 森さんはそこから出入りして、今も館のどこかの監視部屋から僕たちを見ているんだ!」
「物置へ戻るわよ!」美咲が叫び、最初に暗闇の廊下へと引き返していった。
ツンと鼻を突くプロパンガスの臭気が、廊下の床を這うようにして確実に広がっていた。
「急げ! 早くしろ!」
藤井が狂ったように叫びながら、物置部屋のドアノブを掴んで激しく揺さぶった。美咲が震える手でポケットから真鍮の鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。カチャリと重い音がして扉が開くと、五人は雪崩れ込むようにして室内に飛び込んだ。
ライトの光が、壁際にぐったりと座り込んだままの木下の遺体を白く浮かび上がらせる。二度目の対面であっても、その生々しい死の気配は五人の胃袋を激しく収縮させた。しかし、今や死体への恐怖よりも、生への執着が勝っていた。
「隠し通路よ! 森はこの部屋のどこかから出入りしていたはずだわ!」
美咲が叫び、スチール製の古い棚を力任せに引っ張った。ガガガと耳障りな金属音が響き、棚の裏の埃っぽい漆喰の壁が露出する。
「蓮、大野、お前らもぼさっと突っ立ってないで壁を叩け! どこかに空洞があるはずだ!」
藤井が壁に拳を打ち付け、音を確かめ始めた。香織は汚れるのも構わずに床に膝をつき、絨毯の端を剥ぎ取ろうと指先を血に染めている。
蓮もスマートフォンのライトを左手に持ち替え、右手で壁面を次々と叩いていった。コンクリートの鈍い音が続く。だが、木下の遺体が置かれているちょうど真後ろの壁に差し掛かったとき、明らかに他とは違う、軽くて高い木製パネルのような音が響いた。
「ここだ……! 木下の後ろの壁、ここだけベニヤ板のような構造になってる!」
「どけ、木下!」
藤井が取り乱した様子で、木下の遺体の肩を掴んで乱暴に横へと引きずり倒した。死体が床に転がるのと同時に、蓮はその壁面にライトの光を集中させた。
壁の漆喰に見えたのは精巧に塗られたカモフラージュで、よく見ると縦に細い隙間が走っている。蓮が指先をその隙間にねじ込み、手前に向かって強く引くと、ゴゴゴと音を立てて壁の一部が内側へと回転するように開いた。
奥には、大人が一人やっと通れるほどの、真っ暗な縦穴の空間が広がっていた。下へと続く錆びた鉄製の梯子が見える。
「通路だ……! 本当にあったぞ!」
大野が歓喜の声を上げた。
『おやおや、見つけてしまいましたか』
突如として、その暗闇の縦穴の奥から、再びあのスピーカーを介さない「生の声」が響き渡った。五人の身体が硬直する。
「森さん……!」
蓮が縦穴の奥へライトを向けた。
光の先、梯子を下りきった地下通路の入り口に、一人の男が静かに立っていた。執事の森――いや、阿澄は、胸の偽装ナイフを完全に引き抜き、手には一本の古い懐中電灯と、そして小さな黒い無線リモコンを握りしめていた。
「やはり神崎様、あなただけは他の有象無象とは違う。三年前、娘の結衣があなたのことを『ゼミで唯一、信頼できる人だ』と言っていた理由が、今ならよく分かります」
阿澄の声は、地下の冷気を含んで低く、重く響いた。
「阿澄さん、もうやめるんだ!」
蓮が縦穴に向かって叫んだ。
「美咲が結衣を突き落としたことは分かった! 彼女は、そして僕たちも、相応の報いを受けるべきだ。でも、あなたの手で僕たちを焼き殺せば、結衣の魂は決して救われない!」
「黙りなさい!」
阿澄の顔が、懐中電灯の逆光の中で鬼のように歪んだ。
「美咲様が娘を突き落とした。それは事実だ。しかし、藤井様、大野様、西園寺様……あなた方も同罪だ! 娘が崖から落ちた後、あなた方は警察に通報する前に何をした? 娘のバッグから論文のデータを盗み出し、特許の書類を偽造した! そして、神崎様が記憶を失っているのをいいことに、すべてを『不慮の事故』として処理するための口裏を合わせた! あなた方全員が、娘を二度殺したのだ!」
阿澄の告発に、藤井も大野も香織も、一言も反論できなかった。彼らはただ、恐怖に顔を歪めて立ち尽くすことしかできない。
「ガスの充填は間もなく完了します。このリモコンのボタンを押せば、館の地下の火花が散り、すべてが終わる。娘の命を奪ったこの忌まわしい東都大のゼミナールは、今夜、跡形もなく消滅するのです」
阿澄がリモコンを持つ親指に力を込めるのが見えた。
「嫌……嫌あああ!」
その瞬間、極限の恐怖に耐えかねた大野が、完全に理性を失って暴走した。彼は蓮を突き飛ばし、自ら縦穴の中へと飛び込んだのだ。
「ボタンを押させるか! 死ぬならお前一人で死ね!」
「大野、よせ!」
蓮が手を伸ばしたが、間に合わなかった。
大野は梯子を無視して、二メートル下の地下通路へと真っ逆さまに飛び降り、阿澄の身体へと猛烈な勢いで体当たりを食らわせた。
「うわああっ!」という阿澄の悲鳴とともに、二人の身体が暗闇の中で激しくもつれ合う。
ガツン、と硬いプラスチックが床に激突する音が響いた。阿澄の手からリモコンが弾き飛ばされ、暗闇のどこかへと転がっていく。
「リモコンが落ちたぞ! おい、今のうちにあのジジイを捕まえて外に出るんだ!」
藤井が目を血走らせ、大野に続けとばかりに縦穴の梯子に足をかけ、地下へと滑り降りていった。
「蓮、私たちも行くわよ!」
美咲が真鍮のペーパーナイフを構え、冷酷な目で縦穴を見つめた。彼女の目的は脱出ではない。自分を告発しようとする阿澄を、ここで完全に「処理」することだった。
