番外編の短編小説を纏めました。中には本編に纏わる需要な過去編も…?
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目次
恋愛圏内接近中!
幼少期のフーゾさんが初恋の相手であるシイさんの距離感に悩む話。
⚠︎BL要素しかありません。ほんの少しの胸糞表現アリ(香り付け程度です)最後がすごく不穏
大変拙いですが、それでもよろしい方のみ
太陽に照らされて白い髪が光を集めている。自分と同じくらいの年齢なのに、どこか大人びた端正な横顔が、不意にこちらを向く。君は俺に気がついたのか、笑みを浮かべて大きく手を振った。
君のその、太陽のような笑顔を見て俺は「ああ、好きだなぁ」と思ったんだ。
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特に寝苦しくなるような茹だる暑さもなく、体の芯まで冷え切ってしまうような寒さもない、至って快適極まりない夜であるにも関わらず、フーゾ・ギディオンは眠れないままでいた。
どうにもこうにも目が冴えて仕方がなく、かといって起き上がって何かするのは憚られる。目を閉じても、寝返りを打っても、思考を別の方向へ飛ばそうとしても、全て無駄な足掻きだと言わんばかりに脳は覚醒してしまう。
ベッドに入る前までは眠かったんだ、とフーゾは心の中で言い訳をしてみる。いつも通りに護身術の稽古に励み、知識を詰め込み、しばしの談笑を挟みつつ、食事をとる。元気が有り余る10代の少年にとっては、丁度よく疲労が溜まるくらいのスケジュールであり、安眠など約束されたようなものである。が、それでも少年は目が冴えて仕方がなかった。
フーゾは恨みがましく目の前で安らかに寝息を立てている少年を見つめる。シイ・シュウリン、フーゾの同居人だ。今現在、フーゾはシイと一つのベッドを共有してる状態であり、それがフーゾの安眠を妨害する原因でもあった。
両性愛者、いわゆるバイセクシャルであるフーゾはシイに恋をしていた。初恋で、しかも一目惚れである。初めて彼を見た時の衝撃は、今でも忘れられない。以前いた研究所ですれ違った時に見えた、白い髪に赤い瞳、端正ながら生気を感じない顔立ちに、たちまちフーゾは虜になった。その後保護され、共に生活するようになり、彼の性格を知っても、その熱は冷めることなく、むしろよりシイへの想いをたぎらせるばかりだった。焼け石に水どころか、火に油である。
そんな初恋相手には、困ったところがあった。側から見れば、可愛らしく微笑ましい、ほんの少しの些細な問題。だが、丁度思春期真っ只中のフーゾにとって、それは死活問題だった。
改めて、自分とシイの体制を鑑みる。視界に入ってくる初恋相手の寝顔に耐えられず、寝返りを打って仰向けになっている自分と、その自分の右腕を抱き抱えて眠るシイ。いくら二人の仲が良いとはいえ、この年頃にこの体制は適切ではないと、今まで一度も男友達ができたことのないフーゾも理解しているのだ。
シイ・シュウリンは距離感がおかしかった。信じられないくらいに、とにかくに近かった。
食事の時に席が隣なのは当たり前。稽古の休憩の時には容赦なく寄りかかり、指南書の内容で分からないところがあれば頬と頬がくっつくんじゃないかと思うほどに身を寄せ、たまに抱きついてくることすらある。恋人だって遠慮や恥じらいで中々やらないことを、ただの友人のシイはなんでもないことのようにしてくる。フーゾはフーゾで、中々言い出せずにいたためか、シイのスキンシップは止まることを知らなかった。
何より、フーゾは己の恋愛対象が世間一般に言われる“普通”と違うことをうっすらと感じ取っていたため、自分がシイを意識していることを知られたくなかったのだ。ただでさえ、好きな子に想いが知られるのは恥ずかしいと言うのに、気味悪がられでもしたらきっと立ち直れないだろう。そんな失恋を恐れる気持ちが邪魔をした結果、フーゾは寝不足一歩手前にまでなりかけていた。思春期のフーゾには、距離感も失恋も大問題なのだ。
「それで十分な睡眠が取れていなかった、と。うーむ、我が愛弟子ながら愛い話ではあるが…だからと言って、相手は手加減してはくれんじゃろうに」
「ごもっともです…すみませんリー師匠…」
肩を木刀でペシペシと緩く叩かれながら、フーゾは己の師匠であるリーの前で正座をしていた。
結局半ば気絶するようにして眠りについたフーゾは、寝不足が祟ってか稽古でシイ相手にボロ負けしてしまい、その様子を見ていたリーがフーゾを呼び出したのだ。
リーはほんのりと呆れつつ、口元には、というか顔全体がかなりニヤついていた。一時期は他人に興味を持つこともなく、ただ理不尽な痛みに怯えていた子が、今ではこんなに恋に悩む一般的な少年に成長してくれて、更にそれは殆どが自分の手回しのお陰となれば無理もない。地球ができてから生物の進化や人の営みを神として見守ってきたが、こんな喜びは今までにない。まさに感無量である。
「だがしかしなぁ、シイの距離感をどうにかしてほしいと我に言われてもなぁ…」
「分かってますけども〜…そこをなんとか…!」
別に、自分からなんでもないように口添えをすること自体はなんら難しいことではない。と言うか、二人が時折喧嘩をする際に毎回やっているので慣れっこでさえある。だが、シイの距離感の原因を考えるに、己が言ったところでさほど効果はなかろう。
シイは確かに自分から見てもフーゾとの距離はかなり近い。恋仲の男女のようにすら見えることもあるため、フーゾにとってストレスではないのかと心配はしていた。ただ、それに関してはフーゾがシイに物申すこともなかったため、大丈夫だと思っていた。まぁ、斜め上の理由で悩みの種になってはいたのだが…
しかし、自分やたまにやってくる他の神々との距離は至って普通なのだ。と言うより、知らない者に対する距離は少し遠いほどである。つまり、シイが分からないのは“友人との距離感”なのではないか。リーはそう予想していた。
シイは恐らく、フーゾと同じように友達がいなかった。更に、幼い妹の世話もしていたと聞くし、恐らく同年代の子供を見かけることもなかったはずだ。それ故に、同年代の“普通”を何も知らないのだろう。そして、それは“普通“の友人がいなかった自分が言ってもあまり意味はない。むしろ逆効果になる可能性もある。
その旨をフーゾに伝えると、困ったように考え込んでしまった。一生懸命に考える姿はとても愛いものだが、こうなると愛弟子はもう空返事しか返さないので、部屋に帰るように伝える。フーゾは素直に頷き、考え込んだまま歩き出していった。
部屋に帰る途中で、シイに出会った。噂をすればなんとやらである。
「なぁ、フーゾ」
よく見ると、いつもよりも表情が暗い。それに、なんとなくこちらの様子を伺っている感じがする。
「えーと…どうかしたか?」
「その、さ…オレって、もしかして近い?距離、とか」
「えっ…な、なんでそれを、あ」
「や、なんか、稽古の時、体調悪そうだったし、師匠に呼ばれてたし、どうしたのかな〜って、思ってさ」
頭が真っ白になり、次の瞬間、聞かれてしまった、いつから?どこまで知られた?そんな疑問がフーゾの頭を埋め尽くす。しどろもどろで、あ〜とかう〜とか、言葉にならない音が口から出てくる。
必死に思考をまとめ、悩みに悩んだ末、フーゾは静かにこくりと頷いた。
「っ…そ、っか…」
「あ、でも、別に気持ち悪いとか、嫌とか、そんなんじゃなくって」
