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天邪鬼
胸を詰まらせていた閉塞感が、咳の音と共に一気に外で出た。代わりとでも言うように空っぽになった肺と胸が、それを煩いほどに告げ知らせる。
「太宰さん、太宰さーん!」
聞こえてるんですか、と半ば隠せていない呆れのこもった声が上方から聞こえて起き上がる。真っ白い髪を日光に煌めかせながらこちらを覗いていたのは、敦くんだった。
「もう出社時間なんですけど、なんでまた川流れしてるんですか! 国木田さんに怒られますよ?」
「国木田くんがぁ? 良いよ良いよ、多少の怒りの発散は風邪予防になるんだから」
「僕に嘘吐かれても困ります!」
未だしゃっきりとしない頭を振ると、川の雫が辺りに飛び散った。戯れに言った冗談にも律儀にお叱りが飛んでくる。
素直な反応にある意味感心していると、小さく腹の虫が鳴った。
そういえば朝餉を食べていなかったな、と囊衣に手をやるが、包帯を巻いた手に触れるものは何もない。どうやら川に流されたらしかった。
「……敦くぅん」
「……自業自得じゃないですか」
「酷い!」
なんだかどんどん辛辣になってきてないかい、と肩を落とした先には、目の大きさを半分にして此方を見る後輩。
「……うずまきで何かしら食べた方が良いですよ。お腹が空いてたら何もできないですし。いつもツケにしてるじゃないですか」
「うーん、そうなのだけれどねぇ」
後を濁した私の言葉に、敦くんがはて、と首を傾げた。先ほどまでとは打って変わって、少々の心配気な色が浮かぶ。本当に素直な気性だ。先輩としては、未だ未だ青く初々しいものだと微笑ましいと思う反面、羨ましい部分でもある。人間らしい、嵐に飛び込める強い人格。
目まぐるしく表情を変えるといえば、と芋蔓式に嫌なシルエットを思い出して顔を顰める。そういえば、いつもこの時期、入水やら首吊りやらをしようとすれば、怒り狂いながらも必死に止めに来ていたものだ、と思い出した。もう既に遠くなった恒例行事。
嫌なものを思い出してしまった、と頭を掻いて立ち上がる。
「……体調、その、悪くない、ですよね? 元気ですか?」
「え?」
突然なんだ、と敦くんを見やれば、同じように首を傾けている彼と目が合った。
「何だか眉も顰めてたので。それに…なんというか──勘?」
言いにくそうに、うーんと表情を歪めながら付け加えられた最後の一言に数秒固まる。
その後、私はふっと小さく吹き出した。
「勘、かぁ」
摩訶不思議な虎の子の言だ。真の野生の勘はなかなか侮れないところがある。最前線で切り込む武闘派たちは似るところがあるのだろうか、と笑いそうになった。──まぁ、あちらは犬だけれど。
それならばこれも聞いてみようか、と私は口を開いた。
「ねぇ敦くん」
「はい?」
「どうして君は私を助ける?」
私の問いに、敦くんは目を瞬かせた。
しばらく俯いた後、敦くんはふわりと笑みを浮かべて口を開く。
「僕に限った話じゃないですけど──
太宰さんのことが大好きだからですよ」
なんだか恥ずかしいですね、とはにかんだ白の子は、何も言わない先輩に背を向けたかと思うと、思い出したように振り返った。
「あ、忘れるところだった。お誕生日おめでとうございます」
皆さん待ってますよ、と言い残して、彼は河川敷から去って行ってしまった。
私は口を開いて喉を震わそうとしたが、漏れたのは、小さな吐息にも満たないものだった。
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「あー、もう最ッ悪!」
「俺こそ最悪だわ!」
私が言った不平の声に、中也が噛み付くように言い返した。いつもはきゃんきゃんと返される声も、この時ばかりは息が上がって絶え絶えなものだった。私も彼も濡れ鼠。靴の中は湿気った砂が入り込んでじゃりじゃりとした不快感が絡みついている。
「偶然、海近くで任務が、あったからって、終了した途端に、飛び込みやがる奴が、いるか!?」
「此処に一人」
「五月蝿ェわ!」
まあ詰まるところ、要人との取引が終わり、本部への帰還の道中に私が息を奪う潮を求めて海へ飛び込んだと言うわけだ。海に近い場所での任務だったのだ、海で入水するのは当然だろうに。
そんなことを思いながら、隣を見やる。
寝転んでいるがために、少し目線を上にしなければならなかったが、赭色の髪が夜風に靡くのを見るのは難しいことではなかった。