充填されていくガスの臭気が、いよいよ物置部屋の中まで濃くなってくる。
生き残った者たちのエゴと狂気が、真っ暗な地下通路という名の奈落の底で、いよいよ最終局面を迎えようとしていた。
大野が縦穴の奈落へと身を投げ、執事・森――阿澄の身体へと激突した瞬間、暗闇の底で鈍い肉体衝突の音が響き渡った。
遅れて梯子を滑り降りた藤井が、床に転がった懐中電灯をひったくり、狂ったように辺りを照らし出す。
「どこだ、リモコンはどこにいった!?」
藤井の悲鳴に近い叫び声が、湿った地下通路のコンクリート壁に反響する。
光の輪が揺れる先では、大野と阿澄が泥まみれになりながら床でもつれ合っていた。大野は完全に理性を失っており、阿澄の胸ぐらを掴んで何度も床に叩きつけている。
「殺してやる! お前さえ、お前さえこんなことを始めなければ、僕は、僕の人生はっ……!」
「大野、よせ! 離れるんだ!」
上から飛び降りた神崎蓮が、大野の背中を強く引っ張って引き剥がした。阿澄は口元から一筋の血を流し、激しく咳き込みながらも、虚ろな目で笑っていた。その手の中に、あの黒い無線リモコンはない。
「無駄ですよ、藤井様……」
阿澄は喘ぎながら、暗闇の奥を指さした。「リモコンは、あの格子の向こう側……排水溝の奥深くへ落ちました。もう、誰の手にも届かない……。ガスの充填は、あと十分もすれば完了する。火花は自動で散るよう、システムを組んであります」
「嘘だろ……、おい、嘘だと言ってくれよ!」
藤井が懐中電灯の光を床に走らせる。阿澄が指さした先には、太い鉄格子で塞がれた、外の海へと繋がる頑丈な排水口があった。その格子の隙間、人間の手では絶対に届かない暗黒の奥底に、微かに赤いLEDが点滅する小さな精密機械の影が見えた。阿澄のリモコンだった。
「終わった……。もう終わりよ……」
最後に梯子を降りてきた西園寺香織が、湿った壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。高級なドレスは完全に泥と阿澄の血で汚れ、彼女のプライドとともに無残に引き裂かれていた。
充填されていくガスの独特な金属臭が、物置の縦穴を通じて、この地下通路にまで確実に降りてきている。空気は目に見えて重くなり、全員の呼吸が自然と浅くなっていく。
「諦めるな、何か方法があるはずだ」
蓮はスマートフォンのライトで周囲の構造を確認した。
地下通路は一本道で、奥へと長く続いている。その先には、館の外部へと繋がる勝手口か、あるいは別の隠し扉があるはずだった。
「阿澄さん、この通路の先はどこへ繋がっている? あなたはどこからこの館に物資を運び込んだんだ」
阿澄は答えず、ただ静かに目を閉じて結衣の形見の万年筆(香織が落としたもの)を床から拾い上げ、愛おしそうに胸に抱きしめた。彼の復讐劇は、すでに自らの死をも内包して完結していた。
「あいつに聞いてる時間なんてないわ」
背後から、凍りつくような声が響いた。高遠美咲だった。
彼女は、ロビーから持ち出してきた真鍮製のペーパーナイフの刃先を、冷たい目で阿澄の喉元へと突きつけた。「阿澄さん、あなたが死ぬのは勝手だけど、私たちを巻き込まないで。通路の鍵はどこ? 言わないなら、このナイフであなたの目を突き刺すわよ」
「美咲、やめるんだ!」
蓮が彼女の手首を掴んだ。
「放して、蓮!」
美咲が激しく抵抗する。
「私たちは生きなきゃいけないのよ! 三年前だって、そうやって生き残ってきたじゃない! あの女一人の命のために、どうして私たちが全滅しなきゃいけないの!?」
三年前。その言葉が引き金となり、蓮の脳髄の最奥で、堰を切ったように激しい激痛が走った。
頭の中の「白い霧」が、急速に、そして完全に晴れていく。
『――あなたたちのしていることは泥棒よ! お父さんの職人としての誇りを汚させない!』
激しい嵐の夜。雨水が滝のように流れ落ちる霧影島の崖の淵。
蓮の目の前で、泥だらけになりながら、必死に一本の論文の束を抱きしめていた阿澄結衣の姿が、鮮明なカラー映像となって蘇った。
あの日、合宿の最終日。
結衣は、美咲たちが自分のお父さんの特許技術を盗用し、ゼミの成果として偽装した証拠を掴んでいた。彼女はそれを本土に戻った瞬間に学会へ告発するつもりだった。
それに気づいた美咲、藤井、大野、香織の四人は、結衣を説得するために嵐の崖の上へと追い詰めたのだ。
『結衣ちゃん、頼むからそれを渡してくれ! これがバレたら、俺の就職は取り消しになるんだよ!』と、泣きながら掴みかかろうとした大野。
『そうよ、あなたみたいな貧乏人の娘がいくら騒いだところで、私の実家の力でどうにでも揉み消せるわ』と、冷酷に言い放った香織。
『おい、実力行使だ! 奪い取れ!』と、彼女のバッグを無理やり奪おうとした藤井。
そして――。
『やめて! 来ないで!』
結衣がさらに一歩、後ろへと下がった。そこは、遮るもののない、海へと続く断崖絶壁だった。
『待ってくれ、みんな落ち着くんだ!』
当時、ゼミの中で唯一、この不正を知らされていなかった蓮が、異変に気づいて崖の上に駆けつけた。蓮は結衣を助けようと、彼女の元へと走った。
だが、その瞬間。
『邪魔よ、蓮! あなたも、その女も!』
狂気に満ちた目で二人を見据え、結衣の胸を、そして蓮の身体を、渾身の力で突き飛ばした人物がいた。
藤井でも、大野でも、香織でもない。
――高遠美咲。
彼女が、確固たる殺意を持って、二人を崖の淵から押し出したのだ。
