公開中
3章:春の狂想曲
春になった。
長い冬のあいだ港町を覆っていた霧は少しだけ薄れ、石畳の隙間には名も知らぬ草が芽吹いていた。
それでも街は相変わらず貧しかった。酔漢は溝で眠り、新聞は売れず、私の原稿料は安かった。
ただ、一つだけ変わったことがある。
部屋に眼鏡が置かれるようになった。
最初は古びた丸眼鏡だった。
次は銀縁。
その次は片眼鏡。
『 店で買った 』
ウィルはどこか誇らしげだった。
「だからって毎晩買ってくる奴があるか」
机には使いもしない眼鏡が山のように積まれていた。
盗んだのではないかと疑ったが、彼は律儀に店へ金を払っているらしかった。
『 どれが合うのか分からない 』
「店員に聞け」
『 店員は私を見ると十字を握る 』
私は吹き出した。
ウィルは不満そうに黙り込む。
その顔が妙に子供じみて見えて、私はまた笑った。
あの死首の夜以来、彼は少しだけ人間の世界を学び始めていた。
パンは店で買うこと。
扉は壊さずに叩くこと。
墓地の花を勝手に持ち帰ると怒られること。
永遠を生きるくせに、何一つ知らない男だった。
私は時折、彼へ文字を教えた。
ウィルは古い綴りを嫌い、すぐ顔を顰めた。
『 人間の言葉は難しい 』
「お前が長く生きすぎてるんだ」
『 昔はもっと単純だった 』
「昔っていつだ」
ウィルは少し考えた。
『 ペストが流行る前 』
「馬鹿げてる」
本当に馬鹿げていた。
だが春が深まるにつれ、私の身体は目に見えて衰えていった。
階段を上るだけで息が切れる。
ペンを握る指が震える。
眼鏡を掛けても文字は霞んだ。
ある夜、私は机に伏したまま眠ってしまったらしい。
目を覚ますと、肩へ外套が掛けられていた。
『 風邪を引く 』
ウィルが窓辺に立っていた。
夜明け前の薄青い光が、白い頬を透かしていた。
「吸血鬼が風邪の心配か」
『 人間は脆い 』
「老人だけだ」
私は咳き込んだ。
肺の奥で紙が裂けるような音がした。
ウィルは黙っていた。
『 死ぬのか 』
あまりに真っ直ぐ訊くので、私は少し笑った。
「たぶんな」
『 どれくらいで? 』
「さあ。半年か、一年か」
『 短いな 』
「人間はそんなものだ」
彼は窓の外を見た。
夜が少しずつ白み始めている。
『 君といると、短いという感じがしない 』
私は返事をしなかった。
その言葉が妙に胸へ残ったからだ。
数日後。
春の陽気が港へ満ちた昼だった。
私は机に向かったまま、ふとペンを落とした。
窓の外で子供たちが笑っている。
行商人の鐘が鳴る。
遠くで船笛が響く。
世界は静かに生きていた。
私は椅子へ深く凭れた。
身体がやけに軽かった。
眠気によく似ていた。
ああ、終わるのだな、とぼんやり思った。
ウィルは昼には現れない。
棺桶の中で死んだように眠っている。
だから最期に誰もいないことを、私は少しだけ幸運に思った。
怪物へ、人の死は重すぎる。
霞む視界の向こうで、春の光だけが白かった。
私は静かに目を閉じた。