波が届かない際のところで、濡れてしまった上着を絞る両手から、水がつうと伝っていった。鉄球が落ちたように、中也がいる部分だけが窪んだ色が濃くなっていく。
「体調悪い癖に入水するなんて、本気の莫迦なのかよ」
ったく手間かけさせやがって、などと不満を並べ立てる彼の横顔に、私ははた、と動きを止める。不意に、静止した私と中也の仄かに蒼い瞳が、ぱちりと合わさった。
「え、体調が、悪いって──誰の?」
ばらばらになりながらも問われた言葉に、今度は中也が動きを止めてこちらを見た。
「そりゃア、手前のことだろ?」
「え」
「『え』?」
数秒の沈黙。
「待って、君はなんでそう思ったの」
全くもって心当たりのないそれに、私は疑問しか返せなかった。何故中也がそんなことを言い出したのか、皆目見当がつかなかったのだから。それを問われると、中也も同じように口を噤んだ。
暫くして返されたのは、「勘」という味気ない二文字だけ。
もういいだろ、とそらされた顔を繋ぎ止める首筋を眺めながら、私は口を開いた。
「……全く、中也は本当に莫迦だねぇ」
「あ?」
不意に発せられた自分への言葉に驚いたのだろう。小さく小首を傾げて眉を寄せた中也と目が合う。水滴のついた睫毛が月光を反射させている。
「今のこともそうだけれど、君は私を殺したいと言うのに、私を自殺という甘美な憧れから掠め取ってしまう」
私の自殺を止めなければ、君は簡単にその目的を達することができるのに、と。
そう付け加えた。
入水を止められて苛ついていた部分もあったのだろう。普段ならば聞きもしないことを口にする程度には、平常心が保てていなかったのかもしれない。
中也は、私の零した内容に、ぱちぱちと睫毛の光を明滅させると、それは──と口籠った。
「其れは……。……大した意味なんてあるかよ」
ふい、と手元に視線を落としながら呟かれたそれに、私は上体を起こして彼の顔を覗き込む。
「本当に?」
宵闇の中にありながらその色を濃く主張する双眸に、戸惑いが揺らいで見えた。瞬間的に息を止めた表情は、溢れかけた何かを留めおいたような雰囲気を持っていて。釣られるように此方も息を詰めた。
見つめる先で、何かを取り込もうとするかのように震えた唇からは小さく息が漏れたのみ。余りにも自然に、中也は顔ごと背けてしまった。
髪が靡く生え際が、絵の具を混ぜるように暗闇へと溶けていく。いつも買い言葉を重ねる彼にとっての完全な拒絶に近いものだった。中也がこのことを話すつもりがないと、語らない横顔が、握られた手袋がありありと表していた。
冷たい陸風だけではない、指の震えを認めて、私は口を噤む。
「……そう、まあいいよ」
目線を外して、砂の上に置き去りのままになっていた外套を拾い上げて纏う。砂が目に痛い。生理的な水で潤んだ視界の端で、中也がほっと息をついたのが見えた。
其処から私たちは、本部に帰るまで一言も発しなかった。道筋はもう細かく覚えていない。
ただ、剣を通り越して針ほど細い二日月が、鋒を向けていた。
恐らくこれが、一回目。
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かちり、と軽い音がして側の明かりが点く。
ぱたぱたと、こちらへ歩んでくる控えめな足音が止まったかと思うと、私を覆っていた暗闇が剥ぎ取られた。
「何時から居てやがンだ」
「……なァんだ、帰ってきたの」
顔を埋めていた枕の隙間から見上げた先には、鉛丹色を垂らしてこちらを覗く白い顔が一人。
枕のあたりに掌が2つ、支えとして突かれているお蔭で、スプリングが軋んだ。
妙にはっきりしてしまった頭をゆるゆると振る。最初から眠くなどはなかったのだが。
夜更けになってやっと帰ってきたらしい彼は、とうに着替えてラフな格好で此方を見下ろしていた。素肌が晒されたうなじに、はらりと髪が落ちる。
「勝手に人ン家に上がり込むんじゃねェ、青鯖」
「……君は私の優しさに感謝すべきだよ」
「は?」
薄暗い視界の中でも明瞭に映る中也が、小さく眉根に皺を寄せた。不機嫌なのか不可解なのか判りにくいその表情に、私は溜息を吐く。これ見よがしなその行動に、今度は明確な不愉快さを持って顔が顰められた。
我慢のできない唇が開いてしまう前に、と私は口を開いた。
「いつまで経ってもやって来ない蛞蝓に、海より広い心で贈答品を貰いに来てあげたんだから」
「……なら、不法侵入に耐えている俺は空のように広い心だな」
「で、何かくれるのかい?」
