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薄瑠璃の空、夏が連れ去る君の声
カッターナイフが画用紙を切り裂く、規則正しい音が静かな教室に響いていた。 文化祭まで、あと1週間。放課後の美術室は、夕暮れ時の薄瑠璃(うするり)色の光に満たされている。
「唯夏、そっちの看板の絵の具、もう乾いた?」
尋ねてきたのは、幼馴染の瑠姫(るき)だった。 夕日を浴びた彼の髪が、ほんのりオレンジ色に透けている。その姿を見るだけで、胸の奥がツンと痛んだ。
「うん、バッチリ乾いてるよ。あとはこれを取り付けるだけ」
私は努めて明るい声を出す。 本当は、喉の奥が震えていた。私の手元には、1枚のプリントがある。『転出届のご案内』。 父親の急な転勤が決まったのは、昨日の夜だった。引っ越しは来週の月曜日。つまり私は、2人でずっと準備してきた文化祭の当日に、もうこの学校にはいない。
「文化祭が終わったらさ」
瑠姫が、看板を片付けながらふと言った。
「唯夏に、話したいことがあるんだ。だから、当日の後夜祭、ちょっと時間あけておいてよ」
「……え?」
心臓が跳ね上がる。瑠姫の耳が、少しだけ赤くなっているのが見えた。 ずるいよ、と泣きそうになる。私だって、ずっと決めていた。文化祭が終わったら、この気持ちを全部瑠姫に伝えるんだって。お互いに「好き」の境界線を超えられないまま過ごしてきた、このもどかしい幼馴染の関係に、ちゃんと答えを出すんだって。
だけど、私にはもう、「文化祭の後」なんて存在しない。
「……うん。楽しみにしてるね」
嘘をついた。胸が引き裂かれそうだった。 今さら転校することを伝えて、瑠姫を困らせたくない。遠く離れてしまうのに、「好き」なんて呪いのような言葉を残していくのは、私のワガママだ。
それからの1週間は、残酷なほど早く過ぎていった。 瑠姫と一緒に文化祭の準備をする時間は、一瞬一瞬が宝物で、同時に砂時計のように擦り切れていく。
そして、私の登校最終日。文化祭の、ちょうど1週間前。 放課後、誰もいなくなった教室で、私は瑠姫に「明日からもう来られないんだ」と告げた。
「……え? 何、冗談だろ?」
瑠姫の顔から、一瞬で笑顔が消える。
「ごめんね、急に決まって……。だから、文化祭、一緒に出られなくなっちゃった」
私は笑おうとした。綺麗に、幼馴染としての満面の笑みで、お別れを言おうとした。 だけど、瑠姫が私の肩を強く掴んだ。その手が、微かに震えている。
「なんで……なんで、もっと早く言ってくれなかったんだよ!」
瑠姫の、掠れた声。いつも冷静な彼が、見たこともないような必死な目をしている。
「言ったら……瑠姫を困らせちゃうと思ったから。私、遠くに行っちゃうから……!」
ポロポロと、堪えていた涙が溢れ出した。 薄瑠璃色の夕闇が、教室を包み込んでいく。
「困るわけないだろ!」
瑠姫が叫んだ。
「文化祭の後じゃなくていい。今、言う。……俺、唯夏のことが好きなんだ。幼馴染としてじゃなくて、ずっと、ひとりの女の子として、好きだった」
夕暮れの風が、窓から吹き込んで、黒板に貼られた文化祭のポスターを揺らす。 耳を疑った。瑠姫の声が、まっすぐに私の鼓膜を震わせる。
「……瑠姫……」
「遠くに行ったって関係ない。唯夏がどこにいたって、俺の気持ちは変わらないから。だから、勝手にひとりで諦めて、いなくなろうとするなよ……っ」
瑠姫の目からも、涙が零れ落ちていた。 ああ、そうだったんだ。私たち、ずっと同じ空を見て、同じ想いを抱えていたんだ。
私は、瑠姫の胸に飛び込んだ。幼馴染の、少し硬くて温かい、大好きな匂いがした。
「私も……私も大嫌いになるくらい、瑠姫のことが好きだよ。ずっと、言えなくてごめんね……」
文化祭当日、私はここにはいない。2人で歩くはずだった校庭も、飾った看板も、見ることはできない。 だけど、私たちの「約束」は、この薄瑠璃色の空の下で、確かに新しく始まったんだ。
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あの薄瑠璃色の夕暮れから、3日後のことだった。
「……え? 転勤、なくなったの?」
リビングで母から告げられた言葉に、私は持っていたマグカップを落としそうになった。 聞けば、父親の会社の上層部で急な方針転換があり、今回のプロジェクト自体が白紙に戻ったらしい。当然、我が家の引っ越しも、私の転校も、すべて「なかったこと」になった。
頭が真っ白になった。 嬉しい。もちろん、もの凄く嬉しい。この学校にいられる。みんなと文化祭に出られる。
だけど――。
『俺、唯夏のことが好きなんだ』 『私も……大嫌いになるくらい、瑠姫のことが好きだよ』
脳内に、あの日の瑠姫の涙顔と、自分の全力の告白が爆音で再生される。 遠く離れてしまう悲劇のヒロインのつもりで、私は瑠姫の胸に飛び込んで、さんざん泣き喚いて気持ちをぶちまけてしまった。
(……待って。明日から、どんな顔して学校に行けばいいの!?)