本心であった。確かに恥ずかしかったりドキドキが止まらなかったりで困りはするものの、嫌ではないのだ。好きな子にくっついてもらえること自体は嬉しいことである。ちょっと引っ付き具合や頻度に心が追いつかないだけで。
「…なーんだ!そうならそうと、早く言ってくれよ〜!てっきりオレ、フーゾに嫌われたのかと思って、すんげぇビックリしたんだからな!!」
「あ…は、は…わ、悪い。俺も、どのくらいが正しいのかあんま分かんなかったからさ!」
「ま、そう言うことならちょっとオレも気をつけてみるな!てか、次からはちゃんと言ってくれよ?言わなきゃ伝わんないんだから!」
「お、おう!分かった!」
そう言うと、シイは満足そうにそのまま走り去っていった。手に竹刀が握られていたのを見るに、一人で稽古をしていたのだろう。フーゾは少し申し訳なさを感じつつ、シイが案外すんなり受け入れてくれたことに対して安心した。こんなことにずっと悩んでいたのか、とすら思うほどに。
言葉通りにシイのスキンシップは明らかに少なくなった。その日は久々に順当に眠りにつくことができたし、翌朝もスッキリ目覚めることができた。だが、フーゾはいつもの右腕の温もりが無くなったことに、少しの寂しさを覚えていた。
シイからのスキンシップが減ってから一週間経った。フーゾの安眠は無事取り戻され、いつも通りの日々を過ごせるようになった。が、フーゾはどこか悶々とした気持ちを抱えていた。
原因は、シイの調子が悪いこと。頭痛や腹痛などの体調不良ではなく、単に気分が優れないらしい。それも、ちょうどスキンシップが減った日の翌日から。今は師匠が話を聞いているらしいが、あまり答えようとはしないらしい。
やっぱり、俺の言葉気にしてんのかな…と、一週間前の自分の言動を思い返す。今思い返すと、嫌がっていないと言うにはあまりにも、あまりにもな反応をしてしまっていたような気がする。もしそれで、シイが傷ついてしまっていたら…そう考えると、あの時感じたものの比でないくらいの罪悪感がのしかかってくる。何より、好きな子にくっつかれないのは少し、いやかなり悲しい。
だがしかし、距離感について苦言を呈した自分がそう言うことを言うべきではないだろう、いやでも、このままシイが気分が優れない状態で、誰かに襲われでもしたら…そんなたらればが、頭の中を旋回する。フーゾは、距離感に悩まされていた時よりずっとモヤモヤしていた。
廊下でぼーっとしてた想い人に声をかけると、分かりやすく体が跳ねる。そんなに驚かなくても良いのに…と思いつつ、自分が同じ立場だったらこのくらい驚くかも、とも考える。
シイがこちらに顔を向ける。笑顔ではあるが、どことなく、口元が引き攣っているのか、ぎこちない笑顔だった。それは、俺が好きな太陽のような笑みではない。
「どうかした?あ、稽古付き合って欲しいのか?それとも、指南書で分かんないとこあった?」
「それはシイの方だろ、一緒にすんなって。…そうじゃなくって、その、この前の、距離感の話、だよ」
途端にシイの顔から笑みが消える。明らかに目が泳ぎ、焦っているのが手に取るように分かってしまい、分かりやすすぎだろ、と茶化しそうになってしまう。が、そんなことをしたら絶対に嫌われるか蹴られるかするのでグッと堪え、必死に考えてきた文章を反芻しながら話しだした。
「お前、あれ指摘してから明らかになんか落ち込んでるし、前よりも俺に気ィ使うようになったよな」
「そ、そうか?まぁ、あんまベタベタしないように気をつけてるし、な」
「…あれ、もう良いから」
「もう良い…って、え、何が?」
「〜っだからぁ!好きなだけひっついて良いから、そーやって我慢すんなってこと!お前の元気がないと、こっちもなんか調子狂うんだよ!」
「え、でも、オレの距離感すごい近いんじゃ」
「別にもう気になんねーし!慣れればあんなん誤差だろ誤差!」
予定していたものよりずっとキツい言い方になってしまい、そっとシイの様子を横目で伺う。
シイは、ぱぁぁっと効果音がつきそうなくらい、明るく、俺の大好きな太陽のような笑みを浮かべていた。その顔に、思わず心臓が暴れだす。それと同時に、やっとその顔を見れたという嬉しさも、強すぎる鼓動の陰に隠れるように芽生えてくる。
「〜っ!!!じゃあじゃあ、飯んとき隣座って良い?!」
「お、おう!勿論いいぞ!」
「じゃあ、寝る時また隣で腕抱えてて良い?!」
「ンッ…ま、まぁ、別にやりたいならやれば?」
「じゃあ!廊下で見かけた時勢いよく抱きついて良い?!」
「それはダメ!!!!!」
「そんな〜!!!」
シイが元通りになってから、かなりの年月が経った。
適切な距離感を俺もシイも理解したにも関わらず、シイのひっつき虫具合は治るどころか進化するばかりだった。今では寝る際に腕に加えて足まで絡まってきており、本当の本当に気が気でない。
シイも、面白がっているのかどんどんスキンシップを増やしてくるし、止めても過去の言質を振り翳してきて、中々強く出られない。こういうところで小賢しいのだから、油断ならない。
今も、俺のことを強く抱きしめてくる。だが、嫌な気持ちには全くならない。
シイが何かを言っているが、うまく聞き取れない。耳鳴りが止まらず、頭が、意識が朦朧としてくる。頬に手を添えようとするが、腕を持ち上げる力ももう残っていなかったのか、ぴくりとも動かなかった。
シイは、いっつも俺より先に寝ていた。俺が早く寝ようとしても、シイがひっついてくるから中々眠れたもんじゃない。でも、今日は俺の方が先に眠りにつくみたいだ。
おやすみの代わりに愛の言葉を伝えられたら、どんなに良かっただろう。そう思いながら、俺は目を閉じた。
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屋外から、窓の内側にいる愛弟子たちを眺める。どうやら、微妙な仲違いは解決したようだ。一週間、浮かない顔のシイと殆ど空返事のフーゾに挟まれ、どうやって2人の仲を取り持てば良いのかと痛めた胃をさすった。これで良かったと思う反面、リーは2人の将来を案じていた。
2人はいずれ道を違えるだろう。シイとフーゾは性格が似ているようで少し違うし、話を聞く感じだと、きっとなりたい職業も違うはずだ。それに、いつまでも自分に教えを乞うわけにもいかない。いずれ2人が旅立って、それぞれ自分の進みたい道を進む時、もしお互いへの想いが、2人を雁字搦めにしてしまったら、と考える。もし、お互いと離れたくないがために、どちらか…もしくは2人共、自分の夢を諦めてしまうようなことがあったら?その時に、自分は何ができるのだろうか。
少し悩んでみたが、考えるのをやめる。未来のことを考えたところで、今自分に何かできるわけではあるまい。何よりもし本当にそうなったとて、それは2人の問題であって保護者の自分が首を突っ込んで良いはずがないのだ。できることといえば、ただ2人の将来が、よくなることを祈るばかりである。
マリンブルーの悪夢
オルカさんがクリスさんを海に遺棄するはなし。
⚠︎暴力表現(突き飛ばして怪我をさせる等)があります。また、オルカさんが殺人と死体遺棄をします。とても暗いです。
大変拙いですが、それでもよろしい方のみ
どん、と音がして、クリスの体が壁に打ち付けられる。そのまま座り込み、動かなくなった。冷や汗が止まらなくなり、耳鳴りが私を責め始める。
なぜ、どうして。そんな思いばかりが私の頭を埋め尽くす。こんなつもりではなかったのに。どうしてこんな事になってしまったのだろう。
歯の根が合わない。己の呼吸音で、鼓膜が支配される。視界が揺れ、気がつくと私はその場に崩れ落ちていた。逸らしたいはずの視線は、ある一点に釘付けにされて動かすことができない。