蓮は落下する刹那、結衣の腕を必死に掴んだ。だが、激しい雨のせいで手元が滑り、彼女の細い指先は、無情にも蓮の手をすり抜けていった。蓮の頭部が崖の岩肌に激突し、意識が暗黒へと没する直前、視界の隅に映ったのは、崖の上から冷たい目で見下ろす美咲の顔と、彼女の足元に転がっていた、結衣のあの万年筆の姿だった。
「……思い出した」
蓮は掴んでいた美咲の手首を、骨がきしむほどの強さで握りしめた。
「美咲。三年前、結衣を突き落としたのは……そして、僕を巻き添えにして殺そうとしたのは、君だ。君が、すべてを始めたんだ」
美咲の動きが止まった。彼女の顔から完全に笑みが消え、冷徹な殺人者の目が、蓮を真っ直ぐに見つめ返した。
「そうよ、蓮。私がやったわ。あの女がすべて悪いのよ。私の完璧な人生を、あんなゴミみたいな正義感で汚そうとしたから。……でもね、今それを責めて何になるの? ほら、ガスがここまで来てるわよ。死にたくないなら、私と一緒にこのジジイを痛めつけて、脱出路を吐かせなさいよ!」
周囲の空気が、いよいよガスの臭気で満たされていく。
記憶のすべてを取り戻した蓮の前に、三年前の真実と、今迫りくる死のタイムリミットが、残酷な現実として突きつけられていた。
「三年前の真実を思い出したところで、今ここから出られなければ全員ただの死体よ!」
高遠美咲の鋭い叫び声が、ガスの臭気が濃くなりつつある地下通路に響き渡った。彼女は手にした真鍮のペーパーナイフを構えたまま、冷酷な目で床の阿澄(執事の森)を見下ろしている。大野は恐怖のあまり頭を抱えて座り込み、藤井は排水溝の奥に落ちたリモコンをなんとか取り出せないかと、鉄格子に何度も手を突っ込んでは腕を擦りむいていた。
神崎蓮は、激しい頭痛の残るこめかみを押さえながら、立ち上がった。すべての記憶が戻った今、蓮の脳細胞は驚くほどクリアに、この館で起きた「二つの殺人」の違和感を結びつけ始めていた。
「待つんだ、美咲。阿澄さんを痛めつけたって脱出路の鍵は出てこない。なぜなら……この地下通路の先にあるはずの出口の鍵は、最初から開いているからだ」
蓮のその言葉に、美咲だけでなく、泣き叫んでいた香織や藤井までもが動きを止めた。
「何言ってるのよ、蓮。あの男は私たちを閉じ込めて焼き殺す気なのよ? 出口の鍵を開けておくわけがないじゃない」
香織が信じられないというように声を震わせる。
「いいえ、開いているはずです」蓮はスマートフォンのライトを阿澄の顔へと向けた。「阿澄さん、あなたの計画は完璧だった。でも、一つだけ計算違いがあった。それは、僕が最初の事件のときから、あなたの『死体』に不自然な違和感を抱いていたことです。それが、この密室トリックのすべてを解き明かす鍵(綻び)だったんですよ」
阿澄は口元の血を拭いもせず、ただ静かに蓮を睨み返した。
「第一の事件――あなたが食堂の床で胸を刺されて倒れていたとき、館は完全に停電していました。僕はライトであなたの死体と、壁の血文字を確認した。あのとき、木下は二階の部屋にいて、その後血のついた包丁を持ってロビーに現れた。だから大野たちは、木下があなたを殺して電気を切ったと思い込んだ」
蓮は一歩、阿澄へと近づく。
「でも、おかしいんです。木下が持っていたのは厨房の大きな牛刀だった。なのに、あなたの胸に突き刺さっていたのは、細くて鋭利なナイフだった。さらに、木下の包丁についていた血の量は、あなたの『血の海』に対してあまりにも少なすぎた。まるで、後から誰かに塗りつけられたように」
「それは……木下が嘘をついて、凶器を持ち替えたんじゃないの?」藤井が尋ねる。
「違う。木下は誰も殺していない。木下は最初の停電のとき、二階の部屋ではなく、すでにこの物置に呼び出されて、あなたにその『細いナイフ』で刺されていたんだ。木下がロビーに現れたとき、彼はすでに致命傷を負って意識が朦朧としていた。だから『結衣を見た』とうわ言を言っていたんだ。彼は凶器を持って現れたんじゃない。自分を襲った犯人から身を守るために、厨房から包丁を持ち出して防衛しようとしていたんだよ」
蓮の指摘に、通路の空気が一変した。
「つまり、あなたが食堂で死んだふりをしていたとき、木下はすでにこの物置で死にかけていた。美咲が『危険だから木下を物置に閉じ込めましょう』と提案して鍵をかけたとき、美咲が閉じ込めたのは、犯人ではなく『すでにあなたに刺されて死に瀕している被害者』だったんだ。その後、僕たちが二階の香織の部屋へ万年筆を見に上がった隙に、あなたは食堂の床から起き上がり、この隠し通路を使って物置に入り、まだ息のあった木下にトドメを刺した。そして再び隠し通路からこの地下へ降りたんだ」
「なんてこと……」
大野が絶望の声を漏らす。
「じゃあ、最初から物置の密室なんてなかったんだ。僕たちが勝手に、生きている木下を閉じ込めたと思い込んでいただけなんだ……」
「その通り。美咲がずっと鍵を持っていた物置は、最初から『中に入った人間が死体になるように仕組まれた箱』だった。これが、あなたが仕掛けた密室トリックの正体だ。そして、自分の死を偽装するためにプロテクターと偽物の血を使ったあなたなら、この地下通路の先にある出口をわざわざ施錠して、自分自身の退路を断つような真似はしない。ガスの充填が完了する前に、あなた自身もここから脱出する予定だったはずだ」
蓮の推理が完全に終わった瞬間、阿澄の顔から余裕の笑みが消え失せた。彼は万年筆を強く握りしめ、低く狂おしい声で笑い始めた。