翌朝。 私はいつもの通学路で、一歩進むごとに心臓が口から飛び出そうだった。 角を曲がると、電柱のそばに瑠姫の姿が見える。いつも通り、私を待ってくれている。でも、心なしか彼の背中も、いつになく強張っているように見えた。
「……おはよ、瑠姫」
恐る恐る声をかけると、瑠姫がびくりと肩を跳ね上げて振り返った。 その顔は、一瞬で耳の根元まで真っ赤に染まっていく。
「お、おう。唯夏……。あの、引っ越しの準備とか、大変なのに、わざわざ学校来なくてよかったのに……」
気まずそうに視線を泳がせる瑠姫を見て、私は意を決して頭を下げた。
「ごめん! 瑠姫!」
「え!? なに、急に」
「あのね……転校、なしになったの! パパの会社の都合で、ここに残れることになっちゃって……!」
「……は?」
瑠姫が、間抜けな声をあげて固まる。 数秒の沈黙。風が私たちの間を吹き抜けていく。
「な、なしって……じゃあ、文化祭も出られるのか?」
「うん。出られる……。引っ越しも、しない……」
私が消え入りそうな声で言うと、瑠姫はしばらくフリーズしたあと、ゆっくりと片手で顔を覆った。指の隙間から見える肌が、さっきよりもさらに赤くなっている。
「……じゃあ、一昨日のあれ、何だったんだよ」
「う、嬉しかったよ!? 嬉しかったけど……! まさかこんな、すぐ、なしになるなんて思わなくて……っ」
恥ずかしさのあまり、今度は私が泣きそうになる。 遠距離恋愛になる覚悟で交わしたあの熱い告白は、何だったのか。私たちは、これから毎日、普通に顔を合わせるのだ。付き合いたての、いちばん恥ずかしい状態で。
「……まあ、でも」
瑠姫が、覆っていた手をそっと下ろした。 まだ顔は赤いけれど、その瞳は、あの日教室で見せたのと同じくらい、まっすぐに私を見ていた。
「いなくなるって聞いたときは、本当に目の前が真っ暗になったから。……残ってくれて、嬉しいよ」
ぶっきらぼうだけど、優しい声。 ずるい。そんなの、また好きが溢れてしまう。
「……うん。私も、瑠姫のそばにいられて、嬉しい」
俯きながら小さく答えると、瑠姫が不器用そうに手を伸ばして、私の右手をそっと包み込んだ。幼馴染の、少し硬くて温かい手。 でも、今までとは違う。指が、きゅっと絡み合う。
「文化祭の後って言ってた話……もう、今さらだけどさ」
瑠姫が歩き出しながら、照れ隠しのように前を向いたまま言った。
「当日の後夜祭。今度はちゃんと、両想いの恋人として、一緒に回ろうな」
繋がれた手から、熱が伝わってくる。 薄瑠璃色の空はすっかり明けて、私たちの頭上には、眩しいくらいの青空が広がっていた。