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泥中ズタ袋
ふと、気づく。頭が重くない。脳が縛られていない。あの重みはどこにあるのだろうか。身体は泥まみれのように鈍く動けもしないが、心は羽のように軽いのだ。
リリスが嘲笑っている。私も嘲笑っている。皆、嘲笑っている。
「誰が何であるかなど、最早どうでもいいこと。同じ者が同じ事をする。それの何が悪いのか。誰もが現には存在せず、妄に浸っているだけに過ぎぬ」
諦めろというにはまだ早すぎる。段階は踏まれていない。妄が一人。ポータルは近づいている。ポータルは近づこうとしている。ポータルが止まる。まるで、躊躇っているかのように。
生まれた頃から、何かが違っていた。口を開けば口々に異常だと狂気だとありもしないことを並べたて、積み重なったレッテルが凝固して私になっていった。
自分が異常だとは思っていない。皆が普通だとは思っていない。それだというのに、外見や話し方、果ては生まれ持った性分ですら異常だと理不尽に石を投げる。石に籠もった偏見は離れもせずに皮膚にかすり傷をつけ、流れ出た血に溶けていく。
味のしないスープを大量のスープの中に溢して混ざり合うまでを見続けたとしても、答えは解らない。そのスープをひっくり返して、鍋の外へ放り出しても解らない。解かるはずもない。美しく汚かったものが、汚く美しいものに触れるだけの溢れたスープ。どれも味は違うのに、どこか違う。私たちは違う者で同じ者に過ぎない。
大量のスクールデスクとスクールチェアが並べられ、正面に教卓と黒板が聳え立っている。黒板には大量に文字が描かれ、本来どんな文字が描かれていたのかは絶妙に分からなかった。その学校のような空間の窓には小鳥がせせらぎ、青々とした森が陽光に照らされつつ鬱蒼と茂っていた。
「青空緑に隠れ天見えず、小鳥が喚き散らす夏の残日……」
スクールデスクの上に腰掛けたリリスが呟き、翼をぴこぴこと揺らす。それがどうにも愛らしく、湧き出た慕情が空回りしている。
森の遠くの方には首元の内側から黒地で不規則な赤の文様が入ったTシャツが見え、ゆったりとした黒い長ズボンで誤魔化された痩せた身体が、大きいボロ切れのような青い外套を羽織っていた。その中で、服に着られた身体の顔のどこか異常な視線の目つきが奇妙で寒気を覚える。
「あれは?」
「知るか」
ぶっきらぼうな会話。行けなくなった場所で、出来もしない会話。部屋の時計が鼓動と同じく喧しい。どくん、ちくたく、どくん、ちくたく、どくん、どくん、どくん。
誰かが窓越しに近づいている。草花が遠慮なく踏まれている。悲鳴がなんとなく、聞こえる。かたんっと音がして窓が開かれ、開いた主はリリスの尻尾。器用にも尻尾は自由らしい。窓の前の誰かがそこにいる。
「……あの、名前は……?」
「名前?……カイト」
「…………」
隣でリリスが少しだけ満足げにしている。会話をもっと続けないといけない。
「す、好きなものとかって、あります、か?」
「……ない」
「嫌いな……もの、とか……」
「私にとって不快なもの全部」
「………あ、あ、あぁ……わ、私!イデア!イデアです!」
「そう」
「……良かったら、ですけど……フレンドになってくれたり……」
「……金利?商売の話?」
「金利?」
横でリリスが「友をお金で買うのも手かもしれんな」と呟く。否定するくせに。
ふいにリリスが名前をカイトに教え、一言だけの疑問を問う。
「金融に詳しいなら、外にも慣れているのか?」
「…………」
「カイト?」
風船か勢いよく弾けたような気がした。
「外の世界はゴミで、バカしかいないし、誰も私のことを理解しようともしない。された試しすらない。この世に神がいるなら、今すぐ引きずり出してでも叩き殺してしまいたい。なんで私はここに生まれたんだとか、もっと他に場所はあっただろうとかを考えてると気が狂いそうになる。ああ、畜生、畜生、畜生……!」
いやに饒舌にカイトが捲し立てる。言葉は止まりそうにもないが、リリスがつまらなさそうに浮かんでいる。
「そもそも、この世界の構造自体が欠陥品。誰も彼もが自分の物差しで他人を測って、少しでも形が合わなければ、異常のレッテルを貼って排除する。学校も、家も、あの忌々しい太陽の下にあるもの全部! 私を追い出した連中の顔、一人残らず網膜に焼き付いてる。死んでも忘れない。あいつらが一番不幸な瞬間に、枕元に立って魂ごと食いちぎってやりたい……ねぇ、お前もそう思うでしょ?思わないって言うなら、お前もあいつらの仲間か?」
「……面倒な……」
リリスが少しだけ口角を上げた途端にまた風船が弾ける。一つ、また一つと弾ける。
「……は?今、笑ったよね?隠そうとしても無駄だよ、お前のその口角が1ミリ上がったのを私は見逃さなかった……あぁ、そうか、分かった!お前もあいつらと同じなんだ!私のこの格好を見て、この痩せこけた体を見て、心の中で指をさして嘲笑ってるんだろ?『こいつ、現実じゃ居場所がないからこんなボロ布纏ってVRに逃げ込んでるんだ』って……そう思って優越感に浸ったんだろ!否定したって無駄!お前のその澱んだ目の奥に、私を蔑む醜い色がハッキリ見えた……あぁ、気持ち悪い!反吐が出る!……いいか、お前!私がこれまでどんな思いで、どれだけのゴミ溜めを這いつくばって生きてきたか、想像もできないくせに……笑った罪は重いよ。お前が今日、ここで私に向けたその『嘲笑』が、お前の人生を終わらせるトリガーになる。地獄の底まで追いかけてやるからな!ログアウトすれば逃げられるなんて、そんなおめでたい頭で考えてるんじゃない!お前のID、お前の声、お前の癖、全部私の脳に刻みつけた。お前が眠りにつくその瞬間も、朝起きて鏡を見るその瞬間も、私の恨みが霧のように張り付いて、お前の喉をじわじわと締め上げる。死ぬまで後悔させてやる!神様に祈っても無駄だよ。もし神がいるなら、私がお前をズタズタにする前にそいつもろとも引きずり下ろして、まとめて地獄の業火で焼いてやるから。……さぁ、次はどんな言い訳をする?その汚い口を開けてみろよ。……殺す。殺す。殺す、殺す、殺す、殺す、殺す!お前が生きてる一秒一秒を、私の呪いで埋め尽くしてやる……!」
「…………」
流石のリリスも黙っていた。恨み言がとめどなく流れていて、教室の中に文字が浮かんでいた。私の耳元で「外へ出れやしないのに、外から来たような発言をする。奇妙な人らだとは思わぬか、主よ」とリリスが零す。私は笑って、首を縦に振った。
もう分かってるんだ。私が貴方で、貴方が私。私たちが貴方たちで、貴方たちが私たち。全てが同じとは言わないけれど、似たようなものであるのは確かだから。