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茜色の約束、緋色の嘘(バッドエンド
「ななぁ、今日の受け持ち患者さんの情報収集、もう終わった?」
病院のラウンジに、拓実の少し眠そうな、だけど心地よく響く関西弁が広がる。 JO1のメンバーとしてステージに立つ彼とは違う、白い実習着に身を包んだ、私の大好きな「拓実くん」の姿。
「俺、昨日の夜バイタルサインの低下リスクについてアセスメントまとめてたら、完全に寝不足やわ……。でも、弱音吐いてられんもんな」
そう言って、彼は少しはにかむように笑った。 私が不安そうに記録ノートを見つめていると、拓実は私の顔を覗き込んできて、そっと言葉を続ける。
「ほら、そんな不安そうな顔せんといて? 大丈夫。あんたが毎日どれだけ一生懸命記録書いて、技術練習してたか、俺が一番近くで見てるから。もし緊張して手ぇ震えそうになったら、俺の顔見て? ……あ、笑って緊張ほぐすためな? 変な意味ちゃうで!」
照れ隠しに耳を赤くする彼を見て、私の緊張はすっと解けていった。 実習が終わり、「バイバイしたくない」とぐずり泣く私に、彼はハンカチを差し出し、優しく涙を拭ってくれた。
「ずるいわ、ここな。そんなんされたら、置いて帰れるわけないやろ? 今日は最後まで、ずーっと一緒におったるからな」
その言葉通り、駅近くのカフェで少しだけ一緒に記録をやって、私たちは「また明日」と笑顔で別れた。 ……それが、数分後に始まる悪夢の序章だとは知らずに。
別れてすぐの帰り道、背後に奇妙な気配を感じた。 振り返ると、暗がりに見知らぬ男が立っている。距離がおかしい。歩幅を速めても、ぴったりとついてくる。恐怖で指先が震え、私は拓実に必死でメッセージを送った。文字がまともに打てない。
『うしろから だれか』
画面を見つめたまま、足がすくんで動けなくなったその時、夜の静寂を切り裂く声が響いた。
「おい!! ここな!!!」
角から猛スピードで走ってきた拓実が、私の前に滑り込むようにして立ちはだかった。彼は鋭い目つきで男を睨みつける。その気迫に圧された男は、舌打ちをして闇に消えていった。
「……はぁ、はぁ、……大丈夫!? けが、ない!?」
息を切らした拓実が、私の肩をぎゅっと包み込む。彼の体温が伝わってきて、涙が溢れた。
「もう大丈夫、俺がいるから。怖かったな……ほんまにごめん。ここな、足震えて歩ける? ……無理せんでいい。ほら、俺の手、しっかり握っとき。今からここなの家まで、俺が絶対送り届けるから」
拓実の手を握りしめ、私たちは再び歩き出した。彼の背中を見つめ、ようやく安心した、その一瞬の隙だった。
物陰から、先ほどの男が狂ったような目をして飛び出してきた。その手には、鈍く光る刃物が握られている。
「危ない——!」
叫ぼうとした私の体は、一瞬で拓実によって後ろに突き飛ばされた。
ドン、と鈍い音が響く。
「あ……つ、……」
拓実の口から、短い吐息が漏れた。男はそのまま、夜の闇へと逃げ去っていく。 街灯の下、拓実が自分のお腹に手を当て、それからその手を見つめた。赤黒い液体が、彼の白いシャツを急速に染めていく。
「ここ、な……? 大丈夫……? 奴、もう……行ったから……」
「拓実……! 拓実……!!」
足の力が抜けたように崩れ落ちる拓実の体を、私は必死に抱きとめた。嘘。嘘でしょ。なんで、どうして。頭の中が真っ白になる。
「……泣かんといて、ここな……。俺は、平気……これくらい、かすり傷……やから……。それより、あんたに怪我がなくて、ほんまに……よかった……」
彼の顔から、みるみる血の気が引いていく。 看護学生として、これがどれほど危険な状態か嫌でも分かってしまう。だけど、今の私はただの、拓実を失いたくない一人の女の子だった。
「救急車……呼んで、くれる……? ごめんな……かっこ悪いところ、見せて……。でも……絶対、死なへんから……。ここなを一人に、せぇへんって……約束、したもんな……。だから……手、握ってて……。ここなの、あったかい手……離さんといて……」
スマホを握る手が震える。必死に119番を押し、場所を伝えている間も、拓実の体はどんどん冷たくなっていく。
「拓実…!拓実…!」
私の叫びに、拓実は弱々しく、だけどどこまでも優しい目で答えた。
「ここな……声、聞こえてるで……。だから、そんなに泣き叫ばんといて……。あんたの声、ちゃんと届いてるから……」
遠くから、かすかにサイレンの音が聞こえ始める。
「救急車、呼んでくれたんやな……。ありがと。よう頑張ったな、ここな……偉い、で……。あ、アホやな……目、閉じへんよ。ここなの顔、まだ見てたいもん……。実習の指導ナースより……今のここなの顔の方が、よっぽど……怖い顔してんで?」
