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2025/12/XX 心象風景
約6500文字。
心象風景(Wikipedia):
現実の外部世界に実在する景色ではなく、人間の心の中に思い描かれたり、記憶や感情として刻み込まれた風景のこと。現実には存在し得ない架空の光景が脳裏に浮かぶ場合もこれに含まれ、個人の主観的な経験、記憶、およびその時々の感情が色濃く反映される点が特徴である。
暇だったので、国語便覧を眺めていた。
ポケットをたたくとビスケットが割れて出てくるように、何かしらのページを目で叩いてみるとインスピレーションがあるような気がした。
その時は、現代文によく使われている評論キーワードを見ていた。学生時代では、よく試験範囲でしれっと書かれる代物だ。このページからこのページまで出ます、頑張れ。そんなページ番号を割り当てられるように、用語がズラリと並んでいる。
整然とした文字で出来た数列をみて、当時はぐえっと思ったのだ。今はそんなことにはならない。お酒を飲んで、二日酔いにならなければ、ぐえっとならないことに、なんだか頭がヤラれたような感じがする。
恣意的、自家撞着、自我……と続いて、自己肯定感とあった。
その人は、「自己肯定感」という単語について、何やら訝し気な目線をしていた。自己肯定って何なんだよ、って数年ほど前から思っていた。学生時代では、こんな単語はお見掛けしなかった。AIに意味を聞いたこともあったが、しっくりこない。何なんだろうな、と梶井基次郎の『檸檬』の冒頭のくだりのように、『私の心を始終|圧《おさ》えつけていた』のだった。
こう書いてある。
自己肯定感:自分のあり方を認める感覚。自信。
「なんだ、自信じゃねーかよ」
と、勢い任せに便覧を閉じてしまった。
とても単純で、その二文字のために誰かが余計な類義語を作ったことに腹を立てたのだ。
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「自分を信じる」と書いて自信と書く。
しかし、今の日本社会では、自分を信じることができない人たちが多すぎる。というより、信じるって何? だと思う。信じたら終わり、とも思っていそうだ。
無神論者が、不確定で不定形で見えない何かを信じることができるのか?
その一般的な例が「自分」で、その中に詰まったアメーバ的な液体が内側を満たしている。液体の名は意味。
その意味を信じられるのか。
自分を形作り、自分のあり方を決定する証拠は、見えない何か。空気のように、吸って吐いて吸って吐いて。その見えない何かを無理やり見える化して、言語化して。それがごまかしだと分かると一気に自分が信じられなくなる。
だから、肯定しよう。
自身に自信を持つのではなく、『肯定』しよう。
見えない何かがあると存在することを認めるために、神は存在するのではなく、自分の存在を肯定しよう。
そんな感じで『自己肯定』という言葉がまかり通っている。なんだかこの言葉を見ると、回りくどいことをしているなと、最近思うようになった。
コップに水を注ぐことに意味があるのか。飲むならラッパ飲みをすればいいじゃないか。
なのに。どうして回りくどいことをする?
鏡の中の自分を自分と思い込んでいる。思い込まされている。鏡が『肯定』を意味していて、鏡に映った姿が目に入ったものが『自己肯定』……だが、それでいいのだろうか? それじゃあ、いつまでたっても自分が見えないままだ。
そのことへの言及について、この言葉は放棄し続けているような気がする。きっと見えるもの、見えないもの、色々なものが複合的に混じりあって、それらを含めて「自分を信じる」ということなのだ。
なのに、言語化されていないものを肯定しろというのか?
