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ドラゴンが落ちた
ツイステとは違う別世界で、エースが神隠しならぬドラゴン隠しに遭う話。
ドラゴンが落ちた。ドラゴンが落ちたぞ。見に行こうよ。写真を撮ろう。
外からやってきた野次馬たちの声が、あっという間にホールを満たした。
少しずつ増えてきていた客の数がどんどん減っていく。どんどん外へ排出されていく。
パフォーマンスを見せている最中だったエースはあせった。プロなので、その様子は意地でも見せなかったが。
エースのために残ってくれたのか、ドラゴンに興味がなかったのか、一部の客はエースの目の前に居続けている。彼らのために、エースはパフォーマンスを続けていった。
プログラムのすべてが終わり、一礼。まばらな拍手はすぐに鳴り終わり、あとは客がいなくなっていく一方だった。
後片付けを終わらせて、報酬をもらう。これで今回のイベントとはさよならだ。
イベントホールを出て、ホテルまでの道中を歩く。二日構成のイベントで活躍したばかりのエンターテイナーが歩いているというのに、通行人の誰も注目していない。皆、ドラゴンの話題に夢中になっていた。エースの存在などすっかり忘れているようだった。
味気ない終幕など、いくらでもあった。特にまだ駆け出しだった頃など、ほぼ毎回だった。しかし他の話題で客をかっさらわれていったのは、今回が初めてだった。
同業者相手なら自分の力不足だったと、まだ納得がいったのに。まったく無関係な相手に、一方的に客を取られた。
エースは腹立たしくなってきた。
このまま新幹線に乗って、家に帰りたくない。せめて客の心を奪ったドラゴンとやらに、文句を言ってやらねば気が済まない。
そこまで考えて、無理だろうな、とも思った。
人の手には届かない彼方の上空を飛ぶ、伝説のドラゴン。生態系を知るために、空を飛ぶ乗り物で近づこうとした者は大勢いたが、全員落とされたらしい。
慈悲なき生物で、それがかえって人々を魅了していた。
そのドラゴンが、人が住む地上に落ちてきたのだ。国が黙っていない。すぐに回収されて、終わりだ。ドラゴンに文句を言うどころか、一目すら見えないに違いない。
だからと言って、ただでは転びたくなかった。
せめてドラゴンの落下騒動の詳細を聞いて、土産話にしてやろう。
ホテルに帰ったエースはすぐに大きな荷物を宅配で家に送り、貴重品が入ったボディバッグを片手にチェックアウトした。
ドラゴンはどこに落ちていったのか、街路にいる通行人に聞き込みをした。昨日もイベントに出ていたおかげで、少しは顔が知られたのだ。人好きな笑顔で近づき、数人に接するだけで、ドラゴンの落下地点はかんたんに特定できた。
森の中に落ちたらしい。地元の者たちがよく通っているハイキングコースの、すぐ近くの。
だからドラゴンはすぐに見つかるはずだった。
……見つからなかったらしい。
いまは警察がハイキングコースを封鎖して、ドラゴンを探しているらしい。
最後の情報を渡してくれた通行人と別れてから、エースは改めて周囲の声を拾ってみた。すると、ドラゴンが消えたショックを感じさせる声が、急に聞こえだした。どうやらすぐ近くの音を拾えないほどに、エースはドラゴンの存在にとらわれていたようだ。
なぜ会ったこともないドラゴンとやらに、こんなにも振り回されているのだろう。自分は何も悪いことをしていないのに。
またもやエースの機嫌が急降下した。
もうドラゴンの情報を集めるのはやめよう。
そう決意したものの、もう少しだけ、土産話が欲しかった。
せめて、ドラゴンの落下騒動がわかるような写真くらいは──。
エースは最後に聞き込みをした。
教えられた道を進むと、目当ての場所に着いた。
ハイキングコースの入り口だ。
予想通り、入り口は野次馬で埋まっていた。その向こう側も予想通り、警察が張ったテープで塞がれていた。
エースは離れた位置でスマホを構える。野次馬たちの後ろ頭がずらりと並んでいる横には木々の群れ。そのすぐ横にはわざとらしく作った不機嫌そうな自分の顔。
画面の中央を譲った、あの木々の向こうに、ドラゴンが落ちたのだと伝えるための自撮り写真を、カシャリと一枚。伝説のドラゴンがあの森の中に落ちたけどどこかに消えた、というコメント付きの写真をマジカメにあげる。