視線の先には、我が友クリスが壁に寄りかかっている。否、床に座り込み壁に背中を預けていると言った方が正しいのだろうか。
彼女の光を集めたような、美しい金色の髪は床にしなだれ、窓からの光でその輝きは増している。横髪が顔にかかっており、いつもの獣のような金の瞳は瞼の裏に隠されていた。手足は力無く放り出され、床についた手首がぐにゃりと曲がっている。
華やかで活き活きとしている普段の姿からは想像もできないほど、今の彼女は無機質な人形のようであり、それがひどく不気味であった。
彼女の名前を呼ぶ。が、返事は返ってこず、ただ私の声が空き教室に情けなく響くだけだった。
ずっと、どこか悪い夢の中にいるような気分だ。この空き教室の静けさも、空の青さも、彼女の態度も、何もかもが、私が現実に生きている感覚を奪ってゆく。
彼女の顔を唖然として見ていると、不意に酸味が喉を伝ってくる。慌てて口を塞ぎ、喉を焼き尽くす胃酸を何とか押し戻した。が、それでも気分は良くなるどころか、ますます悪くなるばかりであった。
喉に残る酸味と痛みが、私にここが現実であると囁いてくる。覚めない夢なのであれば、どうやってここから逃げたら良いのか。今この場で叫んでしまいたい気持ちに駆られる。
今の私には、この場から立ち去るなんてことは到底考えられなかった。そのくらい動揺していたし、何より情けないことに恐怖で腰が抜けてしまっていた。
きっかけなんて思い出せないくらい、しょうもない些細な口論だった。いつものようにクリスの無神経な発言に私が苦言を呈し、それに彼女が反論をする。そうして次第に斜面を転がるビー玉のように口論は激化していって。強い怒りに塗りつぶされて忘れてしまったが、俺の人格を否定する何かを彼女に言われて、彼女の肩を掴もうとしたんだ。そうしたら、勢い余って、手が彼女の肩を押して、そして、その後。何が起こった?
彼女がよろめいて、足がもつれて、彼女は受け身を取らなかった。いや、よろめいたのではなく、後ろに半ば吹っ飛ぶような、何故?俺はそんなに強く押したつもりなんて無かったんだ。ただ、あまりに彼女は軽くて、勢いがつきすぎたんだ。
突き飛ばして、怪我をさせてやろうなんて気持ち、微塵も無かった。ただ、訂正して貰おうと思っただけなんだ。殺そうなんて、微塵も。
誰かの足音で現実に引き戻される。その場に伏せて息を殺し、どうか教室のドアを開かないでくれと祈る。なんとか慄く体を抑え込み、足音に耳をそばだてた。祈りが届いたのか、足音は次第に遠ざかって行く。安堵のため息を吐き、震える足でなんとか立った。
頭が急激に働き始めるが、この状況の恐ろしさのせいで上手く考えがまとまらない。とにかく、彼女をどうにかしなければ。
ひどい吐き気と頭痛を抑えて彼女に近づく。だらんと落ちた腕はぴくりとも動かない。恐る恐る腕を掴むと、ひどく冷たかった。以前触れた時はとても暖かく、心が冷たいからだろうか、などと勝手な憶測をしたはずなのに。持ち上げてみると、抵抗もなく彼女の体がついてくる。焦りが加速した。
咄嗟に浮かんだ「隠さねば」という半ば脅迫的な考えにより、恐怖の靄が晴れて思考がまとまり始める。寮の自室に、使われていない倉庫に、この教室に、土の中、森の中、走り出した思考は止まらない。数多の選択肢を捨てる。ただ、己が助かる事だけを考えていた。こんな時、彼女ならどうするだろうか。
脳裏に、海の風景が映し出される。美しき、生物の母。ふと、クリスが海を見たいと言っていたことを思い出した。海は、罪を犯した私を赦してくれるだろうか。
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いつもよりも重い彼女を背負い、海を目指して歩く。学内を通る必要があったが、時折寝てしまった彼女を寮まで運んでいたため、誰も私たちのことをおかしいと思わなかった。彼女は、何かを偽る際はとにかく堂々とすることが大切だと言っていた。堂々としている彼女の嘘に、私が何度騙されたことか。
後悔の念が、背中からのしかかってくる。罪の重さに耐えきれなくなって、今にも押しつぶされてしまいそうだった。止まぬ吐き気は先ほどよりマシになったが、今にも目の前が真っ暗になりそうだ。逃げ出したいのに、逃げ出せない。
彼女との思い出が、走馬灯のように駆け巡る。初めて出会ったとき、彼女はあの忌々しい空き教室にいた。夕陽に照らされ、金の髪は光を編んでいて。それがたなびく様を、私は確かに美しいと感じていた。思い出が、私の後悔を加速させる。
視界が開き、心地よい風が私の頬を優しく撫でた。いつのまにか私は森を抜けるほど歩いていたらしい。空が広く、海とは違う青色が私を包む。眼前に広がるマリンブルーが、何故か彼女を連想させた。
太陽の光が反射して、柔らかな海面の輝きが私の目を貫く。海の青さも、浜の白さも、輝きも、全てが私を落ち着かせてくれる、はずなのに。波の声が、私を責めたてているように感じる。波が、私を追い返さんばかりにこちらに向かっている。いつもの海が、変わってしまったような感覚に襲われた。否、変わってしまったのは、私だ。
背中で眠りについていたクリスが、波の声に起こされ私の背中を降りるんじゃないか。そうして海まで走り出して、なんだ気が利くじゃあないか、なんて私に笑いかけるんじゃないか。そんな願望が、あったかもしれない未来が、私の中でぐずぐずと居座っている。この期に及んで、まだ私はこの現実から逃げたいのだ。
靴が濡れることも気にせず海に入る。不思議と寒さは感じなかった。歩いて深いところまで行くと、腰まで水に浸かり、制服のズボンはただの私の足でまといになってしまった。そのまま深呼吸を挟み、彼女を海の中へと放り込む。私の犯した罪が形となり、心臓がそれに締め上げられているような気分になった。
予想に反して、彼女の体はすぐに浮かんできてしまった。嗚呼、自分は相当に動揺していたらしい。溺死体でないのだから、当然クリスの肺には空気が入っている。加えて溺れないようにと変に抵抗することもなく脱力しているのだから、浮くのは当然だろう。思わず笑みが溢れる。
一度彼女を抱え上げ、海から上がる。成果といえば、服を着たまま海に深く浸かる経験が得られたことと、彼女の体の体が浮くことに気づけたことだろう。濡れた彼女を背負いたくはなくて、両手で抱え直す。海で濡れた分、彼女の服は重くなっていた。が、自然と前より重く感じることはなかった。
途方に暮れあたりを見回すと、少し小さめの岩が目に入る。あのくらいなら、きっと自分でも容易に持ち上げられるだろう。
彼女をもう一度海に投げ、浮いてきたところに岩を落とす。大きな水飛沫が、私の体に返り血のようにかかる。彼女の体もろとも岩は沈んで行き、やがて岩の影は見えなくなった。どっと安堵が襲ってくる。その場にしゃがみ込み、深く呼吸をした。冷や汗が顔を伝って砂に落ち、そのまま染み込んでゆく。やっと感じた夏の暑さが、海水によって冷えた足を温めていき、次第に心拍数も落ち着いてきた。事が終わった安心感と達成感で気分は晴れていたが、心はずっと薄い雲に覆われていた。
風が私の耳元を通り抜け、私の髪を|徒《いたず》らに揺らしていく。立ち上がり、彼女の眠る海に背を向けた。濡れたズボンが肌にまとわりつくのが嫌になり、着替えるため寮へ歩き出す。
歩いている途中に、怒りがおさまったことで私が何を彼女に言われたのかを思い出した。彼女はあの時、私のことを偽善者と称したのだ。それは私が最も嫌いな人種であり、彼女が最も好む人種である。その言葉に私は強い憤りを感じ、怒りのあまり彼女を突き飛ばして、そして殺してしまった。
