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5月の生意気
本当に何も起きない小説
2026/05/23 5月の生意気
「夏、ってさ。」
5月下旬、気温は30度。クラスメイトの内川が下敷きで仰ぎながらそう切り出した。一応クーラーはついているが、教室の温度は28度で涼しいとは言えない。
「湿度は高いし汗臭いし、熱中症にもなるくせに物語で美化されがちなの、納得いかねえよ、おれ…。」
「共学はいい匂いするんだろ。」
男子校だから汗臭いだけで…などと答えながらぼくは自分のスマートフォンをいじっていた。朝礼で貴重品として回収されてしまうスマートフォンを学校で触れるのはほとんど今だけだ。無論ほんとうは持っているのに持ってきていないと言うていでやっている生徒もいるので、昼休みなどはちょくちょくスマートフォンでさわぐ生徒の姿が見られる。
「女子は汗臭くないってのか。」内川は長いため息をついてうなだれた。それから「暑すぎる。」と呟く。28度ってそれほど暑いか、と数秒考えて、内川の席は日光ががんがん当たる窓際だから余計にそうなのだろうと至る。カーテンでも閉めればいいのに、暑さでそこまで頭が回らないのだろうか。ぼくは口をうごかした。「女子も汗のにおいはするだろう、ただ男子よりはきつくなさそうってのと、そーゆーのに気を使ってるんじゃねーの。」「あーなるほどなーでもやっぱり夏は物語で美化されてるだろ。」「そうだね。」頷いたとき、校舎にチャイムが鳴り響き、ぼくは手を止めた。担任が教室に入ってくる。
「山本せんせー、暑いのでクーラーの温度下げてください。」
内川がやはり下敷きをパタパタさせながら申し出るも、担任はもうすでに設定温度は26度なのでできない、だとか、先にカーテンを閉めたら良いんじゃない、などと答えて首を縦には振らなかった。窓際の席に座る内川を含める生徒たちが立ち上がってカーテンをびーと引っ張ると、教室は急に暗くなった気がした。電気がついているのでこれでもそう暗くはないはずなのに、太陽の光が明るすぎたのだろう。夏はよくあることだ。ぼくは朝礼に移り始めた担任のほうを向きながら、ぼんやりとそんなことを思う。
「5月でこの温度なの、冷静にやばいな。」ぼくがお昼休みにふと気づいて内川に言うと、彼は手に持っているパンから顔を上げながら「は?」とおそらく反射でつぶやいたあと、あーがちでそう、と同意を示した。「30度って! 30度ってやばい。」ぼくはお弁当に手をつけるより先にそのやばさを力説しようとするが、5月の平均気温も、30度は通常何月の気温なのかも知らないので、それくらいしか言葉にできなかった。ここにスマートフォンがあればすぐに調べられるのにいつも通り貴重品として担任の手元、と言うより職員室にあるはずだ。
「あーまあ、やばいんだろうけど。去年も同じような感じだったしな。あ、それより5時間目、体育だってよ。」
内川は顔をしかめて黒板の端に書かれている「時間割変更」を指差した。「え、外? 流石に体育館?」「なんも連絡来てないから、外だろ。」「本気?」失笑にも似た笑いがこぼれる。水筒にどれほどお茶を入れてきただろうかと手提げカバンから水色のそれを取り出しゆらしてみる。氷が内壁に当たる高い音が聞こえた。半分くらいは残っているようでひとまず安堵してから、ついでのように蓋を開け口に含んだ。
すうっと氷で冷えたお茶が口内に広がり、喉仏を上下に動かすと喉をつたり胃に落ちていく、その感覚だけは夏の良いところだと感じる。ひたいに浮かんだ汗と張り付く髪の不快感のせいで、大抵は埋もれてしまうような感覚。ある種、どうでも良いもの。
内川は2時間目の数学Aの参考書を机に出しながら、「水、もうほとんど残ってねーんだけど。」と苦虫を噛み潰したような顔で言った。
ぼくは水筒の蓋を閉め、カバンに戻しながら口元をわずかに歪めた。「美化する余裕なんて、一滴も残ってないな。」
内川は力無く笑って食べ終えたカレーパンの包装をくしゃくしゃにした。5月のくせに生意気なほど真っ青な空が、カーテンの隙間からこちらをのぞいている。
自販機行ってくる、と立ち上がる内川のこめかみには汗が流れているが彼の足取りは意外と軽くて、ぼくは少し笑えた。まだ5月なのに、これ以上暑くなったらどうするつもりなんだろう。とじとっとした空気の中で思った。