「素晴らしい……。素晴らしいですよ、神崎様。娘の言った通り、あなたは本当に聡明だ。確かに、この通路の先にある海岸への脱出扉は、施錠していません。自動でガスが爆発する前に、私はここを出るつもりでした。ですが……」
阿澄は床に転がっていた懐中電灯を掴み、通路の奥へと力強く投げ捨てた。
「その扉へ行くことは、私が許しません。ここで私と揉み合っているうちに、ガスは満ちる。全員で、結衣の元へ行きましょう!」
阿澄が猛然と立ち上がり、ペーパーナイフを持った美咲へと掴みかかった。
「美咲様、まずはあなたからだ!」
「来るな、このジジイ!」
美咲がナイフを振り下ろす。廊下に激しい肉体衝突の音が響き渡り、五人と一人の最後の死闘が、充填されるガスの霧の中で始まった。
「来ないで! 近づかないで!」
高遠美咲の悲鳴が、ガスの臭気が立ち込める地下通路に木霊した。美咲はなりふり構わず真鍮のペーパーナイフを振り回したが、執念の塊となった阿澄の突進を止めることはできなかった。老人の体躯とは思えない力で美咲を壁へと押しつけ、その首に太い指先を食い込ませる。
「美咲様……あなたさえ、あなたさえいなければ、結衣は今も私の隣で笑っていたはずだ!」
阿澄の目は血走り、涙と怒りで顔を酷く歪ませていた。美咲は顔を真っ赤に染め、喘ぎながら蓮たちに助けを求める視線を送る。
「藤井、大野! 突っ立ってないで阿澄さんを引き離すんだ! このままじゃ二人ともガスで窒息するか、刺し違えて死ぬぞ!」
神崎蓮が叫び、真っ先に二人の元へと駆け寄って阿澄の強靭な腕を掴んだ。遅れて藤井と大野も、恐怖を振り切るようにして阿澄の身体を後ろから羽交い締めにした。
「放せ! 放してくれ、神崎様! この女だけは、私の手で裁かねばならんのだ!」
男三人で引っ張って、ようやく阿澄の身体が美咲から引き離された。美咲はその場に激しく咳き込みながら崩れ落ち、喉元を押さえて荒い呼吸を繰り返している。
「阿澄さん、落ち着いてくれ」蓮は阿澄の前に立ちはだかり、真っ直ぐにその目を見つめた。「美咲の罪は重い。でも、あなたがここで彼女を殺して爆発に巻き込めば、三年前の事件は永遠に『嵐の夜の大量殺人事件』という悲劇として片付けられてしまう。あなたが本当に暴くべきは、彼女たちの背後にある、あの巨大な隠蔽工作じゃないのか!」
「隠蔽工作……だと?」
藤井が、懐中電灯の光を震わせながら蓮を見た。
「そうだ。記憶が完全に戻って、すべてのパズルが繋がった」蓮は美咲を見下ろし、冷徹なトーンで言葉を紡いだ。
「三年前、結衣が崖から落ちた後、君たちはただの『学生の保身』で口裏を合わせたわけじゃない。そうだろう、美咲? 君の父親が経営する『高遠建設』と、香織の実家である『西園寺財閥』。この二つの巨大な組織が、最初から裏で糸を引いていたんだ」
西園寺香織がハッと息を呑み、自身の口を手で覆った。
「結衣のお父さんが開発したあの特殊金属加工の特許技術は、次世代の航空宇宙産業を根底から覆すほどの価値があった。高遠建設はそれを自社の独占技術として偽装し、西園寺財閥からの巨額の出資を取り付ける材料にしようとしていたんだ。ゼミの教授はそのパイプ役であり、莫大な研究費を受け取る見返りに、結衣の父親のデータを盗用して僕たちのゼミの実績に書き換えた。……つまり、三年前の事件の真の動機は、学生の推薦内定なんかじゃない。数百億円が動く、巨大な企業犯罪だったんだよ」
地下通路に、ガスの流れる不気味な音だけが響く。
「結衣はその全貌に気づいていた。だから学会だけでなく、マスコミにも同時に告発しようとしていた。それに気づいた高遠建設と西園寺財閥の幹部たちは、娘である美咲と香織に『何としてでもあの島で告発を止めろ。書類を回収しろ』と命じた。……違いますか、美咲?」
美咲はゆっくりと立ち上がり、乱れた髪の隙間から、冷え切った笑みを蓮に向けた。
「……そこまで思い出したのね、蓮。ええ、その通りよ。私の就職なんて小さな話じゃない。もし結衣の告発が成功していれば、高遠建設は株価が大暴落して倒産し、私の家族は全員路頭に迷うところだったわ。だから私は、あの崖の上で結衣を突き落とした。我が家を守るために、当然の権利を行使しただけよ! その後、パニックになった藤井や大野を脅して口裏を合わせさせ、パパの息がかかった警察の幹部に手を回して、すべてを『不慮の事故』として処理させたの。完璧な処理だったわ。……あなたさえ、余計な記憶を取り戻さなければね!」
美咲の口から放たれた言葉は、何一つ自身の罪を反省していない、恐るべきエゴの証明だった。
「お前たち……お前たちが、結衣を、我が家をそこまで蹂躙していたのか……!」
阿澄の身体が、怒りのあまり怒涛のように震え始めた。彼は藤井たちの拘束を驚異的な力で振りほどくと、タキシードの内ポケットから、これまで隠し持っていた「もう一つの凶器」を素早く引き抜いた。
それは、細いナイフではなかった。
鈍い黒光りを放つ、モデルガンを違法に改造した、本物の「実弾銃」だった。
「ひっ……!」
大野が悲鳴を上げて床を転がる。
阿澄は狂気と絶望が入り混じった目で、銃口を真っ直ぐに美咲の胸元へと向けた。
「やはり、言葉での告解など無意味だった。お前たちは、生かしておいてはならない悪魔だ。美咲様……死を以て、娘に詫びなさい!」
阿澄の指が、引き金へと掛けられる。
「危ない!」
蓮は本能的に身体を動かし、美咲の身体を横へと強く突き飛ばした。
ズドォン!!!
