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当たり前という金砂
約6500文字
喫煙所は、社内にはない。
都内では社会規模にて禁煙にしてやろうという空気が蔓延しており、社内もまたそれに準じた。スモーキングルームだったところには自販機が置かれ、吸い殻入れは撤去。代わりにペットボトルの回収ボックスと、ペットボトルキャップの回収ボックスが設置された。
久しぶりに階段で降りようか、と彼は思っていた。
階段室の扉を開けた。一歩そこに踏み出すと、後ろのドアはばたんと音を立てて閉じられた。目の前には階段が。どこにでもある、何の変哲のない階段。縦に広げれば蛇腹のようになる階段だ。
7階、6階、5階……と踊り場にてベクトルがターンする。
階段の隙間より、人が佇んでいた。5階の踊り場だ。社用のスマホを耳元に当て、話し込んでいる。
「はい……はい、そうですね。そうしますと、はい、ええ、はい……」
と相槌だらけで内容は不明だが、おそらく営業的な打ち合わせだろう。すれ違った。見知らぬ待ち人の声は遠ざかっていく。
職場でも電話はできるが、内密な話なのだろうか。あるいは、相手の声を気にしての配慮か。一人になる時間を得るためか。密閉した空間に佇みたかったのか。
そうやってニコチン切れの思考の糸で絡めていたら、地階に着いた。急ぎ足になっていたらしい。
首からぶら下げた社員証でセキュリティロックを解除した。扉付近の壁に設えた白いセンサーにかざすと、電子音が響き、ドアノブが軽くなる。ノブを引くと、扉が開かれる。
「あーあ、昔は社内どころか職場でタバコが吸えたのになー」
彼は、記憶を頼りに思いを馳せていた。昭和か平成初期の時代、記憶は富んでいた。
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小腹が空いていて、社内併設のコンビニを使おうと目論んだ。
どこにでもある、何の変哲のない会社の階段で、エレベーターは使わない努力をした。下り坂のほうが楽に下りられるのと同じように、階段もまたそれが適用される。
6階、5階、4階……と4階に差し掛かるところだった。
ふと階段の隙間にて、人影を見つけた。階段にて自分とは別の人を発見することは珍しいものである。
途中の踊り場にて、立ち往生していた。立ち振る舞いから、小柄な女性だった。オドオドしていて、結構焦っているらしい。
そのまま通り過ぎようとしていた。何かな、と思っていたが、会社員とは常に時間に追われているものである。
「あの……」と声をかけられた。
「扉を開けてほしいんです。社員証を忘れてきてしまって」
「ああ、はいはい」
と、上層階から降りてきた男は、首からぶら下げていたものを掴み、伸ばす。緑色をしたリールが回り、収納された濃い紐が引き出され、長くなった。ゴムのようにびよんと伸びたカード入れが、壁をタッチ。セキュリティロックを解除する電子音が軽快に開錠を知らせた。
「どうぞ」と男は扉を開けてフロアの方向を指し示す。女性は申し訳なさそうに頭を下げた。
彼は、目的の階まで下りていくまでの間に思考を巡らせた。
社員証を持ち込まなければ、階段フロアに閉じ込められる構造だ。それは不審者対策が一つ上げられるだろう。だが、そうでなかったとしたら?
