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3 出発前
《前回のあらすじ》
何をどう頑張ってもやっぱり、氷の公爵、との婚約は免れない気がする……。
いろんな準備をしてきちんと整えなくちゃ……。
「……おはよう、ネアス」
「おはようございます、お嬢様。今日は晴れですよ?」
「……これは晴れじゃなくて、曇りですぅ」
「そうですわね」
私だけが婚約したくないって思っているみたいで、少し萎える。
「ほら、着替えますよ。起き上がってください」
「はい」
「今日はおめでたい日なんですから、コルセットをきちんとつけますよ。苦しいとは思いますが……」
「はい」
「はぁ、絶対に、公爵様の前ではしっかりしてくださいね?」
「はい」
私がはいはい、と返事していると、ネアスにため息をつかれた。
「お嬢様、何か理不尽なことを公爵様に言われたときは、はい、以外の答えも言ってくださいね?」
「はい」
ネアスは同じ返答を繰り返してばかりの私に、「今日のおやつ抜きにしてもいいですか?」と呟いた。
「だめ。絶対ヤダ」
「そこはちゃんと答えるんですね」
「や、今までもちゃんと答えてました」
「どこがですか」
私はむぐっと言葉に詰まった。
「では、少し後ろを向いていてください」
「え、なんで……ぐぇっ」
ネアスに急にコルセットを締められ、変な声が出る。
「あの、公爵邸では絶対にきちんとしてくださいね。変な声も出さないでくださいね。姿勢がつらくても絶対に変な顔しないでくださいね。何か理不尽なことを言われたとしても、絶対に途中で口出しをせず、言葉が切れてから反論してくださいね。ああ、お嬢様の場合はもう、はい、だけでいい気がしてきました。胃が痛い」
「……ごめんなさい」
私が謝ると、ネアスは「謝るのでしたら、ほら、ペチコート履きますよ。何枚ぐらいがいいですか?」と聞いてきた。
「4枚でお願いします」
「はい、了解しました」
ネアスが手際よくペチコートをかさねると、その上から一番きれいな青いドレスを着せてくれる。
「このドレス、初めて着ました」
「儀式用ですから。奥様になったらこういうドレスを毎日着ることになります」
「ええ、それは嫌です」
「ダメです」
ネアスは慣れた手つきで私を化粧台の前に座らせると、耳の上から編み込みをして、少し髪を巻いてくれた。
「かわいいですね、お嬢様」
「元がいいですから」
「そういうこと、絶対に自分では言っていけませんよ」
「はい」
ネアスはジュエリーボックスから派手ではないがドレスに似合う銀色の蝶のピアスと、お揃いのネックレスを取り出し、つけてくれた。
「手袋は出発前につけますから、香水ですよ。目、つぶってください」
「はい」
「あ、口も閉じてくださいね」
「ん」
シュッシュッ―――。
かけると、いちごの匂いが少し香るかわいらしいにおいがした。
「これも、持っていてくださいね」
ネアスが温室でとれたハーブをすりつぶしたものを袋に詰め、私のドレスの内側にそっと入れる。
「ありがとう、ネアス」
「どういたしまして」
ネアスは少しだけ微笑んだ。
その顔を見ていると、なんだか胸の奥がじんわり温かくなる。
小さい頃からずっと一緒だった。
転んだら手当をしてくれて、泣いたら慰めてくれて、怒られたら一緒に怒られてくれた。
……いや、最後のは違うかもしれない。
たぶん私だけ怒られていた。
「お嬢様」
「はい」
「泣かないでくださいね」
「泣いてません」
「今にも泣きそうなお顔です」
私は慌てて頬を触った。
泣いていない。
たぶん。
少なくとも涙は出ていない。
するとネアスは少しだけ困ったように笑った。
「王都へ行かれるだけですよ」
「その、だけ、が大きいんです」
「そうでしょうか」
「大きいです」
むしろ人生で一番大きい出来事かもしれない。
じゃがいもの大豊作ですら敵わない。
「それは比較対象がおかしいのでは?」
「ネアス、心を読まないでください」
「読めてしまうのです」
恐ろしい。
万能メイド、本当に万能だった。
その時。
こんこん。
控えめに扉が叩かれた。
「入ってもいいかしら?」
お母様だ。
ネアスが扉を開く。
部屋へ入ってきたお母様は私を見るなり、ぱちりと瞬きをした。
そして、「まあ」と言った。
少し嬉しそうに。
「綺麗じゃない」
私は思わず顔を逸らした。
褒められるのは苦手だ。
「ありがとうございます」
「ネアス、よく似合っているわ」
「ありがとうございます、奥様」
お母様は私の肩に手を置く。
その手はいつも通り温かかった。
「緊張してる?」
「少しだけ」
嘘だった。
かなり緊張している。
でも正直に言うのは格好悪かった。
お母様もそれを見抜いたらしい。
ふふっと笑う。
「そういうことにしておいてあげる」
見抜かれていた。
恥ずかしい。
「お父様は?」
「玄関をうろうろしてるわ」
「お父様が?」
「ええ」
意外だった。
いや、意外でもないかもしれない。
お父様も娘が遠くへ行くのだから。
少しくらい落ち着かなくなるだろう。
するとお母様は何かを思い出したように小さな箱を差し出した。
「これは?」
「開けてみなさい」
言われるまま蓋を開く。
中には小さな銀色のブローチが入っていた。
雪の結晶を模した繊細な細工。
見たことがない。
「これ……」
「おばあ様の形見よ」
私は息を呑んだ。
おばあ様の話は聞いたことがある。
でも形見を見るのは初めてだった。
「本当はもっと早く渡そうと思っていたのだけれど」
お母様が優しく笑う。
「今日がちょうどいいと思って」
私はそっとブローチを手に取った。
ひんやりしている。
でも不思議と温かい気がした。
「ありがとう……ございます」
少し声が震えた。
今度こそ本当に。
泣きそうだった。
「ほら」
お母様が私の頭を軽く撫でる。
子供扱いだ。
でも嫌ではなかった。
「じゃあ、出発しましょう」
「はい、お母様」