修学旅行で神社仏閣を巡るのは、こういうことなのかもしれない。そこに無理やりにでも不登校を行かせようとする働きがあるのも、これが理由の一つなのかもしれない。見えない何かに惹きつけられる、磁力のようなシンパシー。それが信じるということだ。
……ただ、このような余裕綽綽とした文章は、あくまで理性的な脳であるからこのように思えるのであって、感情的または精神的な不健康に脅かされた頭では、このような左脳的思考では全く歯が立たない、ということが実感できたことがあった。
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X月上旬、その人は混乱期にあった。
正確に言えば、その人の頭の中が混乱期にあった。
どうしてなのかはセンシティブな情報で、開示請求されても開示できない。そう否認できるものだった。
それは職場での話であって、人間関係に関与するもので、その人自身には問題がないもので、相手は韓国人で、その人間がこの世のものとは思えないほど日本語の意思疎通ができなくて、その人自身に不備があって。
ともかく、少なくとも五人の人間が「こいつはおかしい」と証言するくらい強烈なものだった。
その人は、当事者だった。当然、被害者側である。韓国人ではないからである。
その人は、その外国人からの衝撃を7か月以上まともに喰らっていた。今は、七割くらいの感情が切り離された状態にいる。
あの余波は、頭の中にまで影響を及ぼし、台風の暴風域で憮然と立ち尽くすほどだった。鏡の中の自分が、風や雨で濡れて見えない。ぼやけていた。水という無害なはずの液体に、自分が溶けていくような。一粒一粒が雨に流され、風に揺れて、鏡に幻影的な亀裂を催していた。そんな不定形さに怯懦した。
「想像上の不安」という代物に頭をもっていかれていた。心理学の用語だ。まだ起こっていない未来の出来事、現実には起こり得ない状況。それらをわたあめのように膨らませていって、「杞憂だと思えない」と勝手に判断して、緊張していた。
それで、一時間か二時間後には、杞憂だとハタと思う。
周りを見渡せば何も起こっていない。その人の行動も何も起こっていない。その人の頭の中だけが昼夜逆転していた。勝手に、異世界に転移していって、仮想世界で冒険している。それがハタと気づく。そんなものだった。
その人の傾向として、不安になるとすぐ情報を集めたがる。
ネット情報に頼ろうとするのだ。ゴミ収集車のように、十本の指は情報の集積をする、集約をする。だが、目的地がない。十台のゴミ収集車が向かう先はいつも脳内だ。
自分の考えがぼやけている状態なので、集約した情報を取捨選択しないのだ。それで頭が混乱して、情報過多になって……。
ある種、パニック障害のなりかけだったのだろう。
きっかけは、ネット情報だった。
心理学の延長線上のブログだった。いっぱしのSNSの論客なのかよくわからないが、心理学系のオンラインカウンセラーと名乗っていた。
そのブログにて、パーソナリティ障害というものを見かけてしまった。それで何の気なしに調べ始めた。自己診断の、素人が作ったようなチェックリストにアクセスして、それで、それで……。
そんな頭では、極端なことでも正常だと思えてしまうものだ。自己愛性、境界性だと判断されるや、それらの特徴に、すべて当てはまっていると感じられた。
そこから、三日間。かなりの記憶がなかった。
その週の土曜日、主治医にそのことをぶつけてみた。
主治医はきっぱりとしたものだった。
「あなたは、パーソナリティではない。それっぽく見えているだけで、一時的にそうなっているように見えるだけ。混乱しているだけ」
これを聞いて、「そうか」と心の中で呟いた。
そうか。その人は混乱しているだけなのか。
混乱して、不安になって、情報を集めて。それで情報過多になっていることに気づいていなかった。そうか。
これだけ主治医と長い通院歴を積み上げているのだから、主治医の見方は合っているだろう。
相手が自己愛的なタイプで、その人はその余波を受けてただ混乱している状態なのか。
「二次障害でパーソナリティ、というのもあり得ませんか?」その人は念押しした。
「あり得ない」と主治医は断言した。
「あなたが思っているより、『本物』はもっとすごいレベルだよ」