これで、ここに来た目的は達成された。あとは家に帰るだけだ。
新幹線が停まっている大きな駅に行くためには、最寄りの小さな駅の電車に乗らなくてはいけない。
もうすぐ昼になる。大きな駅に着いたら弁当を買って、新幹線の中で食べよう。そう決めたエースは、まだ見ぬ駅弁を楽しみにしながら歩いた。
駅に向かう道中は静かだった。何度もすれ違っていた通行人は、いつの間にかこぞって消えていた。皆ドラゴンが落ちてきた地点に行ってしまったのだろう。そう思い込んだエースは、駅に着くまで異変に気づかなかった。
気づいたのは、駅構内に入ってからだった。
誰もいなかったのだ。切符を買う者も、改札を通る者も、駅員も、すべて。
いくら皆がドラゴンに夢中になっているとはいえ、勤務中であろう駅員もいないのはおかしい。
それでもエースは、ここは不真面目な奴らばかりなのだ、と自身を無理やり納得させた。改札のリーダーに交通カードをかざしても反応しないのは、ただの機械トラブルなだけだと。トラブルが起きても駅員がやって来ないのは、ただの職務怠慢なだけだと。駅のホームにある電子案内板が真っ黒になって機能していないのも、アナウンスがまったく聞こえてこないのも、電車がまったく来ないのも……。
他所の駅からやって来る電車すら来ないのは、どう考えてもおかしい。
もしも全人類がドラゴンに夢中になっていたとしよう。あらゆる交通網を使って、ドラゴンが落ちてきた地にやって来るはずだ。その交通の一つである電車の利用者だっているはずなのに、それが一人もいない事になってしまう。
エースはスマホを起動して、マジカメのアプリを開いた。上にスクロールして更新しても、自分が最後に投稿した自撮り写真しか出てこない。いつもは必ずあるフォロワーの反応は一つもない。下にスクロールしても、過去に自分で撮って投稿した写真とコメントしか並んでいない。たくさんあったフォロー数もフォロワー数もゼロになっている。トレンドを確認しても真っ白で、誰かがいた痕跡がまるでない。
マジカメの中の住人はエースだけなのだと、言われているかのようだ。エースを除く人類はすべて消えたのだと、突き放されているかのようだ。
もう、無視はできなかった。ついにエースはあせり始める。
異変が起きている事を認めなくてはいけない。
エースは急いで駅から出た。
「誰か! 誰かいないかー!」
大声で周囲に呼びかける。返事はない。声が空気中で霧散した。
無我夢中で走り、大声をあげて、成果のなさにあせりが募り、また無駄な行動を繰り返す。
体力を使いきり、へたりと道路の真ん中に座り込む。どこかからやって来た車のクラクションが、交通の邪魔だ、と鳴ってくれないかと期待も込めていたが、やはり何も聞こえてこなかった。
ほぼ真上にあった太陽が、見るからに西へ傾いている。そろそろ夕方になるだろう。
昼飯を食べ損ねてしまった。腹は空いていない。緊張にさらされて、食欲が湧かないのだろう。このままでは衰弱していく一方だ。
まずは安心したい。この異常な世界から脱出したい。そう結論づけたエースは、回復させたばかりの体力を使って立ち上がり、歩きだす。目指すはドラゴンの落下地点だ。
異変が起こりだしたのは、間違いなくドラゴンが消えたと騒がれてからだ。だから消えたドラゴンを見つければ、どうにかなるかもしれない。確証はないけれど、とにかく行動しなくては、打開はできないのだ。
もう戻ってはこないはずだったハイキングコースの入り口。大勢いた野次馬はいない。張られたテープも無い。ぽっかりと空いた口が、エースを待っているかのようだった。
エースは入り口を通り、コースの中に入った。道なりに進むだけでは、森の中のドラゴンは見つからないだろう。だからこれは様子見だ。コースの出口に着くまで歩けば、コースの全体像を把握できる。そこから森の中寄りにコースを通りつつ、徐々に探索範囲を広げていけば、いずれはドラゴンに会えるだろう。とにかくコースからはぐれたくなかった。エースはサバイバル術を知らない。ただでさえ異変に見舞われているのに、遭難までしてしまったら、本格的に怖くなる。最悪、発狂もあり得る。
背中に回していたボディバッグを前に抱え直したエースは、道なりに歩いていった。コースのそばまで移動しているかもしれないドラゴンを見逃さないよう、周囲を見回しながら。