彼女の言葉は確かに正しかった。真に善性を持つ人間であれば、こんな状況に陥ることなど万が一にもなく、そして人を殺したのにこんなに晴れやかな気持ちになることもないだろう。
彼女を殺してしまったことに対する緩やかな絶望が、これから先どうなってしまうのかという漠然とした不安が、彼女のいた背中にへばりついて離れなかった。
それでも、重い足取りで寮へと戻り、ズボンを変えてベッドに倒れ込んでしまえば、すぐに疲労で何も考えることができなくなる。意識は微睡みのさらに奥に行き、深い眠りに沈んでいった。
私は、いつだって己の保身を考えていた。自分が第一で、他は二の次。今日だって、真っ先に考えたのは己の外聞で、クリスのことを心配する余裕など全くなかった。
だから、気づけなかった。クリスを沈めたあと、そこから泡が昇ってきていたことに。
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数週間たって、クリスが行方不明になったと教師から聞いた。あの日私が彼女をおぶっていた所はしっかりと人に見られていたため、呼び出されて少し話を聞かれたが、逆に言えばその程度で済んだ。彼女が複数の学生から恨みを買っていることは周知の事実であったため、生徒の間では誰に殺されたのかと憶測が飛び交っていた。その候補の中に、私が入る事は|終《つい》ぞなかった。
どうやら、岩は彼女の体を海底にしっかりと固定してくれているらしく、まだ死体は見つかっていないようだ。あの海はあまり人が寄り付かないから、それも彼女が見つからない要因の一つだろう。
私と言えば、ここ数週間は気が気で無かった。死体が見つかるかもしれない、もしかしたら、自分が殺したと白日の元に晒されるかもしれない。そんな恐怖で、夜に魘されることもあった。
そんな恐怖も、行方不明という知らせを聞いて少し和らぎ、もう少しすれば普段と変わらない日常を過ごせるようになっていた。その間、誰も私を怪しむ事はなかった。
彼女がいないまま、時間が進んでいき、私は彼女を思い出の中に置き去りにしたまま、士官学校を卒業した。
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不意に、彼女の体の重さや、海水の冷たさがフラッシュバックすることがある。彼女を突き飛ばした時の手の感覚も、何もかもが昨日のことのように思い出せてしまう。
数年たった今でも、クリスのことは忘れられない。むしろ、その思い出はより鮮明になってゆくばかりだった。
それでももう、彼女のことで怯えることはなくなった。彼女を殺したことなんてちっぽけだと思えるほどに、今の私の手はどうしようもなく汚れてしまったのだから。
随分と大きくなった私の手を眺めていると、部下に客人が到着したと告げられる。
今日は新たに入れ替わった混乱的城市の総統に会う予定だ。噂によると、今度の総統は幼い少女らしい。だが、見た目によらず豪胆なのだとか。噂だけならクリスにそっくりだが、噂には尾ひれがついているのが定石だ。尾ひれがついていない新しい総統は、一体どんな人物なのだろう。
廊下を歩く。夏の暑さが未練がましく残る、秋の始め。誰かが開けた窓から柔らかな風が吹き込み、私の髪を徒らに撫でる。どこかから、あの日の海の香りがした。
--- 「オルカ」 ---
懐かしい音が、私の鼓膜を揺らす。間違いなく、あの日潰えたクリスの声。私は反射的に振り返った。一瞬、私の思い出が形となって現れたのかと思うが、すぐに違うことに気がつく。
光を集めたような金髪は風にたなびき時折光を強く反射している。獣のような金の瞳は野心を隠さずにまっすぐこちらを捉えて離さない。自信ありげに口角の上がった唇も、白い肌も、全てかつての彼女を精巧に"模倣"している。華やかで、活き活きとしている、美しい思い出のままの彼女。
心臓が早鐘をうち、歯の根が合わなくなる。視界が揺れ、思わず膝から崩れ落ちそうになるのを、なんとかこらえた。
彼女の顔を、ただ唖然と眺めることしかできなかった。声は掠れ、その場から動くことなど到底できない。冷や汗が、顔を伝う。
--- 「随分と幽霊を見たような顔をするじゃないか。そんなに友との再開は衝撃的か?」 ---
不敵な笑みも、からかう声も、彼女を構成する全てが、目の前の女があの日のクリス・ウィルダートだと主張する。
それなのに、《《何かが違う》》。何もおかしくないはずなのに、何かがおかしい。まるで、自分が何か重大なことを見逃しているような、そんな感覚に陥る。焦りと恐怖で、思考が散らばってゆく。なのに、視線が彼女から逸せない。
--- 「久しぶりだな?オルカ」 ---
不意に込み上げた吐き気を抑える。喉に焼き付く酸味と痛みが、逃がしはしないと囁いた。
【マリンブルーの悪夢】 fin…?
こんにちは。今回のお話、特段わかりづらい訳では無いと思いますが、書いていないだけで色々なことを考えていたため、その考えをここに書いておこうと思います。
完全に蛇足なので、別に読まなくても大丈夫です。でもせっかく考えたので読んで欲しいです()
このお話で重要なのは、クリスさんは海に沈められるまでは死亡していなかった、という点です。クリスさんはあの時点では後頭部を強く打ち付けたことにより失神しているだけで、ぐったりとしてたり腕が冷たかったのは失神の症状だったんですね〜。いわゆる脳震盪というやつです。
ちなみに、失神によって脈が弱くなることもあるだとか。今回はそれも採用しました。
でも、オルカさんはクリスさんが生きていることに気がつけなかった。理由は、本編にもある通りです。
思い込みの力と言うのは怖いもので、薬としての力を持たないただラムネであっても、"これはよく効く頭痛薬だ"という思い込みによって実際に頭痛に効く、ということがあるほどです。
今回は、その思い込みの力が悪い方向に効いてしまいました。オルカさんはクリスさんが死んでいると思い込み、その結果微かな脈や、薄い呼吸に気づけなかったんですね。
さて、表現の話に移りましようか。
最初の「なぜ、どうして~」という台詞は、以前あげたクリスさんとオルカさんの小説「終末は最低なあなたと」の最初の方にあるクリスさんの台詞を丸々引用しています。
また、私はよく感情の描写にばかり力を入れすぎて風景の描写がおざなりになりがちなので、今回は頑張って風景の描写もしたつもりです。それでもやっぱり感情の描写の方が多くなってしまいましたがね…
あと、クリスさんが失神しているシーンと数年後にクリス?さんが現れるシーンは、わりと寄せて描いたつもりです。思い出の中の彼女が、そのまま飛び出してきたように見えたらいいな…という願いをこめてあります()
そして、再開するシーンですが、オルカさんは突き飛ばしてしまった時と同じような動揺をしています。一種のトラウマのような…まぁ、殺したと思っていた相手が数年後にそのまま現れたら、怖いですものね。
それと本当に分かりづらいこだわりなのですが、クリス?さんのことを、オルカさんは一度も「クリス」と呼んでいないんですよね。一応彼女の声を「クリスの声」と言ってはいるのですが、姿を見て"何か"に気がついたのか、それからは呼ばなくなっています。
今回やけに擬人法が多い理由ですが、オルカさんの後ろめたさが関係しています。
なにか後ろめたいことをしているとき、本来なら感情を持ったりすることのない無機物に、何故か責められているような気持ちになることってありませんか?