こんな状況なのに、彼は私を安心させようと、冗談を言って微笑もうとする。その優しさが、胸を締め付けた。
「……ごめんな、冗談言えるほど、余裕なくて……。でもな、俺、ほんまに幸せやねん。ここなを守れて……ここなの役に、立てて……」
サイレンの音が、すぐそこまで迫ってくる。赤色灯の光が、路地裏を赤く染め上げた。
「ほら、サイレンの音……近く、なってきた。もう大丈夫やから……。約束、したやろ? 明日も、一番近くで支えたるって。俺、嘘つかへんから……。だから……俺が病院から戻ってくるまで、待っててな……?」
拓実は、繋いだ手に最後の力を込めた。
「……ここな……だい、すき……やで……」
それが、彼の最後の言葉だった。 私を見つめていた長い睫毛がゆっくりと閉じられ、繋がれた手の力が、すっと抜けていく。
「拓実……? 拓実、嫌だよ、目を開けてよ……!」
激しくなるサイレンの音と、私の泣き声だけが、冷たい夜の街に響き渡っていた。
激しく鳴り響くサイレンの音と、何人もの足音。 赤色灯の光がぐるぐると回る中、私の静止した世界に、容赦なく現実が割り込んできた。
「救急隊です! どいてください!」
拓実の体が私の腕から引き剥がされ、ストレッチャーへと乗せられる。 衣服が切り開かれ、何本ものチューブが繋がれていく。救急隊員たちの緊迫した怒号が飛び交う中、私はただ、アスファルトに残された大量の、赤黒い血だまりを見つめることしかできなかった。
『拓実、拓実……っ!』
喉がちぎれるほど名前を叫んだ。 だけど、ストレッチャーの上の拓実は、もう何も答えてはくれなかった。
病院の緊急手術室の前。 実習着のまま、緑色の長椅子に腰掛けて、私はただ時計の針を見つめていた。 手についた拓実の血は、時間が経って黒くこびりついている。洗う気になんてなれなかった。これを洗ってしまったら、本当に拓実との繋がりが消えてしまう気がしたから。
カチ、カチ、と無機質な音が廊下に響く。 いつもなら、この時間は二人でLINEをしながら、明日の事前学習の答え合わせをしていたはずだった。 『ここな、ここのアセスメント間違ってるでー(笑)』って、あの優しい声でからかわれているはずだった。
「……どうして」
どうして、あの時引き止めたんだろう。 どうして、もっと早く帰らなかったんだろう。 私がぐずらなければ、拓実はあの時間にあの場所を通ることはなかった。刺されたのは、私のせいだ。私が、拓実を殺したんだ。
どれくらい時間が経っただろう。 手術室の上の赤いランプが、不意に消えた。
重い扉が開き、疲弊した表情の医師が出てくる。 私は立ち上がろうとしたけれど、足に力が入らず、床に膝をついた。
「……拓実くん、は……?」
医師は私と目を合わせようとせず、ただ静かに首を振った。
「全力を尽くしましたが……大動脈の損傷による出血性ショックです。病院に到着した時には、すでに……。最期まで、あなたの名前を呼ぼうとされていました」
頭の奥で、何かが激しく弾ける音がした。
嘘だ。 だって拓実は約束した。 『絶対死なへん』って。『明日も一番近くで支えたる』って。 拓実は嘘をつかないって、さっき自分の口で言ったじゃない。
「拓実……嘘つき……っ、嘘つき……!!」
泣き叫びながら、私は処置室へと飛び込んだ。 白いシーツをかけられた、冷たいベッド。 そこに横たわる拓実は、まるですやすやと眠っているだけのようだった。ただ、いつもより少しだけ、顔が白くて、静かなだけ。
「拓実、起きてよ……明日も実習だよ? 指導ナースに怒られちゃうよ……。甘いもの、奢ってくれるって言ったじゃん……っ!」
彼の頬に触れる。冷たかった。 あんなに温かくて、私の涙を拭ってくれた拓実の手は、もう二度と私を握り返してはくれなかった。
それから数ヶ月が経った。
学校のラウンジには、相変わらず実習に追われる学生たちの声が響いている。 私の隣の席は、誰もいない。
私は看護学校を辞めた。 人が死んでいく現場に立ち向かう強さなんて、今の私には一欠片も残っていなかった。拓実一人さえ守れなかった私が、誰かの命を救う資格なんてない。
夕暮れ時、学校の近くの、あの日二人で行ったカフェの前に立つ。 ポケットの中で、スマホが震えた。 一瞬だけ、本当に一瞬だけ、『終わったよ』という拓実からのLINEを期待して画面を見る。 だけど、画面に映し出されたのは、ただの味気ないニュースの通知だけだった。
「……寂しいよ、拓実」
ぽつりと溢れた言葉は、秋の冷たい風にかき消されていく。
空を見上げると、あの日拓実がからかうように笑った時と同じ、綺麗な茜色の夕焼けが広がっていた。 だけど、その光が私の心を温めることは、もう二度となかった。