不安に襲われながら歩いていたら、それは突然見えた。キョロキョロとせわしなく周りを見ていた目が、ふと前方を映した瞬間だった。
上から巨体が降ってきたせいで薙ぎ倒されたと思われる木々の、開かれた空間の中央。
そこにドラゴンが横たわっていた。
実物を見たことはないが、それは確かにドラゴンの造形をしていた。
真っ黒なトカゲのようで、けれど長い首の先に付いている頭には大きなツノが生えていて、トカゲとはまったく違う。背中側は隠れて見えないが、おそらく翼も生えているのだろう。
ドラゴンの目は閉じられていた。眠っているのか、死んでいるのか、エースには判断がつかないし、今だけは判断しようとも思わない。
目の前にいるドラゴンから距離を取ろうと、エースは後ずさる。すぐそばの木のかげに隠れてから、また周囲を見回す。
すぐ後ろにあるはずの、コースのあぜ道が消えていた。
コースから外れたつもりはなかった。外れないように、常に意識していたのだから。
なのに、外れてしまった。
あのドラゴンに招かれたのだと、エースは本能で察した。
退路を絶たれたのだと理解したエースは、だんだん怒りを覚えてきた。
客を取られたあげく、強引な手段で招かれて、理不尽だ。
恐怖と不安はまだあったが、それ以上に腹立たしくなってきた。
エースは木のかげから出た。相変わらず横たわったままのドラゴンに、勢いよく指をさして、叫ぶ。
「なんっなんだよ、お前!! オレになんか言いたいことでもあるわけ!? だったらさっさと言いやがれ! そんでオレを元の世界に帰せよ!!」
返事はなかった。ドラゴンの目は開かない。
あまりの反応の無さに、エースの怒りがだんだん萎えていく。ここでついにエースはドラゴンに近づこうと決意した。
おそるおそる、歩みを進める。顔に近づくと食べられてしまいそうで怖いから、まずは腹の方。
近づいてみて、初めてドラゴンの大きさを把握できた。遠近法で小さく見えていたが、思っていたよりもずっと大きい。後ろ足で立てば、三階建ての住宅の高さと同じくらいになりそうだ。
ドラゴンの腹は動いていなかった。呼吸をしていないのだろうか。死んでいるのかもしれない。そもそも呼吸を必要としているのか。生き物だから呼吸をするものだと思い込んでいたが、ドラゴンもそうとは限らない。何せ伝説の生き物だ。だから呼吸の有無だけで生死を判別するのは違う気がした。……などと御託を並べたが、要は呼吸の確認のためだけに、顔の方に移動したくなかっただけである。
ドラゴンの腹を見ながら、エースは途方にくれた。
ドラゴンを見つけるどころか、こうして会えて接近もできたというのに、事態は好転しなかった。
ドラゴンはこの異変に関係なくて、まったく別の原因によるものだろうか。だとしたらエースに打開策はない。異変のトリガーが、ドラゴン以外に思いつかないのだ。
森はうっそうとしていて、地平線に沈もうとしている西日を直接見られない。真上にある空は赤と紺が混ざっていて、徐々に紺が優勢になってきている。いずれ紺は黒に変わり、ここは暗闇になる。
エースはドラゴンから離れて、とぼとぼと歩きだす。ドラゴンのそばで野宿をするなど絶対に嫌だった。ただでさえ遭難しているのだから、せめて少しでもドラゴンから遠いところに居たい。
そう思って歩いたというのに、たどり着いた先は、ドラゴンが横たわっている場所だった。
歩いているうちに方向感覚を失って、元の場所に戻ってしまったのか。またドラゴンに招き直されたか。……もう、どちらでもいい。
「もうやだ……」
怖がったり怒ったりする気力を、体力とともに根こそぎ消耗してしまったエースは、ドラゴンから身を隠すように木のかげに入り、座り込んだ。
心なしかくたびれたボディバッグを腹に抱えて目をつむり、じっとしているうちに意識が沈んでいく。太陽が完全に沈んで、暗闇が襲いかかる頃には、エースは木の幹を背後に座りながら眠っていた。
まるで母の腹の中にいる胎児のように、背を丸めて。
その胎児に似た姿を、ドラゴンはパクリと咥えた。
エースが反応して起きた時にはすでに大きな口の中。狭くて暗くて湿った空間は、あっという間にエースを奥に迎えた。
当然エースは暴れようとした。だがその前に全身を締めつけられて、手足はちいとも動かない。まるで筒にハマっているようで、実際は食道をくぐっている。頭から呑まれている!