私はよくあります。あるあるです。なので、今回はそのあるあるをオルカさんにも体験してもらいました。
特に海に着いたシーンでは、それが顕著に現れていますね。波に追い返されている、なんて普段は思わないはずですもの。自意識過剰の骨頂ですね。
こんなところでしょうか。違和感の正体やクリス?さんが何者なのかは、今後明かされてゆく予定なので、ここではお話ししません。
ただまぁ、あの日のクリスさんがオルカさんのせいで死んだことに変わりはないので、きっとこれからも、彼は死ぬまで覚めないマリンブルーの悪夢に魘され続けるのでしょうね。
想いで縛って、離さないで
この物語はフィクションです。また、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
--- シイ・シュウリンは不老長寿である ---
ここでの不老長寿とは「ヒトよりも長生きだが、寿命はある」ことを指す。それ即ち、愛おしい彼はいずれ死んでしまうのだ。
そんな絶望的な事実を、シイの笑顔から思い出してしまう。目の前ではしゃぐ恋人に対して抱く感想が「いずれ死ぬんだな」なんて、言わずもがな最悪である。
「フーゾ、ホントに良いの?せっかくの海なんだし、風魔法と火魔法合わせれば水もすぐ乾くよ?」
「俺は見てるだけで良いかなぁ。存分に濡れ狼になってきな」
「はーい!」
手元のカメラで、愛おしい彼の時間を切り取った。古来には、このカメラを使えば相手の魂を抜き取ることができる…と、言われていたらしい。現実のシイは、忙しなく水面を揺らしては笑っているけれど。
今俺達は、貴重な休みを使ってメーラサルペのリブス洋に来ていた。無論、この休みは休日ではなく休憩の方だ。シイはともかく、俺に旅行ができるような2日以上の休みが与えられることは基本ない。
俺らがこうして呑気に海ではしゃげているのは、メーラサルペとの合同訓練のおかげなのだ。毎年恒例であり、同時に俺ら軍人にとっては合同訓練と書いて「同盟国観光」と読むような行事の一つである。
合同訓練は5日間。そのうち今日は4日目であり、一番自由時間が多い日だ。ウチの軍人どもはよくこの日に観光を行うようで、俺らの他にもここに来る前に街中で同じ隊服を見かけていた。
「他の奴らも来ればよかったのにな~。海だぞ、海!世界にたった二つしかない上に、こーんな楽しいのに!」
「まぁ、普通は海で上司と遊ばないからね」
「えっ、そうなの?」
「そうそう」
キョトンとこちらを見る男に愛しさを覚えつつ、ここの海に来るまでの道のりをふっと思い出す。
シイは同じ隊服を見かけるやいなや駆け出そうとするので、二人っきりで海デートをしたい俺としては凄く、すごーく困ったのだ。|運良く《運悪く》シイに声をかけられた隊員達に断らせるために、多少普段しないような目付きをしてしまうくらいには。
思い出して苦笑した俺とは対照的に、己の中で何かに納得したのか太陽のような笑みを浮かべたシイを、もう一度カメラの中に収める。撮れた写真を見て、やっぱりこの時間を守り抜くためならば部下達に暫くビビられても構わないと、本気で思った。
ふと、カメラの充電が少なくなっていることに気がつく。別に今切らしたって良いとは思うのだが、もしシイが写真を撮りたくなったときカメラが使えなければ意味はない。
仕方がないので、先ほどの写真で撮り収めとしよう。そう思って電源を切ろうとして……間違えて、撮影した写真が見れるボタンを押してしまった。ずら、と見覚えのある写真達が目の前に並ぶ。
(……どのシイも、笑ってる)
そんな感想を抱くほど、今日の海の写真にも、昨日の買い食いの写真にも、一昨日隠し撮りした訓練の写真にも、どの写真にも笑顔のシイ以外は写っていない。シイのことを知らない奴が見れば、シイはいつも笑顔の陽気な男だと思うのだろう。
俺はシイの笑顔が好きだ。シイが笑っていれば、祖国が滅ぼうが世界が消えようが、なんだって構わない。シイに笑ってもらうためならば、俺はきっと零くんだって手にかける。
俺は彼の笑顔のために生きて、彼の笑顔に生かされているのだろう。そうして生きていけることこそが、俺にとってはこの上ない幸せなのだ。依存とも狂信ともとれるであろうこの生き方が、俺のような男には案外丁度良いのかもしれない。
そうして撮影した写真を振り返るうちに、一つの写真に強く惹かれる。それは、唯一笑顔ではないシイの寝顔だった。
笑顔のときのシイは子供のような愛らしさを纏っている。見たものの毒気を抜き、自然と皆シイが好きになる、そんな笑顔だ。
シイの持つ天性の魔性とも言えるそれは、彼を知る人物であれば魅力の一つとして必ず挙げられた。シイ自身も己の笑顔は好かれるものだと分かっているのか、《《時折意識して》》微笑むときもある。
だからこそ、寝顔というのは彼の意外な一面足り得るのだろう。精巧な彫刻のような、美しい寝顔。太陽のような愛らしさは消え、月光のような美しさがそこには残っていた。
シイは、いつかこんな顔で死んでいくのだろうか?そう思うとぞっとする。
彼の太陽のような笑顔が失われてしまったら、俺はいつ朝を迎えられるのだろう。太陽のない朝なんて、暗くて夜となんら変わらないのに。
いつか訪れるその日を想えば、いずれ失われる幸せが、|笑顔《生きる意味》が、酷く恐ろしいもののように思えた。
そうしてカメラを見つめ呆然とする俺に気がついたのか、シイがこちらへと走ってくる。
「フーゾ、どうかした?」
「……いや、何でもない。シイがあんまりにも可愛いから、見とれちゃって」
「えーホント?まぁそれなら良いけど、暇なら一緒に遊ぼうぜっ!」
「うわっ!」
ぐっ、とシイに強く腕を引かれた俺は、よろめきつつ海へと入る。幸い俺もズボンの裾は上げていたため衣服は濡れずにすんだが、カメラを落としそうになってヒヤッとした。
揺れる水面に囲まれ強くカメラを掴んでいると、シイがそれに気がついたのか優しく俺の指をカメラから離していく。
俺の手から離れたカメラは、シイの手に渡って……そうして、砂浜の方へと投げられた。それも、だいぶ乱雑に。あの着地なら、壊れてはいないだろうけれど……
「あ……」
「…こら、オレと一緒にいるのに、カメラにベッタリとか浮気だぞ?てことで、これからはオレとの時間ね!はい決まり!遊ぶぞ~!」
に、とシイが蠱惑的に微笑む。それは、どの写真にも写っていない…俺だけに魅せる笑顔だった。嗚呼、今この瞬間だけ俺の目がカメラになれたら良いのに。
先ほどまで抱いていた離別への恐怖は、シイの笑顔によって波に浚われて、俺らを取り囲む輝きへと昇華していく。
