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描かれなかった六枚目

雨が街を塗り潰す夜だった。古びた洋館である月影荘の書斎で、老画家の|生駒《いこま》が息を引き取っているのが見つかった。部屋は内側から鍵がかけられた密室。デスクの上には、半分ほど空になった二つのワイングラスが残されている。そして、彼の胸元へ深く刺し貫かれていたのは、絵筆の軸である細く繊細な、けれど致命的な一本の木軸だった。第一発見者は、住み込みの弟子である青年の|神谷蓮《かみやれん》。そして、生駒の姪である|佐竹静香《さたけしずか》。二人は激しい雨音に消されそうな微かな悲鳴を聞きつけ、重いドアを壊して踏み込んだのだという。 「私は今夜、自室でずっと本を読んでいました……叔父の書斎へは立ち寄ってもいません」 静香は青ざめた唇を震わせた。 「叔父は私を『青百合』なんて呼ぶんです。『未熟で青臭い百合だ』って、子どもの頃から……。でも、まさかご自身で命を絶たれるなんて」 蓮は顔を俯かせたまま何も語ることがなかった。窓には格子がはめられ、鍵のかかったドア以外の出入り口はない。一見すれば、悲観した老芸術家の唐突な終幕のように思われた。 難航した事件に到着した警部は頭を抱え、知人の探偵へ連絡をよこすことにした。警察学校から入学したっきり、一回も買い替えていないガラケーに耳を当てる。通話を繋ぐ電子音を聞きながら、ハンチング帽を深く被った桐島が間もなく月影荘へと到着した。 月影荘の書斎に漂うのは、重苦しい油彩の匂いと、微かに残る葡萄酒の甘酸っぱい香り。現場を仕切る徳光警部は、桐島を見るなり「助かったよ」と小さく吐息を漏らした。桐島は鑑識の作業を邪魔しないよう静かに室内を見回す。胸を貫かれた生駒の遺体。デスクの上の二つのワイングラスと点灯したままのランプ。そして、重い出入口のドアのすぐ脇の光を効率よく取り込む位置に置かれたイーゼルと、そこに載せられた未完成のキャンバス。描かれているのは暗闇に浮かぶ一輪の白い百合だった。 「状況は聞いた通りだ」と言って、徳光が声を潜めた。 「ドアは中から鍵がかかっていた。壊れたドアの鍵穴には内側からカンヌキがしっかりと下りていたよ。窓は格子付きで鍵も閉まっていた。完全な密室だ」 徳光警部は腕を組み、現場を鋭い目で見つめながら付け加えた。 「だがな、桐島……俺はどうも解せん。胸を突くような自刃なら、激痛で家具が倒れるほど荒々しく暴れる例を山ほど見てきた。だがここは静かすぎる。机の上のグラスも立っているし、椅子一つ倒れていないんだ」 「流石ですね、徳光さん」 桐島は頷き、デスクの上のグラスへ視線をやった。片方のグラスの縁には、拭いきれなかった微かな口紅の痕跡が残っている。桐島はそのまま、ドアのすぐ横に立つイーゼルの前に立った。 「徳光。蓮くんに少し話を聞いても?」 「ああ、構わんよ」 廊下から呼ばれた弟子の蓮は、怯えたように肩をすくめていた。 「蓮くん、君がドアを破った時、部屋の明かりはついていたかい?」 「いいえ……真っ暗でした。だから僕は、手探りでデスクのランプを点けたんです」 桐島はキャンバスに顔を近づけ、懐中電灯で斜めから照らし出した。 「徳光さん。この爪痕、削り跡が新しいですよ」 「なんだと?」 徳光警部はすぐに鑑識へ手招きをした。 「おい、そこを精査しろ!」 鑑識官がルーペを取り出し、試薬をスプレーする。 「警部、予備試験でルミノール反応あり! 爪片らしき微小物も付着しています!」 叫んだ鑑識官に「鑑定に回せ」と徳光が短く命じた。桐島はゆっくりと首を振り、蓮に向き直った。 「蓮くん、暗闇の中で、この一輪の花の『特定の一箇所』だけを、迷いなく正確に削り落とすことなどできるでしょうか」 動揺した蓮に、桐島は静香へ視線を移した。 「静香さん、あなたは『今夜は書斎に行っていない』と言いましたね」
`──犯人が分かった場合、犯人の名前をパスワードへ入力してください。`
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