幸か不幸か、全身は隙間なく壁に密着されているのに、顔面だけは密着しておらず、呼吸は可能だった。ただし悲鳴は外に届かない。自身があげている悲鳴ごと、エースは奥に呑まれていく。
やがて頭を先頭にして、全身の圧迫感が徐々に解放された。
足首を最後に、全身が食道から抜ける。開けた空間に頭から放り出された。その先が硬い床だったら頭を強打して即死していたが、ぶよぶよと柔らかく変形する床に、更に水が張っていたので、無傷で済んだ。
ふくらはぎまでの高さの水面に打ち付けられるも、すぐにエースは起き上がろうとする。何度もこけて、一度もまともに立てなかった。
エースはすっかりパニックになっていた。
一寸先も見えない暗闇のここは、ドラゴンの胃袋の中なのだと確信してしまっているからだ。
腰が抜けつつも、胃壁を引っかき、殴り、噛みつき、一寸法師のような脱出を試みる。けれど吐かれる前兆は無い。もっと刺激が必要だと判断したエースは、何か凶器は無いかと震える手でボディバッグを開こうとして、バッグがぐちゃぐちゃになっていることに気づく。溶け始めたバッグはエースの体から落ちて、真下の水面に落ちた。拾おうとしても、バッグは指からすり抜けた。もう原型すらとどめていないようだ。それどころか布のようなものまでエースの全身からずり落ちてきている。ここでエースは服も溶けてきていることに気づいた。
そして、最悪な想像をしてしまう。
今、ずり落ちてきている布は、服だけではなく、自身の皮膚も混じっているのではないかと。痛みを感じる間もなく、自身が崩れてきているのではないかと。
エースのどこかが、ぷつりと切れた。
無意識に生をあきらめたエースの体が脱力し始めた。横向きに倒れて、顔の半分が生暖かい水面に浸かる。ごぼごぼと溺れていると、空間がぐるんと動いた。靴も溶けて、すっかり全裸になってしまったエースはあお向けになり、背面を水面に浸らせた。
窒息は免れたが、どうせ溶かされて死ぬのだ。恐怖が長続きしてしまったエースは、静かになった空間で「は、は、は」と浅い呼吸をくり返す。
指一本も動かしたくない。
崩れていく体を自覚したくない。
「死にたくない……」
しかし現実は変わらない。
痛みが無いことが救いかもしれない、と思い始めたエースは、怖がりながらも死を待った。
……もう覚めないと思っていた目は、とうとつに開かれた。
転機が訪れたのだ。
空間がひっくり返った。エースは空中に身を投げ出された。着地した先には、くぼみがあった。そのくぼみはエースの頭にすっぽりとはまり、ふちがぐぱりと広がった。
くぼみは穴を開き、エースを頭から呑み込んでいく。反射で目を閉じたエースはじっとしていたが、脳内はパニックに包まれていた。
そうだ、自分は死んだのだ。気づいていないだけで、死んでしまったのだ。この穴は腸の入り口だ。きっとこの身はドロドロに溶けていて、栄養を吸収されようとしているのだ。そして残っている魂も消えて──消えた先はどこへ行く? 天国が良い。地獄は嫌だ。否、ここは地獄なのではないか? だからこうして魂だけが残り、ドラゴンに喰われる様を見せつけられているのではないのか? どうして。どうして? なぜ! 何も悪いことをしていないはずなのに!
「なんでこんな目にあわなくちゃならねえんだ……っ」
顔面だけは腸壁に密着されていなかったのをいい事に、声を張り上げたかったのに、まだ続く恐怖が、エースののどを凍らせた。
エースの全身を締め付けながら、グネグネと続く、せま苦しい道。ゆっくりと、ゆっくりと、のぼっていく。
やがてせまい道から解放された。
やや広くなった空間に出されたエースは、ぎゅうと目をつむったまま。腸内とは思えない異物の存在を感じて、おそるおそる目を開いた。まだ真っ暗闇だったので、すぐに目を閉じた。
異物はじゅうたんのように、エースの裸体を上に乗せている。肉厚な物体は器用に曲がり、エースの裸体を舐めている。文字通り、舐められている。……これは舌だ。あの道は腸ではなく、食道だったのだ。胃から吐き戻されたのだろう。ここはドラゴンの口内だ。
まぶたの裏に隠れたエースの目に、希望の光がほんの少しだけ宿った。
エースはドラゴンに舐められながら、自身の手を動かす。震える指先で、自身の肌が崩れていないか確かめる。……弾力がある。形が保たれている。まったく崩れていない。
「い、き、て……る。い、生きてる。オレ、生きてる」
生きているのなら、逃げられるかもしれない。
食われずに済むかもしれない!
