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超特急シニアの裏側
東京駅23番線ホーム。
金属質の鋭いノーズを持つ新型ハイパーリニア『シン・ツバメ』が、微かな駆動音を響かせて滑り込んできた。時速三百キロの世界を約束するその車体は、現代日本の最高技術の結晶だ。
「おい見ろよ、あれが噂の……」
「今日の乗客、政財界の超VIPばかりらしいぜ」
ホームを隔てるガラス越しの群衆が、物珍しそうにスマートフォンを掲げている。招待された一握りの特権階級しか乗ることを許されない、完全予約制のファーストラン。
その喧騒から少し離れた乗車口に、一人の男が立っていた。
氷室 駿(ひむろ しゅん)。
周囲の仕立ての良いスーツや高級ブランドに身を包んだセレブたちの中で、彼のラフな黒のジップアップパーカーとジーンズは異様に浮いていた。手元にあるのは、闇のチェス賭博の元胴元から毟り取った、出所不明のプラチナチケットが一枚だけだ。
「お客様、チケットを拝見いたします」
にこやかに微笑む女性乗務員の胸元には、銀色のネームプレート。
『新藤(しんどう)』。
駿の切れ長い瞳が、彼女の顔と、その奥に見える車内の光景を捉えた。
——カシャ、と頭の中でシャッターが切れる音がする。
新藤。
身長一六二センチ。右の口角の横に小さなほくろ。
制服の第一ボタンの糸が、少しだけほつれている。
彼女の手元にある乗客名簿。上から四番目。『IT担当大臣・江藤(えとう)』。その横の座席番号は『1号車 2A』。
駿にとって、世界は常に「録画」されている状態だった。
一度見た文字、すれ違った人間の顔、空間の配置。そのすべてが、本人の意思に関わらず、消えないデータとして脳のハードディスクに書き込まれていく。
「……結構です。一号車へどうぞ、氷室様」
乗務員が頭を下げる。駿は何も言わず、ただ小さく頷いて車内へと足を踏み入れた。
自動運転システムによって完全に制御された、静寂に満ちた車内。
駿は通路を歩きながら、無意識に周囲の「データ」を脳内に蓄積させていく。
通路ですれ違った初老の男。左足を引きずっている。靴底の減り方は外側。
壁に貼られた緊急避難マニュアル。全四二行。フォントはゴシック体、十一ポイント。左下の配電盤のロックコードは『0418』。
すべてのデータが、彼の脳内で一瞬にして整理され、保管されていく。
一般人なら数分で忘れてしまうようなノイズのすべてが、駿の頭の中では「いつでも取り出せる武器」として整列していた。
窓際の席に深く腰掛け、駿は目を閉じた。
リニアが静かに加速を始める。時速、百キロ、二百キロ、そして三百キロへ。
これが、乗客全員の命を乗せた「終わりのないシミュレーション」の始まりだとは、この時の駿はまだ知る由もなかった。
「まもなく、本列車は最高速度に達します——」
車内アナウンスが響いたその直後。 ガガッ、とスピーカーから耳障りなノイズが走り、車内の照明が一斉に掻き消えた。
「キャッ!?」
「おい、なんだ!? 停電か!?」
車内が完全な闇に包まれた。
静寂だった空間が一瞬でパニックの波に飲まれる。非常用の予備電源が作動し、通路の足元だけが薄暗い赤色のライトで照らされた。時速三百キロの振動が、闇の中で不気味に肌に伝わってくる。
「……始まったか」
**氷室 駿(ひむろ しゅん)**は座席で微動だにせず、ただ静かに目を開けた。
彼の脳は、暗転した瞬間の周囲の動きをすでに完全にスキャンし終えていた。
電気が消える直前、通路を前方に歩いていた車掌の歩幅。悲鳴を上げた女性の位置。そして——一号車の前方、VIP個室の方向から聞こえた、鈍い「ゴトッ」という不自然な物音。
ピンポーン、と緊迫したチャイムが鳴り、車内モニターにノイズ混じりの映像が映し出された。
画面に現れたのは、不気味な**「チェスのナイト(騎士)」のマスク**をかぶった男だ。