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クリニックから帰宅した。
自宅。混乱期であったメモ帳の一部を即座に破り捨てた。
A5サイズ、表紙は青、黒いぐるぐるのスパイラルリング。そのメモ帳からビリリッと切り破ってゴミ箱に捨てた。
無断の断捨離で、「想像上の不安」の詳細が記されていた聖書が、単なる文字になった。ごみ箱に捨てられると、即座に記憶から消去された。快感。
それで、混乱中に、無自覚に断定したものに対して、その人は一旦「待った!」をかけた。
断定から推定へ戻す。その時間軸の過程で、その人は50個以上も気づきを得ては、オフトゥンで卒倒する心持ちになった。自分はなんて馬鹿だったのだろう。力が入らない。
その気づきたちは、メモ帳に書く気にならなかった。認識だけ変われば、それでよかった。重要な何かであれば、再び気づくだろう。今は混乱期だ。そう感じた。そう思った。
部屋にいたしろたんをやさしく抱いて、夜の寂しさを慰めてもらった。
その日をやさしく振り返る。
メモ帳には、こんな記載があった。
「人は、時々1日が24時間であることを忘れてしまう。『24時間しかない』、『24時間もある』。そうやって24時間であることに過度な意味づけを行い、1日を理想化してしまう。1日を理想化して、その中で過ごす自分も引きずられて、「理想化」してしまう。そうすると、自分は苦しい。
等身大の1日に戻そう。等身大の自分に戻そう。誤字脱字を許そう。許せる自分に戻そう。あせらなくていい。ゾウガメみたいにゆっくりと。今を動かそう。」
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とはいえ、混乱期を抜け出すには、それなりの時間を要した。その当時の気分はジェットコースターなアップダウンがあって、躁と鬱がごちゃまぜになっていた。二時間で気持ちが一周してしまう。不安定な不安が五里霧中的に設計してあって、安全性が確保されないまま気分が乗車しっぱなしだった。
混乱期というか混沌期というか。
ひどい時は30分もたてば気持ちが一周してしまうこともあった。
だが、その人自身は冷静でいた。今はジェットコースターに乗っている。その事実さえわかれば、一時的な混乱だとわかる。いっそ気分の波がもっと短くなって、メビウスの輪のように表裏一体の円になってくれたほうが都合がよかった。思考がぐるぐるのネガティブのパーになるようであれば、いっそWindowsのマウスポインターになれ。ぐるぐるしろ。デスクトップPCのコントロールパネルの、一つのアイコンのもとにうずくまれ。そっちのほうがワンクリック操作でアクセスできて、とてもとても良い。
原因は、まあ分かっていた。
鏡が割られていた。頭の中の話だ。鏡が割られ、鏡の中の自分が見えないことが所以だった。いつのまにかハンマーでたたき割ったようだ。自己肯定のやり方を忘却した。防衛機制の一種だろう。
自分がやりました、と自分で自首をしたい心持ちだった。まあ、過ぎたことは仕方がない。あたまのなかが混乱期なのだから。
だから、鏡に代わる何かを見つけて、今の自分が見えれば、それでいいのだ。
そして、混乱のエネルギーである衝動性さえ何とかすれば、自分を回すだけのコーヒーカップの停止スイッチがどこか分かるはず。極端な認知のゆがみ、思考のゆがみ、完璧主義的考え方。すべて収まる。そう考えた。
ネットで様々な方法をメモ帳に書き留めた。
精神医学、心理学、社会論理、群集心理、SNS心理……。思いつく限りのことをネットにぶつけ、判断を仰いだ。
あれではない、これではない。
試行錯誤する、学習する。
その感覚が、気晴らしになった。
思えば、その人は左脳的な考えばかり検索し、検討を重ねていた。それがちょっと、堂々巡りになっていた。自問自答をして、深堀りしなくていいところを深堀りしていく。それがちょっといけなかった。
どの辺で思考が空転していることに気づいたのだろう。
ネット検索してばかり、それを書き留めているばかり。はっと気づいた。
ネットの中に、答えはないことに。
左脳的な考えばかり。言語化された考えばかり。そんなこと、ないんだ。そうか。
左でダメなら、右だ。
