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序章:溶け出した文字
十九世紀末、霧の濃い港町に私は住んでいた。
石畳はいつも湿っており、街灯は病人の眼のように淡く揺れていた。私は三流新聞の片隅へ短い随筆を書き散らしながら、古びた屋敷の二階を借りて暮らしていた。
その屋敷には、もう一人住人がいた。
名を**ウィル**という。
昼には決して姿を現さず、夜になると蝙蝠の羽音のような気配だけを廊下へ漂わせる男だった。肌は雪より白く、指は痩せ、黒衣の裾からは墓場の土の匂いがした。
私は知っていた。
彼が《《吸血鬼》》であることを。
最も、知ったところで驚きはしなかった。貧乏人というものは、怪物の一匹や二匹に怯えて生きてはいられない。
ある雨夜、私は机に向かったまま目を擦っていた。
『 また原稿か 』
いつの間に現れたのか、ウィルが背後に立っていた。
「最近どうも文字が霞む。歳のせいかな」
そう言いながら、私は紙面へ顔を寄せた。インクの輪郭は滲み、まるで溺れた蟻の列のようだった。
ウィルはしばらく黙っていた。
『 見えないのか 』
「歳だろうさ。作家まがいには酷な話だ」
冗談めかして笑うと、彼は妙に深刻な顔をした。
青白い瞳だけが、夜の獣みたいに光っていた。
『 そうか 』
彼はそれだけ言い残し、闇へ溶けるように去った。
翌日の夜だった。
激しく扉を叩く音で、私は飛び起きた。
『 開けてくれ 』
ウィルの声だった。
扉を開いた瞬間、鉄錆の臭いが部屋へ雪崩れ込んできた。
彼は麻袋をいくつも抱えていた。外套には黒い染みが飛び散っている。
「どうした?」
『 探してきた 』
低い声だった。
袋が床へ置かれる。
ごとり、と嫌な音がした。
次の瞬間。
袋口から転がり出たものを見て、私は息を呑んだ。
老人の首だった。
白髪混じりの頭部がいくつも、床板を鈍く転がる。閉じた瞼。乾いた唇。半ば腐りかけたものまであった。
私は壁際まで後退した。
「ウィル……お前、何をした」
彼は真剣な顔で死首を並べ始めた。
まるで古道具屋が商品を検めるみたいに。
『 老いた者なら持っていると思った 』
「何を…?」
レオンは一つの首を持ち上げた。
その耳には金縁の眼鏡が掛かっていた。
『 この中に、君に合う眼鏡があればと思って 』
私は言葉を失った。
だが、彼は続けた。
『 昼の街へ出られない。店というものも詳しくない。だが、人間は老いると目が悪くなるのだろう。ならば良い眼を持っている者を探せばいいと思った。 』
その声音には、誇らしさすら滲んでいた。
子供が野花を摘んできた時みたいな顔だった。
私は震える指で額を押さえた。
「お前……」
『 違ったか? 』
本当に分からないのだ。
彼は。
人間の暮らしを知らない。市場も知らない。眼鏡店も知らない。ただ、誰かを助けたいという一念だけで夜の墓場を駆け回ったのだ。
その果てに、こんな惨たらしい贈り物を抱えて。
私はたまらず笑った。
笑いながら泣いた。
「馬鹿だな、お前は……」
ウィルは困ったように瞬きをした。
『 気に入るものはなかったか 』
「そうじゃない」
涙が止まらなかった。
恐ろしかった。
哀しかった。
そして何より、嬉しかった。
人を愛する方法を知らぬ怪物が、たった一人の友人のために夜を血で汚したのだ。
私は震える声で言った。
「眼鏡は店で売ってるんだよ」
ウィルはしばらく沈黙し、それから小さく目を見開いた。
『 ……店? 』
「ああ。金を払えば買える」
『 殺さなくても? 』
「当たり前だ」
彼はゆっくり俯いた。
長い黒髪が頬へ落ちる。
『 そうか 』
その声は、酷く静かだった。
私は初めて、吸血鬼というものを憐れんだ。
永遠の夜を生きながら、人間の当たり前を何一つ知らない存在。
彼は怪物だった。
だが同時に、誰より不器用で、誰より孤独だった。
窓の外では霧が流れていた。
ウィルは床に並ぶ死首たちを見つめながら、ぽつりと言った。
『 ……すまない 』
私は首を振った。
「いや」
そして、滲む視界のまま笑った。
「ありがとう」