ぐいぐいと腕を引っ張るシイにつられ、俺の足はもつれる寸前だ。どんどん離れていく砂浜とカメラから、俺の意識も離れる。
冬の海は案外冷たくて、周りには誰もいなかった。そのせいで、この世界は俺とシイのたった二人になったような錯覚に陥っていく。海の光が、忙しなく視界の端で揺れていた。
「ちょ、シイ!転ぶ転ぶ!」
「あはは、拗ねた恋人のご機嫌取りも彼氏の役目だぞ~!ほら、どーん!」
「…も~!可愛いことして~!!」
こちらの胸へと飛び込む恋人を受け止めれば、彼の触れたところから愛おしさで暖かくなっていく。熱は恐怖で冷えきった心に届き、柔らかく溶かしていった。
シイとこのまま一つになって、そうして消えてしまえればどれだけ幸せだろう。愛おしい温もりを腕に抱き留めて、二度と離れないようにしてしまえれば、どれほど。
「フーゾくん、力強くねぇ~?」
「そんなことないよ」
「ふーん…」
嘘だ。このまま混ざりあってしまいそうなほど、俺はシイを強く抱き締めている。このまま惰性でシイと過ごせる日々を消費して、来るべき日を迎えてしまいたくなかったのかもしれない。
シイも何かを感じ取ったのか、首に回されていた手がするりと腰に添えられる。肩に押し付けられた彼の額の温もりに、どうしてか泣きたくなった。
海のさざめきがふっと静まる。カモメも風も、音さえ消えたようなその瞬間、確かに世界には俺とシイしか居なかった。
そんな馬鹿なことを、一人嘯く。
怖い。シイが居なくなることが怖い。シイのいない世界が怖い。いずれ訪れる未来が、明日訪れるかもしれないその瞬間が、怖い。それでも、否、だからこそ、今この瞬間が愛おしかった。
嗚呼、でも、できるのならば、叶うのならば……
(…シイを、失いたくないなぁ)
終わらない人生はあるのに、終わらない1日はこの世界には無くて。沈んでいく太陽を眺めながら、俺はシイの額にキスをした。
--- 想いで縛って、離れないで ---
---
--- フーゾ・ギディオンは不老不死である ---
手を繋いで横並びで歩く恋人を眺めては、そんな事実をふと思い出す。オレの視線に気がついた男、フーゾは優しくはにかんだ。その目が「どうしたの?」と問いかけるようで、オレは聞かれてもいないのに「何でもない」なんて返した。
海で遊んで、オレの火魔法とフーゾの風魔法で濡れた足を乾かして、時々寄り道をしながらもオレたちは軍基地へと帰っている。
別に寄り道をしたいほど興味のある店は無かったけれど、海で遊んでいる最中に様子がおかしくなったフーゾを元気付けたかったのだ。オレは気遣いが下手だから、こうする以外思い付かなかっただけ、だけれども。
「…ねぇ、フーゾ。今日楽しかった?」
「うん、凄い楽しかったよ。シイは?」
「もちろん!楽しかったに決まってる!」
にっと口角を上げて目を細め、笑顔を作る。オレが笑えばフーゾも笑顔になるんだから、フーゾってば案外分かりやすい。
本当は、聞きたいことなんていくらでもある。どうしたのとか、何で元気無いのとか。それなのに、オレの口は乾いて上手く動かなくて、そんな自分が嫌になった。
「……フーゾ、思い出できた?」
やっと絞り出した言葉に、フーゾがほんの少し驚いたのを視界の端で捉える。ぎゅっと握った手に浮かんだ汗に、わずかな震えに気づかれたくはないのに。
フーゾは少し考えると、不思議そうに「できたよ」と答えてくれる。変なことを聞いてしまった、なんて後悔はもう遅く、オレが口を開くよりも先にフーゾの声が耳を震わせた。
「シイって、わりと思い出作り好きだよね」
「…まーね。色々、あるし」
色々ある、って何だよ。自分で言っていても変な言葉は、フーゾにはどれほど奇妙に聞こえているのだろう。この数秒で、オレの恥は増えていくばかりだ。あまりにも|初心《ウブ》で、あまりにも滑稽。
「色々、って…例えば?」
「…うーん。フーゾが、寂しくならないように…とか」
ふっと、いつかの言葉が喉をついて出てくる。頭の良いフーゾは言葉の真意をすぐに捉えたので、その綺麗な顔に影が落とされてしまった。
そんな顔をさせるために言ったわけでは無かったからこそ、その顔に胸がちくりと痛む。それと同時に、そんな顔にオレはどうしようもなく悦びを感じてしまっていたのだ。
嗚呼、|啊《ああ》、オレの可愛い恋人、オレの可愛いフーゾ!オレが、自分が死んだ後の話をする度に浮かべるその|顔《恐怖》に、オレはどうしようもなく嬉しくなってしまう。
「そう、だね…俺も、シイと過ごした日々を思い出す度に、生きていける気がするよ」
「へへ、照れる~。オレが居なくなっても、オレのこと忘れないでね?別に縛られなくて良いんだけど、さすがに忘れられるのは悲しいからさ!」
「…うん。うん。忘れないよ、シイのこと」
こんな話をしているけれど、別にオレの寿命がすぐそこに迫っているわけではない。平均的な天狼の寿命は1000歳前後で、オレは少なくともあと700年ほどは生きている。
それなのに死後の話なんて気が早いのではないか、とついこの間零くんにも言われてしまった。オレ自身、気が早いなぁと思うのだけれど……|こんな仕事《軍人と殺し屋》をしているからには、いつ死ぬかも分からないのだ。早めに話しておいても、損ではないだろう。
オレがいつもフーゾに伝えているのは「オレが死んでも大丈夫なように、沢山思い出を作ろう」ってことと「オレが死んだら、縛られなくて良いけど時々思い出してね」ってこと。オレはフツウの恋愛を知らないが、きっとこんな話をしている恋人達も一人くらいはいるだろう。
そしてその話をする時、決まってフーゾは苦しそうな顔をする。当たり前だ、恋人が死んだ後のことなんて考えたくないに決まってるのだから。オレ自身、それはよく分かっていた。
こつ、こつと靴が石畳を叩く音に心地よさを感じる。フーゾの顔は曇っていて、そこにオレへの愛を感じてしまうのは、きっと歪なのだろう。
オレはフツウの恋愛を知らない。だからこそ、フーゾに抱くこの気持ちが本当に愛なのかさえ、確かではなかった。
フーゾは、オレが死んだらどうするんだろう。フーゾが、オレの《《本当の想い》》を知ったら、どう思うんだろう。
寂しくならないように?縛られないでほしい?全てとんだ大嘘だ、建前でしかない!オレのことながら、笑いが込み上げてきそうだ。
忘れさせるわけがない。忘れさせてやんない。そのためにこうして思い出を作って、フーゾの心に楔として突き刺していくような真似をしているのだ。
オレがいないこの世界で幸せに生きるフーゾを想像するだけで、可笑しくって笑ってしまいそうだった。そんなの存在するわけない、存在して良いはずがない!!
