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目次
「中総体の悔しさを胸に」
今回登場する学校名・人物名などは一切実在の団体や学校などと関係ありません。
舞台は相当な激戦区。
二〇二六年、六月。
阿波町総合運動公園テニス場を包む空気は、初夏特有の乾いた熱と、太平洋から海里川を遡ってくる重い海風に支配されていた。
東里中学校のベンチ最前線。一年生の漣は、カチカチと音を立てる数取り器を握りしめ、身を乗り出すようにしてコートを見つめていた。
今回は試合のエントリーからは外れた。けれど、選手登録された部員として、漣はこの聖域に入ることを許されている。すぐ目の前を、東里が誇る二大巨頭——
鷹司・田代ペアが、地を這うような烈しいストロークで駆け抜けていく。
「パァァァン——!」
軟式テニス特有の、空気を爆破するような高音。
硬式テニスの重苦しい金属音とは違う、ゴム毬がガットの網目に深く沈み込み、一瞬の『しなり』を経て解き放たれる破裂音だ。チェンジサイズのたびに、汗と芝の匂いを纏った先輩たちがベンチへなだれ込んでくる。漣は狂ったように声を張り上げ、弾き出されるようにして選手の水筒とタオルを差し出した。
午前中の予選リーグは、まさに狂騒だった。
絶対王者である奄美西中学校を相手に、若宮・高峰ペア、そして鷹司・田代ペアの二枚看板が神がかり的な猛攻を見せ、見事に土をつけたのだ。
「よし、次もいけるぞ!」
予選勝利の瞬間、ベンチ裏で先輩たちと交わしたハイタッチの痛烈な感触が、まだ漣の掌に残っている。六年生に野球クラブを辞め、この白球の世界に飛び込んできたばかりの漣もまた、東里の黄金期が奄美の頂点を極めるのだと確信していた。
——けれど、決勝の舞台は『魔境』と化した。
這い上がってきた奄美西の眼光は、予選のそれとはまるで違っていた。彼らは東里の絶対的2ペアの配球を、冷徹にデータ化して封じ込めてきたのだ。
1勝1敗で迎えた、運命の3番手戦。
西中の前衛が、猛禽類のようなステップでネット際を完全に支配していた。東里のサードペアの焦りを誘うように、わずか数センチの隙間へ正確無比なボレーを突き刺してくる。
「ゲームセット、奄美西中学校——!」
無情なコールが、閉伊川の川風に掻き消された。
団体戦準優勝。
さっきまで熱気に満ちていた東里ベンチは、一瞬にして通夜のような静寂に包まれた。賞状を手に、呆然と立ち尽くす先輩たちの広い背中。泣くことすら忘れたような若宮や高峰の横顔を、漣はベンチの定位置から、ただ見つめることしかできなかった。
……あと一本だ。あと一本、西を崩せる武器があれば
漣は、硬く握りしめた数取り器を見つめた。
野球クラブ時代、センターの定位置からホームベースまでの距離を、彼は誰よりも正確に測ることができた。打球の音、角度、風の抵抗。それだけで放物線の終着点を看破できた。
テニスコートという四角い檻は、あの広大な外野に比べればあまりにも狭い。なのに、あのネット際の数メートルが、今の東里にとっては果てしなく遠い世界の境界線に見えた。
西中に勝って、先輩たちの悔しさを晴らすには、自分が、あの3番手戦を絶対的な『勝利の兵器』に変えるしかない。
「おい、漣。いつまでスコアボード睨んでる。片付けだぞ。…大丈夫だ。準優勝でも県大会には出れる」
隣で同じくベンチに入り、スコアシートを握りしめていた同期の後衛が、掠れた声で言った。その瞳にも、西中への烈しい敵意と悔しさが宿っている。
「……分かってる」
漣はユニフォームのポケットに数取り器を押し込み、まだ一度も公式戦の赤土を汚したことのない、新品のテニスシューズのつま先を見つめた。
あの奄美西の精密機械のような前衛を、自分の『外野手の足』でブチ壊してやる。
名門・東里の新チームが、今このベンチから始まろうとしていた。
「県大会へ向けて」
負けた。
そんな言葉だけが、漣の頭を支配していく。
勝てるはずだったのに。
予選では、勝てたのに。
決勝の壁は重く、ずっしりと。
東里の前へ立ち塞がった。
表だけ見れば、準優勝——
県大会、出場。
輝かしい功績なのに。
先輩たちは…1年生たちは…
誰1人として、喜ぼうとしなかった。
あと1歩だったのに。
最終スコアは4-3。
勝てたはずなのに。
何をすればよかったんだろう。
俺の応援が足りなかった?