狭い地下通路に響き渡った爆音は、五人の鼓膜を容赦なく震わせ、一時的な静寂を生み出した。放たれた弾丸は、蓮が突き飛ばした美咲のわずか数センチ横をすり抜け、背後のコンクリート壁を派手に穿っていた。飛び散った火花と削られた石の粉が、ガスの臭気と混ざり合って白く煙っている。
「う、あ……」
美咲は床に激しく打ち付けられた身体を押さえながら、信じられないという目で蓮、そして銃を構える阿澄を見つめていた。彼女のあの冷徹なまでのプライドは、本物の死線を前にして、ついに完全に崩壊していた。
「神崎様……なぜ、なぜその女を庇うのです!」
阿澄の叫び声は、悲痛な涙に濡れていた。震える銃口は、未だ美咲に向けられたままだ。シリンダーから立ち上る硝煙の匂いが、通路内の緊張感をさらに最悪のレベルへと押し上げていた。
「庇ったんじゃない、あなたを人殺しにさせたくなかったんだ!」
蓮は立ち上がり、阿澄の銃口の前に自らの身体を晒した。
「阿澄さん、あなたがここで美咲を撃ち殺せば、あなたは三年前の彼女たちと全く同じ、ただのエゴに塗れた殺人者になってしまう! 結衣が命をかけて守ろうとした、あなたの『職人としての誇り』を、あなた自身の泥だらけの手で完全に叩き潰すことになるんだ!」
「結衣が……守ろうとしただと……?」
阿澄の手首が、微かに揺れた。
「そうだ! 記憶が戻って、僕は結衣が崖の上で叫んでいた言葉をはっきりと思い出した!」蓮は一歩、阿澄へと近づき、必死に声を張り上げた。
「彼女は美咲たちに脅されているとき、こう言ったんだ。『お父さんの技術は、世界の人を幸せにするために作ったものよ。あなたたちの個人的な欲のために汚させない!』って。彼女が本当に守りたかったのは、技術の権利なんかじゃない。あなたという父親の、職人としての生き様と、その誇りだったんだよ!」
阿澄の目から、大粒の涙が溢れ出し、床の泥へと落ちていった。
「結衣……、お前は、そんなことのために……」
「あなたがここで僕たちを巻き添えにして爆発を起こせば、世間はこれを『気性の荒い元職人が起こした、凄惨な復讐殺人』として片付けるでしょう。高遠建設や西園寺財閥の企業犯罪の真実は、爆発の炎の中にすべて揉み消されてしまう! それで本当にいいのか!」
蓮の決死の説得が、阿澄の凍りついた心を激しく揺さぶっていた。
だが、そのとき。
「ふ、ふふ……。あははははは!」
床に倒れていた美咲が、突如として狂ったような笑い声を上げた。彼女は衣服の泥を払うこともせず、髪を振り乱したまま立ち上がった。その瞳には、完全な狂気が宿っていた。
「綺麗事言わないでよ、蓮! 真実なんて、暴かれたってどうにもならないのよ! どうせ私の人生は、三年前のことがバレた時点で全部おしまい! だったら、このジジイも、お前たちも、全員ここで一緒に死ねばいいじゃない!」
美咲はいつの間にか、床に落ちていたあの真鍮のペーパーナイフを再び握りしめていた。そして、泣き崩れている阿澄に向かって、猛然と突進した。彼女の目的は、阿澄の手から銃、あるいは隠し持っているかもしれない「ガスの停止スイッチ」を奪うことだった。
「美咲、やめろ!」
藤井が止めようと手を伸ばしたが、狂乱した美咲の勢いは凄まじく、阿澄の身体へと激しく体当たりを食らわせた。
二人の身体が再びもつれ合い、壁に激突したその瞬間。
カチリ、という不吉な硬い音が、地下通路の奥深くから響いた。
それは、阿澄の仕掛けたタイマーシステムが、最終段階に達したことを告げるリレーの作動音だった。
「充填が完了した……。自動点火の火花が散るぞ!」
大野が絶叫した。
「走れ! 奥へ走るんだ!」
蓮は叫び、座り込んでいた香織の腕を強引に引っ張り上げて走り出した。大野と藤井もそれに続く。
背後では、阿澄の「結衣、今行くぞ」という静かな声と、美咲の狂ったような悲鳴が重なり合っていた。
蓮たちは真っ暗な地下通路を、スマートフォンのライトだけを頼りに全力で疾走した。足元はぬかるみ、何度も転びそうになりながらも、ただ前へと足を動かし続けた。背後から押し寄せてくるプロパンガスの濃密な臭気が、死の足音のように彼らの背中を追いかけてくる。
やがて、通路の最奥に、阿澄が言っていた通りの「古い木製の扉」が見えた。
蓮が体当たりをするように扉を押すと、それはあっけなく外側へと開き、五人の身体は嵐の吹き荒れる霧影島の海岸へと放り出された。
激しい雨が、蓮の顔を容赦なく叩く。しかし、生きているという実感が、冷たい雨水を通じて全身へと染み渡っていった。
その直後だった。
ドガァァァァァン!!!
背後の洋館「霧影館」の地下から、大地を揺るがすような大爆発の轟音が炸裂した。
館の窓を覆っていた鉄板が吹き飛び、大正期の美しいレンガ造りの洋館は、内部からの凄まじい紅蓮の炎によって、一瞬にして巨大な火の玉へと変貌していった。嵐の暴風雨のなか、激しく燃え盛る霧影館の姿を、蓮たちはただ茫然と見つめることしかできなかった。
紅蓮の炎が、十月の嵐の夜を真っ赤に染め上げていた。
切り立った崖の頂に佇んでいた「霧影館」は、内部から湧き出したプロパンガスの爆発エネルギーによって、大正期から積み上げられてきた歴史のすべてを瓦礫へと変えつつあった。ドガァン、という地鳴りのような重低音が響くたび、吹き飛んだ鉄板や木製の梁が、火の粉を撒き散らしながら漆黒の海へと次々に落下していく。激しい雨が容赦なく降り注いでいるというのに、その熱量は衰えることを知らず、まるで三年間闇に葬られていた阿澄結衣の怨念がすべて具現化したかのような、凄まじい咆哮を上げ続けていた。
館の窓を覆っていた厚い鉄板は、爆風によって無残にねじ曲がり、引き剥がされて崖下の岩肌に激突した。レンガの壁は内側からの高熱によって赤黒く変色し、次々と崩落していく。その凄まじい破壊の光景は、人間の力の小ささと、積もり積もった復讐の執念の凄まじさを、生き残った者たちの脳裏に焼き付けるには十分すぎるものだった。
神崎蓮(かんざき れん)は、泥まみれの海岸の岩場に膝をついたまま、その光景をただ茫然と見つめていた。衣服は激しい雨と泥によって完全に汚れ、体温は急速に奪われていたが、目の前の熱風のせいで感覚が麻痺していた。
