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コーヒーはオールアップのあとで
「あぁ……マジで痛ぇ。おい、今の本当に安全な着脱式の鉄筋だったか?」
“レッグウィッグ”と呼ばれた男は、ぐにゃりと曲がった小道具を放り投げ、廃工場のコンクリートに腰を下ろした。特殊メイクで爛れた皮膚が、撮影用の霧吹きで濡らされ、不気味な光沢を放っている。
「設定上、お前は激痛に耐えながら動ける最高の駒なんだろ?役者なら根性見せろよ。ほら、監督が今のカットのチェックしてるぞ」
“アルビー”を演じていた小柄な俳優が、眼鏡をくいと押し上げながら受話器型の小道具をサイドテーブルに戻す。彼は役柄上、そのままの毒舌だが、その手には既に、“レッグウィッグ”用の予備のタオルと、保温瓶が握られていた。
「根性じゃなくて、俺のはただの『特殊体質設定』だっつーの……あーあ、このシーンのせいでまた再生数が跳ねちまうな」
「いいことじゃないか。深夜枠の低予算ドラマが、今や世界配信だ。お前が何度も無様にのた打ち回ってくれるおかげだよ」
“アルビー”役は、保温瓶の蓋をコップ代わりにし、中身を注いで“レッグウィッグ”役に手渡す。その姿はさながら相棒のようで、まだ役の中に浸かっているようだった。
「ほら、飲めよ。お前の大好きな例のアレだ」
「“レッグウィッグ”はコーヒーは好きじゃねぇよ……俺は好きだけど」
“レッグウィッグ”役は、まだ震える手でそれを受け取り、一気に喉に流し込む。次の瞬間、彼は盛大に吹き出し、文句を垂れた。
「げほっ、ごほっ……おい、これ……塩じゃねぇか!」
「“レッグウィッグ”が悪戯に入れた塩入りコーヒーを敢えて飲ませる“アルビー”なんて、いそうだろ?……まぁ、今、塩入りコーヒーを渡したことに気づいたんだが」
「はは、冗談だろ!確認をしろよ!」
二人は顔を見合わせ、誰もいない撮影現場の片隅で、今度こそ同時に笑い声を上げた。
「……なぁ、“アルビー”?」
「なんだよ」
「次のシーン、俺が一時的に死ぬところ、もっと派手にしてもいいか?さっきの『痛みに耐えながら動ける』って言葉、気に入ったんだ。俺に相応しい、最高の墓場を作ってくれよ」
「……勝手にしろ。ただし、撮り直しは一度きりだぞ」
“アルビー”役は、空になった受話器を耳に当て、まだ撮影が続いているかのような冷徹な声で囁き、演技か、それとも現実かも分からぬまま二人は再びカメラの前へと戻っていく。偽物の傷口を誇らしげに晒し、不条理な物語の続きを綴るために。
「準備しろ、“レッグウィッグ”。次の地獄の“庭”が待っている」
その途端、監督の野太い声が廃工場に響き渡り、張り詰めていた空気が一気に弛緩する。
「はい、チェック終了!30分休憩!」
照明が落ち、オレンジ色の作業灯だけが点された現場で、二人の役者は崩れ落ちるようにパイプ椅子に沈んだ。
「……なぁ、“アルビー”」
「なんだ」
「お前、さっきの『カット』のタイミング。あれ絶対、俺がマジで苦しんでるの見て楽しんでただろ」
レッグウィッグ役が、偽物の爛れた皮膚をいじりながら恨みがましく隣を見て、“アルビー”役は、小道具の眼鏡を外して眉間を揉み、溜息をつき、少しだけ笑って応答した。
「……役作りだよ。“アルビー”は、駒が苦しめば苦しむほど冷静になるものだろ」
「嘘をつけ。お前、俺が腐食剤を刺す直前にニヤけてただろ。モニター越しでもわかったぞ」
「それは、お前の演技がようやく泥を啜るレベルに達したことへの賞賛だよ」
“アルビー”役はそう言って、足元に置いていた保温瓶から今度は、本物のブラックコーヒーを二つのカップに注いだ。“レッグウィッグ”役は疑い深い目で見つめてから、恐る恐る口をつける。
「……ふぅ、今度はまともだ」
「当たり前だ。次はラストシーンの、崖下での『再生完了』だぞ。ここで塩を食らって顔を歪められたら、台無しだろうが」
“レッグウィッグ”役はコーヒーの熱を指先に感じながら、ふと自分の腕を見た。特殊メイクの下にある本物の肌は、もちろん無傷だが、劇中での痛みと、過去の回想での絶望を演じている間、彼は確かに自分が『庭』の住人であるような錯覚に陥っていた。
「しかし、この“アルビー”ってのは凄いな」
「ああ……“レッグウィッグ”の相棒かつ、黒幕とはな。脚本としては面白いが、ありきたりなような気がする」
「文句言うなよ……このドラマさ……いつか、本当に救いがあるのかね。“レッグウィッグ”に」
「さあな……“アルビー”に聞け。だが、不条理ってのは、救いがないことそのものだろ」
“アルビー”役は立ち上がり、遠くで準備を始めるスタッフたちを見据え、本物のように“レッグウィッグ”に声をかける。
「“行くぞ、レッグウィッグ”。次のカットでお前はまた死んで、また這い上がるんだ……俺が『カット』をかけるその瞬間まで」
「……へいへい……人使いが荒いねぇ、“アルビー”は」
“レッグウィッグ”役はニカッと、特殊メイクで歪んだ唇を吊り上げて笑う。それは、作中の“レッグウィッグ”そのものの不敵さだった。二人は再び、偽りの雨が降りしきるカメラの前へと歩き出し、カメラの中の物語が、誰の目に触れるのか、どんな終わりを迎えるのかなど、そんなことは、何度も死んでみせる彼らにとってはどうでもいいことだった。
そうして、撮影は続き、夜が明ける頃。モニターに映し出されたのは、朝日の中で静かに微笑む、一人の死ねない男の姿だった。
「カット! OK、全編オールアップです!」
監督とスタッフたちの声や拍手が響く中、元“レッグウィッグ”と元“アルビー”は固く握手を交わしていた。その中で、誰もいないはずの廃工場の片隅に、火のついた本物の葉巻が落ちていることに、気づく者はいなかった。
交わされた握手は固く、葉巻の火よりも暖かな手の熱が、幾重にも死に冷えた元死体の手に取り戻されつつあった。