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夜の風は嫌いなはずだった_2話
屋上から吹き抜ける風は、依然として肌を刺すような冷たさを保っていた。
しかし、先ほどまで私を支配していた絶望的なまでの孤独感は、
隣に立つ少年の体温によってわずかに和らいでいた。
私は彼の手の温もりを感じながら、夜景を見つめたまま問いかけた。
優花「……夏希くん。あなたはなぜ、私のことを見守ろうと思ったのですか? 私のような、何も感じられない人間を」
その問いに、夏希は一瞬だけ視線を落とした。
彼の指先がわずかに震えているのを、私は見逃さなかった。
彼はポケットの中に大切に仕舞い込んだ「何か」――彼自身の孤独の源泉があることを予感させるような、複雑な表情を浮かべた。
夏希「……正直に言うなら、自分と同じ匂いがしたからだよ。君の笑顔が嘘だって気づいた瞬間、俺は自分のことを見ているみたいに思えたんだ。みんなの前で輝いてる時も、本当は『誰かのために』っていう義務感だけで動いてることがある。でも、君の顔を見た時……それはもっと深い、底の見えない空虚に見えた」
彼は自嘲気味に笑いながら、夜空へと視線を戻した。
夏希「俺には、叶えられなかった夢を背負ってる『第1ファン』がいる。あの子はもういないけど、その子の願いを叶えるために俺はステージに立ってる。だからこそ、君の絶望がわかるんだよ。感情を失うってことは、世界から色が消えることだろ? 俺も、自分の色を見失いそうになる瞬間がある」
彼の言葉には、アイドルとしての華やかさなど微塵もなかった。
そこにあるのは、同じ地平で孤独と戦う一人の人間の剥き出しの魂だった。
優花「……私にとっての世界は、ずっとモノクロでした。兄や両親を失ったあの日から、何も色がつかなくなったんです。笑わなければならない場面でも、悲しむべき場面でも、私の心はただ静かな水面のように凪いでいるだけでした」
私は自分の内側にある空虚な器に、初めて小さな雫が落ちたような感覚を言葉にした。
それは彼に打ち明けることで、ようやく形を得たものだった。
夏希「なら、いいよ。今はまだ色がなくても。俺が君の隣で、少しずつ色を塗り足していくから」
彼は再び私の手を取り、今度は指を絡めるように強く握った。
その力強さは、私をこの場所へ繋ぎ止めておくための錨(いかり)のように感じられた。
夏希「まずは、俺のステージを見に来てくれ。君が自分の心に嘘をつくのをやめた時、一番近くで見守らせてもらうって言ったのは本当だ。……でもそれだけじゃない。君がいつか、自分の意志で笑いたくなった時、その瞬間を誰よりも近くで目撃したいんだ」
優花「見守る……。私を見守ってください、と約束したのなら、それは私のことだけを見ていてくれるということですか?」
夏希「そうだよ。他の誰でもない、君のことだ。俺はアイドルとして数万人を前に立つけど、その時も心の中では『優花ちゃんはどう思ってるかな』って考えてるかもしれないからね」
彼はいたずらっぽく笑ったが、その瞳の奥には真剣な決意が宿っていた。
私は彼の手を見つめながら、不思議な感覚に包まれた。
これまで私を支配していたのは「拒絶」という名の防壁だった。
しかし今、目の前の少年は、その壁を壊すのではなく、壁の外側に一緒に座ってくれると言っているのだ。
優花「……ふふ。本当に、あなたは変な人ですね。でも、不思議と嫌な気持ちにはなりません」
私は初めて、自分の頬を伝うものが涙なのか、それとも夜風のせいなのか判別できないまま、小さく頷いた。
夏希「いい返事だ。じゃあ、約束は成立だな」
彼は私の手を離し、屋上の手すりに寄りかかった。