「ねぇフーゾ、好きだよ。世界でいちばん」
「俺も好きだよシイ。……お願いだから、長生きしてね」
「善処しまぁす」
冷たい気持ちが、どんどん心を蝕んでいく。オレの死後も、せいぜいオレがいないこの世界で絶望しながら生きていけば良い。あの時みたいに"オレの代わり"を見つけることなく、ぽっかり空いた|穴《虚しさ》を抱えて生きていけば良い。
自然と力が入る繋いだ手も、悟られないようにフーゾの大好きな笑みを浮かべる。
この気持ちを何と言い表せば良いのか、オレはまだ知らない。きっとこれからも解ることなんて無いし、誰にも知られないまま墓場まで持っていくつもりだ。
歪で、こんなに冷たくて、それでもきっとこれは愛なのだろう。だって、これはフーゾにだけあげるものなんだから!!
「…シイ?どうかした?」
「…ううん、何でもないよ」
「そっか」
不思議そうな顔のフーゾに、今度は自然と笑みが溢れる。嗚呼、可愛いフーゾ。こんなオレに捕まった、可哀想なフーゾ。オレ以外と幸せになるなんて、絶対に許さないからね。
「本当に大好きだよ、フーゾ」
「…シイ?本当に、どう…」
甘い響きを纏った囁きは、きっと柔らかくフーゾの心を刺していくのだろう。そうして、オレが死んだ後にまた深く突き刺さって、癒えない傷をつくるのだ。それで良い。オレにしか癒せない傷を、オレのいない世界で抱えて生きれば良い。
暗くなりかけた空に、黒いカラスの影がいくつも飛んで行く。街中の目も何も気に留めず、オレは後ろからフーゾの肩に顔を埋め、首筋にキスをした。
--- `思い出で縛って、離さない` ---
君と地獄でランデヴー
この物語はフィクションです。また、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
「「あ」」
ぱた、と白い陶器に薔薇の花びらが散る。否、正確には陶器は美しい肌であり、薔薇の花びらは返り血だった。
まるで血液の方から彼に飛びかかったかのように、血は彼の頬と薄汚れたマントを赤く染める。僕も、似合わない赤を身につけた彼も、驚いてしまって言葉が出ない。小さな喧騒に取り囲まれた路地裏が、静寂に包まれた。
昼と夕方の境目で、子供達が別れを惜しむ頃。本日3件目だった単発の|仕事《殺害》も終わりに差し掛かった時、路地裏の角からRさんが突然現れた。
彼の気配を消す癖と、僕の集中したら周りが見えなくなる欠点のせいで、気がついた時にはもうRさんにマル対の返り血がかかってしまったのだ。
なんでこんな時に限って血が大量に吹き出してしまうタイプの刀を持ってきたんだろう。後悔してももう遅く、後の祭りだが…それでも、今日の自分の選択を恨まざるを得なかった。
本来なら、血がかかるとかそれ以前に、まず目撃されたのでこの場で彼を殺す必要がある。しかし、彼は曰く不老不死らしい。
この場合、マニュアル通り一応切っておいた方が良いのかが悩みどころだ。……などと、僕は気まずさでどうでも良いことに脳のリソースを使ってしまっている。
ぱた、と刀の切っ先から血が滴り落ちた。足元に転がった女の紅が、血が触れたところから鮮やかになっていく。
「…お仕事中でしたか」
「その、すいませんRさん。まさかいらっしゃるとは、思わなくって……」
驚きから穏やかな笑みへと移ろう|彼《Rさん》は、慣れた仕草で頬の血を拭う。彼の指先は美しく赤に濡れたのに、案外爪の周りは荒れていて、僕の生唾を飲む音がひどく大きく聞こえた。
Rさんは、靴が血で濡れないように踏み分けてこちらへと寄る。僕はただ、ゆらり、ゆらりとした足取りをぼおっと見つめることしかできない。
見つめているうちに、僕と少し離れたところで彼の足が止まる。
「ここ、普段来ないところなんです。近くの体が洗えるところを知りませんか?」
「あ…えっと、ここの近くにはあまり…」
首をゆるりと傾げて、Rさんはこちらを見下ろす。その顔は少し困ったように眉が下がっていて、どうしようもなく魅力的に映った。
どうにかして彼のために代案を見つけてあげたい、何か良いところは無かっただろうか?と頭を必死に働かせる。ああでも、この近くは軍の寮がほとんどで、ホームレス用のシャワールームなんかはもっと外側にあるのだ。
「おや、世界が違くっても同じだと思ったのですけれど…」
「?…ええと、何がでしょうか?」
僕がそう言うと、Rさんは血で靴が濡れてしまうのも構わずにこちらへと近づく。え、と声をあげるだけで精一杯だった僕は、あっという間にRさんの顔にすぐ近くまで迫られてしまった。
慌てて後ろに下がる。が、壁が後ろにあったからかRさんの色香からは逃れられない。する、と柑橘のような、花のような不思議で良い香りが眼前まで迫ってきてしまう。
この人、本当に異世界の僕なのだろうか?それにしては、あまりにも教育というか……その、諸々に宜しくない。非常に、だ。
「…貴方の家、ここから近いでしょう?もし良ければシャワーを貸してほしいのですが」
「は…はひ…」
(嗚呼…どうして、この人の前ではこうも格好つかないんだろう…)
壁に追いやられて、というかほぼ壁ドンのガチ恋不可避な距離に迫られた僕は、情けなく頷くことしかできなかった。
---
布ずれ、そして布が落ちる音が静かに響く。あんまりにも静かなものだから、僕の心臓の音がいちばんに大きいんじゃないかと心配になってしまう。
今日はちょうど、シイさんとフーゾさんがメーラサルペで合同訓練をしている日だった。だからこそRさんを誰にも気づかれずに家にあげることができて、内心ホッとしている。
「……素敵なおうちですね」
「ありがとうございます。殆んどは、シイさんとフーゾさんのセンスが良いからですよ」
「掃除はあなたが?」
「いえ、殆んどシイさんが行っています」
「…へぇ」
内心それどころじゃないけれど、なんとか冷静に見えるように返答した。RさんはRさんで何か思うところがあるのか、これ以上話を聞かれることが無かったのが救いである。
本当なら、Rさんだけで入って貰うつもりだった。なのに、Rさんが突然「二人で入った方が水道代も安くなりますよ」と言い出すものだから、あれよあれよと流されて一緒に入ることになってしまったのである。本当に、情けない自分が嫌になる。
「…えい」
「ひゃっ、な、なんですか急に」
ため息をついたとき、突然Rさんに背中をつつかれて変な声が出てしまう。振り返ろうとしたが、今のRさんは裸だったと気がついてしまった。これじゃあ振り向くに振り向けないではないか。
僕がそんな様子なのを良いことに、Rさんはすうっと背骨のあるあたりをなぞる。乾燥した指先が背中をなぞるのが、どうにもくすぐったくて仕方がない。
「一応僕も元殺し屋ですけれど、そんな風に背中を見せていて良いんですか?ほら、つつかれちゃいますよ」
「あう、う~…もう、やめてくださいよ。暇なら先に入っててください!」
「ふふ、はぁい」
(うわあああああビックリしたビックリしたビックリした!!!)