すぐ傍らでは、藤井が頭を抱えて激しく咽び泣き、その涙は雨水と混ざり合って顎から滴り落ちていた。
「俺たちのせいだ……。俺たちが、三年前、あのときにちゃんと警察に本当のことを言っていれば、木下も、森さんも……美咲だって、死なさずに済んだんだ……!」
大野は精根尽き果てたように大の字に寝転がって、天を仰ぎながら冷たい雨を顔に浴びていた。その瞳からは完全に生気が失われ、ただ激しく上下する胸だけが、彼がまだ生きていることを示していた。
西園寺香織は、自身の高価なドレスが引き裂かれ、泥に塗れていることすら気にする余裕もなく、ただただ燃え盛る館を見つめて虚ろな目を剥いていた。彼女の完璧だったはずのプライドは、霧影館の崩壊とともに完全に灰へと帰したのだ。
誰も助からなかった。
あの地下通路の奥底で、最後の最後まで自身の狂気に縛られ、技術の隠蔽のために阿澄へと掴みかかっていった高遠美咲。彼女の脳裏にあったのは、崩壊していく自らの未来と、実家である高遠建設という砂上の楼閣を守ることだけだったのだろう。そして、娘の復讐という名の悲しい檻に囚われ、自ら点火のスイッチが迫る館に残り続けた阿澄。二人の身体は、あの爆発の炎の中に一瞬にして呑み込まれ、今や骨の一片すら見つけ出すことは不可能だろう。
復讐の連鎖がもたらした結末は、あまりにも虚しく、そして残酷だった。
蓮は、ポケットの中で冷たくなっている一本の古びた万年筆に触れた。阿澄が最後に床から拾い上げ、そして地下での乱闘の最中、蓮の足元に転がってきた阿澄結衣の形見――。それが、あの館から蓮が持ち出すことのできた、唯一の「真実」の証明だった。
翌朝。
大型の台風は急速に温帯低気圧へと変わり、霧影島の周囲を包んでいた重苦しい雨雲は、嘘のように東の空へと去っていった。水平線から昇る十月の柔らかな朝光が、静まり返った海面をキラキラと黄金色に照らし出している。その光の中に、数隻の大型の船影が現れた。本土の海上保安庁、および東都県警の臨検船だった。
港に降り立った警察官たちに対し、蓮、藤井、大野、香織の四人は、もはや何も隠そうとはしなかった。疲れ果て、泥と血にまみれた彼らの姿は、誰の目から見ても「単なる嵐の遭難者」ではなかった。四人は別々の捜査艇に乗せられ、本土の警察署へと連行された。船が島を離れる間、蓮は甲板から、煙だけをうっすらと上げる崖の上の黒い焼け跡を見つめていた。霧影館は消えた。しかし、彼らの胸に刻まれた罪の烙印は、これから一生消えることはない。
二週間後。東都警察署の取調室。
灰色に塗装された無機質な部屋のなかで、蓮は若い刑事と一対一で向き合っていた。壁にかかった時計の秒針がチクタクと規則正しい音を立て、部屋の閉塞感を際立たせている。机の上には、蓮が提出した結衣の万年筆と、三年前のゼミの集合写真、そして蓮の完全な記憶に基づく詳細な供述調書が山のように積み上げられていた。
「神崎さん、あなたの詳細な供述、そして藤井被告、大野被告の全面的な自白により、三年前の阿澄結衣さんの死亡事件は『不慮の事故』から『高遠美咲による傷害致死、および複数人による組織的な脅迫・証拠隠滅事件』へと容疑が完全に切り替わりました」
刑事はペンを置き、真摯な目で蓮を見つめた。その眼差しには、事件の凄惨さに対する驚きと、真実を暴いた蓮への敬意が混ざり合っていた。
「さらに、あなたが指摘した『高遠建設』と『西園寺財閥』による特許技術の不正取得についてですが……。これはもはや、一大学のゼミの枠を超えた巨大な企業犯罪として、東京地検特捜部が本格的に令状を執行しました。今朝、ゼミの担当教授の自宅および大学の研究室から、阿澄さんの父親が開発した特殊金属加工の生データと、それをゼミの実績にすり替えるための裏取引のメモ、および多額の賄賂の出入金記録が押収されたそうです」
蓮は深く息を吐き、椅子の背もたれに身体を預けた。視線を落とすと、机の上の万年筆が微かに光を反射していた。
「そうですか……。ようやく、あの技術が、命をかけて守ろうとした本物の開発者の元へ返るのですね」
「ええ。高遠建設の現社長(美咲の父親)は、金融商品取引法違反と詐欺、および贈賄の容疑で逮捕されました。西園寺財閥についても、巨額の不正資金の流れが解明されつつあり、株価は連日ストップ安を記録しています。西園寺香織さんについても、遺品等横領の罪に加え、三年前の事件の組織的な隠蔽工作への深い関与が認められ、近く正式に起訴される見込みです。彼女の弁護団は執行猶予を勝ち取ろうと必死のようですが、世論の批判も強く、実刑判決は免れないでしょう」
刑事の言葉を聞きながら、蓮は胸の奥のつかえが、少しずつ、しかし確実に取れていくのを感じていた。美咲の父親も、香織の家族も、巨大な権力と金を使ってすべてを闇に葬り去った気になっていた。だが、一人の父親の狂気的な執念と、失われた蓮の記憶、そして何より結衣が最期まで手放さなかった万年筆という小さなリンクが、数百億円規模の企業犯罪を完全に白日の下に晒したのだ。
「神崎さん、あなたについては、三年前の事件当時は不正取得の計画から完全に排除されており、崖の上でも結衣さんを助けようとしていたことが複数の証言から立証されました。証拠隠滅の口裏合わせについても、記憶喪失という不可抗力があったため、刑事責任を問われることは一切ありません。大学側も、あなたの卒業資格については有効とする方針です。……ただ、辛いでしょうが、これからがあなたの本当の戦いです。生き残った者として、この真実とどう向き合っていくか」
刑事の言葉は重かった。
「分かっています」
蓮は立ち上がり、刑事に深く一礼した。
「僕は、生き残ってしまった。結衣の分まで、そして、僕を殺しようとした美咲の罪までも背負って、これから生きていかなければならない。それが、僕に課せられた本当の精算だと思っています」
それからさらに半年が経過した、二〇二七年の春。
四月の柔らかな風が、東都大学のキャンパスに咲き誇る桜の花びらを激しく散らせていた。白や薄紅色の花びらが、舗装された並木道を雪のように覆い尽くしていく。その中を、真新しいスーツや華やかな衣服に身を包んだ新入生たちが、未来への希望に満ちた笑顔で、サークルの勧誘活動やオリエンテーションへと行き交っていた。