刺々しい言葉に沈黙を返し、代わりに問うてあげれば少しの間を持って、あぁ、と言うような微妙な言葉が返された。心ここに在らずな返答にむっとしながらも、逸れた中也の瞳に目線を合わせ続ける。
「勝手に居座られたと憤慨する割には反応が薄いようだけれど?」
私の体に触れそうな程に手を伸ばしてきた赭色を、中也の耳に掛け直しながら言う。当の本人は、自分の髪の感触など見向きもせずに、寝台下に目を向けていた。
何がそんなに気になるのかと、碧色の先に目線を合わせて数秒後。中也が見ているものを理解して、小さく吐息を漏らした。
白や薄青の包装紙で包まれた、数個の贈答品からなる小山。此処に来る前、探偵社の皆から貰ったものだった。
私は壁に背を預けながらゆっくりと上半身を起こす。共に縁に座り込んだもう一つの重さの所為で、寝台がぎしりと鳴った。
「羨ましいでしょう、こーんなに思われてて」
冗談半分におどけていってみたが、震えた空気は不思議に小さいものだった。
「──別に」中也の声もまた、何時もと比較的小さかった。けれども、頼りない灯りしか点いていない部屋の中の、たった三十|糎《センチ》程度の距離では充分だった。
朧げな鼻筋が、少し俯く。釣られるように私は呟いた。
「皆、優しいんだ、本当に。皆、みんな──」
其処まで口にしてから、はっと息を噤む。私は何を言い出しているのだか。突然、こんな搾り出すように、しかも蛞蝓に。
「──否、何でもない、忘れて」
「手前は」
幽かに動いて見えた唇が、私の言葉を遮る。
「敦や芥川を如何思ってるンだ?」
突拍子のない其の問いかけに、私は呆気に取られて薄い輪郭を見つめる。如何言う意味だ、と目線で問いかけても、中也は此方に目もくれなかった。仕方なしに、これまでの彼らの姿を思い返しながら素直に答える。
「未来を支える大事な後輩だよ、一応、二人とも」
「其処は一応を付けてあげるなよ……」
呆れた声で突っ込みが入る。未だ目線は合わないままだ。片方にはかなり厳しく接しているのだから仕方ないじゃないか、と心の中では言い訳させて貰った。
「あァ、だが矢ッ張り」
不意に耳に落とされた声に、はっと顔をあげる。声のした方を向けば、これまで合わせなかったのは何故なのか、澄んだ青色とリンクした。
瞬間的に身を固くした私の気など知らずに、中也はこて、と小首を傾げて言った。
「手前は過去しか見てねェんだな」
あたたかな声だった。
至極優しげに、真綿で包むように口にされた硝子片が、体の芯に突き刺さる。ごく小さな、目にも見えない其れは楔のように存在を示していた。
「……如何言う意味」
「其の儘の意味だよ」
中也はつん、と突き放しながらも、口調柔らかにこう続けた。
「手前は、敦や芥川を個人で見てる。だから慕う部分もあンだろうが──だが即ち、手前という人物を込みで考えていないとも云える」
息が張り付く。
「今だって、『未来を支える』とは言ったが、其の未来には手前は組み込まれてねェ──」
だろ、と中也は蒼天を細めて言葉を結んだ。引き締められた雲間から、ふるりと震える水玉のようなものが見えた気がした。
引き攣ったような喉の奥から、は、と息が漏れた。其れを皮切りに、細く声が押し出される。
「だって」
だって、私は死にたいんだもの。
だって私は未来を見据えたくないんだもの。
だって私は苦しいのは嫌いなんだもの。
だって、だって、だって。
沢山の言い訳を引き連れた三文字が宙ぶらりんになっていく。予想外な言葉に思いの外動揺してしまう。らしくない。
音でさえも注意深く見つめているような静寂が降りていた。
いつのまにか少しずつ下がっていた視界の中に、これまで微動だにしなかった輪郭が現れる。五本の薄い影を纏った其れは、宙へ浮かぶと視界の端に消えた。代わりに、私の頬に滑らかな体温が伝わってくる。
日焼け知らずのはんなりとした白が、下瞼を撫でた。
「まァた土気色になりやがって」
夜の色が、溺れる人の肌を包む。
「陽に当たってンなら見た目だけでも健康でいろよ」
眉を下げて此方に向けている視線に、哀れみとも呆れとも、ましてや哀しみとも似つかないものが溶け込んでいた。
その眼差しに、苛立ちというか、気に入らないというか、そんな感情がぐるぐると渦巻く。
私が眉を顰めたのを見とめて、はっと中也の指がこわばった。温度が離れたことに因って頬の辺りに無機質な空気が流れて、益々気に入らない。
私は苛立ちのままに、目の前を去ろうとする手をぐい、と掴み取った。
