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春は待たない
臘梅
「ねぇ、太宰。もしこの瓶がいっぱいになったら、キミの手で僕を殺してくれない」
仰向けでソファに寝そべっていた彼女は、いつもの平坦な声でそう言った。彼女の手には青色のガラス製であろう小瓶がゆるく握られていた。暖かな日差しに反射して眩しかったのが目に焼き付いてしまっていて、よく思い出せる。私はその時彼女の対面のソファに座っていた。別にそれに意味はなかった。なんとなく私はそこに居たし、きっとそれは彼女もそうだったと思う。私は彼女の平坦な声で発された突拍子も無い頼みに返事をした。
「…嫌だよ、なんで私がそんなことをしなくちゃならないんだ」
「………あー、フラれちゃった」
彼女は小さく呟いた。キラキラと陽の光に照らされ輝くその小瓶を見つめたままに。声色は悲しげではなかったけれど、楽しんでいると言うには間が空いていて、寂しそうな顔をしていた。
間違えた。
そう思っても、既に選択した言葉を書き換えることはできなかった。それに仮に変えることが出来たとしても、私はどうせそれを変えるつもりなんて無かっただろう。思い返しても意味はない。
彼女の声は変わらない。そうしたから。
「キミってやつは本当に酷いね、僕の純真無垢な心をぽっきりと折ってしまうだなんて」
「今のって"そういうの"だったの?」
彼女は少しだけ口を緩め、ふっと笑った。
そしてゆっくりと起き上がり、私を見ないまま、いつもと全く変わらない様子で喋りだした。それに胸を針でじわりと刺されたような感覚を覚えて、私は彼女の顔から目を逸らし、その手に握られた小瓶を見つめた。
「僕はキミの事を"そういう風"に見たことはただの1度たりともない──キミは僕のことを、"そういう風"に認識してくれていたってことかな。それはそれで、悪くはないけれど」
彼女はソファの上に横向きに座ったまま、首を軽く捻り私を見つめ、少しだけ笑った。試していたんだろう、私がどんな返事をするのか。私は彼女のそういうところが嫌いだった。
「さぁね。答えたら答えたで君はつまらなさそうな顔をするだろうから答えないよ。──それで、いきなり私に殺してくれって言い出すなんて、君、自殺願望でも出てきたのかい?生憎私は君と心中したいとは思えないから、他の人を中ってくれると助かるんだけど」
クスクスと笑いながら彼女は足をソファの上から床に下ろし、小瓶をテーブルにコトリと置いた。瓶の中は青色の霧がぼんやりとかかったようになっていて、中は見えやしなかった。興味も無かった。
「キミじゃないんだから、僕は毎日のように自殺したいなんて考えないし、それを実行もしないよ」
「ふぅん。でも、君って結構死人の目というか──瞳が濁ってる時がよくあるから、てっきりそうだとばかり思っていたんだけど、違うのかい?」
冗談めかして、思っていたことを言ってみた。けれど彼女は少しムッとしたような顔を浮かべただけで、それ以上何も得られやしなかった。
「人の目が濁ってるだなんて、キミ、かなりの悪口言ってる自覚ある?」
「事実なんだから、怒りを覚えられてもね」
彼女はそこで一瞬口を閉じて、そして少し冷たい瞳をして言った。不機嫌というわけでは無さそうだったけれど、しかしどうしてそんな、冷えた黒い瞳をしたのか、私には分かりそうもなかった。分かるつもりもなかったんだけど。
「言うね、キミ」
「言うよ、君だってそうなんだから──どうして私に殺して欲しいだなんていきなり言い出したんだい」
私はそこで、真面目に尋ねてみた。
彼女はため息を吐いて太ももに肘をつき、気だるげに頬杖をつきながら、右手の人差し指で小瓶を揺らして、つまらなさそうにそれを眺めながら答えた。私はその軽く伏された瞳を見つめてみた。鈍く濁っていて、だから、死人の目をしていた。私には宝石のように見えた。
「引き受けてくれるかなって思っただけ。──でもキミ、嫌なんだろ?」
わざと荒っぽい語尾を使って、彼女は投げやりな質問をして。言葉を締めたのと同時に、彼女は指先で瓶を強く押して、瓶のバランスを崩させた。今思えばそれは、時間制限のつもりだったのかもしれない。
私にとってではなくて、彼女にとっての。つくづく馬鹿馬鹿しい。
「そりゃね。わざわざ私が君を殺すだなんてつまらないこと、引き受けるわけがないだろう?」
彼女は私に目を向けなかった。ごとりと鈍い音を立てて、見事にバランスを崩したガラス瓶が机の上に転がる。彼女は机上を転がる瓶をまた手に取って、それを見つめるばかりだった。私を見ようともしていなかった。私は彼女を見つめた。瓶は見なかった。彼女の黒髪が、何故かとても美しく見えた。でも、それは私の錯覚だったのだろう。先程までソファに仰向けに寝転んでいて、手櫛すらもしていない人物の髪が、果たして整っていると言えるのだろうか、という話である。死人の目をした人間を、宝石なんてもので形容出来るわけがない。
彼女はちらと私を見た。
「ふうん──それじゃあキミには"特別に"、この瓶をプレゼントしてあげる。ありがたく受け取れよ、それ──」
「──っと。君、いきなりガラス瓶を人に向けて投げつけるだなんて、頭がイカれちゃったのかい?」