その喧騒から少し離れた並木道の端を、神崎蓮は一人、静かに歩みを進めていた。
卒業式は先月終わっていた。蓮は事件への関与がないことが完全に証明されたため、無事に卒業資格を得たが、華やかな式典の場には出席しなかった。今の彼にとって、大学という場所はただの学び舎ではなく、失われた記憶と、そこに隠されていたあまりにも重い「罪」の象徴でもあったからだ。
ゼミの仲間たちのその後は、それぞれの罪の重さに応じて、残酷なほど明確に分かれていた。
藤井、大野、香織の三人は当然ながら、事件の発覚直後に大学を退学処分となっていた。
藤井は、三年前の事件で結衣を崖の上まで追い詰めた主犯格の一人として起訴されたが、警察への自白と深い反省の態度が認められ、執行猶予付きの有罪判決が下った。彼は現在、地方の実家に戻り、社会の片隅で静かにやり直しの道を模索している。数か月前、彼から蓮の元に届いた手紙には、ただ一言『蓮、生きていてくれてありがとう。俺は一生、自分のしたことから目を背けない』と、震える文字で書かれていた。
大野は、極限状態の恐怖と罪悪感から精神を酷く病んでしまい、裁判は一時停止されている。現在は医療刑務所に隣接する専門の病院で、今も嵐の夜の幻影に怯えながら、長い治療生活を送っているという。彼が正気を取り戻し、自らの罪と向き合える日がいつ来るのかは、誰にも分からなかった。
そして、財閥の令嬢だった西園寺香織の末路は、最も悲惨なものだった。
実家である西園寺財閥は、東京地検特捜部による巨額の不正資金ルートの解明と、特許盗用のスキャンダルによって連日メディアから猛バッシングを受け、株価が大暴落。数多くの関連企業が連鎖倒産し、財閥は事実上の解体へと追い込まれた。香織自身も、三年前の遺品横領罪および組織的な隠蔽工作への深い関与が認められ、執行猶予なしの禁錮刑という実刑判決が下った。面会に訪れた弁護士の話によれば、かつての傲慢な美貌は見る影もなくやつれ、今は塀の中で、誰とも口を利かずにただ虚空を見つめるだけの日々を送っているという。
そして、すべての発端であり、結衣を直接崖から突き落とした高遠美咲にいたっては、被疑者死亡のまま書類送検され、彼女の父親が経営していた高遠建設もまた、巨額の贈賄容疑で倒産した。彼女たちが何よりも守りたかったはずの「完璧な人生」と「巨大な看板」は、強欲という名の一滴の毒によって、跡形もなく崩壊したのだ。
蓮は、キャンパスの最奥に位置する、古い煉瓦造りの建物へと足を踏み入れた。
かつて彼らが所属していた、犯罪心理学ゼミナールの研究室。
担当教授が逮捕され、ゼミ生たちの不祥事が公になったことで、この研究室は今学期を以て完全に閉鎖されることが決まっていた。
部屋の重い木製の扉を開けると、そこにはもう、かつての面影は何も残っていなかった。
壁際に並んでいた膨大な心理学の洋書や、三年前の先輩たちが残した論文資料は、すべて警察の押収品として、あるいは大学側の廃棄処分として段ボールに詰め込まれて運び出されていた。ガランとした広い室内の床には、窓から差し込む春のうららかな陽の光だけが、白く埃を照らし出している。
かつては、この部屋で夜遅くまで仲間たちと議論を交わし、くだらない冗談を言って笑い合い、将来の夢を熱く語り合っていた。そのすべての記憶が、今では偽りとエゴに塗れた、脆く儚い幻影のように思えてならなかった。
蓮は、かつて自分が座っていた窓際の席へと近づき、木製の机の表面をそっと撫でた。
ざらりとした感触とともに、当時の自分が退屈な講義の最中につけてしまった、小さな傷跡が指先に触れる。
(あの日……この場所で、結衣は確かに生きていたんだ)
視線を隣の席へと移すと、そこには結衣がいつも座っていた席があった。
彼女はいつも、お父さんから買ってもらったという古い万年筆を大切そうに握りしめ、教授の言葉を誰よりも熱心にノートに書き写していた。
『お父さんの技術はね、地味だけど本当にすごいの。いつか世界中の飛行機やロケットに使われて、たくさんの人を安全に運ぶんだから』
照れくさそうに、しかし誇らしげにそう語っていた彼女の真っ直ぐな瞳が、蓮の脳裏にありありと蘇る。
蓮は静かに椅子に腰掛け、鞄の中から、警察の鑑識から正式に返却された「あの万年筆」を取り出した。
島で回収されたときに付着していた泥や血は、警察の手によって綺麗に洗い流され、プラスチックの黒い軸は丁寧に磨かれていたが、激しい落下の衝撃でついた無数の深い傷跡だけはそのままだった。
陽の光にかざしてみると、ペンの側面に、不器用な手つきで『結衣へ』と刻まれた小さな刻印が、今でもはっきりと読み取れた。
それは、不器用な町工場の職人だった阿澄が、最愛の娘の入学祝いのために、なけなしの金を叩いて贈り、自らの手で刻んだ世界にたった一つの愛の証だった。この一本のペンが、三年の時を経て、巨大な企業犯罪を暴く最後の引き金となったのは、歴史の必然だったのかもしれない。
事件の後、阿澄結衣の遺作となった特殊金属加工の論文と技術データは、特許庁および文部科学省の厳格な再審査を経て、正式に「阿澄金属精工」の固有技術として再登録された。現在では、国内外の正当な航空宇宙メーカーとの間で正式なライセンス契約が進められており、結衣が夢見た通り、その技術は世界中の人々を安全に運ぶための翼へと形を変えようとしていた。
蓮は鞄から、新しく用意した一本の白い上質なノートを取り出し、机の上に静かに開いた。
そして、結衣の万年筆のキャップを外し、ゆっくりとペン先を紙へと走らせた。
三年間、一度も使われることのなかったペン先から、驚くほど滑らかに、鮮やかな青いインクが溢れ出てくる。それは、結衣がノートを取るときに好んで使っていた、特注のロイヤルブルーのインクだった。
『霧影館の告解――神崎蓮』
蓮は、あの日あの島で起きたことのすべて、そして三年前の崖の上での真実を、自らの言葉で一文字の妥協もなく正確に記録し、一冊の手記にすることを決めていた。それが、亡くなった結衣と阿澄に対する、唯一の贖罪であり、世間に対する本当の告発になると信じたからだ。筆を進める蓮の手は、もう震えていなかった。