遠くで街の灯りが瞬き、私たちの影を長く伸ばしている。
夏希「……でもさ、優花ちゃん。一つだけ条件がある」
私は首を傾げた。
夏希「俺がステージで輝いてる時、君は絶対に『あの子の代わりに』なんて思わないでくれ。君はただのファンとして、自分の意志で俺を見てほしいんだ。それが叶った時……その時こそ、君の本当の笑顔が見られるって信じてる」
優花「……ええ、約束します。私の意思で、あなたの輝きを見ます」
私たちはしばらくの間、何も語らずに夜空を見上げた。
遠くで鳴る鐘の音が響き、私たちの間に結ばれた新しい約束が、静かに刻まれていく。
この瞬間から、私と彼の物語は単なる「アイドルとファン」という枠を超え、
互いの欠落を埋め合うための共犯関係へと変貌していった。
夜風はまだ冷たい。
けれど、隣に立つ彼の体温があれば、もう震えることはないのかもしれない。
私たちは屋上の扉へ向かった。階段を下りる時、夏希が私の耳元で低く囁いた。
夏希「……明日も、学校で会おうな」
その言葉は、夜の静寂に溶けて消えた。
しかし、私の中に灯った小さな熱は、決して消えることはなかった。
私たちはそれぞれの孤独を抱えながら、同じ空の下で新しい一歩を踏み出したのだ。
屋上を後にし、私たちは静かな校舎の廊下を歩いた。
月明かりが窓から差し込み、私たちの影を長く引き延ばしている。
夏希「……なあ、優花ちゃん。さっき言ったこと、本気なんだよ」
彼はふと立ち止まり、振り返って私を見た。
その表情には先ほどまでの茶目っ気はなく、ただ一人の少年としての真剣な眼差しがあった。
優花「……ええ、わかっています。あなたの言葉の重みは、ちゃんと届いています」
私は彼の手を離した。
しかし、指先に残る熱が消えないことに気づき、わずかに胸が締め付けられた。
今まで私の世界には、「温度」など存在しなかったはずなのに。
夏希「俺にとってアイドルっていうのは……正直、最初は『義務』だったんだ。あの子の遺志を継ぐって決めたから、そうしなきゃいけないって思ってた。でも最近、ステージに立ってる時、ふとした瞬間に自分のために輝きたいって思うことがあってさ」
彼は自嘲気味に笑ったが、その瞳には確かな光が宿っている。
夏希「それが正解なのかはわからない。でも、君と出会ってから……『誰かのための自分』だけじゃなくて、『今の自分の自分』をどう生きるか、それを考えるようになったんだ」
優花「……私も同じかもしれませんね。今まで私は、壊れた機械のように動くことしかできなかった。両親や兄の面影を守らなきゃいけないっていう義務感で、笑う練習をしてきた。でも、あなたに指摘されてから……自分がどれだけ無理をしていたか、初めて自覚したんです」
私たちはしばらくの間、言葉を交わさず、ただ同じ空間に身を置いた。
校舎の静寂が、私たちの告白を受け止めているかのようだった。
夏希「いいよ。急ぐ必要なんてない。君の心が色を取り戻すまで、俺は何度でも君の隣で笑い方を教えるし、一緒に絶望する準備もできてる」
彼は再び一歩近づき、私の肩にそっと手を置いた。
その手のひらから伝わる体温が、私の防衛本能を優しく溶かしていく。
優花「……私を見守ってください、と約束したのなら。それは私が立ち止まった時も、一緒にいてくれるということですか?」
夏希「当たり前だろ。俺にとっての第2ファンってのはさ、君が一番輝く瞬間まで、ずっと隣で見届ける役割なんだから」
彼はいたずらっぽく笑い、私の顔を覗き込んだ。
その距離の近さに心臓が跳ねる。
しかし、それは恐怖ではなく、今まで感じたことのない「生きてる実感」に近い鼓動だった。
優花「ふふ……本当に、あなたは変な人ですね。でも、不思議と嫌な気持ちにはなりません」