エースはすっかり希望に身を浸らせていた。『かもしれない』という推測は、あっという間に『できるはずだ』という根拠のない確信へと変わってしまった。このままドラゴンの口を開かせれば無傷で逃げられるはずなのだと、すっかり盲信してしまっていた。
正気を失ったエースは目をカッと開き、いまだ絡みついてくるドラゴンの細長い舌先に思いきり噛みついた。
痛みで吐かれた先が空中だったら、とか、巣穴だったら、とか、地獄だったら、とか、まったく考えていない。このまま口内で可愛がられているうちが華なのだと、夢にも思っていない。
噛まれたドラゴンの舌は、一度だけ驚いたように硬直した後、エースの全身をぐるりと囲み、やわらかく拘束した。
「え、ちょっと」
予想外だった。これでは逃げられない。
次の手を考える間もなく、暗闇が割れて、光が差し込んだ。久しぶりの光は目を驚かせる。明るさに慣れないエースの目はまた閉じられた。
舌に縛られながらもがいていると、生ぬるかった空気が一気に冷えた。
ドラゴンの口内から出されたことを悟ったエースは、目を無理やり開けた。光に苦しみながらも、まばたきを何度もくり返して……ようやく、エースは知った。
そこは黒い茨がめぐる壁に囲まれた部屋だった。エースの実家が丸ごと入るほど大きな、生活感のない部屋。その部屋の中央にポツンとある、キングサイズのベッドの中に、エースはいた。いつのまにか舌の拘束は解かれており、裸体を無防備にさらしている。
逃げ道を探すどころではない異質な空間にエースが気を取られている最中に、バキ、バキンと硬いものが砕けるような音が聞こえてきた。
エースは無意識に音の出どころを見上げた。
エースを真上から覗いていたドラゴンの姿がひしゃげていく。骨を砕き、関節が曲がり、ウロコを体内に沈め、異形のりんかくが縮小していく。ドラゴンが小さく変形していく様があまりにも現実離れしているせいで、エースの思考は止まり、体はくたりと力が抜け、あお向けに寝転んでしまった。
ドラゴンではなくなっていくそれが、やがてベッドに乗り上がり、エースの真上に覆いかぶさってきても、エースは背中をシーツにくっつけたまま動けなかった。
やがてそれはドラゴンのツノと尻尾をたずさえた人間の形に落ち着いた。見た目だけは人間の青年に近い姿のそれも当然、全裸である。だからこそ頭部に生えたツノも、腰に生えた尻尾も、コスプレではなく本物なのだとエースに思い知らせる。そして直前までエースを呑み込んでいたドラゴンなのだという事も。
ドラゴンだった青年の口が開く。
「人の子よ、はじめまして。僕はこの国の王の、マレウスだ」
人間離れした美貌に笑みを向けられているのに、まったく嬉しくない。それどころか。
──オレ、これからコイツに、喰われるんだ。
──胃の中で溶けて死んでいたほうがマシだった事を、これから、されるんだ。
「泣いてもいい」
エースは自分が恐怖の涙を流していることに気づいた。
「わめいてもいい」
エースは「やだ、やだ」という声が自分の口から漏れ出ていることに気づいた。
「それも一興だ」
腹を撫でられたことを最後に、エースはマレウスに喰われていった。
つらぬかれて、揺さぶられて、そそがれて、熱くて、苦しくて、中心をしごかれて、気持ちよくて、吐精して、舐められて、キスされて、死にたくて、死ねなくて、心が砕けて、くっつけられて、またヒビを入れられて、また壊されて、また直されて、またキスされて、また熱を与えられて、昼も夜もなくて、眠って、起きて、またいっぱい交わって、日が過ぎ、月が過ぎ、年が過ぎても離されなくて、ここが天国なのか地獄なのかわからなくて、やがて現実と夢の区別すらつかなくなっていった。
幾度目かの眠りにつく直前だった。マレウスに後ろから抱きしめられながら、こう言われたことがある。
「お前を娶れて、嬉しい」
「……めとる?」
まともな返事ができたことに、我ながら驚いたものだった。