『乗客の諸君、パニックにならずに聞いてほしい』
ボイスチェンジャーで変えられた機械的な声が、スピーカーから響く。
『この列車のAI運行システムは、我々が完全にハッキングした。現在、ブレーキを含むすべての手動制御は無効化されている。このままいけば、終点・大阪の車両基地の防護壁に時速三百キロで激突する。……おっと、緊急停車ボタンを押そうとしても無駄だ。配線はすでに焼き切ってある』
車内が悲鳴で満ちる。
『命が惜しければ、一時間以内に十億ドルを指定の口座へ振り込め。……それと、一号車のお客様には、すでに小さな「罰」を受けていただいた。身の程をわきまえさせるためのな。ハハハ……』
プツン、と映像が切れた。
乗客たちが泣き叫び、掴み合いの混乱が始まる中、駿は静かに席を立ち、一号車の最前方にあるVIP個室へと歩き出した。
個室の扉の前には、数人の乗務員と、SPらしき男たちが真っ青な顔で立ち尽くしている。
「開かない……! 電子ロックがハッキングされて完全にロックされている!」
「どけ」
駿は短く言い放ち、SPの男を押し退けて扉の前に立った。
「おい、一般人は下がって——」
駿は彼らの言葉を無視し、扉の横にある操作パネルのカバーを素手で引き剥がした。剥き出しになった電子基盤と、明滅するエラーランプ。
駿の脳裏に、乗車時にチラ見した『シン・ツバメ 構造マニュアル』のページが鮮明に浮かび上がる。全四二行、フォントは十一ポイント。左下の注釈。
——『システムダウン時、ドアの強制解放コードは中央基盤のディップスイッチを2、4、7の順にオンにする』。
駿は指先で正確にスイッチを弾いた。
プシュー、とエアーの抜ける音がして、重厚な扉がゆっくりと左右に開く。
中を覗き込んだ乗務員が、短い悲鳴を上げてへたり込んだ。
個室の豪華なシートに腰掛けたまま、IT担当大臣・江藤が首から血を流して絶命していた。
部屋の窓は完全に閉まっており、中から鍵がかかっていた「完全な密室」。
床には、犯人のものと思われる、返り血を浴びた**「チェスのナイト」のカード**がぽつんと落ちていた。
「う、嘘だろ……ハッキングされてからまだ三分しか経ってない。この密室で、一体誰が……」
怯える周囲をよそに、駿は冷徹な目で室内を見回した。
床に散らばった書類。大臣の首の切り口。そして、部屋の隅にある小さな空気清浄機のフィルター。
駿の頭の中で、乗車時に記憶した「すべての乗客のデータ」が超高速でパズルのように組み合わさっていく。
「三分じゃない」
駿がつぶやいた。
「大臣が殺されたのは、停電が起きる前……いや、この列車が東京駅を発車した直後だ。犯人は、最初からこの中にいる」
「発車直後だと……!? バカを言うな、停電の前に俺たちは何度もこの前を通ったが、不審な奴はいなかった!」
SPの男が駿の胸ぐらを掴みかけるが、駿はその手を冷たく払いのけた。
「お前の目はただ景色を映しているだけだ。脳を使って見ていない」
駿は個室の床に落ちている書類を指差した。
「江藤大臣が持っていたはずの『リニア運行システム仕様書』。全12ページあるはずの書類が、いま床に散らばっているのは7ページ目までだ。残りの5ページがどこにもない」
駿の脳内では、乗車時にすれ違った乗客全員の姿が、鮮明な映像として再生(プレイバック)されていた。
「東京駅のホームで、大臣のすぐ後ろを歩いていた男がいた。男は右手に大きなアタッシュケースを持っていたが、乗車後の座席ではそれを足元ではなく、不自然に膝の上に抱え込んでいた。……そのケースの厚みはちょうど8センチ。中身が空なら、そんな持ち方はしない」
駿の視線が、野次馬の中に混ざっていた一人の男を射抜く。
男の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
「新藤さん」
駿は近くにいた乗務員の女性を呼んだ。