入るときにはタッチせずとも階段室には入ることができる。階段を使うことができる。しかし、出るときはセキュリティの都合上、このカードが必要だ。社員証を忘れてしまえば、1Fから27Fまで閉じ込められる形になる。
実質密室だ。気を付けよう……
目の前にある扉にキーを翳しながらそう感じた。
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その二日後もまた、会社の階段を使っていた。
彼はまた、同様の理由で下層階に用があり、その道中にて同様の人が立ち往生していることを目撃した。
「あの……」と再び声をかけられる。
「えっと、社員証を忘れてしまって」
「あー。はいはい」
またか、と心の中では思っていたが、それをおくびにも出さず。自分の社員証でセキュリティロックを解除した。
「どうぞ」と扉を開けて方向を指し示す。女性は申し訳なさそうに頭を下げた。足がパタパタと鳴らして、階段から逃げるようだった。どうやら二日後に会った人と同じような後ろ姿だった。
「学ばない人だな」
4階にはちょっと事情の違う部署や協力会社が併設されていた。
憶測になるが、派遣社員なのかもしれない。有期雇用のものかもしれない。あるいは、不注意的な奴だろう。おっちょこちょいなのだろう。睡眠不足、残業に追われているか、あるいは。
と思っていたら、目的の階にたどり着いた。
首にぶら下げればいいのに。そうすれば忘れない。ただの社員証ではない。これは勲章なのだ。
セキュリティロックを解除した。
以降、3か月ほど経つ。そのイベントはすれ違わなくなった。
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特に階段の上りは、スクワット運動に似たものがあるという。
ネット情報で少しかじった代物だ。ミッツだかメッツだか知らんが、通常の歩行よりは高いらしい。
よしこれをやろう、というわけで、そう思った日から会社の階段を昇った。階段を昇る段数だけ習慣になる。そのことを夢見た。
二か月は継続している。
この場合、すでに習慣にしている、というのは、気持ち的には固まっていない。継続は力なり、という言葉を疑っている最中だ。
体力がついて、階段の上り下りがラクになったという事例は、今のところ心中のどこにも発見されていない。
社食スペースは4階で、職場フロアはX階にあった。つまり、週五日は四階分昇っているということだ。
社食を摂る時間を30分ほど前倒しにしていた。
オフピーク通勤ならぬオフピーク社食である。その方が社食に並ぶ長蛇の列に並ばなくて済むし、食堂の席も選び放題。ワンコインでお手頃に食べられるランチメニューは先着順であるし、いつも売り切れ御免となっている。去年からそれが顕著に表れている。たしか備蓄米の放出が鈍重になった頃から。あるいはそれ以前の物価高からか。それとも社食の値上げか、円安か。
社食は11時半から13時過ぎまでやっていた。
以降はキッチンスペースは閉店するが、スペースは開放される。雰囲気はサテライトオフィスのようなもので、近代的にアピールしていた。そこでノートPCを持ち運んで、仕事をしてもいいですよ的なことができる。
12時10分前に食べ終わった。
お盆を持ち上げ、セルフレジにて会計を済ませると、昼休憩を知らせるチャイムが鳴る。これが、階段に挑む合図となっている。
まずは、階段室へ通じる扉を開けるタイミングが難しい。
ヒントは扉の向こう側からかすかに聞こえる多量の足音くらいだ。景色は金属製の扉で見ることは叶わない。
上層階からは、どっと人が階段室になだれ込み、どっと流れ出すのだ。きっとこの上のどこのフロアも昼休憩の人ばかりだろう。席から離れて、エレベーターホールでは待ち人だらけで、各駅停車のエレベーターを待っている。高層階用、低層階用両方共だ。
通勤ラッシュの満員電車のように、大勢の乗客を積み残したままホールを出発することもあろう。一本逃すことも、苦しみの選択肢としてあり得るだろう。
だから、そんな待ち時間の皮算用をしないように。ここぞとばかりに。避難訓練の雰囲気を醸すように。
大縄跳びに入る心持ちで、扉を開けた。
あっ――と。危うく鉢合わせになるところだった。心の中で青息吐息。胸の前で小さく両手を挙げた姿勢を緩め、軽い会釈を交わし、すれ違う。
4階、5階、6階……とオフピークの階段を昇った。
降りる人であふれかえる。一方、階段室にて昇る人は、彼ひとりのみだ。降りる人たちは長蛇の列がゴール地点だった。これから昼休憩が始まるのだと息を撒く。一方こちらは、自分の足音が聞こえぬほど、他の人の音で息が詰まる思いだ。