エースのつむじをちろりと舐めてから、マレウスはこう続けた。
「空を散歩していたときに、人間が作った広間で、魔法のようなことをしていただろう。あの時の笑顔に惚れた。人を楽しませることを全力で楽しんでいる、美しい心に、僕は惚れたんだ。急いで城に帰って、お前を迎えるために臣下を説得して、お前がいた場所に戻ってきた。丸一日は経っていたから、すでにあの地を離れているだろうと思って、着いたらすぐに追跡魔法をかけるつもりでいたが……お前はあの広間で人を楽しませ続けていて……たまらずあの地に降り、お前を森の中に誘い込んだものだ」
エースは当時を思い出そうとした。けれど思い出せたのは、胃の中にしまわれて、ここに連れてこられた恐怖だけだった。その恐怖に遭うまで、自分はどんな人生を過ごしていたのか……思い出すには、エースはここに長く居すぎた。
だからエースの口から出たのは、とつぜん丸呑みされた恨み言のみだった。
「丸呑みすんじゃねえよ……」
「丸呑み? ……ああ、あの時か。ドラゴンの世界に生身の人間を連れていくのは危険だから、胃の中にしまって守る必要があったんだ。……しかし、人の子を溶かさない胃液に改造している間に、あの地を模した擬似世界に、お前を一時的に隠しておいて正解だった。お前が他の国のドラゴンに連れていかれてはたまらないからな」
思い出せないことを今さら掘り返されても、と困ったものなのに、その時のマレウスはおしゃべりだった。なぜかそれをエースはよく覚えている。
「好きだ、エース。お前のすべてが愛おしい。だから僕は、お前との子どもを──卵を──」
エースは目を覚ました。
今もマレウスに後ろから抱きしめられているので混同しそうになったが……先ほどのやり取りは、過去にあった会話を再現した夢だったようだ。
今のマレウスは眠っており、エースの頭皮に鼻を埋めている。鼻息が当たって、少しくすぐったい。そして腹の中に放たれた熱は、まだ居場所を求めてさまよっているようだ。
長命種のドラゴンの子種が、人間の腹の中に定着する時間は、エースにとっては途方もなく長い。何せエースの寿命をドラゴンと同じにさせるための時間も必要なのだ。それこそ、エース本人が人間の世界にいた頃をすっかり忘れてしまうくらい、ずっと長い時間で。
ずっと。
そう、ずっとだ。
ここに連れてこられてから、エースはずっと……。
ドラゴンは伝説の生き物だ。
だからこそ、深入りしてはいけない。
間違っても、姿を一目見よう、などと考えてはいけない。
そう考えた瞬間、ドラゴンに丸呑みされて、二度と生きて帰っては来られないのだ。
「僕が生まれるずっと昔から、そう伝えられているはずなのだがな……」
かつて伝説のドラゴンが落ちたと言われている観光地に、そのドラゴンであるマレウスが立っていた。
マレウスの瞳孔は変わらず細長い。ドラゴンを連想させるその瞳を見た者は、この観光地にちなんだオシャレの一つだろうと考えて、すぐに意識から外れるだろう。もしくはこの観光地に熱心な者だと捉えられて、まとわりつかれるか。今回は前者でも後者でもなく、そもそも周りに人がいないのである。
一時はにぎわっていた地は、今やさびれていた。人の移ろいの激しさに、圧倒されそうになる。
めでたく卵が着床した記念にと、愛おしい者、エースと出会えた地にふたたび降り立ってみた──さすがに今回は人間の姿になってから降りた──のだが、どうやら無駄足だったようだ。エースを忘れた地は色あせており、こちらの思い出まで汚されそうだ。
身重のエースに促された勢いのまま外出したが、これなら出かけなければよかった。エースと、エースの腹にいる卵と過ごす時間の方が、ずっと価値がある。
自国と家族のことで頭がいっぱいになったマレウスは、その場でドラゴンに戻り、空へ飛び去った。
遠くで人々が騒いでいる。ドラゴンを当てにした観光地は賑わいを取り戻すだろうが、知った事ではない。ここにはもう降り立たないのだから、どうせまたさびれる。