「君が発車直後に淹れたコーヒーのトレイ。個室に運んだとき、江藤大臣はすでにサインを終えていたはずだ。だが、大臣の胸ポケットにある万年筆のキャップは閉まったままだ。つまり、サインをしたのは大臣本人じゃない。彼を殺し、書類を奪って、大臣になりすましてドアをロックした男——お前だ、国交省の随行員、佐藤」
「な、何を根拠に……!」
男が後ずさりする。
「お前の靴だよ」
駿は冷徹に言い放った。
「お前が乗車したとき、靴の先端にわずかな『油汚れ』がついていた。それはこのリニアの『手動隔離レバー』に使われている特殊な潤滑油だ。お前は乗車直後、すでに先頭車両の床下へ降り、緊急ブレーキの配線を物理的に焼き切っていた。ハッキングの演出は、ただの目眩ましだ」
「くそっ……!」
正体を暴かれた佐藤は、懐から小型のナイフを抜き放ち、乗客を押し退けて車両の奥へと走り出した。
「追え! 捕まえろ!」
SPたちが動き出すが、駿は彼らを見向きもせず、反対方向——暴走する列車の最前部、配電室へと走り出した。犯人を捕まえても、列車は止まらない。終点までのこり、わずか5分。
駿が走り出したその時、脳の奥深くが、ジリジリと奇妙な熱を帯び始めた。
……待て、何だこの感覚は
推理を完璧に組み立て、すべてのピースが噛み合った瞬間、頭の中に妙な高揚感が突き抜けた。まるで、あらかじめ用意されていた正解のルートを、自分の脳が正確にトレースさせられているような、奇妙な強制感。
耳の後ろの古傷が、狂ったように熱を持っていた。
駿はその違和感を振り払うように頭を振り、時速300キロで狂い暴れる列車の最前部へと足を進めた。
内部に潜む真の悪意が、自分の思考を覗き見しているとも知らずに。
リニアの最前部、高電圧の警告マークが貼られたハッチを開け、駿は狭い配電室へと滑り込んだ。
車内モニターのデジタル時計が非情にカウントダウンを刻んでいる。
大阪激突まで、あと3分。
「……これか」
中央の制御パネルは、犯人の手によってドロドロに焼き溶かされ、無数の導線が複雑に絡み合っていた。火花が散り、焦げた匂いが狭い部屋に充満する。
一般の技術者が見れば、どこから手をつければいいか完全に途方に暮れる惨状だ。
だが、駿は目を閉じた。
——脳の暗黒街から、一冊のデータが引き出される。
乗車直前、ホームのベンチで見知らぬ男が広げていた『シン・ツバメ 試作型配線図面』。
全800ページに及ぶ緻密な国家最高機密の回路図が、駿の脳裏に1ミリの歪みもなくプロットされる。
焼き切られているのは主電源。バイパスは……左から4番目の青の太線。いや、電圧が足りない。非常用制動装置を強制起動させるには、電力を120%過負荷させる必要がある。そのためには、運行システムのコア暗号を書き換えて安全リミッターを解除しなければならない
駿の指先が、緊急用端末のキーボードの上を猛烈な速度で走り始めた。
彼の驚異的な頭脳が、リニアの暗号鍵を次々と解読し、システムを強制掌握していく。
その瞬間、駿の耳の後ろの古傷が、焼火箸を押し当てられたかのような激痛に襲われた。
「が、あッ……!?」
脳が沸騰するような熱さ。視界が一瞬だけモノクロになり、時間がスローモーションになる。
駿の脳は、この時気づいていなかった。
彼がリニアの鉄壁のセキュリティ暗号を解き明かし、システムを完全に支配したその瞬間、彼の脳内に埋め込まれた非合法チップを通じて、その【暗号のマスターキー】と【リニアの全制御データ】が、外部のサーバーへとリアルタイムで高速転送されていたことに。
『ピーーーーーーーーーーーー』
耳の奥で、頭蓋骨を突き刺すような不気味な電子音が鳴り響く。
データの送信完了を告げる、組織のシステム音だった。
「残り、60秒……!」
痛みに耐え、駿は工具箱からプライヤーを掴み取り、火花が散る配線群の中に手を突っ込んだ。
