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美術部と蚊
2026/05/17 美術部と蚊
相川紗羅の絵を見て、へえ、とため息をついた。「うまいんだね。」後ろから覗き込んで言うと相川紗羅は驚いたのか手を止めた。私を見上げ、少し意外そうな表情を浮かべた後、ありがとうと答えた。大人びた見た目に反して高い声はふにゃふにゃしてて頼りなさそうだった。再び筆を走らせる彼女に、もう話しかけない方がいいのかなとも考えたが、少し気になったので口を開く。
「中学の時から美術部?」
「うん。」
「へえ、あたしは高校からだからよろしくね。」
言った後に、高校からだからよろしく、ってちょっと変だったかなと思う。高校からだからいろいろ教えてね、が自然だっただろうか。まあ、相川紗羅もそんなこといちいち気にしないだろう。
「うん。」
彼女は頷いて、そこから沈黙が流れる。18時前の美術室には筆と髪の擦れる音だけが響いて、きっと彼女は今、すごく気まずいんだろうなと勝手な想像をする。だって、あたしは気まずいから。無言でじっと見つめられてる相川紗羅は、あたしの何倍も緊張するはずだ。
換気のために開けられている窓から弱い風が入ってきてあたしはようやく背筋を伸ばした。ずっと中腰姿勢だったので、逆に背中を反らせると痛くなった。
「あ、蚊。」
視界に入った虫を見てあたしはほとんど反射でそう言いながら手と手を叩きつけた。開いて確認すると息絶えた蚊が張り付いていて、美術室の蛇口に歩くついでに相川紗羅に言おうとする。蚊、殺した、と。でも彼女の現状を見て、その言葉は喉に詰まって出てこなくなった。
彼女の繊細な絵の中央に、1本、不自然なほど大胆な黄色い線が走っている。それが意図的なものではないことを彼女の表情が物語っていた。黄色い絵の具がついた筆を握りしめ、相川紗羅は黙り込んでいた。
「あ、ごめん。え、あたしのせい?」
あたしは蛇口を捻ることも忘れて突っ立って訊ねた。あたしがいきなり手を叩いて音を出したから彼女が驚いて筆使いを誤ってしまった、なんて理由だったらあたしが悪いから困ってしまう。背中に冷や汗がたらりと流れるのを感じながら彼女が困ったように視線を揺らすのを見つめる。困ったようにしている時点で、肯定を示していることを理解する。
「ご、ごめん。」
あたしはさっきよりも声のトーンを落として、もう一度言った。相川紗羅は一瞬あたしの方に視線を投げて、それから自分の絵をじっと見つめる。返事は来ない。あたしは彼女が怒っているのか悲しんでいるのか、諦めているのかわからなくて「えっと…、」と3度目の謝罪の言葉を述べるべきなのか迷う。しかし、どれだけ謝罪を重ねたところでその絵が元に戻ることはないし、あたしがどうにかできるものでもない。じわじわと、事の重大さを理解してきて、あたしの心臓がどっどっどっと音を鳴らしはじめる。
チャイムが鳴り響く。18時。下校完了時刻まで、あと30分ということを知らせるチャイム。
相川紗羅はなにも言わない。あたしも蚊の死骸をにぎりしめるだけ。チャイムの余韻が私の足から頭までを震わせる。
その絵って、コンクールとかに出す予定だった? なんていうことが気になったが、口にすることはできなかった。口にした瞬間、あたしは最低な人間になりそうだった。
彼女の美しい絵は、黄色の線が走っていても、美しいまま。
だからそれで、いいんじゃないの。なんて内心でつぶやいた時点で、あたしは最低な人間になったのかもしれないけど…。
とりあえず、相川紗羅の返事を聞きたいな、と思った。
しばらくして、彼女は薄いくちびるを動かした。
「…まあ、仕方ないし…。」
それは美術室に静かに響いた。あたしは言った。
「あ、そ、そう。ごめんね。ありがとう。」
あたしはようやく蛇口を捻ることができた。その水は意外と冷たかったけど、それよりもハンカチがないことについて、どうしようかと頭を悩ませた。相川紗羅は筆を洗った後、汚れた水を流しにこちらにやってきた。
黒みたいな、茶色みたいな色が広がった。その中でまだ混ざりきっていない黄色が目について、責められてるような気持ちになる。瞳だけを動かして視界の端の相川紗羅の顔を伺うも、無表情なそれからなにも受け取れず、あたしは洗いおわった右手をスカートのポケットに突っ込み、ハンカチを取り出すふりをする。ポケットの裏地に冷たい水が染み込んでいく。あたしはただ湿った布越しに自分の太ももを撫でた。ぼんやりと相川紗羅を眺めた。先ほど喉に詰まった「蚊、殺したよ。」が、今、無意味に迫り上がってきた気がする。