第一章、嵐の招待状から書き始める。記憶を失っていたときの自分の不安、黒い封筒が届いたときの恐怖。そして、船に揺られて霧影島へと向かう仲間たちの、異常なまでの怯え。それらの描写を、蓮は脳裏に焼き付いた記憶のアルバムから一枚ずつ丁寧に取り出すように、文章へと落とし込んでいった。
第二章、執事の森の死体と密室の猜疑心。お互いを疑い、狂気に駆られていく藤井や大野の心理状態。第三章、香織の部屋から見つかった万年筆。第四章、美咲の冷酷な告白。第五章、充填されるガスと地下通路への脱出。第六章、完全なる記憶の覚醒。第七章、密室トリックの解明。第八章、三年前の企業犯罪の全貌。第九章、館の大爆発と脱出。すべての章の出来事が、蓮のペンを通じて、生々しいリアリティを持って紙の上へと再現されていく。
文字を書き進めるうちに、研究室の室温が少しずつ下がっていくような錯覚に囚われた。耳の奥で、あの霧影館を揺るがしていた大嵐の音が、幻聴となって響き渡る。激しい雷鳴、窓ガラスを叩く雨の音、そして床の通気口から吹き出してくるガスの不快な臭気。蓮は何度もペンを止め、深く息を吸い込んだ。胸が苦しくなり、あの日負った頭部の傷がずきずきと痛むこともあった。だが、ここで書くのをやめてしまえば、また真実は霧の向こうへと消えてしまう。結衣が命をかけて守ろうとしたもの、あるいは阿澄が自らの人生を投げ打ってまで暴こうとしたものを、自分が形にしなければならない。その強い使命感が、蓮の背中を押し続けた。
手記の最後、第十章の執筆に差し掛かったとき、窓の外の陽の光は完全に傾き、キャンパスは美しい夕焼けに包まれていた。オレンジ色の光が研究室の床を長く照らし、蓮の持つ万年筆の影を机の上に引き伸ばしていた。
蓮は最後の行に、これからの自らの生き方を刻み込んだ。
『私たちは、過去から逃れることはできない。犯した罪は、どれほど時間が経とうとも、どれほど権力で隠蔽しようとも、必ず形を変えて目の前に現れる。だが、真実と向き合い、それを背負って生きる覚醒があるならば、人間は新しい一歩を踏み出すことができるはずだ。結衣、あなたのお父さんの技術は、今、本物の光を浴びています。どうか、安らかに眠ってください』
最後のピリオドを打ち終えた瞬間、蓮は長年胸を支配していた重い呪縛から、本当の意味で解放されたような気がした。
「蓮くん、ありがとう」
ふと、開け放たれた窓から吹き込んできた、春の温かい風のなかに、あの優しく物静かな少女の声が混ざり合ったような気がして、蓮はペンを止め、ハッと振り返った。
もちろん、そこには誰もいない。ただ、満開の桜の花びらが、ひらひらと窓から室内へと舞い込み、誰もいない研究室の机の上に静かに着地しただけだった。
だが、蓮の心の中にあった、あの冷たく重い「白い霧」は、もう完全に晴れ渡っていた。胸の奥を締め付けていたあの激しい頭痛は、もう二度と起こることはないだろう。失われた記憶の向こう側で、結衣は確かに、あの日と同じように笑っていた。その笑顔を胸に、これからの人生を誠実に、一歩ずつ、自らの足で歩んでいく。
蓮は万年筆を愛おしそうにポケットへと収め、ノートを閉じると、夕暮れの光が満ちる研究室を後にした。開け放たれた窓の向こうには、霧一つない、どこまでも澄み切った青い空が広がっていた。
(長編ミステリー小説『霧影館の告解』―― 完…?)
パァン!!!!
鼓膜を、脳髄を直接突き破るような爆音が、犯罪心理学ゼミナールの研究室に鳴り響いた。
「え……?」
蓮の手から、結衣の万年筆が滑り落ちる。机の上に開かれたノートに、ロイヤルブルーのインクが大きなシミを作っていく。
痛みを認識するよりも先に、視界が急速に赤く染まっていった。胸元に手を当てると、温かい液体が溢れ出している。
なぜだ。なぜ、誰もいないはずの研究室に、黒いスーツを着た見知らぬ男が立っている? その手にある、硝煙を上げる銃口は、真っ直ぐに僕を捉えていた。
「神崎蓮、一件落着だ」
男は感情のない声で無線に呟くと、僕の机の上から、書きかけの手記のノートを冷酷に奪い去った。
ああ、そうか。
僕たちは、気づいていながら目を背けていたんだ。
高遠建設や西園寺財閥という、国家をも動かす巨大な『組織』の闇に。
美咲や香織は、ただの組織の「末端」に過ぎなかった。その末端が暴走し、特許技術の盗用が世間に露呈しそうになったから、組織は霧影館の事件を利用した。美咲も、木下も、あの館で死んだように見せかけて、実は組織の手で別の場所に監禁され、情報のすべてを搾り取られていたんだ。
そして今日、二〇二七年。
裁判が始まり、すべてを公にしようとした僕たち生存者も、用済みの死体も、一斉に「処理」された。
藤井も、大野も、香織も……今、日本のどこかで、僕と全く同じ瞬間に頭を撃ち抜かれているのだろう。
なんで……死んで……。
視界が真っ黒に反転していく。
結衣の万年筆が、床に落ちて転がる音が遠くで聞こえた。
僕たちが暴いたと思っていた真実は、すべて巨大な組織の手のひらの上で転がされていた、ただの「おままごと」だったのだ。
真実を書き残すはずだったノートは奪われ、僕たちの存在は、明日になれば「組織による同時多発暗殺事件」という、謎に包まれたニュースの数字として処理される。
意識が完全に途絶える寸前、蓮の脳裏に、あの霧影島の激しい雨の音が、再び激しく響き渡っていた。
<二〇二七年◯月×日、神崎 蓮、高遠 美咲、西園寺 香織、藤井 翔太、大野 雄大、木下 健太。銃による死亡を確認。ほぼ同時刻であることから組織での犯行であると捉えることができる>
(長編ミステリー小説『霧影館の告解』―― 完)
ジャンル:ミステリー
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目次
- 1......君に幻覚を。
- 2......████の気候
- 3......超特急シニアの裏側
- 4......戦争
- 5......増殖。
- 6......霧影館の告解