目的の階に着くころには人の降りる量は限りなくゼロに近づいていき、やがてゼロになる。足音は遠ざかり、やがて自分の足音が足音になってきた。
到着した。足腰の疲労感をため込みながら、首からぶら下げたものを掴み、センサーにタッチ。電子的開錠音が鳴る。そして、ドアノブに手をかける。手首にかかる金属製の重みとともに、達成感の扉を開けた。
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マンガアプリを開き、某推理マンガを読み返していた。
そのマンガとは、主人公の口癖が「じっちゃんの名に懸けて!」と言っている奴といえば、アレぐらいしかないぐらいに有名な奴である。
最近もマンガアプリにて連載を続けており、主人公が高校生のままであったり、社会人になったり、38歳になったり、44歳になったりしている。
それを見てから一話から順に見てやると、現代では度肝を抜くグロテスクで、まあ名探偵コナンの工藤新一バージョンみたいなもんだよな、と思えてきた。
リターンズの「〇〇校舎の殺人」を読み返していた。
軍艦島のクルーズのようなもので、宝探しツアーの参加者として入島して、突如惨劇が巻き起こるというクローズドサークルの定番みたいな舞台である。
孤島に建っている旧工業高校の廃校舎のどこかに「2億円相当の金塊」が隠されている――。
結論からすれば、実際に金塊は隠されていたらしいのだが、殺人事件が起こる前に回収されていた。つまり、犯人たちは金塊を回収して、代わりに殺人事件の予告状を置いて、予告通りに殺し回っているのだ。ミステリーにはよくある設定であろう。
幾人かの尊い犠牲があった末にたどり着く解決編。
主人公は廃校舎の木造廊下を通り、音楽室へのルートを歩く。それは大回り乗車のように、急がば回れのように。迂回するものである。それが廃墟ツアーなのだからそうだ、と異常を正常のことのように思い込まされていた。
異常性を正々堂々と見せて、木を隠すなら森の中とされていた。
校舎はぼろぼろで、あちこち穴が空いていて、通れない場所もある。軍艦島なのだから、海上に浮かんでいる船のような人工島なのだ。
床に穴が空けば、そこは冷たい海水と深い地下水が混ざりこんで、深青色を作っている。基礎工事にコンクリートなど使われていない。
例えば校舎の渡り廊下は、廃墟がなだれ込んでいて通路として機能していない。そんな場合は、直線の廊下を諦めて、隣の職員室を通って、また廊下に戻るというカーブを描く。アルファベットの「D」の弧を選択させる。
そんな奇怪なルートを、各人の紙の地図に目を凝らしながら進んだ。
「足元気を付けてくれよ。ちょっと段になってて低くなってるから」
「ああ、わかってるよ。……それより、お前何が言いたいんだ」
「わからないのか。部屋の入口や出口で段差になってるだろ。職員室に入るとき、職員室から出るとき。ちょっとした段になっている」
「だから、何だって言うんだ」
困惑しながら、彼らは階段を一段下った。
それで、転がるショット金を拾っていく。今のところ、金砂は名探偵にしか見えていないようだ。
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Youtubeのショート動画にて、こんなものを発見した。
それは、ショット金を集まれ集まれして、1kgの金塊にしてやろうというものだった。
「ヤフオクで10万円で購入した金歯を溶かして売ると儲かるのか検証します」
そう宣言して、黒いゴム手袋をはめた左手が映った。
掌紋のない、手袋のしわだけが目立つ手のひらの中央には、10個の金歯が軽々と扱われていた。10万円とは思えない雑な扱いである。
不純物が含まれている状態で9g。それで購入することにしました、と動画主は言った。画面が切り替わって、陶器製のチョコ皿に移す。
チョコ皿にホウ砂をパラパラかけて、高出力の火力を当てた。これからバーナーで、金色のかぶせ物を余すことなく溶かしてしまうのである。
「固体の金も好きですが、溶けてぷるっぷるの液体になっていく金も大好きです。このたまらなさが動画で伝わらないのがもどかしいくらいです」
根元は青、継ぎ目は薄い赤紫、チョコ皿から飛び出るような炎の色はオレンジ。これはホウ砂と反応しているのだろう。約1200度という高温になったチョコ皿を、金属製のつまみを器用に動かして、皿を回している。均等に金の液体に熱を加えて、完全に溶かしていると同時に「あること」もしているのだ。