バクバクと落ち着かない心臓と、まだシャワーを浴びていないのに熱くてしょうがない顔に思わずうずくまる。Rさんは僕が入るまでシャワーを使わないつもりなのか、扉の音の後に水の音は続かない。
自暴自棄になって、ズボンを脱いでガータークリップを外す。一度脱ぎ出してしまえば案外思いきりは良いもので、そのまま脱衣所から風呂場へと続くドアを開けた。
シャワーの雨が床に叩きつけられる音だけに耳を澄ませ、目をつぶりながら体を洗う。もう25になると言うのに同姓の裸ですら直視できず、情けない気持ちで血が落ちることを願っていた。
よくよく考えてみれば、二人でシャワーを浴びるだなんてとてもじゃないが効率的とは言えない。そんなことすら分からないほどに僕はRさんに見惚れていたし、Rさんはそんな僕をからかっていたのだろう。
そっと目を開く。Rさんを視界にいれないように体を見れば、ちゃんと血は落ちていた。血が付着したところを記憶さえすれば、目を瞑っていても案外落とせるらしい。
こんなところで、そんな意味の分からない学びを得たくなかった…。
「……血、上手く落ちませんね」
「えっ、そうなんですか」
「昔から、血を被らないようにしていたので…落とすのはそこまで上手くないんです」
Rさんの方を見れば、確かに頬から伝ったのであろう胸の位置に血が残っている。この程度なら拭えば落ちるだろうに、どうして?と不思議に思いながら指先で血を拭った。
やはり血はすぐに消えて、また綺麗な肌へと戻る。落ちましたよ、と彼の顔を見上げて伝えようとして、喉から変な息が漏れ出た。
ふ、と唇に温もりが宿る。慌てて背中を反らして、転ばないように足で体を支えた。心音がひどく煩くて、シャワーの音すらまともに聞こえやしない。
「…す、っすいません!あの、ええっと」
「いえ、構いませんよ。僕の方こそ、少し意地悪でしたね……あんまりにも、貴方が僕を避けるんですから。気になってしまって」
シャワーで清められた彼の指が、形の良い唇を滑る。いやに扇情的な光景に目をそらして、必死に先程の感触を忘れようと考え事ばかりをしていた。赤い顔が、シャワーのせいだけではないと気づかれなければ良いのだけど。
僕は血を落とし終えたので、シャワーを止めようと腕を伸ばす。一刻も早く、この気まずすぎる状態をどうにかしたかった。
「Rさん、血落とし終えました?」
「恐らく。…ああでも、見落としがあるかも。見てくれませんか?」
「っっっえ、あ…」
「不安なので」
す、とシャワーを止めようとした手を掴まれて、そのまま彼の体へと持っていかれる。見てはいけないのに、渦巻く抗えない欲望に飲み込まれて、僕はRさんの方を向いてしまった。
(…きれい、だ)
すらりと均整のとれた細身の体も、傷一つ見えない白い陶器のような肌も、血の色を透かしている狭い肩も、全てがこれ以上ないほど美しい芸術品のように見える。
極めつけは、Rさんの聖母マリアも感涙しそうなほどの完璧な笑みだった。中性的なようで女性的なような、曖昧な美がそこにいる。
捕まれた手が彼の腹部へと触れた。誘われるままに腹をなぞれば、何となくでこぼことした感覚を指が覚える。
「…修復跡です。見た目はきれいですが、それもあくまで魔法のお陰ですよ」
「しゅうふく、あと」
「そう。…ここは刀、ここはナイフ、ここは…確か、打撲で骨が折れたとき」
「…」
産毛の一つも生えていない、少し起伏のある肌を撫でた。彼の生きてきた証が、死に至った証が、今この手に触れているのだ。
異世界の自分の体を触って、きっと今僕はどうしようもなく興奮している。醜い昂りこそないものの、これでは時間の問題だった。脊髄を駆け巡る退廃的な背徳感に、小さくため息が溢れて、消えていく。
こんなのってない、彼は異世界の自分だ。そんなのに欲情するだなんて《《可笑しい》》じゃないか。そう自分に言い聞かせるが、頭の中に生憎耳を傾ける僕はいない。
ぐるぐる地獄のように熱が渦巻き、茹って、そうして脳みそが全て蕩けてしまいそうだった。
「…なんか、地獄みたいですね」
「へ?」
「足元。赤くなってる…」
どうやら流れ出した血がお湯を赤く染めて、足元に溜まっていたらしい。Rさんが僕の惨状に気がついたのかと思って少し焦ってしまった。
しかし、何か妙だ。なぜこんなにも音が曇るのだろう?Rさんのせいで、頭の中がクラクラして、耳なりまでして……
「「あっ」」
ぱた、と水面に新鮮な朱が広がる。生ぬるくて少しとろっとしたそれは、僕の唇を伝って顎から滑り落ちていた。
口の中に鉄の味が広がると共に、瞬きもしていないのに暗闇が目の前に広がっていく。足は力を失って、体がはしと誰かに抱き止められた。
そうして耳鳴りの奥でRさんの声が聞こえたのを最後に、僕は逆上せて気絶したのだ。
---
ひんやりとした心地よい感覚があることに気がつく。どうやら眠っていたらしく、僕は自室のベッドの上で目を覚ました。
バスローブの柔らかい心地から来る微睡みを保ちつつ、むくりと起きあがる。辺りを見回したが、Rさんの姿はない。
「…ゆめ?」
いや、夢なはずはないのだ。僕はバスローブで寝ることはないし、髪の毛は乾かしたての暖かさを保っている。まだ近くに、Rさんはいるだろうか?
お礼を言いたいという純粋な気持ちだけで部屋を出て、彼の名前を呼ぶ。が、ただ虚しく声は部屋に響くばかりでRさんの返事はない。
冷たいため息をついて、またその場にへたりこむ。体の外側はとっくに冷えきっていたのに、体の内側に渦巻く熱だけがどうしても引かない。
時計を見れば、針は12時ぴったりを指していた。頭の中には昔読んだ、シンデレラと置いていかれた王子の絵が浮かんでいる。
覚束ない足取りで部屋へと戻り、またベッドに逆戻りした。とはいえ、こんな昂りがある状態で眠れるわけでもなくただ横になるだけだったが。
また大きくため息をつく。今度の吐息は随分と熱く、冷えた体とは対照的だ。
「……もしかして」
寒さで震える手で体温計を探し、脇にはさんで少し待つ。少し待てば聞きなれない電子音が鳴り、結果が表示された。そこにある数字は38.7℃。誰がどうみても熱である。
あまりの寒気に耐えかねて、しっかり着込まんと僕はまたベッドから身を起こした。
そうしているうちにいつの間にか、体の内の熱は消えていて。シイさんとフーゾさんが早めに帰ってくることを祈りながら、僕は眠りについたのだった。
そんなわけで、逆上せたか体が冷えたかで免疫力が下がった僕は一週間の間療養することになってしまった。結局、治ってからもRさんにあの行動の真意を聞くことはできていない。
再開したRさんはケロっとしていて、あの日の妖艶さも香りも失せていた。そんなわけだから、再開した時には僕をおかしくした熱は夢のような心地を残して消えていたのだ。
Fin.