「頭がイカれたとは失礼なことを。キャッチしたんだからいいでしょ」
「だとしてもだよ」
私は彼女のほんのりと笑った顔から、自身の手の中にある青いガラス瓶に視線を落とした。中には小さい何かが大量に入っており、軽く傾けるとカサカサと紙の擦れる音を立てながら何かが動いた。少し呆れながら言葉を出した。
「──なにこれ、折り紙?」
彼女は少しだけ複雑そうな顔をした。何かあった。けれど彼女にそれを言う気が無いことは、悔しいほどに分かっていた。気を紛らわせるように私は瓶を傾けた。カサカサと音が鳴った。
「そう。考え事ばっかりして寝れない時ってあるじゃない?そういう時に頭空っぽにする為にチマチマ折って作った星が詰まってる。結構可愛いでしょ」
「君の部屋に飾った方がいいんじゃないのかい?こういうの。それにこういうのは趣味じゃない」
私はそう言って、テーブルに瓶を置いた。
こつ、と鈍く擦れた音が鳴った。煩かった。耳に残って、反響した。他には何も鳴らなかった。
彼女は1分くらいしてから、ようやく口を開いた。 声が僅かに上擦っていて、何かを堪えていたような感じだった。その時私は、また何かを間違えたんだと思った。けれどどうにかしようとなんて少しもしなくて、私は気付かないふりをした。
「──作ったけど、要らなくなったから。趣味 じゃなくてもちゃんと飾ってよ。僕からの贈り物 だよ?」
「贈り物って言って人にゴミを押し付けるのも大概にしなよ。──何でいきなり?今日は何かあるってわけでもないだろうに」
明らかに何かが壊れて崩れた感覚を感じたくせに、私はいつもと同じように接した。彼女はまるで泣き出しそうな声をしていた。子供が泣いてしまいそうになるのを必死で堪えているかのような、そんな顔をしていた。似ていたんだ。確かに、それは。
「そうだね、何にもない──何も無い。そうだ」
私はそんな顔をした彼女に尋ねることをした。それは彼女の首をじわじわと絞めていくような行為だと分かっていたはずなのに、分からないふりをした。分かりたくなかったから。
「ねぇ、どうしたんだい、君」
「いや、何にもないんだ、本当に──いいから受け取っておいてくれよ。僕からの心がこもったプレゼントなんだから」
「何、そういうやつ?」
「──そうかもね。僕は、キミが………あぁいや、違うな。キミは、だから、そうじゃなくって。僕は、キミに──」
そこで彼女は時計に目を向けて、言葉を切った。私はこの時、死んだ瞳を伏せていた彼女が言いかけた言葉が、今でも引っかかったままだ。きっと私が望んだ答えなんかじゃないのだろうけれど、あれは一体私に何を伝えようとしていたのか、知りたかった。けれど私にそれが許されることなんてなかった。知りたがっているくせに、思えば今でも許して欲しいと願いすらしていないままだ。
「──あ、時間」
彼女は立ち上がった。時計を見つめたまま。
「ちょっと、何か言いかけたまま行こうとしないでよ。気になるでしょ」
彼女は呆れたような、悲しそうな、寂しそうな、優しげな瞳で私を見つめた。あの眼差しは、きっと彼女にしかできなくて、だから私は、あれを二度と見れやしないんだ。私はあの目が好きだった。確かに、好きだったんだ。口にしなかっただけで。
「──しょうがないね、バディからの頼みだ、"最後に"一つだけその願いを叶えてあげる」
勿体ぶった割にはつまらないことを彼女は言った。私は彼女のそういうところが──。
「僕はキミのことが多分、嫌いだった」
「…へぇ?君、そんなこと言うタイプだっけ」
「言うよ、キミだってそうなんだから」
私はここでようやく、自分が取り返しのつかないことをしたと自覚した。湯だった頭が冷めて、頭をかち割るような後悔が私を襲って、それから絞り出すように、私は言った。それしか言えなかった。もしかしたら私は、彼女と同じ顔をしていたのかもしれない。それはもう分からない、生き証人は既に死に絶えたのだから。彼女の顔は見れなかった。
「──そうだね、確かにそうだ」
「それじゃあ、僕はもう行くよ」
引き止めるなんてこと、できるわけなかった。彼女はその日に限って、明日の予定を言わなかった。
彼女は私に背を向けた。二度と振り返ってはくれなかった。
「あとそれ、捨てないでよ。僕の大事な──」
沈丁花の匂いがした。彼女は金木犀が好きだった。
春はまだ随分先で。秋は終わっていた。
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彼女の葬儀は、死体が見つかってから3日目辺りに執り行われた。彼女の綺麗な鳶色の瞳はどす黒く澱んで濁り切っていて、美しさなんて1ミリも感じられなかった。汚かった。彼女の鈍く赤らんだ瞳が揺れるところが好きだった。四角い黒枠に縁取られたそれの中で小さく微笑んた彼女を見て、そう思い出した。涙は出なかった。
泣けもしないストーリーだと私は嘆きもできず、ただずっと彼女の呪いを飾って、ふとした時にこうして意味の無い後悔を繰り返すばかりで。彼女の元に行こうだなんて考えられるほど、私は彼女が好きじゃなかった。けれど、死んで欲しくないだなんて無意味な考えを持っていたことを後から気づくくらいには、好きだったんだ。
埃を被った彼女の呪いだけが、この部屋には似合わなかった。