先輩の実力不足?
何もかも、考えたくない。
「おい!明日部活なんだから準備しろ!!」
階下からの母親の鋭い声で、漣はハッと我に返った。
部屋の明かりを消した暗闇の中、ベッドの上でぐしゃぐしゃに握りしめていた数取り器が、手のひらに冷たくめり込んでいる。
そうだ。明日も、部活はあるんだ。負けて、すべてが終わったような絶望の中にいるのに、夜が明ければまたあのコートへ向かわなければならない。
喜べない準優勝の賞状を抱えたまま、東里中学校ソフトテニス部の新チームは、否応なしに始まろうとしていた。◇翌日。うだるような初夏の太陽が、容赦なくテニスコートを焦がしていた。
「おい、新チーム! いつまで死んだ魚の目をしてんだ!」
コートに響き渡ったのは、引退を間近に控えた三年のキャプテンの声だった。県大会を控えているとはいえ、中総体決勝で奄美西に4-3の大接戦の末に敗れた傷跡は、三年生にも、そしてベンチで声を枯らしていた漣たち一年生にも、深く刻まれたままだ。
「三年はまだ県大会が残ってる。だが、お前ら一、二年生にとっては、もう秋の『新人戦』に向けたカウントダウンが始まってんだよ。二年の先輩と一年、交ざってペア組め。三年の俺たちがガチで球出ししてやる」
促されるようにしてコートに入った漣の前に、新チームでペアを組むことになった二年生の先輩が立った。
「漣、行くぞ。球、しっかり見てろよ」
先輩の声に、漣は「はい」と短く答え、ラケットを構える。
パァン!と、乾いた空気を爆破するような高音が響く。
三年のエース後衛が放った、手加減なしのシュートボールだ。
——速い!
野球のセンターだった漣の目は、打球の音と角度から、瞬時にその放物線を見抜く。
一歩目の踏み出しは完璧だった。しかし、軟式テニスのゴムボールは生き物のように変化する。太平洋からの海風に煽られ、バウンドした瞬間にグンと手元で伸びてきた。
「くっ……!」
合わせにいこうとしたラケットのフレームをボールが激しく叩き、漣の手首が大きくブレる。打球はコントロールを失い、大きくネットを越えてコートの外へと消えていった。
「どんまい漣! だけど今の一歩目は悪くねえ!」
ペアの二年生が声をかけてくれるが、漣は自分の手のひらに残る重い衝撃に唇を噛んだ。
昨日、決勝の3番手戦で、奄美西の精密機械のような前衛にボレーを叩き込まれたあの光景が脳裏をよぎる。
「甘いぞ新チーム!」
三年の先輩が容赦なく次の球を打ち込んでくる。
「今の球の威力、コースのえげつなさ、これが『奄美西』の基準だ。あいつらの新チームは、もうこのレベルのテニスをしてくる。今のままじゃ、新人戦で当たっても一ゲームも取れずにフルボッコにされるぞ!」
フルボッコ。その言葉が、漣の胸に冷たく突き刺さる。
でも、胸の中の黒い悔しさを振り払うように、目の前の先輩たちの打球を一本でも多く盗み取ろうと、泥臭く足を動かし続けるしかなかった。