右脳的な情報処理……イメージ、イメージ……。
それで、心象風景を喚び起こした。
その人は筆をおいて、目を閉じた。
そして、座禅を組むように、場面を想像することにした。
何も見えない。
だから、難しいことは、放棄することにした。
心の領土、形、輪郭……
「自己肯定の民」をそこに置いてみた。何ということはない。小さいしろたんをそこに住まわせてみた。
最初に出てきたのは、あまりにも自然的な風景だった。
前景には草原があり、後ろには滝と滝つぼがあった。作り物めいた空があり、綺麗な虹がかかっていた。
それが、三秒ほど上映されると、次の場面に切り替わる。
それは「混乱の渦」と呼ばれるにふさわしい砂漠地帯だった。
全景が大きな流砂でできた蟻地獄で出来ていた。その周りに砂丘の崩れる砂が飲み込まれていく。中にはかつて石の遺跡があったらしい建物のかけらがそこに置かれてあって、蟻地獄を丸のみするような黒い砂嵐が、降臨しているのである。
それに対して、前景には「自己肯定の民」がいた。しろたんたちは小さめな身体をさらに小さくしていて、その光景をかろうじて残った石の祭壇の陰にて、怯えて暮らしているのである。
そして、先住民たんは、長老たちの話を聞かせてやっている。
「これは、神の怒りなのだ」
声としては聞こえない。けれど、「自己肯定の民」の低姿勢のままぺたんと、強い風によってちょっと押しつぶされているような感じになって、「それでも寄り添うよ」と言っているような気がした。
神というのは、その人のことであろう。その人の頭のなかはこうやって想像しているのである。心の領土、形、輪郭は、こうやって外部から来た「黒い嵐」によって乱されているのである。
そうやって、再び心象風景が立ち上がった。
「自己肯定の民」たちが集まる構図だった。砂漠地帯であることは確かだが、そこには先ほどのような「混乱の渦」はなく、平坦だった。
横切るように、または遠くへ楕円して遠ざかるように。トロッコの線路が引かれてあった。その線路上をトロッコが載せられていて、しゅぽぽと蒸気機関車が近づいていくようになっていた。乗客は「自己肯定の民」つまり白いアザラシである。どうやら世界各地から散らばった「自己肯定の民」が集まって、集会が開かれようとしていたのである。
それが十秒ほど経つと、再び心象風景が立ち上がった。
それはたくさん集まった「自己肯定の民」が、「混乱の渦」の前で集まって祈念していた。扇形を逆向きに置いた構図で、下側のほうが扇子の弧を描く。最も危ない地点には、先住民たんや長老たんが|要《い》るのだろう。それで「黒い砂嵐」は時間経過とともに徐々に収まっていく……には時間がかかるということを暗示していた。
「寄り添ってあげよう。逃げないであげよう」
「神の怒りはこちらに向いていない」
「だから……」
映像的なノイズが走る。ホワイトノイズが無音声のまま描かれ、逡巡もなしに立ち消える。そして最後の場面になった。
それは黒い嵐が去り、流砂であったところには大きな社が出現していた。まるでパルテノン神殿のような荘厳さがその中から掘り起こされていた。隠されていたのだろう。そこに、先住民たんと長老たんはいて、他の者たちは中央にある蟻地獄だったところを避けるようにして、輪になっている。いや、輪になって並んでいるのである。遠景のトロッコの駅舎に向かうように、長蛇の列を作っていた。
先頭の列は、ごった返している。インド人の通勤風景のように、重なり合っているのかもしれない。黒く塗りつぶされていて、けれども白くなっていて。白黒写真になってトロッコを待っているようだ。
デ・キリコの絵のように、歪んだ遠近感であって、しかし、それゆえに中央の神殿について、白い彫刻が立っているように見える。『イタリア広場』シリーズ……どこか、そんな感じがする。
それで、肝心のその人の混乱は一時的に止んだ。
それで、「あれは何だったのだろう」と思いつつ、紙のメモ帳を取り出した。短く三つ書く。
「僕≠僕」
「スピニングダンサー」
「独創と天啓」
脳内にあった鏡は元通りになっている。ちゃんと「α」と書かれている。……安堵した。
・独創と天啓(あとがき参照)
https://www.tanpen.net/novel/f3fbd46e-b3a2-4340-95b2-54b70a0afe48/