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労働の痕跡
約2400文字
朝の通勤時間で、とあるものを見かけた。
いつもだったら素通りしてしまう、都内でよくある支柱だった。私鉄からJR線へ乗り換えるまでの、見て見ぬふりすらしないもの。駅ビルを支える一つに過ぎなかった柱。
柱の周囲を四つの赤い三角コーンを立てて囲っていて、目立っていた。信号待ちしていて暇だったので、何だろと思い、近寄ってみた。
黄色と黒のバーに吊るされた「作業中」の文字。
どうやら柱に貼られたシールを剝がしているらしい。都内ではよくありそうなものだ。
英字や写真やラベルなどは、200は超えるだろう。かつて都内を根城にしていた不良少年が遊び半分で付けた、あのおびただしい数のシールを剥がそうと格闘している。それらを、数人の作業員が、お好み焼きのヘラのようなものを持って、手作業で剥がしている。たぶん液体で濡らしてはいるだろう、柱の根元にはタバコの吸い殻のように、白い破片が柔らかく落とされたままにしていた。
一人は脚立に登って高いところを、二人は即席の折りたたみ椅子に座って低いところを剥がしていた。子供用みたいに小さい椅子で、柱越しの対面に座っていた。囲碁の対局でも見ているような感じ。
もう一人は、ふうとジャンパーを脱ごうとしている。脱いだ下は灰色の作業服だ。こんな寒い朝なのに。こんな地味な作業なのに。
観察は、信号待ちの一分のうちだった。
青になったので、その観察を打ち切り、通勤路に戻った。その人もまた労働が始まる。
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社内月報を読んでいた。
トイレから戻ってきたら自席の机の上に置かれてあった。非常に斜めである、置かれ方が。
いつもなら速攻で捨てるものなので、パラパラと冊子をめくった。労働組合がなんか書いて寄こしてくるものである。
年休とか賃金とか、社内政治とか、よくわかんない。分かるものと言ったら、数年前にコーヒーメーカーがサステナビリティ撤去されて、市役所とかでよく見かけるマルチドリンクサーバーになったことだ。
「これでコーヒーが飲めない人でも、ジュースとかお茶とか飲めるようになります。もちろん、コーヒーも飲めますよ」
と経営陣は言いたいらしい。コストカットを敢行したのだ。
こうして従順なコーヒーメーカーは豆挽きを辞め、温めた水道水に粉末を溶かす感じになった。大御所たちは不評である。味が薄い、風味がどっかいった、出す量が少ない。愚痴だけは一人前である。
業務の効率化をするだけでなく、福利厚生費もサスティナブルにしたことについて、納得がいかないのだろう。企業理念のほうもなんか複雑にしてきたし、「ろいっく」がどうのこうのって言ってきている。投下資本利益率だそうだ。NISAくらいよく分からない。
一方その人もまた、コーヒーを飲んでいたくさいのだが、バカ舌なのでジャスミン茶に切り替えた。単純でよかったと頷いた。
その、経営陣の一人っぽい人が、社内報にてコラムを寄せていた。オーストラリアに海外出張していった時の話を書いている。なになに、「労働の価値」の正当な評価について……はあ。
「オーストラリアの最低賃金は平均2500円。土日や深夜ではここに割増料金が上乗せされる。人件費への転嫁に強く貢献している。外食が高いと感じさせられるが、人権に配慮した賃金となっているので……」
と、外国を引き合いに出して、日本の最低賃金は低い。もっと上げよう、わが社の労働組合は、春闘の賃上げに貢献しますとかなんとか言っている。
「賃上げが重要だって言ってもねえ。結局は金じゃねえからな」
冊子を、人生という名のリサイクルボックスに捨てた。
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三か月前、こんなことを聞いた。
職場のフリースペースでパソコンをカタカタとやっていた時だ。どうやらどっかに所属している社員が外国に出向となるらしい。話を聞いてみる限り、引継ぎと引っ越しのための荷造りがめんどくさそうな感じを出していた。単身赴任は確定だろう。
「年内でオーストラリアに飛ばされる予定だよ。社宅などの下見に行ってきたんだが、びっくりしたよ」
外食をしてきたらしい。
「ラーメン、ギョーザ、麦茶のセットでいくらだったと思う? 5000円だぜ」
――たっけ!
無言でいたけど、目の前のノートPC画面から目ん玉が飛び出るくらいだった。
マジかよ、インフレじゃねーか。昼食一回でこれかよ。
「まあ最賃は、2500円なわけだけど。やってらんねーよ、オーストラリア」
「すごいなそれ。こっちではおにぎり一個で172円とかでヤバいヤバいって言ってるのに」
「まあ、海外出向だから一年くらいで戻ってくるとはいえ。失業者とか、どうなってるんだろうな」
「いやー、生活保護の受給してんだろうけどさー。税金もそれだけぶんどられるだろ。所得が上がるんだから」
マイカップに薄味のコーヒーを淹れ、つかぬ間の談笑。
そんな感じで海外出向組の門出を|労《ねぎら》っていた。愚痴は多いが、意外と盛り上がっていた。
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一日が終わった後、駅前の支柱に戻ってみた。
すでに日は落ちて、作業員はいなくなっていた。ヘラでこそぎ落とすようにラベルを剥がしていた作業員は、どこかに去ってしまった。
あれだけ貼られていたラベルは、一枚も無い。どこにラベルが貼られていたのか、見当もつかないくらいに丁寧だった。
剥がし終わった支柱を眺めてみた。
見ると、灰色の塗装から漏れ出るような錆が現れていた。
これを隠したくて貼ったわけではないのだ。これを明らかにするためにラベルを剥がされたわけではないのだ。ってその人はそんなことを思う。塗装の剝がれた無防備な支柱は、夜の雑踏に紛れて、駅ビルの一部を立派に支えている。
見知らぬ作業員たちは、どんな雇用形態の人なのだろう……
柱の根元に落とされた労働の価値は、清掃で取り払われたのか、風で飛ばされたのか。いずれにしても何も残っていなかった。