時速300キロで激しく振動する車体。1ミリ手元が狂えば、数万ボルトの電流で即死する。
脳内の図面と、目の前の溶解した配線を重ね合わせる。
これだ。
駿は、黄色と赤の混ざった太い同軸ケーブルを掴み、力任せに引きちぎった。それを、高圧電流が流れるメイン基盤へと直接叩きつける。
「止まれッ!」
バチバチバチッ!! と激しい紫色の閃光が配電室を包んだ。
キィィィィィィィィィィッ!!! という、すさまじい金属摩擦音が響き、ハイパーリニア『シン・ツバメ』は、終着駅の防護壁まで残りわずか数メートルのところで、完全に停止した。
激しい呼吸を繰り返しながら、駿は床にへたり込んだ。
助かった。乗客の歓声が、壁を隔てた向こう側から微かに聞こえる。
しかし、駿の心臓は別の理由で激しく鳴り響いていた。
命を救ったはずなのに、胸を焦がすようなこの「敗北感」は何だ。
駿は震える指先で、自分の右耳の後ろに触れた。
そこには、硬く小さな、記憶にない「手術の縫い痕」が、熱を持ったまま確かに残されていた。
事件の翌日。
都内の寂れたビジネスホテルの客室で、駿はテレビのニュースを眺めていた。
『——昨日発生したハイパーリニア暴走テロ事件ですが、警察は国交省随行員の佐藤容疑者を逮捕。背後に国際的なテロ組織の関与があるとみて、捜査を進めています。また、乗客を救った命の恩人である「謎の青年」については、未だ行方が分かっておらず……』
アナウンサーの声を聞きながら、駿はベッドの縁に腰掛け、冷え切った缶コーヒーを口にした。
乗客たちの歓声に紛れ、事情聴取を受ける前に現場を去ったのは正解だった。下手に英雄扱いされれば、自分の過去を探られるリスクが高まる。
駿は右耳の後ろに指先を這わせた。
腫れは引いたが、あの時感じた脳の沸騰するような熱さと、耳の奥で響いた「ピー」という電子音の不快感だけが、今もべっとりとこびりついている。
「佐藤の靴の油汚れ、ホームで見知らぬ男が広げていた図面、都合よく手に入ったプラチナチケット……」
脳内の完全記憶から、今回の事件の全プロセスをリプレイする。
すべては自分がロジックで導き出した正解のはずだ。だが、まるで誰かが引いたレールの上を、自分の天才的な脳がただ走らされただけのような——そんな強烈な違和感が拭えなかった。
「……誰だ、俺を動かしているのは」
駿は静かに目を閉じ、次の「ノイズ」が訪れるのを待つように、深く息を吐き出した。
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同じ頃。都心の超高層ビルの最上階。
外界の光を遮断した漆黒のオフィスで、一人の男が大型モニターを見上げていた。
画面に映っているのは、リニアの配電室で髪を振り乱し、必死にキーボードを叩いている駿の防犯カメラ映像だ。
「実に見事だ、氷室駿」
男はワイングラスを揺らしながら、満足そうに目を細めた。
手元のタブレットには、駿がリニアのセキュリティを解除した瞬間に、彼の脳内チップを介して「ダウンロード」されたばかりの、国家最高機密データが並んでいる。
【ハイパーリニア運行システム:完全暗号鍵・統括権限:取得完了】
「日本の警察やセキュリティ会社が数年かけて作った鉄壁の防衛網も、君の脳にかかれば、わずか数分で解読される『最高の鍵』になる」
男がデスクのボタンを押すと、モニターの映像が切り替わった。
次に映し出されたのは、海の上に浮かぶ巨大な【最新鋭のハイテク豪華客船】の設計図だ。
「第一段階はクリアだ。さあ、次のステージへ進もう。次も君が『正義』のためにその天才的な頭脳をフル回転させてくれるのを、楽しみにしているよ……」
男の胸元には、鈍い銀色に光る**「チェスのナイト」のバッジ**がピン留めされていた。
【名前】📖【ヘビ】🐍
【作品に込めた思い】一般人が実は裏で暗躍していると言う設定は書くのが初めてなのでこだわらせていただきました。
【目指している賞】ミステリー賞