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〖紫陽花の種二つ〗
花は卑怯だ。
色味や姿こそは美しいものの、隠された言葉は憎悪や愛が露呈して、人のようだからだ。その清廉潔白な仮面を被った生々しさが、ひどく嫌いだった。とはいえ、嫌いとも言い難く、好きとも言い難いその考えに幾度と業を煮やしたことだろうか。
背表紙に映る『花』の文字を指でなぞりつつ、隣で床を払う涼を見ていた。黒縁の眼鏡の奥に邪魔そうに思っている助手のような瞳が刺さる。
「日村さんって、家とかないんですか。ネットカフェに住んでるわけじゃないでしょう」
「住んでるわけないだろ……普通に、建てた家に住んでるよ。掃除と物置、寝るところとしか機能してないが」
「じゃあ、なんでネットカフェになんか……」
ため息が聞こえそうな素振りを見せつつも床に箒は地をついて、再度、床を払い始める。その間にもややクリーム色の髪を指で弄ぶ視界の中で、愉しげな笑みを見せる一人の女性が目に入る。服の右胸に『店長』とネームプレートを掲げた花よりも厄介な女性。正しければ、名前は『|藤村《ふじむら》|雛《ひな》』だったに違いない。嫌な予感がする。肌に鳥肌が浮き出始めている。
「あ、店長ですよ。日村さん」
「……君、あの時撮った写真は消したのか?」
「消してませんよ、送りました」
「誰に?」
「店長……藤村さんに」
遠くの的に矢が的中する映像が、脳に思い起こされる。涼が「貴方に休日を丸潰しにされたので」と遅れて呟く。嗚呼、なるほど。嫌なものというのは当たるものだ。
「日村さん!修さん!これ……これ、本当に日村さんなの!?」
雛の声かま、静かなネットカフェに場違いなほど響き渡る。携帯の画面を凝視したまま、彼女の顔がみるみるうちに紅潮していくその表情は、驚愕、歓喜、そして底知れない興奮が入り混じった、複雑怪奇なものだった。
「……君はいつも楽しそうだな」
スマホを握りしめたまま、駆け寄ってくる彼女の瞳は、まるで獲物を見つけた肉食獣のように爛々と輝き、思わず眉をひそめたくなった。
「だって!見て!見て下さいよ、これ!」
携帯に映っていたのは、まぎれもなく私ではあるが、格好はなんというか、奇妙な……。
「ああ、送った写真ちゃんと届いたんですね」
そう涼が嗤うように、唆すように呟く。花。華ではない。花だ。厭な思い出の花。
「いやぁ、顔がいいと何でも似合いますね。ね、日村さん」
「……女装だがな……」
苦虫を噛み潰したような味が毒のようにのた打ち回る。確かに、色々と時間を貰ったのは悪かったかもしれないが……こんなことまでするだろうか。藤村雛はネットカフェの店長で、色々と世話にはなったが、その世話になった条件が「顔が良かった」のそれだけだ。つまりは、とんでもない面喰いで、とても騒々しい。普段は涼に別の事業で店を任せっきりではあるが、たまに帰ってきては悪魔の宴会の如く、大層楽しそうにしている。
雛が携帯と踊るように騒ぐ。それを無視して涼に語りかけ、コピー用紙の一枚を取り出して、机へ『武器』をぶん投げる。
「まぁ、彼女は無視して……休日を潰したのは私も悪いと思うんだ。涼くん」
「…………」
箒の動きが止まり、涼がしかめた顔でこちらを見る。いつもの淡々とした言葉を言わせる気はない。
「ある植物学者の一人が亡くなり、遺品整理中に『たった二粒の紫陽花の種』を見つけたと、その息子である依頼人が「これについて調べてくれ」と依頼してきた。種が入った瓶のラベルには、『1998年・雨の日の忘れ物』。これのおかしい点が、君には分かるだろう?」
「おかしい点、と言われましても……紫陽花って、種から育てると結構、手間じゃないですか?そこが、俺……ぼ、僕には変だなと……」
「ああ、その通りだ。紫陽花は通常、挿し木で増やすもので、種となると手間がかかる。親と同じ花が咲くとも限らないからな」
「……それで、何だって言うんです?」
「あえて種を遺した理由を、調べようと思うんだ」
「嫌です」
「それは無しだ。君も勝手に『あれ』を撮ったんだ。これでお相子だろう」
「…………」
「それに、ここにいるとしばらく店長君が五月蝿いぞ」
「行きます」
その決定打に、食虫花が大きく口を開けて噛みつくような気分になる。同時に自然と口角が上を向き、今だけは花が卑怯でも良いような気がした。
途端に、鳴った携帯には『鴻ノ池』ともう一人の悪魔が居座っていた。
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「数年前に、そんな事件があったんですか?」
僕の言葉に彼が「そうだよ」と短く返していた。続けて、事件が唇から転がされる。
「僕はそこに行ったけれど、途中で帰って良かったと今でも思うよ。何せあの村、狭くて狭くて……色んな意味で、田舎って感じだから」
「へぇ〜……でも、そういう田舎ってよくないですか?」
信号機が赤に染まり、車内に沈黙が満ちる。何か、不味いことでも言ったのではないかと動悸が激しくなる。この動悸が前に感じたようなものなのか、恐怖によるものなのかよく分からない。まるで狭い檻の中で暴れる鳥のように胸壁を叩いているのだ。
「……直樹君は、人がたくさん死んだ田舎なんかに行きたい?」
「いやっ、そういうことではなくて!」
「……あはは、分かってる、分かってるよ。こんな都会じゃ田舎に憧れるよね」
彼がふっと表情を緩めると、車内の気圧がわずかに下がったような気がして、密かに安堵の息を漏らす。それでも、次に紡がれた言葉は、仕事の確認を装った、どこか甘い試しを含んだ毒のようで脳が奇妙にも浸りを覚える。
「ねぇ、今から話を聞きに行く人って名前を覚えてる?」
ハンドルを握ったまま、視線だけをすっと直樹に流される眼差しは、部下の記憶力を試す上司のそれというよりは、自分たちが共有している秘密を確認するような、親密で、少しだけ独占欲の混じった温度を帯びているように見える。そんなはずがないというのは、しっかりと分かっているはずなのに。
「ええっと……八代十綾と、八代遥……あ、奥さんの方は旧姓が『日村』だそうです」
「ああ、八代ご夫婦ね。有り難う。君がちゃんと覚えていてくれると、なんだか僕まで鼻が高いよ」
夫婦、恋人、告白、自白……叶うわけがない。
「……当たり前のことですから」
照れ隠しに窓の外へ目を向けても、サイドミラー越しに彼の顔が見える。いつもと変わらない醒めた瞳がどこか熱を帯びてほしいと願いたくなる。
「当たり前、ねぇ……」
熱も、欲も、どこにもない普通の一言がどうにも鬱陶しく、別の言葉であればいいと愛欲に浸かった脳が叫ぶ。何も答えようともせずに信号機が青に変わり、ただ加速する車の振動を、自分の鼓動の一部のように感じざるを得なかった。