如何して、君は手を離していられるの。
如何して、君は生を重ねられるの。そんな顔ができるの。
左手に収まった素肌の手首は、筋肉質な体つきとは裏腹に、思いの外細かった。その中心に刻まれた黒点が、持ち主の脈に合わせて震える。
その動きを横目に見ながら、私は左手を降ろして右手を伸ばした。指先に滑らかな感触があって、頬に触れたことを知る。
「な、……」
「君はさ」驚きで開きかけた言葉に被せるように口を開いた。
「私がこの日近くになって、体調が芳しくないのも、私は気付かなかったのに気付くし、自殺が増えたら、苛つく事にその分だけ止めに来たよね」
前にも一度、尋ねたことのある問い。
「如何して君は助けるの」
日向を歩む子からは、好きだからと言われたこと。
その昔の中也には、目を逸らされてしまったこと。
「大嫌いな私を、如何して助けるの」
「其れは──」
流されるように逸らされかけた目線を、追いかけて捕える。ぴたりと此方を捉えている昊天は、頬に添えられて離そうともしない右手を見ると、控えめに下を向いて言った。
「ンなの、解るわけねェだろ」
「答えてよ」
「……」
「中也」
「解らねえよ!」
俯いたままに、幾分か声を荒げた中也は、自分の声に身を硬くした。けれど、私の右手を引き剥がすこともしないまま、少しばかり此方へ意識を向けた。
「解らねえけど……俺は手前が嫌いだ」
「そう」
問うたことを繰り返される。其れを聞いているのだろうと問いただしたくなるのを堪えて、続きを待つ。
「嫌いだから、好きなことから遠ざける。
嫌いだから、正反対のことをしてやる。
嫌いだから、嫌がることをしてやる」
「……」
手を添えた|顔《かんばせ》から紡がれる言葉をじっと聴く。茶化したりはしなかった。単なる気まぐれから、聞いてあげるべきだと思ったから。
「だから、これからも嫌がる手前を祝うし、自殺から遠ざけてやる。俺の嫌がらせだ」
「そっか。ところで中也」
「あ?」首を傾げた碧色ににっこりと笑みを返す。
「私も中也が嫌いだ。両想いだね、嬉しい?」
訳もなく苛立った心のままに、厭味たらしく言ってやる。
『そんな君が大好きだよ!』『うわ、やめろ! 気色悪い』
いつかのときの様に文句が返されるものだと思ったのだが。
「……あっそ」
目の前からの返答は予想とは違うもので。何かを隠す様に、逸らされた瞳と尖った唇に、私が呆気に取られてしまう。
不意に暖かさが巡った指先に疑問を覚えたのか、中也が少し此方に目を向けた。
「? だざ──」
出されかけた名の綴りが、ふっと吸い込まれる。悪戯めいて触れた唇は、その柔さを確かめる程度で離した。
数秒のラグを経て、接吻されたことにようやっと気づいた中也が、反射的に軽く仰反る。
「今──」
「い、や、が、ら、せ」
一言一言を区切って、強調する様に言って見せれば、呆れた様に目が細められた。実際呆れているのだろう。吐息というには大きめの息が触れたばかりに唇から吐き出された。
「ったく、趣味悪ィ」
「その言葉そっくりそのまま君に返すよ」
「っるせ」
そう。それでいいのだ。
何もかもが正反対。
相手の好きは嫌い。相手の嫌いは好き。
相手は嫌い。自分も好きじゃない。
何だか矛盾している様な言葉だけれど、それでいいのだ。それが、いいのだから。
「ね、私のこと嫌い?」
「何わかり切ったこと聞いてんだ。同じことを言わせんなよ」
腕に収まった先へ問うてみれば、笑いながら返される。
耳に戻ってきた言葉に、私も小さな笑いが溢れた。
投稿から随分経ったにも関わらず今後書を書いております眠り姫です。
却説。私はこれをいつ投稿したかったんだったっけ?
うん。6月19日ですね。もう手もつけられない鶏頭かな。
まあとにかく。
太宰さんお誕生日おめでとうー!!
おめでとうなんて嫌がるかもしれないけれど、それでもお祝いさせて欲しいです。
あなたという人が生まれたこと、あなたという人が愛されていること、愛していること。
そのどれもが大切なことで、ファンみんなの胸に刻まれていることの一つだと思います。
中也。森さん。織田作。安吾。芥川くん。国木田くん。敦くん。そのほかにもたくさんの人たちに。
今日もまた、笑われて、怒られて、信じられて、諭されて、背を押されて、また1日を刻むことができますように。
黄薔薇の花束を添えて。
おめでとうございます。
題名変えました。
ここまで読んでくれたあなたにとびきりの幸福が届きますように。