実は、使い込んだチョコ皿には、ごく少量の金が付着している。皿は陶器製なので表面が凸凹しているのである。それで、金と金は融点によって溶けてなくなる。たとえ0.001gというごく少量であっても、値段は高い。だから溶けた金を転がしてひと|纏《まとめ》にしているらしい。これが「集まれ集まれ」という意味である。
バーナーの火をどけた。
瞬時にオレンジ色の火は蒸発し、皿の底にいる円形のオレンジのみが|滾《たぎ》る。それ以外は現実色に戻る。
ピンセットでそれを取り上げ、液体に漬ける……「ジュッ」。
燃え盛る黄金の太陽は、それでくすんだ金塊になった。熱を冷まして取り出して、専用のヤスリで磨けばほら。小さなショット金の出来上がり。
「グラムは7.65gでした。不純物が結構あったんですね。体積は〇〇くらいなので19金ほどの品位。価値は9X,000円になりました。うえーん、損しちゃったよー」
100均のプラスチック容器に恋し濃いし金色の小石を投げ捨てて動画はそれで終わり、勝手に次を再生した。余韻もなしに、外国人のやかましいBGMが鳴り響いた。それでも僕はぼんやりしていた。
金を集まれ集まれしている動画。
最近僕の書いたものを眺めてみると、拭けば軽く吹き飛ぶ金粉や銀粉を書いているようだなと思えてきた。僕の描いている物語は、これに似ているかもなと思えてきた。
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今年3月、水戸偕楽園に行ってきた。
その件についてはほとんど日記帳に書いてしまったので端折るが、印象に強いものがある。それは、好文亭のなかにある「急な階段」である。
好文亭とは、偕楽園園庭にある江戸の木造屋敷である。
水戸藩第9代藩主の徳川斉昭が文人墨客や領民を集めて詩歌や慰労の会を催すために建造された。しかし、時代が時代なだけに参加者の多くは「常に有事に備える」という思想を持っており、あえて緊張感を持たせる造りになっている。
あの急激な階段こそが、「足元に気を付けよ」という|暗示《スリル》を与えるための工夫だろう。藩主は、藩主であるがゆえに。眺望にも暗示を加えたのであろう。だから、藩主自らの屋敷に、あのような大変急な階段を設えたのだろうか。
そんな予備知識もなく、初見殺しのような感覚で。
まるで梯子のような感覚だった。傾斜がすごく急で、角度は50度という噂もある。
「果たして降りられるのか……」と思いながら昇り、景色を楽しめずにさっさと写真を撮って、再び急な階段を見下ろして「急だ……」と改めて思う。
身体がビクビクした。
ゆっくり一歩ずつ。
降りた。降りた。降りた……。
降りる時、手すりの有難みが分かる。降りる時は左手で手すりをギュッギュッと握りながら一段ずつ降りる。現代のように、コスパを重視した降り方などもっての外。行きはよいよい帰りは恐い、ではなく、行きも帰りも怖い階段。
比較的ゆったり作られた踊り場でUターンして、あと半分か……と見下ろしたら、一階に至るまでの階段はそれ以上に急な傾斜だった。
(みんな平然と降りられるものだ)
観光客に混じる僕は、周りの観光客を見て感心した。特に子供。よく怖気づかないものだ。
超高齢化社会になりゆく日本では、僕のような人は未だ若者扱いだというのに、物怖じせずにやっている。ゆっくり慎重に。僕は僕。とマイペースに。
無事降りられた。
はー、と安堵して、写真を見た。
三階からの眺めはとても良い。それを証明するレベルで写真の映りは良い。手ぶれしていないためなお良しであった。
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それに比べたら。と彼は思った。
それに比べたら、会社の階段はなんて降りやすいんだろう。
一段一段の高さは標準だった。一段下の段差が見えるって、当たり前じゃなかったんだなあとしみじみした。水戸偕楽園の好文亭について、以前誰かが言ってたっけ。あそこの階段は急なんだと。
「そうなんだよなあ」
と彼は階段室のセキュリティを解除した。だってこんな風に簡単に脱出できるんだし。
~執筆履歴と小説構成~
2026/02/XX 執筆
会社員の階段(1~4)
2026/06/XX 執筆
創作の階段 (5)
金砂集め (6)
急な階段 (7)
会社員の階段(8)
〜あとがき〜
この短編は、元々「階段」をテーマにしていたオムニバス形式の予定でしたが、2月にエタりました。
数ヶ月後に、金砂要素を含ませるようなストーリー展開になるように、続きを書いて公開。